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第四話「綻びた隷属」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-03-25 10:44:22

 夕方の六時を過ぎた頃、静まり返った玄関に、鍵が乱暴に回される硬い音が響いた。

 叩きつけるようにドアが開き、脱ぎ捨てられた革靴が床を滑って壁にぶつかる。廊下を突き進んでくる足音の荒さだけで、隆史の機嫌が最悪の極致にあることは、容易に察せられた。

 彩葉はキッチンに立ったまま、逃げ場のない小動物のように身を固くした。カウンター越しにリビングを見渡せば、仕事鞄をソファへ叩きつける隆史の姿が嫌でも目に入る。整髪料で固められていた茶髪は見る影もなく乱れ、ネクタイは無様に緩んだまま、彼の首に力なくぶら下がっていた。

「……おかえりなさい。夕飯、できてるから」

「あ?」

 鋭利な刃物のような一言が、彩葉の言葉を撥ねつけた。隆史がゆっくりと振り返り、充血した眼で彼女を射抜く。頬の紅潮は怒りゆえか、あるいは帰りがけにどこかで煽ってきた酒のせいか。リビングの空気までを侵食するように、不快なアルコールの匂いが漂い始めた。

「お前のせいで、会議の前に着替えられなかった。おまけに……精液臭いとまで言われたんだぞ、俺は!」

 剥き出しの歯の隙間から吐き捨てられた罵声に、彩葉の背筋に冷たい震えが走った。精液臭い――あの社長室で鷹峰が放った、冷徹なまでの事実。隆史は自らが秘書と情事に耽っていた事実を棚に上げ、その醜態を暴かれた屈辱のすべてを、彩葉へと転嫁しようとしている。

「ごめんなさい」

 反射的に、謝罪が唇から零れた。自分は一分一秒を惜しんで奔走したというのに、この男の前では条件反射のように頭を下げてしまう。身体の芯まで染みついたこの従順さが、彩葉は自分でも厭でたまらなかった。

「すぐ持ってこいと言っただろうが。お前がトロいから、俺が恥をかいたんだよ。……使えない女だ」

 隆史はダイニングチェアを乱暴に引き、呻くような音を立てて腰を下ろした。テーブルに並べられた彩り豊かな料理には目もくれず、腕を組んで天井を睨みつけている。不満げに歪められた口元からは、絶えず毒々しい溜息が漏れていた。

 彩葉は動くこともできず、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。こういう時の彼は、言葉を重ねれば重ねるほどに火を噴く。余計な気配を消し、彼の視界から消えることこそが、この三年の同棲生活で身につけた唯一の護身術だった。

 しばらく、苛立たしげな舌打ちが室内に満ちていた。けれど、ふいに隆史がくぐもった笑い声を立てた。

 底知れない不機嫌から一転、口角が不自然なほど吊り上がる。さっきまでの険しさが嘘のように霧散し、貼り付いたような上機嫌がその顔を覆った。そのあまりにも急激な感情の振れ幅に、彩葉は内心でいっそう強く身構えた。

「……まあいい。どうせ、お前の実家の旅館も売れそうだしな」

 あまりに無造作な口調だった。まるで明日の天気を予想するかのような軽やかさ。だからこそ、彩葉はその言葉の意味をすぐには咀嚼できなかった。

「……え? 今、なんて……売るって、何を?」

「うるせえな。聞こえなかったのか? お前の価値なんて、あの土地と旅館だけなんだよ」

 隆史は鬱陶しそうに手を振り、テーブルの上の小鉢がその衝撃でわずかに位置をずらした。

「……経営を助けてくれるって、そう言ってくれたじゃない。お父様たちも、あなたを信じて……」

「バカか、お前は。あんな古びた旅館が、いつまでも続くわけねえだろ」

 投げかけられた言葉が、冷たい水のように背中を伝う。旅館を再建するために、彼は都内と地方を往復し、粉骨砕身しているはずではなかったのか。両親も彩葉も、彼のその言葉を福音だと信じて、すべてを委ねていたというのに。

