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あなたのいない季節を生きていく

あなたのいない季節を生きていく

Oleh:  ベリーラディッシュTamat
Bahasa: Japanese
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親友の森川渓(もりかわ けい)が、準備してくれた離婚に関する書類を私に差し出した。 「五年もかけてやっと航を振り向かせたのに、どうして急に離婚なんて言い出したの?」 私は口元をかすかに歪めた。 「だってあの人、私とご飯を食べてくれないから」 五時間前、私は高瀬航(たかせ こう)に、レストランの住所を送った。 【今日は結婚三周年だから。ここ予約したよ】 返信はほとんど間を置かずに届いた。 【忙しい。無理】 五年間追いかけ続けて、結婚して三年。返ってきたのは、たったそれだけだった。 だがその日の午後、航の会社の前を通りかかった私は見てしまった。航が、ショートヘアの女の子を大事そうにかばいながら、車に乗せるところを。 五年間、私はずっと航を追いかけていた。最初は連絡してもろくに返事さえしてくれなかった彼が、いつしか私と笑ったり、怒ったり、悩みを打ち明けたりしてくれるようになった。 それなのに今では何かにつけて返ってくるのは、忙しい、無理、そればかり。 私は自分が昔ほど努力をしなくなったせいだと思っていたが違ったようだ。ただ彼の愛する相手が変わっただけだった。 そのときスマホが鳴った。予約していたレストランからだった。 「篠宮様、本日は何名様でのご来店でしょうか?」 私は書類の入った封筒をバッグにしまった。 「一人です」 航があの女の子を連れて、同じレストランへ向かったことは知っている。 ちょうどいい。 今日から航が、あの店の名物料理を誰と分け合おうが、もう私には関係ない。 あなたは好きな人と好きなだけ分け合えばいい。 私は私の分を、一人で心ゆくまで味わうから。

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Bab 1

第1章

親友と別れ、私はそのまま例のレストランへ向かった。

店に入ってすぐ、窓際の席で楽しそうに話している二人が目に入った。

航は体を少し傾け、向かいに座る女の子と話している。

「来週の印象派美術展、もうチケット取ってあるよ。この前見たいって言ってたモネの作品も来るらしい」

水野茜(みずの あかね)は私の視線に気づくと、笑いながらフォークの柄で航の腕をつついた。

航も茜の視線を追って顔を上げる。私を見つけた瞬間、あれほど楽しそうだった笑顔が消え、眉間に深いしわが寄った。

航は立ち上がると、足早にこちらへやってきた。声には露骨な苛立ちがにじんでいる。

「尾行してきたのか?忙しくて無理だって言っただろ。わざわざここまで来て何がしたいんだよ。茜とは大事な話があるんだ。今日は帰ってくれ。こんなところで騒いで恥をかかせるな。

