バーチャルキャラ、ストリーについての講義は二時間弱にも及んだ。
俺の部屋にやってきたのが四時くらいで、壁に掛けられた時計の針は、六時近くを指し示している。 窓の外はすっかり日が沈みかけていて、真っ赤な光線が部屋を照らし出していた。 正直な所、すっかりと疲れ切っていた。 自分から聞いた事だが決して興味がある訳ではない事。まるでテスト直前に苦手な科目を暗記しなければならず、無理やりに要点を詰め込んでいるような感覚に近い。 陽川もさぞ疲れただろうと視線を向けてみると、疲れた様子はなく、かなり機嫌良さそうに吉岡の言葉に相槌を打っていた。「……ふむ」 そうか。合点がいった。先程までの会話で陽川のやつが、ストリーについて妙に詳しいと思っていたけど────こいつ隠れファンなんだな。 好きな相手と好きな物を共有する、そりゃ陽川からしてみれば最高の時間だったに違いない。 むしろ吉岡が好きだから陽川も好きになったまである。なんたって吉岡狂いだからな。 どちらにせよ俺にしては好都合だ。陽川が一人で話を聞いてくれていた事もそうだし、俺がこれから提案しようとしている事にとっても。 そろそろ頃合いか。「あ、あのさ」 完全に二人の世界に入ってしまっている所申し訳ないのだけれど、声をかけた。 そろそろお開きにしたいところでもあるし。 するといつものようにキツイ視線がキッと─────飛んでこなかった。「何かしら?」 上機嫌な様子で俺に返事をする陽川に違和感を覚える。 いつもならこう、目からビルでも破壊できそうなの光線が飛んでくるか、キツイ一言をお見舞いされる所なのに。 よほど吉岡と推しについて語り合えたのが嬉しかったのだろう。「せっかくだから、推しについて語り合うグループ作らないか?ほら、今も盛り上がっているところだけれど、時間ももう遅いし」 言いながら時計を指差すと、もうこんな時間かと吉岡。「急に大きな声をだしちゃって本当にごめんね」 ジャージに着替えたエマがそう謝罪をした。「いや、べつに気にしてないから」 ラッキースケベをあじわえた訳だから、こちらとしては謝られる筋合いもないわけだけど、ここは紳士ぶるためにもこう答えておくのが無難だろう。「もとはと言えば、わたしがイタズラをしようとして失敗しちゃっただけなのにね」 申し訳なさそうにしているエマを見ていると、こちらまで申し訳ない気持ちになってくるな。 さっさと話題を切り替えるのが『吉』だな。「そういうこともあるさ、で、本題なんだけどさ、俺を呼び出したのはどういう用件だったんだ?」「ああ。うん。そうだよね。本題だよね」 そう言いながら、エマはスマホの操作を始めた。 ちょっとしてエマが俺にスマホを手渡してきた。 それを受け取り、画面をのぞき込むと、竹田が俺に突きつけてきた、俺と凛がキスをしているように見える画像が映し出されていた。「いや、これは違うよ。そう見えるだけでさ、実際にしているわけじゃないんだ」「うん。大丈夫。凛ちゃんと桐くんの関係性を近くで見ていればわかるから。わかってるから、安心して」 エマのその言葉に安心はしたけれど、それと同時に違和感に気がつく。「……なんで、その画像持ってるんだ?」「うん。それは当然の疑問だよね。桐生くんにとってはあまりうれしくない報告になっちゃうと思うんだけどね……」 エマはそこまで言って一つ深呼吸をした。そして続けて言った。「これ噂なんだけど、竹田さんのグループの子たちが、あっちこっちにばらまいてるみたい。最初は姫にしか見せてなかったみたいなんだけどね」 凛と踊り場で話していた時、陽川とエマがあとからやってきて話していた内容を鮮明に思い出した。 陽川はエマに俺と凛が付き合っているのではないかと話し、エマに俺と距離をおくように話していた場面を。「どうしてそんなことを?」「わたしにもそれはわからない。でも、悪意があってやっているのは間違いないと思う」「実はさ、さっきも凛が絡まれてたんだよ。陽川が保護して連れて帰ってくれたけどさ。どうにかしてやめさせるしかないな」「それは難しいかも」「どうしてだ?」 竹田たちが写真の流失を止めればそれで済む話じゃないか。「この写真、わたしに直接送られてきたものじゃないんだ。……学校の裏サ