「鷹峰っていう男にあの土地を売り払えば、俺の会社は一気に跳ね上がるんだよ」

 ――鷹峰。

 あの会議室で静かに紫煙を燻らせ、「耳を塞げ」と自分を庇ってくれたあの男性の名が、隆史の口から出た。彼に旅館を売り渡す――その事実を理解した途端、足元から急速に血の気が引き、視界がぐにゃりと歪んだ。

「旅館を……売ってしまうの?」

「売るに決まってんだろ。もう話は九割方まとまってる」

 代々受け継がれてきたあの暖簾が、永遠に失われる。常連客が愛してくれたあの庭園も、芳しい湯の香りも、二度と戻ってはこない。両親が命を削って守り抜いてきた聖域が、隆史の野心を充たすための金へと姿を変える。

 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、彩葉はカウンターの縁を掴むことで辛うじて食い止めた。指先が真っ白になるほど、血の通わない強さで握りしめていなければ、意識さえ遠のいてしまいそうだった。

「その代わり、お前は一生、俺の奴隷としてここで尽くせ。わかったか?」

 隆史はケラケラと、子供のように無邪気に笑った。冗談めかした声音。けれど、その瞳の奥には一片の慈しみも、遊びも混じってはいない。自分を見上げる彼の眼差しは、ただの便利な「所有物」の安否を確認する、飼い主のそれと同じだった。

 ――奴隷。

 夜の底から救い出してくれた白馬の騎士だと、恩人だと信じていた男が、自分をそう定義した。旅館を人質にし、両親の余生を握り、彩葉から自由という名の尊厳を剥奪する。それは、明確な隷属の宣告だった。

「さあ、飯を食おう。今夜は景気付けにワインを開けるぞ」

 気まぐれに支配欲を満たした隆史は、何事もなかったかのように料理に手を伸ばした。先刻の怒りも、裏切りの告白も、奴隷という暴言も。彼の中ではすべてが「解決済み」の事案なのだ。彩葉が何を思い、どれほどの絶望に打ち拉がれているかなど、彼の演算には最初から含まれていなかった。

「彩葉は、飯だけは美味いからなあ。……まあ、他はからっきしだが」

 箸で魚の身をほぐしながら、隆史は満足そうに目を細める。褒めているようでいて、その実、彼女の価値を「食事を作る機械」にまで貶めている。彩葉は幽霊のような足取りで、棚からワインとグラスを運び出した。

 コルクを抜く指先が、絶望に震えて止まらない。

 グラスに注がれる赤い液体を見つめながら、隆史の言葉が脳内で呪詛のように繰り返される。旅館を売る。価値はそれだけ。一生、奴隷。グラスが血のように赤い液体で満ちていくのを眺めながら、彩葉の胸の最奥で、かすかな、けれど熱い火種が燻り始めていた。

 隆史は上機嫌で食事を平らげ、酒を煽り続けた。グラスが空になるたびに彩葉が機械的に注ぎ足し、隆史の饒舌さは比例して増していく。頬が赤銅色に染まり、視線が淫らに潤み始めた頃、彼の手がテーブルの下から伸び、彩葉の太腿をなぞった。

「飯だけって言ったが……ありゃ訂正だ」

 アルコールの混じった熱い吐息が、至近距離で顔にかかる。隆史は厭らしく唇の端を歪め、彩葉の膝から太腿の内側へと、ねっとりと這うような手つきで指を滑り込ませた。

「身体も、まあ、なかなかのモンだったわ」

 肌を撫でる指の生温かな感触に、胃の腑からせり上がるような嫌悪感が込み上げた。振り払いたい。けれど、身体は氷漬けになったように、指一本動かすことを拒んでいた。

「どうせ、扉の外で聞いてたんだろ? あの秘書との声。……あ?」

 隆史は彩葉の表情を値踏みするように覗き込み、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。扉の前で立ち尽くしていたことを確信しているのか、あるいは単なる揺さぶりか。どちらにせよ、彼に罪悪感の片鱗など微塵も存在しなかった。

