LOGIN私は久世紗和(くぜ さわ)。法律事務所のパートナー弁護士に昇格した日、5年前に別れた元婚約者・椎名慶悟(しいな けいご)が突然現れた。 慶悟が連れてきたのは、泣き崩れる相原莉奈(あいはら りな)だった。慶悟はこの事務所でいちばん腕の立つ弁護士に依頼したいと言った。 莉奈は、慶悟がかつて指導していたインターンだ。学生時代には、私が学費も生活費も援助していた。私たちが別れる原因になった女でもある。 5年前、法律扶助で引き受けた事件をきっかけに、私は莉奈と知り合った。 莉奈には頼れる人がおらず、生活も苦しかった。だから、大学を卒業するまで、学費も生活費もすべて私が負担した。卒業後は、法律事務所でインターンとして働けるよう手配した。 それなのに、私たちが婚約する直前、莉奈は慶悟と関係を持った。 慶悟は莉奈を背にかばった。 「莉奈はずっと苦労してきたんだ。悪いのは俺で、莉奈は何も悪くない。責めるなら俺を責めろ。殴りたいなら俺を殴れ」 慶悟は私に、身を引くよう迫った。 私は何も言わなかった。 そして今、私はかつて慶悟が座っていた席にいる。 「飲酒運転で人に重傷を負わせた以上、弟さんの刑を少しでも軽くするには、事故の状況が分かる証拠をそろえなければならない。被害者との示談も進める必要がある。『わざとじゃなかった』の一言で、裁判所の判断は変わらないわ」 慶悟は複雑な表情で私を見つめ、唇をかみ、ようやく答えた。 「全部、紗和の言うとおりにする」 別れ際、慶悟は私の腕をつかんだ。 「あのとき弁護士を辞めたのに、どうして戻ってきたんだ?」 私は小さく笑った。 「やっと気づいたの。終わった恋と、私を裏切った人には、弁護士としての信念も仕事も捨てるほどの価値なんてなかったって!」
View More「根拠のない話をでっち上げ、紗和が依頼人を脅して財産を要求しただの、素行に問題があるだのと、大勢の前で言いふらした。これは、ただの口論では済まない。事実無根の話で紗和の名誉を傷つけた以上、名誉毀損にあたる可能性がある」所長は莉奈を鋭く見据え、その場にいる全員に聞こえる声で、どのような法的責任を問われるのかをはっきりと告げた。「今日ここにいる数十人の記者と数百人の所員が、あなたの発言を聞いている。紗和の名誉を傷つける話が、それだけ広く伝わったということだ。民事では、損害賠償や謝罪広告など、名誉を回復するための措置を求められることがある。さらに、紗和が告訴すれば、刑事責任を問われる可能性もある。名誉毀損罪の法定刑は、3年以下の拘禁刑、または50万円以下の罰金だ」所長が言い終えると、室内はしんと静まり返った。莉奈は足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。「紗和さん……」しばらくして人々が散ると、強気だった莉奈は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、四つん這いで私の足元まで這ってきた。「紗和さん、私が悪かった。本当に反省してる。私、どうかしてたの。嘘をついて紗和さんを悪者にしたのも、欲を出したのも、全部私が悪かった。お願い、訴えないで。一度だけ許して」それまで何かにつけて莉奈をかばってきた慶悟も、すべての証拠を前に態度を一変させた。床にへたり込んだ莉奈の腕をつかみ、無理やり立たせた。「ここまで来て、まだ騒ぐつもりか!自分が紗和に何をしたか、分かってるのか?どれだけ大変なことをしたのか、本当に分かってるのか!」莉奈は息もできないほど泣きじゃくり、何度も首を振って許してほしいと訴えている。目の前の光景が、ただただばかばかしかった。決定的な証拠を突きつけられるまでは、莉奈が騒いで私を傷つけても、慶悟は言い訳を並べてかばい、私にばかり我慢を強いた。ところが、すべてが公になり、もううやむやにはできなくなった途端、今度は手のひらを返して莉奈を責め始めた。気持ち悪い。本当に、吐き気がする。「紗和」背を向けようとした私の腕を、慶悟がつかんだ。「悪かった。こんなことになるとは思ってなかった。紗和、本当に悪かった。もう一度だけ機会をくれ。今度こそ償わせてほしい。莉奈がこんな最低なことをするなんて、思ってもみなかった……紗和はあれだ