記念日は仕事が落ち着いたら埋め合わせする。今日は適当に何か食べて帰れ」

私が何か言うより先に、航は背を向けて席へ戻っていった。

「茜、この店ならキャラメルプリンが有名らしいよ。この前、甘いもの好きって言ってただろ。食べてみる?」

私はその場に立ち尽くし、頭を寄せ合ってメニューを眺める二人を見つめた。気づけば、バッグの中の書類を強く握りしめていた。

紙の角が手のひらに食い込んで痛い。私は口元を歪め、乾いた笑いをこぼしながら首を振った。

せめて今日くらいは、きれいに終われると思っていた。八年間の恋に、ちゃんと別れを告げられると思っていた。

まさか航には、取り繕う気すらないなんて。

ただでさえ重かった気分につられるように、体までどっと重くなる。

これ以上考えるのも嫌になり、私は背を向けて、あらかじめ予約していた席へ向かった。

そして、好きな料理を好きなだけ注文した。

航と一緒にいるとき、私はいつも自分の好みを後回しにしていた。

航はパクチーが嫌い、辛いものも苦手、甘すぎるものも食べない。私は八年間、全部覚えていた。

けれど以前、私の好きな食べ物を聞いてみたとき、航は散々考えた末にこう言った。

「お前って、何でも食べるよな」

茜が好きなイチゴ味のキャンディーも、ドライマンゴーも、甘さ控えめのタピオカ入りミルクティーも、航は一つ残らず覚えているのに。

だから今日は、私が好きで、航が嫌いなものを片っ端から頼んだ。

たっぷり唐辛子の効いたエスカルゴを口に運ぶと、刺激的なソースが舌の上に広がった。辛さに、少しだけ目の奥が熱くなる。

なんだ。一人で食べたほうが、ずっとおいしいじゃない。

夕日が沈み、街に明かりが灯るまで、隣のテーブルの客は、何組も入れ替わった。

私が店を出る頃になっても、二人はまだ楽しそうに話していた。

茜は体を反らすほど大笑いし、航はそんな彼女を見つめている。その瞳からは、隠しきれないほどの優しさがあふれていた。

あの目を私は知っている。

航と付き合い始めたばかりの頃、彼も私をあんなふうに見ていた。

道端に咲いた名前も知らない小さな花一つで、私たちはいつまでも話していられた。

種がどうやって運ばれるのかという話から、植物の光合成の話になり、気づけば人間の成長についてまで話が飛んでいた。

あの頃は、いくら話しても話題が尽きなかった。何を言っても、不思議なくらい呼吸が合った。

それなのに今は?会話を始めれば、最後には喧嘩になる。

もっと笑えるのは、その喧嘩の原因がいつだって、航の幼なじみである茜だということだった。

三か月前、私たちの二軒目の家のリフォームがようやく終わった。

家具を選びに行ったあの日は、珍しく穏やかな時間が流れていた。二人で、この家でこれからどんな暮らしをしようかと、そんな未来の話までしていた。

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第1章
親友と別れ、私はそのまま例のレストランへ向かった。店に入ってすぐ、窓際の席で楽しそうに話している二人が目に入った。航は体を少し傾け、向かいに座る女の子と話している。「来週の印象派美術展、もうチケット取ってあるよ。この前見たいって言ってたモネの作品も来るらしい」水野茜(みずの あかね)は私の視線に気づくと、笑いながらフォークの柄で航の腕をつついた。航も茜の視線を追って顔を上げる。私を見つけた瞬間、あれほど楽しそうだった笑顔が消え、眉間に深いしわが寄った。航は立ち上がると、足早にこちらへやってきた。声には露骨な苛立ちがにじんでいる。「尾行してきたのか?忙しくて無理だって言っただろ。わざわざここまで来て何がしたいんだよ。茜とは大事な話があるんだ。今日は帰ってくれ。こんなところで騒いで恥をかかせるな。記念日は仕事が落ち着いたら埋め合わせする。今日は適当に何か食べて帰れ」私が何か言うより先に、航は背を向けて席へ戻っていった。「茜、この店ならキャラメルプリンが有名らしいよ。この前、甘いもの好きって言ってただろ。食べてみる?」私はその場に立ち尽くし、頭を寄せ合ってメニューを眺める二人を見つめた。気づけば、バッグの中の書類を強く握りしめていた。紙の角が手のひらに食い込んで痛い。私は口元を歪め、乾いた笑いをこぼしながら首を振った。せめて今日くらいは、きれいに終われると思っていた。八年間の恋に、ちゃんと別れを告げられると思っていた。まさか航には、取り繕う気すらないなんて。ただでさえ重かった気分につられるように、体までどっと重くなる。これ以上考えるのも嫌になり、私は背を向けて、あらかじめ予約していた席へ向かった。そして、好きな料理を好きなだけ注文した。航と一緒にいるとき、私はいつも自分の好みを後回しにしていた。航はパクチーが嫌い、辛いものも苦手、甘すぎるものも食べない。私は八年間、全部覚えていた。けれど以前、私の好きな食べ物を聞いてみたとき、航は散々考えた末にこう言った。「お前って、何でも食べるよな」茜が好きなイチゴ味のキャンディーも、ドライマンゴーも、甘さ控えめのタピオカ入りミルクティーも、航は一つ残らず覚えているのに。だから今日は、私が好きで、航が嫌いなものを片っ端から頼んだ。たっぷり唐辛
