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第二話「剥落する虚飾」

Penulis: ひなた翠
last update Tanggal publikasi: 2026-03-24 09:36:21

 ――遡ること、数日前。

 窓から差し込む朝陽は、休日特有の穏やかさを孕んでいた。けれど、彩葉の手が止まることはない。

 平日は隆史の経営する会社で雑務に追われ、どうしても後回しにしてしまう家事が、山のように積み上がっているからだ。洗濯機が低い唸りを上げる間に、キッチンの換気扇を念入りに磨き上げ、水回りの水滴を一つ残らず拭き取る。朝の七時から動き始めて、気がつけば三時間が経過していた。

 心からありがたいと感じるのは、同棲している恋人の相沢隆史が、休日出勤で不在であることだった。

 隆史と交際を始めてから三年、この部屋で共に暮らし始めてから二年半が過ぎる。燃え上がるような情熱に身を焦がした恋人同士でも、千日近い月日を重ねれば、避うことのできない温度差が生まれてしまうものなのだろうか。彩葉にとって、まともな交際経験は隆史だけだった。一般的な恋人たちが三年という歳月を経て、どのような信頼を築き、どのような距離感で慈しみ合うのか、比べる術を彼女は持たなかった。

 隆史は、ひどく神経質な男だった。

 休日は静寂の中で過ごすことを好むくせに、部屋がわずかでも散らかっているのは我慢がならないらしい。彼が家にいる日に、平日にできなかった家事をこなそうとすれば「うるさい」と苛立たしげな怒声が飛んでくる。かといって彼の機嫌を優先して後回しにすれば、今度は「片付けも満足にできないのか」と冷ややかな叱責が突き刺さる。

 どちらの道を選んでも、結局は彼の逆鱗に触れてしまう。彩葉は、出口のない鏡の迷路に放り込まれたような、閉塞感の中にいた。

 最近は、言葉の暴力だけでは済まなくなり、手をあげることも増えた。

 うまく立ち回れない自分がいけないのだと、彩葉は頑なに自分を責め続けていた。彼の機嫌を損ねるたびに、次はどこから拳が飛んでくるのかと怯え、無意識に肩を竦める癖が、いつしか深く刻まれてしまっている。

 だからこそ、彼が仕事で家を空けてくれる時間は、張り詰めていた心も身体もようやく緩めることができる、唯一の安息だった。

 隆史は、若くして成功を収めた会社の経営者だ。

 しがないキャバ嬢だった彩葉を深く愛し、夜の底から救い出してくれた恩人――少なくとも、彩葉はずっとそう信じて疑わなかった。

 かつての彩葉は、苦しい家計のために大学を中退し、夜の街で稼いだ金を故郷の両親に仕送りする日々を送っていた。両親は代々続く老舗旅館を守っていたが、時代の荒波に抗いきれず、年々その規模を縮小させていた。旅館を愛してくれる常連客のため、そして何代にもわたって受け継がれてきた暖簾を途絶えさせないため、彩葉は虚飾の世界で懸命に微笑み、働き続けた。

 隆史は、そんな彼女の苦労を、汚れのないものとして褒めてくれた最初の男性だった。

「お前は偉いな。よく頑張ってきた」

 真っ直ぐな瞳でそう告げてくれる人は、隆史の他にいなかった。交際が始まると、彼は経営難に喘ぐ実家の旅館へ、多額の支援を申し出てくれた。両親は、若くして自力で会社を大きくした彼の手腕を心から信頼し、涙を流してその申し出を歓迎した。

 半年前、跪くようなプロポーズで正式に婚約が決まると、隆史は旅館の経営にも本格的に携わるようになった。

「これからは家族として、俺が守っていくから」

 その言葉通り、彼は都内と地方を精力的に行き来するようになった。けれど、婚約を境にして、隆史の態度は目に見えて冷たくなっていった。帰宅は遅くなり、出張と称した外泊も目立つ。

 一人で過ごす夜、胸をかすめる寂寥感は何度もあった。けれど、彩葉はその感情に蓋をし、見て見ぬふりを続けてきた。自分の会社と旅館の経営を掛け持ちし、身を粉にして働いてくれているのだから、忙しいのは当然だと自分に言い聞かせて。

 そばにいてほしいと願う夜も、幼子のように甘えたいと欲する瞬間もある。

 けれど、夜の世界にいた自分を拾い上げ、大切な実家まで立て直そうとしてくれている彼を支えることこそが、婚約者としての至上命題だった。寂しいなどと零すのは、身勝手な我儘でしかない。彩葉は、甘い感情をすべて胸の奥深くへと押し込め、厳重に鍵をかけておかなければならなかった。

 キッチンのカウンターに置いたスマートフォンが、静寂を切り裂くように鳴り響いた。

 泡だらけのゴム手袋を慌てて引き剥がし、画面を確認する。そこには「隆史」の二文字が冷たく表示されていた。

 通話ボタンを押した刹那、鼓膜を打ったのは、低く不機嫌な怒鳴り声だった。

「出るのが遅い!」

「……ごめんなさい」

 反射的に、謝罪が唇から零れ落ちる。何に対しての謝罪なのかさえ、もう彩葉にはわからなかった。ただ、彼の声が苛立ちを帯びているだけで、身体が勝手に縮こまり、平伏してしまうのだ。