「あの女はな、ただ股が緩いだけだ。声は野獣みたいで可愛げもねえ。……だが、誘い方だけは一級品だったぜ」

 ワインを飲み干しながら、隆史は他人の情事を語るような無責任さで、自らの不貞を武勇伝のごとく並べ立てた。彼は彩葉の肩に腕を回し、その耳元に顔を寄せる。アルコールと脂ぎった体臭が鼻をつき、彩葉は吐き気を押し殺すために強く目を閉じた。

「お前は、そういうところが致命的に下手なんだよ。……暗くて、面白みがねえ」

 耳元で反響する、耳障りな笑い声。

 秘書と比べられ、天秤にかけられ、劣っていると嗤われる。三年間、愛の証だと思っていたこの生活のすべてが、彼にとってはただの「比較対象」に過ぎなかったのだと、無慈悲に突きつけられた。

 酔いが完全に回りきった隆史は、彩葉の手首を力任せに掴んで立ち上がった。その拍子にテーブルを打ち、ワイングラスが虚しく倒れる。白い布に赤いシミが残酷に広がっていくのを顧みることなく、彼は彩葉を引きずるようにして寝室へと向かった。

 ベッドに押し倒され、隆史の重圧が全身に覆い被さる。

 首筋に貼り付く生温かい吐息。彼は彩葉のカーディガンを無作法に剥ぎ取ると、カットソーの下に手を滑り込ませ、柔らかな胸を鷲掴みにした。

「んっ……」

 悲鳴に近い吐息が漏れる。隆史の愛撫には常に慈しみがなく、ただ肉を握り潰すような暴力的な圧迫感だけがあった。親指が先端を執拗に押し潰し、摩擦で皮膚がひりひりと灼けるように痛む。快感などどこにもなく、彩葉の身体の奥は、ただ砂漠のように乾ききっていた。

 衣服を頭上へ捲り上げられ、ブラジャーのホックが無慈悲に外される。露わになった胸に隆史が顔を埋め、歯を立てるようにして吸い付いた。痛みに肩が跳ねるのを、隆史は「悦んでいる」と傲慢に解釈したのか、満足げに鼻を鳴らす。

「脱げ」

 短く、拒絶を許さない命令。彩葉が竦んだまま動けずにいると、隆史は苛立ちを露わにしてスカートのファスナーを引き下げた。腰骨から布地を強引に剥ぎ取り、下着の縁に指をかけて太腿まで引きずり下ろす。夜の冷たい空気が晒された肌に触れ、全身に鳥肌が立った。

 隆史自身もベルトを外し、ズボンを足首まで落とした。彩葉の両脚を無造作に割り開かせ、自らの腰を割り込ませる。下着越しに触れる彼の下腹部。けれど、そこには一向に熱も、硬さも宿ってはいなかった。

 隆史の手が自らの股間をまさぐり、焦燥に駆られたように何度も刺激を加える。荒い呼吸を繰り返し、必死に欲望を呼び覚まそうとしているが、身体は正直だった。彩葉の太腿に押し当てられている感触は、いつまでも柔らかく、生気のないままだった。

「……くそっ、使えねえな」

 小さく悪態をついた隆史は、彩葉の胸に顔を埋めたまま、ただ無意味に腰を揺すった。肌と肌が擦れる不快な音だけが室内に響く。挿入に至るような状態には、ほど遠い。隆史の額から滴った汗が、彩葉の鎖骨に落ち、冷たく胸の間を伝っていった。