凛の家には少し遅れて合流する手はずになった。 陽川はかなり不満顔で、『もしサボったりしたらどうなるかわかってるでしょうね?』と俺じゃなかったら卒倒物の威圧感を放ちながら言ってきたのだ。 これ以上機嫌を損ねたら何をされるかが怖いし、もちろん遅れて参加するつもりではいるが、物事には順序ってもんがある。 別に連絡を受けた相手のせいで浮かれているわけではない。 俺が向かうのはいつもの公園。 待ち合わせの相手は────エマ。 少しウキウキとした気分になっているのはきっと気のせいだし、弾む足取りは早く陽川の元に向かいたいからだ。 ……多少、浮ついているのは認める。 いつもの公園にたどり着くと、ベンチに座るエマの姿があった。 後ろ姿だってすぐわかる。 このまま普通に声をかけてもなんか面白くないような気がして、たまにはサプライズをしてやろうと思った。 うーん。ここはベタにだーれだなんてやってみる? いや、直接顔に触れるのはダメだろ……だとするならば──── エマに気が付かれないよう、足音を立てないように近づく。 そして一気に背後から……「わっ!」「きゃっ!」 可愛らしい鈴の音のような悲鳴が公園内に響き渡るのと同時に液体が飛んできた。 その液体が俺の体に付着して、夏服がスケスケになってしまった。「ふふふ。まだまだ甘いね。お見通しだよ」「くっ、不覚をとったか」 エマの手元には水のペットボトルがくしゃくしゃに握り潰されていた。 どうやら俺が忍び寄っているのに気がついて、声をかけたタイミングで潰して水をかけてきたようだ。 ドッキリを仕掛けようとして、逆ドッキリを仕掛けられた格好だ。 エマは軽く体を捻ってこちらを盗み見ると、チラリと舌を出してみせた。「水だから安心して。決して危ないものじゃないから」「その言い方は危ないものをぶっかけた時に使うんだぞ」「ただの水だよ。本当の本当。だから安心して」 ちょっと納得いかないけど、最初にイタズラを仕掛けようとしたのは俺だしな。「しょうがねえな」「とりあえずこっち座りなよ」 エマは自分の横の座面を叩いて座ることを促した。 断る理由はないというか、話をするために来たわけだしな。 ベンチ正面に回り込み、ベンチに座ろうとした時、思わぬ物が目に入った。 俺は思わず目を逸らした。 水で濡れて
俺と凛が……? まったく身に覚えがなかった。 凛と平和台駅に行ったことは何度かあったかもしれない。 だけど、そんな疑われるような行為をしたことは絶対にないと言い切れる。 しかし、画面に映し出されている物がそれを全て否定している。「それだけじゃないわ。あなたが滝沢さんの家頻繁に出入りしているってことも私たちは知っているんだから!」「……ああ。でも、だいたいエマが一緒にいなかったか?」 半分本当で半分嘘。 ストリー事件以降は、エマが凛の家に遊びに来ることが増えているのは事実。 事件以前は俺一人で出入りをしていた。 だからといって、やましいことは一つもないことに変わりはないが。「ここ最近は、の話でしょ?私たち、全部知っているんだから」 竹田は自信満々にそう言いきった。 たいそう立派な胸を張るその立ち姿は、自信の揺るぎがないことを案に示していた。 竹田の様子からしても、他の二人の態度からも、俺と凛が親しくしていたことを熟知している。そう感じ取ることができた。 ここで変に嘘をついたり、誤魔化したりしたら、余計に面倒なことになりそうな気がした。 ……こんな時に使えそうな心理学はなかっただろうか。 背後にいる凛の方をちらりと見てみたが、役に立ちそうな様子ではなかった。 どうしたものかね。これ以上噂を広げられるのも本意じゃないし。