【慶悟のお金は全部、私に使って。私以外の人には使わないで】慶悟は、頭をなでるスタンプを送ってから、こう返していた。【まったく、莉奈にはかなわないな。分かったよ。莉奈が喜ぶなら、何でも言うとおりにする】プレゼントを受け取った日、アクセサリーを持ったことすらなかった私は、それを宝物のように大切にした。慶悟はそのブレスレットを、私の手首につけてくれた。そのとき慶悟は、これから先もずっと二人で生きていこうと言った。このブレスレットは、自分の気持ちそのものだとも。それが2000円のおまけにすぎず、莉奈に贈った6万円のペンダントとは、比べるのもばかばかしいほど安物だったと知った。2018年5月3日。結婚式の準備を始める前、二人で過ごせる唯一の連休だった。慶悟は、遠方へ出張すると私に言っていた。大勢が見つめる画面に、莉奈のメッセージが映し出される。【紗和さんは、慶悟が出張なんかしてないって知らないでしょうね。今頃、私と市内のホテルにいるなんて、思ってもいないでしょう?】【ねえ、もっと大胆なことしない?写真を撮って、SNSに載せようよ】その日、SNSを見ていた私は、莉奈が投稿した、男女が手をつないだ写真を見つけた。男性の薬指に残る見覚えのある指輪の跡を見て、嫌な予感が胸をよぎった。それでも当時の私は何も知らず、莉奈に好きな人がいるのだと思い、恋人なのかと尋ねただけだ。たったそれだけの質問がきっかけで、私たちは初めて激しく言い争った。以前、莉奈は私に、何も隠さず、何があっても正直に話すと約束していた。少なくとも、私を心配させるようなことはしないと。だが、その日の莉奈は目を赤くして、私に怒鳴った。「紗和さんは私の何なの?どうして私のことにいちいち口を出すの?誰を好きになって、誰と付き合おうと、いちいち報告しなきゃいけないの?自分がそんなに偉いとでも思ってるの?少しお金を出してくれたくらいで、私の人生に口を出さないで!」2018年5月20日。慶悟との交際5周年の記念日だった。莉奈は慶悟へ、こんなメッセージを送っていた。【慶悟、紗和さんのために作った、あの一点もののウエディングドレスを私にちょうだい】【そんなに高いものじゃないけど、デザインもシルエットもほかにはないでしょう。ずっと欲しかったの】慶悟
だが、私は莉奈に言い逃れをする隙など与えない。動揺する莉奈を見据え、数百人の所員と事務所の責任者たちを見渡した。最後に、記者たちへ視線を向ける。「皆さんの中には、5年前、婚約者の裏切りで私の婚約が破談になったことをご存じの方も多いでしょう。また、建設現場で起きた死亡事故をめぐる難しい事件を、私が法律扶助で引き受けたことも覚えていらっしゃるはずです」私は全身を震わせる莉奈を指さし、全員に聞こえる声ではっきりと言った。「この女性は、当時の事故で両親を亡くした遺児です。頼る人もなく、生活に困っていた彼女を、私は学費も生活費も負担して支えてきました」次に、顔をこわばらせる慶悟へ視線を移した。「こちらは、私の元婚約者で、彼女がインターンだった頃の指導担当でもあります」深く息を吸う。胸の奥にはまだ鈍い痛みが残っているが、声は少しも揺れない。