精神系の薬の消費があまりにも早く、エミリーは当然違和感を覚えた。誰かに確認しようとしたところで、ロバートから先に連絡が入り、「何も知らなかったことにしろ」と命じられたうえ、ルーカスの要求はすべて満たすようにと言われた。この異常に気づいていたのは、おそらく彼女と薬局のごく一部のスタッフだけだった。由佳は「やっぱりね」と言いたげな表情を浮かべた。「薬の名前、覚えてる?」エミリーは少し考え込み、3つの薬の名前を挙げた。「他にも何か覚えてることは?たとえば、その特別待遇の患者についてとか?」エミリーははっきりと記憶していた。「アジア系の女性だったわ。ある同僚が見たって。彼女が車から運ばれてくるときは妊娠していた。でもその後見かけたときには、もうお腹はぺたんこで......まるで妊娠なんて最初からなかったかのようだった」そう話しながら、エミリーは由佳の顔をじっと見つめた。どこか見覚えがある。まっすぐ通った鼻筋、整ったアーモンド形の目元、そしてわずかに引き結ばれた、どこか人を寄せ付けない冷たい唇のライン。その瞬間、エミリーの脳裏に、一枚の顔が電撃のように浮かんだ。あのとき見た、血の気の引いた、魂が抜けたような顔!「あっ!」彼女は思わず短く息を呑み、一歩後ずさった。目を見開き、信じられないという表情で叫んだ。「あなた......あなた!」震える指で由佳を指差す。「あの患者、あなたなの?!」由佳はケイラー病院に1か月以上入院していた。初期は脚の骨折と頭部の重傷でずっと病室にこもり、後半はかなり回復し、よく車椅子で外を散歩していた。付き添いの介護士が押していたのを思い出した。あのとき、病院スタッフの多くが彼女に対して何か妙な目線を送っていたことも覚えていた。ただ、当時の由佳は頭がぼんやりしていて、「外国人だからだろう」と軽く流していた。そんな由佳の表情は今、まったく変わっていなかった。「記憶力はまだ悪くないようね、エミリーさん。あなたが私を覚えていたなら、話が早い」「私はたしかに妊娠していた。でも、子どもは連れ去られた。私を取り上げた産婦人科医は誰だったか、覚えてる?」エミリーはようやく動揺から立ち直った。「知らない。あの患者......あなたの担当はずっとルーカスだった。院内の医師は誰も接触を許されてなかったし、同僚からも
「わかった」アンディはしぶしぶその場を離れた。あのメッセージは誰かの悪ふざけだったのだろう。まったく、そんなくだらないことをするのは誰なんだ。アンディが去っていくのを見届けてから、エミリーは部屋に戻り、ドアを閉めた。部屋の中は、一瞬で静寂に包まれた。さっきまで激しい怒りを露わにしていた由佳の顔からは、潮が引くように感情が消え、底の見えない静けさだけが残った。彼女は落ち着いた動作で、さきほどの騒ぎでわずかに乱れた袖口を整えた。その仕草は洗練されていて優雅だった。「芝居はこれで終わりよ、エミリーさん。ここからが本題」エミリーは探るように尋ねた。「あなたいったい何者なの?」「あなたが知る必要はない。ただ、答えて。6年前の件について、どこまで知ってる?」エミリーは、もう逃げられないことを悟り答えた。「あの件、ロバートはかなり秘密にしてたの。私もあまり詳しくは知らないの」彼女とロバートは特別な関係だったが、その件に関してはロバートが徹底して口を閉ざしていたため、詳しいことは一切聞かされていなかった。彼女の情報源は、すべて病院内の同僚からの噂にすぎない。「じゃあ、知ってる範囲でいい。たとえば、ルーカス・ガルシアの本当の正体は?」由佳はすでに録音設備を準備していた。エミリーはケイラー病院の職員で、ルーカスとも面識がある。もしルーカスが医療業界で名の知れた人物なら、彼の正体を把握していても不思議はない。そして、実際に彼女は知っていた。ただし、それはロバートからではなく、同僚たちの間でこっそり話されていた情報だった。当時、病院に突如現れた数名の医療スタッフ。一見、普通の医者や看護師に見えたが、病院のシステムには彼らの名前が登録されていなかった。主治医は通常の診察には出ず、看護師も特定の患者だけを担当。他の患者から声をかけられても、最小限の対応にとどまっていた。院内では「詮索無用」というお達しが出ていたが、逆に職員たちの好奇心を煽ることになった。その中で、精神科の同僚が主治医の正体を突き止めたという。彼の本名はリチャード・ブラウン。かつて某大学の医学部で准教授を務め、心理学の名医として知られていた人物だった。だが、彼の名札には「ルーカス・ガルシア」と書かれていた。ここ5~6年の間に、彼女の周囲の同僚たちは次々と辞め
