「今、誰かいなかった?」「私は何も感じなかったけど?」 あまり防音はしっかりしていないようで、扉の向こうからクリアに声が聞こえてきた。「なんか、扉が閉まるような音がした気がしたのよ」 「えー、でもここの扉は鍵が閉まっているんじゃなかった?昔屋上で悪いことした先輩がいたからって」 声の主がそう言った直後、ガチャガチャと扉のドアノブが動かされるも、やはり、嫌な予感通り鍵がかかってしまったようで、扉が開くことはなかった。「開かないわね。気のせいだったのかしら」 扉の向こうの人物の疑念は晴れたようで、ノブを捻る音は止まった。 脱出方法は一先ず置いておいて、とりあえずの危機は去ったようだ。 安堵して、扉横の壁にもたれながら滑るように腰を下ろすと、その横に滝沢もスカートの裾を気にしながら座った。「嫌な事があったらいつだって抜けていいから。もしなんかあったら、私にすぐ相談して。桐生君に問題があれば、私が締めるから」 なんか物騒なやり取りが扉の向こうで繰り広げられているが、扉の向こうには少なくとも二人はいるようだ。 まさか桐生って俺の事か?俺以外にこの学校で桐生と言う名は目にしたことはないが。「大丈夫。彼だってそんなに悪い子じゃないと思うの」「ちょっと良いやつなのかもって私も思ったんだけどさ、昨日の夜、サクラちゃんから噂話を聞いちゃってね」「噂話?」「ああ。それはいいの。まだ確定したってわけじゃないから。 もし、私のエマを傷つけようとしたらただじゃ置かないんだから。ようやく現れたエマに近づかせてもいいかもって思える男かと思ったのに」 扉の向こうの人物が誰なのか確定した。 思わずため息が漏れてしまう。 陽川姫に矢野エマだ。 短い会話だったが、突っ込みどころ満載だ。 噂とは果たしてなんの事なのか、俺が矢野さんを傷つけるとはどういう意味なのか、まったく身に覚えがなかった。 以前、告白をして振られた事そのものが、矢野さんを傷つける行為だったと言われれば否定のしようもないが。 不思議そうな顔で滝沢が俺の方を見ていたが、洋画なんかで外国人が何のことやらみたいな時にするポーズを取って肩をすくめてみせた。特に意味はない。「姫がなんの話をしているのか、よくわからないんだけど?桐生君がどうかしたの?」「とりあえず、今のところエマは細かい事は気にし
朝一番乗りで教室にたどり着いたのは、入学式以来初の事だ。 誰もいない教室は静謐さがあって、滝沢が問題を起こしたあの教室同ものとはとても思えなかった。「おっと」 耽っていても仕方がないから、とりあえずは自分の席に荷物を置いて、朝一番にやってくるはずだった人物を隠れて待つことにした。 教室後方のカーテンに巻き付いて、その人物の到着を待つ。 その人物は五分もしないうちに教室へ足を踏み入れてきた。 かなり挙動不審な感じで、周囲の様子をキョロキョロ伺いながら教室前方に位置する、矢野さんの机へとまっすぐに向かっていく。 その手には、何か紙のような物が握られているのが見えた。 まったく……結局、言いつけは守らなかったみたいだな。危惧していたとは言え、信用されていなかった事に少しがっかり感を覚えつつ、その後ろ姿に声を掛けた。「滝沢。お前何してんだ」 誰もいないと思っていた教室で、突然に名前を呼ばれたもんだから、小心者の滝沢の肩が大きく跳ね、動きを停める。 背後から近づいていき。滝沢から紙をひったくる。「手紙はもうやめろって、俺言ったよな?」 滝沢は壊れた首振り人形のように、首肯を繰り返して肯定を重ねる。「……ご、ごめんなさい」「とりあえずここで長話はまずい。場所変えるぞ」 パソコンがエラーを吐いたように、その場に立ち尽くす滝沢の手を引いて、教室を後にした。 誰かに俺達の会話を聞かれるのはまずい。どこか、あまり人が来なそうな場所はなかったかな……? あっ。1箇所だけ思い当たる節があった それは屋上へと続く階段の踊り場。 屋上は施錠されていて入れないし、朝のかったるい時間にわざわざここまでやってくる物好きは俺達を除けばそうは多くないだろう。 少なくとも俺なら近づかない。つまり、内緒話をするにはもってこいの場所って事だ。 滝沢の手を引いて、まだ他の生徒の姿がない廊下を進み、屋上へと続く階段を登る。 屋上へと続く扉の前にたどり着き、そこで滝沢を開放した。 いつも通りの怯えたような表情で、俺の出方を見守っているようだ。これじゃあ俺が滝沢に危害を加えるとでも思われているようじゃないか。当然、そんなことはないって理解はしているが。 「今まで矢野さんにやってきたような行動は今後一切辞めるようにってここ最近、毎日、毎日、口が酸っぱくなる