「一番上等なスーツを持ってこい。今後の社の運営を左右する、極めて重大な会議が入った。大企業の社長が相手だ。恥をかかせないような物を選べよ」

「わかりました」

「いいか、すぐにだぞ! 一分でも早く持ってこい!」

「はい、今すぐ――」

 返事をし終える前に、ぶちり、と暴力的な音を立てて回線が切れた。

 暗転したスマートフォンの画面を、彩葉は数秒間、虚脱した目で見つめていた。おはようの一言も、休日に呼び出すことへの労いもない。当然のように命じ、当然のように服従を求める。彩葉という一人の人間が、今どのような状態で、何を想っているのか。隆史にとって、それは一顧だにする価値もないことなのだ。

 主のいないウォークインクローゼットの扉を開け、奥に大切に保管されている、隆史の勝負服ともいえるスーツを取り出す。深いネイビーのスリーピース、糊のきいた真っ白なワイシャツ、重厚な光沢を放つシルクのネクタイ。

 革靴を柔らかい布で一筋の曇りもないよう丁寧に磨き上げ、専用の袋に収める。ベルトとカフスボタンまで完璧に揃え、型崩れしないよう慎重にスーツバッグへと詰めていく。

 最後に自分の身支度を整えようと、洗面台の鏡の前に立った。

 ふと視線を落とすと、捲り上げた袖の隙間から、二の腕の内側に残る醜い痣が目に入った。蛍光灯の無機質な光の下で、鮮やかな紫色のそれは、呪印のようにくっきりと浮き出ている。Tシャツの裾をめくれば、腹部にも黄色く変色した古い打撲の痕が、地図のように散らばっていた。

 彩葉は逃げるように長袖のカーディガンを羽織り、手首までを厚い生地で覆い隠した。

 飾り気のない黒いゴムで髪を一つにまとめ、鏡の中の自分を見つめる。

 紺色のカットソーに黒のカーディガン。手入れのされていない、真っ直ぐすぎる黒髪。化粧は肌の色を整える程度の最低限で、アイメイクすら施していない。

 地味で、慎ましく、主張のない女。それは、隆史が定義する「理想の婚約者」の姿そのものだった。

 鏡の中の女が、誰の記憶にも残らない「景色の一部」であることを確認すると、彩葉はスーツバッグを重く抱え、逃げるように玄関を出た。

     ◇◇◇

 タクシーの後部座席に深く身を沈め、窓の外を流れる週末の景色を、彩葉はぼんやりと眺めていた。

 ガラスに映り込む自分の横顔が、あまりにも色褪せて見え、情けなさに胸が疼く。

 本当は、もっと違う自分がいたはずだった。

 淡いピンクのシフォンや、春の日差しのような明るい黄色のワンピースに袖を通し、髪をふんわりと巻いて、心躍るような装いをしたかった。

 けれど隆史は、彼女が髪を染めることを許さず、紺や黒といった彩度の低い服以外を選ぶと、あからさまに不機嫌な態度を取った。華やかなアイメイクも、女性らしいラインを強調するヒールのある靴も、すべては彼の「不快」の対象だった。だから、いつしか彩葉の足元は、機能性だけを重視したぺたんこの革靴か、地味なスニーカーで固定されていた。

 美容院へ行く自由さえ、彼女には残されていなかった。

 お気に入りのサロンで、プロの手によって艶やかに髪を整えてもらうなど、今の彩葉にとっては贅沢を通り越して罪悪感に近い。許されるのは、駅前にある千円カットの店で、邪魔な毛先を切り揃えることだけ。

 おしゃれという言葉から遠ざかって、もう二年以上の月日が流れていた。

 交差点で信号待ちをするタクシーの窓越しに、同年代と思しき女性たちが通り過ぎていく。

 風に揺れる花柄のワンピース、繊細なストラップのサンダル。耳元で揺れるゴールドのイヤリングが、午前の光を反射してキラキラと輝いている。友人と楽しそうに笑い合いながら、色鮮やかなショーウィンドウの前で足を止める彼女たちの姿に、彩葉の胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 キャバ嬢時代、生きるために必死で身につけていたあの華やかさは、隆史との生活の中で、研磨剤で削り取られるようにして消失してしまった。服装、化粧、髪型、そして心の持ちようまで――。すべてを彼の嗜好に合わせて塗りつぶしていくうちに、鏡の中の女からは、色という色が消え去っていた。

 窓ガラスに映る自分は、まるで長い間日光に晒されて退色した、古い写真のようだった。

 輪郭だけは保たれているのに、肝心の中身が空っぽで、誰の目にも留まらない透明な幽霊。隆史が望む「地味で目立たない女」を完璧に演じ続けた代償として、彩葉は自分自身が本来どんな人間だったのかさえ、思い出せなくなっていた。

 やがて景色は無機質なビル群へと変わり、見慣れたオフィス街が近づいてくる。隆史の会社が入る巨大なビルが視界に飛び込んでくると、彩葉は反射的に背筋を伸ばし、膝の上のスーツバッグを強く握りしめた。

 タクシーを降り、冷房の効いたエントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。

 社長室のある最上階のボタンを押すと、上昇する密室の中で、彩葉は一人きりになった。磨き上げられたステンレスの壁面に、ぼんやりと自分の姿が投影される。

 スーツバッグを両手で抱えた、地味で小さな影。隆史が求める通りの、従順で控えめな、人形のような婚約者がそこにいた。

 チン、という軽い電子音が響き、扉が開く。

 彩葉は一歩を踏み出し、スーツバッグを抱え直すと、社長室へと続く長い廊下を歩き始めた。

 硬い靴底がリノリウムの床を叩く、乾いた、寂しい音だけが、静まり返ったオフィスフロアに小さく木霊していた。

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