「ちょっとあなたたち、まだ教室に残っていたの?早く帰りなさい」 さっそうと教室に現れたのは陽川だった。 陽川はそう言うと、自身の机の方へ歩いていき、横に下げられていた鞄を手に取る。 作業の報告をしに横島先生のところにでも行っていたのだろうか。 陽川はそのままツカツカと扉の方へ歩いて行くが、敷居と跨ぐか跨がないかのところで、こちらへ振り返る。「何しているのよ?凛。さっさと帰るわよ」「え、う、うん」 声をかけられたことで、凛はそちらへ向かおうとするが、竹田たちがそれを妨害する。「……陽川さん。悪いけど、私たちお話しをしていたの。一人で帰ってくれる?」 ギロリと陽川の視線が飛ぶ。 それを受けて竹田は怯んだように一歩後退りをした。「なんのお話かしら?お友達の凛がいるならわたしもご一緒したいのだけど」「……ほら、あれよ。まえ、陽川さんにも話したじゃない。桐生くんと滝沢さんの関係の話」「ああ。そんなこ
補習が終わった頃には、外はすっかり夕焼けに染まっていた。 教室を出ると、廊下は静まり返っていて、どこか取り残されたような気分になる。 この感じだと今日の学園祭の準備は終わってしまっているかもしれない。 補習中にずっと気になっていたエマの合図。 ポケットからスマホを取り出して、メッセージを立ち上げると、エマからメッセージが届いていた。『凛ちゃんと、桐生くん、なんか噂になっちゃってるみたい……』 噂と聞いて、ふとストリー事件の少し前のコトを思い出した。 たしかあの時、俺と凛が階段の踊り場で話していて、そこに陽川とエマがやってきたんだ。 慌てて隠れて話しを聞いていたら、俺と凛がキスをしていた、とかそんな話だったっけ。 噂話は立ち消えたと思っていたけれど、それは俺と凛が陽川とエマに近づいたから聞こえてこなかっただけで、まだくすぶっていたんだな。 あの時、陽川は噂話を流した女子生徒の名前を話していたような気がするが……思い出せないな。 どちらにせよ、俺がどうこうするような問題でもない。 聞かれれば否定する。 それだけでいいと思う。 人のうわさも七十五日。冬が来るころにはみんなきっと忘れているさ。 なんせ、そんな事実はないんだから。 とりあえず、今日のところは帰ろう。鞄は教室に置きっぱなしになっている。 鞄を取るために自クラスを目指し、歩き出す。 補習はしばらく続きそうだからそこを陽川にどう言い訳するかだな。 推しについて思いついていないから、俺的にはちょうどよかったとも言えるが。 とりあえず理科ちゃんが怖いから補習をサボるのは無理と伝えればしばらくは回避できそうだな。 なんて、今後の身の振り方を考えながら、比較的軽い足取りで歩いていき、自クラスが近づいてくると、女子生徒達の話し声が聞こえてきた。 ……どうも芳しくない感じだ。 1対複数、そんな感じの想定。 なんか気まずいのは嫌だな。 でもまあ、いいか。さっと鞄を取って帰るだけだ。 問題には目を向けないようにする。それで行こう。 近づいていくと、複数の女子が一人の女子を捕まえて何かをしているということがわかってきた。 なにせ、なにかを言われている一人は口答えすることなく、複数の女子生徒は罵声のようなものを浴びせ続けている。 はあ。さすがにこれを見過ごすわけにはい
陽川と別れ、俺は補習教室へと足を運んだ。 教室の扉を開けると、既に数人が席についていた。 みんな赤点を取った者らしくおしゃべりを楽しんでいる様子だった。 教卓に立つ理科ちゃんはそれをニコニコとした表情で眺めていたが、俺は知っている。 この人を怒らせたら怖いことを。「はい、それじゃあ始めますよー」 微笑んでそう言ったのに、声色は怒りを隠せていない。 みんなそれに気がついて、瞬時に教室内に静寂が訪れた。 このまま立ってたら俺に矛先が向きそうだから、いそいで一番後ろの端の席に座る。「桐生くん。あなたは補習にも遅れてくるのね。それも一番後ろの席で、うんうん。