アンディは鼻で笑い、道をふさいでいた由佳を乱暴に押しのけると、大股で寝室の前に立ち、勢いよくドアを開け放った!エミリーはその瞬間、息が止まり、まるで見えない手に喉を締められたように動けなくなった。心臓が激しく脈打ち、今にも喉から飛び出しそうだった。アンディの鋭い視線が、鷹のように部屋の隅々まで走った。ベッドの掛け布団は乱れており、誰かがそこで寝たのは明らかだった。壁際にはスーツケース、ベッドの端には女性もののパジャマが投げ出されていた。光沢のあるシルク地で、レースがあしらわれており、かなりセクシーなデザインだ。テーブルの上にはいくつかの書類、ドレッサーには開封されたばかりの高級スキンケア商品と、派手なデザインのダイヤモンドブレスレットが並べられていた。表面上は、他の男性の痕跡は見当たらない。アンディは鼻をひくつかせ、何かの匂いを確かめているようだった。「私を疑ってるの?」エミリーがすかさず彼の思考を遮り、怒りを込めて言った。「アンディ・クラーク!いったい何がしたいの?突然乗り込んできて、取引相手の前で大騒ぎして!私を疑ってるの?まさか浮気してるとでも?」さっき、ロバートのバスローブや下着はとにかくクローゼットに突っ込んだ。運よく、アンディはそこまで見ていない。ただ、ベッドの縁の影に隠れたままの男性用ベルトは、あと数歩進めば目に入る位置にあった。部屋に男の姿が見えないことで、アンディの勢いは明らかに落ち着き、ちょっと気まずそうにした。彼は口を開き、明らかにトーンを落として言った。「エミリー、俺はただ、さっき情報が届いて」「情報?そんなくだらない情報のせいで、こんなふうに乗り込んできたの?」エミリーは一気にたたみかけた。目にはちょうどよく涙が浮かび、きらきらと震えていた。「あなたは私を疑ってる、アンディ!本当に、がっかりしたわ!」声を詰まらせながらも、夫に根拠なく疑われ、尊厳を傷つけられた妻の姿を完璧に演じきっていた。アンディは涙に濡れた怒りの眼差しと、隣で冷ややかに彼を見下すアジア系女性の表情を見つめ、ようやくばつの悪そうな様子を見せた。苛立ったように髪をかき上げ、かすれた声で言った。「すまない、エミリー。少し感情的になってた。だけど」まだ、部屋に漂う微かな匂いが気にかかっていた。「もううんざり!
由佳のイヤホンから太一の声が流れた。「エミリーの夫、アンディ・クラークが28階に到着した」そのとたん、ドアベルが激しく鳴り響き、止むことがなかった。由佳はドアの方を一瞥し、笑いながら言った。「アンディさん、思ったより来るの早かったね」エミリーの瞳孔が一気に縮まった。「うそ、脅してるんでしょ!」「信じないなら、自分で見てみたら?」エミリーは一瞬ためらったが、まるで何かに導かれるようにドアへ向かい、のぞき穴から外を覗いた。そして、その場で血の気が引き、胸を押さえてドアにもたれかかった。そこには、見慣れた夫の顔があった。「エミリーさん」由佳がゆっくりと近づく。「わかった、言う通りにする!彼を追い返して、なんでも言うこと聞くから!」エミリーはそう言うと取り乱しながらロバートの荷物を手当たり次第にスイートの寝室に放り込み、自分も中へ入り、ドアを閉めた。由佳はドアへ向かい、ドアを開けた。「ご用件は?」アンディ・クラークは見知らぬアジア人の顔を見ると、険しい表情で部屋の中を覗き込んだ。「エミリーはここにいるか?」30分ほど前、彼のもとにある情報が届いた。その情報はエミリーが薬の取引相手に会いに行ったのは嘘で、実際はブルーベイホテルで浮気しているというものだった。最初は信じなかったが、その情報はやけに具体的で、まるで本当のようだった。「信じないなら今すぐブルーベイホテルへ行って確認してみろ」とまで書かれていた。アンディはすぐに向かった。「いるよ。ご用件は?」アンディは不機嫌そうに由佳を一瞥し、何も言わずに中へ入ろうとした。由佳は一歩下がり、鋭い口調で言った。「これ以上入ってきたら、警察呼びますよ!」アンディは足を止め、部屋を見渡したが、リビングにエミリーの姿はない。「俺は彼女の夫だ。出てこさせてくれ」由佳は言った。「すみません、今はビジネスの話し合い中だから、用があるなら会議が終わってからにしてください」アンディの疑念はさらに深まった。「ビジネス?ホテルの部屋で?」由佳は鼻で笑った。「あなたに説明する義務はない」そう言ってドアを閉めようとした。だが、アンディは大柄な体を活かして腕を差し込み、ドアを押さえたため、由佳はそれ以上抗えなかった。由佳は腹を立てて手を離し、寝室に向かって怒鳴っ