「お前ってやつは本当にいっつも怪我してんのな」 「うぅ……」 注目を集めてしまった駅前を離れた裏路地。ペダルを漕ぎながら荷台に座る、あちこち傷だらけの残念美少女に声を掛けると、うめき声のような返事が返ってきた。 恥ずかしいのか、傷が痛むのか、はたまたそのどちらもなのか、俺に知るヨシはない。 「とりあえず、家に送ればいいよな……その顔で人前に出るのはちょっとアレだし」 「……うん」 今回も前回も滝沢が怪我をしてしまった要因は俺にもある。 罪悪感がないのか、と問われば完全には否定はできない。 今回、俺に助けを求めてきた事も含めて、一つ提案をすることにした。 「スマホの修理だけど、明日でもいいか?明日の放課後なら付き合うからさ」 「えっ。い、いいの?」 「いいのって、その為に俺を呼んだんだろ?」 「う、うゆ」 「うゆってなんだよ?噛んだのか」 少し小馬鹿にしたような声色で話しかけた。元気づけるつもりだったのだが、しばらく返事は返ってこなかった。 心配になって後ろをチラッと盗み見ると、顔を手でおさえて俯いていた。 「傷が痛むのか?大丈夫?」 慌てて自転車を停めて降りると、体で自転車を支えながら滝沢の方に振り返る。 滝沢が、顔を上げる気配はない。 心配になっておさえている手の下から顔を覗き込んでみると、首筋を紅潮させ、唇を一文字に引き結んでいた。 首筋が赤く見えるのは、乾いた血液のせいかもしれないと一瞬思ったけれど、測らずも街頭の真下に自転車を停めたおかげでしっかりと見る事ができたから見間違いではないと思う。 擦りむいている可能性は否めないが。 「み、見ないで、ひ、ひどい顔していると、お、思うかりゃ」 また語尾を噛んでいたみたいだけど、これ以上、からかうのも可愛そうな気がしてきて、自転車に跨り直した。 「わかった。ただ、このまま走り出すと、掴まってないと危ないから、しっかり掴まってくれ」 「う、うん」 そう返事をした途端、滝沢の両手が俺の腰に回される。 「べ、別に掴まるのは荷台の後ろでもいいんだじぇ」 突然の滝沢の行動に、一瞬で心拍数が跳ね上がる。 あまりに驚いたもんだから、俺まで噛んでしまった。 俺のミスに滝沢が突っ込みを入れてくる来る事はなかった。そのかわりに、少し湿り気を帯びた
電話に出るなり聞こえてきた声はゾンビのような女のうめき声だった。「あ……あ、あー、あ────」 思わずスマホを放り投げそうになるも、どことなく聞いたことがある声で、自分の勘が正しいのか、電話の向こうへ問いかけてみた。「まさかとは思うが……滝沢か?」「そ、そそうそう、そう。滝沢です」 かなり焦った様子だ。なにか危険な事にでも巻き込まれたのだろうか?「落ち着いて話せ。何があった?」「す、す、スマホ」「スマホ?」「しゅしゅ、しゅうりにき、きた」 話している内容があまりに端的で、話の概要が見えてこない。「スマホの修理をしに行ったのか。そこで何かあったのか?」「そ、そう、で、でも、は、話し、がつ、通じなくて、た、たすけてほしい」 いつにもまして、言葉が出てこない様子だった。 それだけ滝沢を焦らせる何かがあったのだろう。 とりあえず、俺に何かしら助けてほしい事がある。と言うところだけは理解できた。「俺は、どうすればいいんだ?」「え、駅前の、こ、コウシュ────」 そこまで聞き取れた所で、ブーというブザー音と共に同時に通話が切れ、ツーツーという電子音が鳴り響く。「なんで切ったんだよ」 まあいい。どうして欲しいのかはだいたいわかった。 おそらく、スマホの修理に行って何らかのトラブルにあったから助けてほしい。そういう事なのだろう。 途中で通話が切れてしまったけれど、滝沢が俺に伝えたかったのはおそらく、『駅前のコウシュ──に来てほしい』と言うことだと推察できる。 コウシュ──とは公衆電話から着信があったことから、公衆電話だと推測するのは容易だ。 もうすぐ夕飯だっていうのに。「ったく、しょうがねえなあ」 玄関横にぶら下がっている自転車の鍵を掴み取り、キッチンの方角に向かって叫ぶようにして言った。「母さん。ちょっと出かけてくるから、先にご飯食べてて」 母さんからの返事が返ってくる前に玄関を出た。 小言を言われるのは滝沢ではなくこの俺だ。たまったもんじゃないからね。 ─────────────────────── できるだけ急いでペダルを漕いで、やってきたのは平和台駅だ。携帯ショップに修理をしに来たと言っていたから、この辺りで携帯ショップと言えば平和台駅なのだ。 おそらく滝沢はこの周辺の公衆電話の近くに潜伏しているはずだ。