「二人とも、かつて私が誰よりも信じ、大切にしていた人たちです」「紗和さん、何をするつもり?!皆さん、信じないで!全部でたらめよ!悪意のある中傷よ!」莉奈は甲高い声で私の話を遮り、なおも事実をねじ曲げて私を悪者にしようとした。「人の恋人に手を出して、私たちの仲を壊そうとしたのは紗和さんよ!話をすり替えて、全部私たちのせいにしようとしてる!早く警察に通報して、この人を捕まえてもらって!」私が言い返すより早く、莉奈は血相を変え、パソコンを奪おうと飛びかかってきたが、警備員がすぐに取り押さえた。「紗和、ここまで事を荒立てる必要はないだろ」慶悟が足早に私の前へ回り込み、眉を寄せた。いつものように莉奈をかばい、この場を丸く収めようとしている。「莉奈は弟の事件が心配で、感情的になってるだけだ。悪気はない。紗和のほうが年上で、経験も分別もあるんだから、そこまで追い詰めなくてもいいだろ」私が追い詰めている?その言葉に、思わず笑いが漏れた。追い詰められているのは、いったいどちらなのか。いつもそうだ。いつも、「そこまでしなくてもいいだろ」の一言で済ませる。莉奈がどれだけ問題を起こし、取り乱し、私を目の敵にしても、慶悟の言い分はいつも同じだった。莉奈はまだ若い。つらい境遇で育った。苦労してきた。悪気があったわけじゃない。いつも莉奈をかばって何をしても許し、私にだけ我慢して譲ること
「紗和、何をするつもりだ?」慶悟が真っ先に反応し、慌てて私の前へ駆け寄ってきた。私が確証もなく動く人間ではないことを、慶悟は誰よりも知っている。記者を呼んだ以上、私がすべてを覆す証拠を握っていると気づいたのだろう。だが、それを聞きたいのは私のほうだ。「あなたたちこそ、何をするつもりなの!事務所へ来たとき、泣きながら、この事件を引き受けてほしいと頼んだのは、あなたたちでしょう。そもそも、弟さんの事件は、刑を軽くできる余地がほとんどなかった。それでも私は、少しでも刑が軽くなるように手を尽くし、被害者側との示談交渉も進めた。莉奈が求められた賠償金を支払い、直接謝罪に出向きさえすれば、示談はまとまったはずよ。それなのに莉奈は、賠償金も支払わず、謝罪にも行こうとしなかった。それどころか、事務所へ押しかけて騒ぎを起こし、根も葉もない話まででっち上げて、私を陥れようとした」思わず苦笑した。「私を信用できないなら、どうして依頼に来たの?どうして私が、あなたたちの依頼を引き受けなければならないの?」言い終えた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。持病の狭心症の発作が、また起きた。胸を押さえ、わずかに身をかがめる。初めて発作を起こしたのは、莉奈の両親の事件を担当していた頃だ。莉奈の両親は建設現場で作業中、足場から転落した。二人ともけがが重く、その場で亡くなった。工事を請け負っていた業者の社長は、後ろ盾があるのをいいことに責任を逃れ、損害賠償を一切拒んだ。残された莉奈には頼れる人もおらず、当時まだ15歳だった。弁護士になって間もない私は、この難しい事件を法律扶助で引き受けた。周囲では、遺族を利用した売名行為だの、注目を集めたいだけだのと、好き勝手に噂された。その一方で、業者から何度も脅しを受けた。現場へ通い、証人を探し、資料を整理した。二人の無念を晴らすため、できる限りのことをした。結果は決して満足のいくものではなく、求めていた額の賠償も得られなかった。それでも、悪質な業者に法的責任を負わせることはできた。無理を重ねた末、私は狭心症を患うようになった。あの頃の莉奈は、私に抱きついて泣いた。今まで出会った人の中で、私がいちばん優しく、いちばんいい人だと言い、何があっても一生かけて恩返しすると誓った。恩返し