「了解」数分後、由佳は監視映像に目をやった。サングラスをかけた女性がエレベーター側から歩いてきて、向かいの部屋の前で立ち止まり、周囲を警戒しながらノックした。三十秒後、ローブ姿のロバートがドアを開け、エミリーを抱き寄せた。そのまま二人はキスを交わし、ドアが閉まった。由佳は耳元のイヤホンに手を添えながら言った。「エミリーがロバートの部屋に入った」礼音:「了解、次の作戦を実行する」一時間後、礼音の声が聞こえた。「指示を出した」数分後、画面には部屋のドアが開き、ロバートがブリーフケースを手に持ち、スーツの上着を羽織りながら外に出る姿が映った。エミリーは胸元にバスタオルを巻き、肩を露わにしてロバートを見送っていた。ロバートが立ち去り、エミリーは部屋のドアを閉めた。五分後、イヤホンから太一の声がした。「ロバート、ホテルから離れた。ロバート、ホテルから離れた」「了解」由佳は服を整え、準備していた物を手に取り、部屋を出て向かいの部屋の前でノックした。「誰?」「ルームサービスです。ロバート様が出発前にワインをお届けするよう指示されました」ドアが少し開いた。エミリーが半分だけ顔を出し、濡れた髪が首元に張りついていた。ホテルスタッフではないことに気づくと、驚いた表情で警戒心を見せた。「あなた、誰?」由佳は微笑みながら写真を差し出した。「エミリーさん、少しお話ししませんか?」エミリーの顔色が一気に青ざめ、目を見開いた。「何が目的なの?」写真には、浴衣姿のロバートがエミリーを抱き寄せキスしている様子が写っていた。ロバートの右手はエミリーの尻に触れていた。エミリーが先ほど着ていた服と同じであることから、撮影は一時間ほど前だと分かった。彼女たちは最初から監視されていた!「ただ、ちょっと条件を話したいだけ。この写真、ご主人に見られたくないでしょ?中で話しましょうか、エミリーさん?」エミリーはドア枠を力いっぱい握りしめ、指の節が白くなっていた。由佳は彼女の身体から香るシャンパンとロバートの香水の混ざった匂いを感じ取った。「あなた、一体何者?」エミリーの声は張りつめた糸のようだった。「ここで話を続けるつもり?」ドアが勢いよく開かれ、エミリーは部屋の中へと戻っていった。スイートルームの中には情事の余
ベラと夕食を終えたあと、2人はペンシルベニア大学の近くを少し散歩してから別れた。由佳が家に戻ったばかりの頃、外からノックの音が聞こえた。ドアののぞき穴から確認すると、立っていたのは太一だった。由佳はドアを開け、彼を中に招き入れた。太一はまるで人生に希望を失ったかのような顔で、分厚い資料の束を手にしていた。「これはKLグループに関連する研究室のリストと、内部の教授やメンバーの情報だ。君に見覚えがあるかどうか確認してもらいたくて」由佳「......」2人はテーブルを挟んで向かい合って座った。由佳は資料を手に取り、ざっと目を通しただけで、すでに頭痛と目の疲れを感じはじめていた。彼女はまず、自分の治療の進展を簡単に説明し、ケビンの身元を調べてくれるよう太一に頼んだ。太一は顎に手を当てながら、眠たそうな顔でうなずいた。由佳は再び資料に目を通し始めた。中には、KLグループが直接設立した研究室もあり、それぞれ異なる疾患の研究を担当していた。また、KLグループが複数の有名大学と提携して立ち上げた研究室もあり、大学名義で運営されているが、資金はKL側が出していて、成果が出た場合は大学とグループで共有するという仕組みだ。研究室の内部メンバーは、大学教授や准教授が中心で、それぞれの分野では名の知れた人物が多かった。「これは......」由佳はある一枚の資料に目を留めた。そこには、あるバイオテクノロジー企業の名前が記されていた。「それね」太一が説明した。「研究室を調べてる時に、KLの傘下に何社か医療系の子会社があることがわかってさ。だからその幹部の情報も一緒に入れたんだ」「そういうことね」由佳は観念したように、資料をめくり続けた。一通り目を通したあと、由佳は眉間を押さえて苦しげに言った。「いない......やっぱりいない」それを聞いて、太一は彼女以上にショックを受けた様子で、信じられないと言わんばかりに言った。「なんで?!」昨日、病院のスタッフや幹部の中にそれらしい人物がいないと分かってから、太一は、あのルーカスという男が研究室か子会社に潜んでいる可能性が高いと踏んでいた。まさかこんな結果になるとは思っていなかったのだ。「まさか、この世から消したか?」太一は納得いかない様子でつぶやいた。ふと、目を輝かせて言