バーチャルキャラ、ストリーについての講義は二時間弱にも及んだ。 俺の部屋にやってきたのが四時くらいで、壁に掛けられた時計の針は、六時近くを指し示している。 窓の外はすっかり日が沈みかけていて、真っ赤な光線が部屋を照らし出していた。 正直な所、すっかりと疲れ切っていた。 自分から聞いた事だが決して興味がある訳ではない事。まるでテスト直前に苦手な科目を暗記しなければならず、無理やりに要点を詰め込んでいるような感覚に近い。 陽川もさぞ疲れただろうと視線を向けてみると、疲れた様子はなく、かなり機嫌良さそうに吉岡の言葉に相槌を打っていた。「……ふむ」 そうか。合点がいった。先程までの会話で陽川のやつが、ストリーについて妙に詳しいと思っていたけど────こいつ隠れファンなんだな。 好きな相手と好きな物を共有する、そりゃ陽川からしてみれば最高の時間だったに違いない。 むしろ吉岡が好きだから陽川も好きになったまである。なんたって吉岡狂いだからな。 どちらにせよ俺にしては好都合だ。陽川が一人で話を聞いてくれていた事もそうだし、俺がこれから提案しようとしている事にとっても。 そろそろ頃合いか。「あ、あのさ」 完全に二人の世界に入ってしまっている所申し訳ないのだけれど、声をかけた。 そろそろお開きにしたいところでもあるし。 するといつものようにキツイ視線がキッと─────飛んでこなかった。「何かしら?」 上機嫌な様子で俺に返事をする陽川に違和感を覚える。 いつもならこう、目からビルでも破壊できそうなの光線が飛んでくるか、キツイ一言をお見舞いされる所なのに。 よほど吉岡と推しについて語り合えたのが嬉しかったのだろう。「せっかくだから、推しについて語り合うグループ作らないか?ほら、今も盛り上がっているところだけれど、時間ももう遅いし」 言いながら時計を指差すと、もうこんな時間かと吉岡。
『太陽の国のお姫様、ストリーちゃんの配信にようこそ!このチャンネルは、日出る国、ニッポンのみんなと仲良くなるために〜、お姫様であるストリーちゃん自らが、矢面に立って体当たりな企画に挑戦しているんだよ!』 ハツラツとしたアニメご……可愛らしい声が、俺の部屋の中に響き渡る。 スマホの小さな画面の中で、ヴァーチャルキャラである、ストリーがところせまし、ワチャワチャと動き回っている。 動画の冒頭部分が流れた所で、吉岡はスマホに手を伸ばし動画をストップした。「これが俺の推し『ストリーちゃん』だ。どうだ可愛いだろ。ムフフ。可愛いだけじゃなくて元気いっぱいでドジっ子な所がたまらないんだ」 俺とは目も合わせず、かなり早口にそう言い切った。 ついてきた陽川はと言えば、自らが好きな相手である吉岡の《推し》を受け入れられないのか顔を逸らし、明後日の方向を見ていた。 怒っているのか、横顔が少し赤くなっているようにも見える。わかるよ。君の気持ち。好きな相手がちょっとマイノリティな趣味を持っている事を知って複雑な気分なんだろう?「吉岡ってこういうのにも興味あったんだな。前は声優のアイリ?だか、なんただかが好きって言ってなかったけ?」「志津里《しずり》アイリたん。の事だね」 メガネなんてかけていないのに、吉岡はメガネを直すような仕草をしてからニヤリと笑った。「そうそうその子」「ふふふ。これを聞いて欲しい」 吉岡は開いていたヴァーチャルキャラの動画を閉じるとあるアニメの動画を開き直し慣れた手つきでシークバーを動かした。そして、ちょうど動画の真ん中辺りにシークバーを合わせると、再生を始めた。 どこかで見たことのあるアニメだった。 たしかショート動画で流れてきた事があったんだ。 つい最近放送していて、かなり話題になっていたアニメ。たしか、タイトルは『ホライゾン≒メソッド』だったかな。 アニメに詳しくない俺でも聞いたことがあるほどのタイトルだ。 吉岡のスマホから、再度アニメ声が流れ出す。『この水平線の彼方にはきっと、君の求めているモノはあると思うよ。────でも、行かないで欲しいんだ。私のそばに────居てくれない────かな?』 吉岡はそのセリフを聞いてニヤリと笑うと、動画の再生を停めた。 そして、もう一度シークバーを戻して再度再生しようとしたところで停めた