「今日は……もう、あいつに搾り取られたからな。勃たねえわ」

 吐き捨てるようにそう呟くと、隆史は彩葉の身体から無造作に転がり落ちた。

 そのまま仰向けになり、数秒と経たずに、彼は高い寝息を立て始めた。ズボンを膝下まで下ろした滑稽な姿で、乱れた茶髪が額に貼り付いている。半開きの口から漏れる規則正しい呼吸。昼間に秘書と貪り合った身体には、もはや婚約者のために注ぐ力など一滴も残っていなかったのだ。

 彩葉は震える手で下着を引き上げ、床に落ちていたカットソーを拾って頭から被った。半裸のまま冷気に晒されていた肌を布が覆ったとき、ようやく、自分の身体が自分の元に戻ってきたような気がした。

 天井を見つめたまま、彩葉の目尻から一筋の涙が、静かに滑り落ちた。

 悲しみのせいか、あるいは拭い去れない屈辱のせいか。自分でも答えは出なかった。けれど、枕に吸い込まれていくその涙の温度だけが、夜の静寂の中でじんわりと熱を持っていた。

 規則的な寝息を刻む男の傍らで、彩葉は石のように目を開け、天井を見つめ続けた。

 街灯の淡い光がカーテンの隙間から差し込み、壁に細い光の帯を描いている。

 一生、奴隷。

 その呪いのような言葉が、頭の中で何度も、何度もこだましていた。旅館を奪われ、尊厳を奪われ、ただ便利な道具として搾取され続けるだけの余生。隆史の隣で、声を殺して泣くことしかできない絶望の夜が、この先も果てしなく続いていく。

(……そんなの、無理)

 身体の最深部から、激しい拒絶のうねりが湧き上がった。

(耐えられない。一生、隆史の奴隷になんて……絶対になりたくない!)

 彩葉は音を立てないよう、慎重にベッドから身体を起こした。隆史の眠りが深いことを確認し、裸足のまま床に足を下ろす。冷たいフローリングの感触が、彼女の意識を鮮明に研ぎ澄ませた。

 暗闇の中、クローゼットの奥から小さなボストンバッグを引き出す。財布と携帯電話。着替えを数枚。そして、実家の旅館の鍵と、キャバ嬢時代から肌身離さず持っていた、古いお守り。

 必要最低限のものだけを手早く詰め込み、ファスナーを静かに、けれど確実に閉じた。

 寝室を最後にもう一度だけ振り返る。隆史はベッドの上で大の字になり、醜い寝顔を晒していた。そこには、鷹峰の前で見せていた卑屈さも、自分をいたぶっていた冷酷さもない。ただの、空虚な男の残骸が横たわっているだけだった。

 三年間、この男に愛されていると信じ、すべてを捧げてきた。旅館を守るため、殴られても蹴られても、自分を殺して微笑んできた。

 けれど、そのすべてが、砂上の楼閣に過ぎなかった。旅館はただの売り物。自分はただの奴隷。隆史という男の心に、「愛」などという高潔な感情は、最初から一滴も存在しなかったのだ。

 玄関に辿り着き、履き潰したぺたんこの革靴に足を滑り込ませた。ボストンバッグを肩にかけ、ドアチェーンを外す。鍵を回す微かな金属音が、静まり返った廊下に冷たく響いた。

 マンションの外へ出ると、夜風が火照った頬を優しく撫でた。

 七月の重く湿った空気でさえ、あの寝室の澱んだ空気よりは、数千倍も清浄に感じられた。エレベーターを降り、下降する箱の中で鏡に映る自分を見つめる。

 涙は、もう止まっていた。

 泣き腫らした目元は赤く、髪も乱れたままだったが、その瞳の奥には、今までにない冷たく、鋭い光が宿り始めていた。

 エントランスの自動ドアが開き、夜の街が目の前に大きく広がった。

 行く先は、もう決まっている。ボストンバッグの中で、実家の旅館の鍵が、かすかな金属音を立てて勇気を促すように鳴った。

 彩葉は二度と振り返ることなく、支配と屈辱の城を後にし、夜の闇へと力強く踏み出した。

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