いいんじゃないかしらね」 かなり怒っていることだけは理解した。 すぐに席を立つと、理科ちゃんの正面の席に座り直した。 すると理科ちゃんは満足そうに頷き、こちらに背を向け、ホワイトボードと向き合った。 そして、テストの解説を始めるのだった。 1時間ほど過ぎた頃、ドアの隙間から覗く影があった。 ちらりと視線をやると、なんとそこにいたのは――吉岡。 なんでアイツがいるんだよ。 俺が気がついたのがよほど嬉しいのか、にやけ顔で手を振ってきた。 こいつ、煽るためだけにここに来やがったな。許せん。「桐生くん。気が散っているみたいだけど、何かあったのかしら?」 そりゃ一番前でよそ見をしていたら目立つよな。そうだ。ちょっとした仕返しをしてやろう。「すいません。バカが教室をのぞいていたもんで」 俺はそう言って、扉を指差した。 理科ちゃんは扉の方へツカツカと歩いていき、一気に開いた。 そこには固まって動けなくなっている吉岡の姿があった。「あら、吉岡くん。こんなところで何をしているのかしら?」「いや、えっとあの、なんでもないです」「なんでもないのに覗きをするなんて、良くないわね」「……す、すいません」「あなた点数は取れているけど、普段、授業に参加する態度はあまり良くないわよね?……そうだ。せっかくだからあなたも受けていきなさい」「えっ、いや俺は……」 俺は知ってたよ。強気な女性に責められるのに弱いことを。 普段おちゃらけているくせに、何も言えなくなっている吉岡が滑稽で、笑うのを我慢するのが大変だった。「あっ、すいません。うちのけんちゃんが迷惑かけてしまったみたいで」 吉岡の
凛の部屋で、エマと共に推しについてを考えてから一週間がたった。 しかし、俺は推しについてまだ一文字も書けていない。 凛に推しについて考えておけよ、なんて偉そうに言っていたのが恥ずかしい。 結局、推しがプリンっていうのも陽川に認められていたし。『人が何を好きになろうと人それぞれ。凛のことをあなたが否定できるいわれはあるの?』 と、なぜか俺が陽川に咎められたくらいだ。 別に俺は否定なんてしていなかったし、凛が陽川に推しについての原稿を見せていたのを横から見ていただけなのに。 ちょっと酷いと思う。 プリンはないだろって心の中で思っていたのは事実だが。 でもまあ、凛がエマに固執することなかったのはいいことだと思うけど、 なんてことを考えていたら、前の席の吉岡がこちらに振り返った。「桐生、お前呼ばれてるぞ」「へ?」 完全に自分の世界に入り込んでいて授業中ということをすっかり忘れていた。 クラスメイトたちが俺の方を見ていた。「桐生くん。早くでてきなさい!いらないならホワイトボードに貼り付けてみんなにも見てもらうけど」「は、はい!」 慌てて立ち上がると、教卓の方へ向かう。 なにせ今は化学のテストを返しているところで、化学の教師である理科ちゃん(年配のおばちゃん)がカリカリとした様子で答案様子をホワイトボードに貼り出そうとしていたからだ。 俺が近づいていくのを見ると、理科ちゃんはテストを俺に手渡してくれた。 その時に一言だけ言った。「とっても残念です」 心をざわつかせるには十分な嫌な一言だった。 恐る恐る採点結果を確認すると、35点。 40点以下が赤点だと最初に発表していたからそれを下回っていることになる。 あーやっちまったなあ。 ここまでに返還されたテストはすべて、低空飛行ながらもギリギリ赤点は回避していたのに。 テストを貰って席に戻ると、ニヤニヤと笑みを浮かべた吉岡が待ち受けていた。「どうだったんだ?桐生」 この余裕な感じ、吉岡は余裕でクリアしたのだろう。 こいつにはバカにされたくないなと思って、すぐに机の中にしまってしまった。「余裕だよ」「ふーん。なんだ。つまんねーな」 横の席の凛は、答案用紙を誰かに見られてしまうのを気にする素振りもみせずに机の上で広げていた。 見たくもなかったけど点数が見えてしまった。