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第2章
ところがその直後、航は私に冷水を浴びせるようなことを言った。「この家、茜が好きな感じにしよう。たまに泊まりに来るんだし、落ち着ける部屋にしてやりたい」私は耳を疑った。「航、ここは私たちの家でしょ?どうして茜の好みに合わせなきゃいけないの?」航の顔が見る見る険しくなる。「たかがインテリアだろ。今住んでる家は、お前の好きなようにしたじゃないか。茜の両親はずっと海外にいて、国内では一人なんだ。これからちょくちょく泊まりに来るんだから、茜が落ち着ける家にして何が悪い?いちいち心が狭すぎるだろ」あまりの言い草に、笑うしかなかった。私の家なのに、どうして別の女の好みに合わせて家具を揃えなければならないのだろう。そんなのおかしいに決まっている。結局、私たちは一歩も譲らず、あの家は今も家具すら揃っていない。今思えば、あのとき離婚しておけばよかった。それでも私は、まだどこかで期待していた。結婚記念日になれば、もう一度きちんと話し合えるんじゃないかと。だがもう諦めるしかない。航が帰宅したのは、午前二時を回った頃だった。私はソファに座ったまま、何度も舟をこぎかけていた。それでも眠気をこらえ、顔を上げる。「航、話したいことがあるの」航は疲れ切った顔で座っている私を一瞥しただけだった。気遣う様子など微塵もない。眉間を指で揉みながら、苛立った声を上げる。「優奈、いい加減にしろよ。結婚記念日を一回祝えなかったくらいで、そこまで引きずることか?もう何年も夫婦やってるんだぞ。そんなことで一晩中騒ぐなよ。今何時だと思ってる?こっちは疲れてるんだ。くだらない話に付き合ってる暇はない」そう言い捨てると、航は浴室へ入った。十分ほど、シャワーの音だけが響く。やがて出てきた航は、寝室には見向きもせず、そのまま隣の部屋へ向かった。バタン。乱暴に閉められたドアの音で、残っていた眠気が一瞬にして吹き飛んだ。家の中に、再び重苦しい静寂が戻る。私の心だけはぐちゃぐちゃだった。胸の奥に酸っぱいものが詰まったようで、息苦しい。手元の書類を見つめていると、突然、涙がこぼれ落ちた。いつからだろう。私たちは、まともに話すことすらできなくなっていた。航が、私より先に茜へ何でも話すようになった頃から?私だってパクチーを嫌
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第3章
まるで私は、呼べばいつでも駆けつける家政婦みたいだった。床に散らかった荷物を見つめていると、胸の奥が重く詰まる。喉に綿でも詰め込まれたようで、息をするだけでも苦しかった。そのとき、スマホが震えた。病院のグループチャットに、新しい通知が届いている。【国際医療支援プロジェクト、参加者募集】その文字を見た瞬間、心臓がわずかに大きく跳ねた。もしかしたら、これはちょうどいい機会なのかもしれない。ここを離れる。航から遠く離れて、今度こそきっぱり忘れるための時間を作る。私は大きく息を吸い、ゆっくり呼吸を整えた。そしてスマホを手に取り、その場で参加を申し込んだ。申し込みを終えると、身支度をして病院へ向かい、必要な書類を提出した。すべての手続きを済ませたあと、LINEを開く。航とのトーク画面には、私が送ったメッセージがそのまま残っていた。【仕事が終わったら連絡して。話があるから】既読すらついていない。電話をかけようとスマホを持ち直した、そのときだった。ショート動画アプリから、新しい投稿の通知が届く。画面の中では、茜が一枚の絵を前に、その作品の魅力について堂々と語っていた。よどみなく説明する姿は、自信に満ちていて生き生きとしている。撮影したのは航だった。投稿には、こんな文章まで添えられていた。【茜は一度見たものを忘れない。本当に才能がある】私はスマホを強く握りしめた。指先から血の気が引く。そのまま航に電話をかけた。「美術館の外にあるカフェで待ってる。三十分以内に来なかったら、私がそっちに行くから」「優奈、何なんだよ。俺は……」最後まで聞かず、通話を切った。航の苛立った声は、そのまま無機質な電子音の向こうへ消えた。私はカフェに座り、時間だけを数えた。三十分が過ぎようとした頃、席を立ち、美術館まで迎えに行こうとしたところで、航が茜を連れてゆっくり店に入ってきた。先に口を開いたのは茜だった。心配そうな声を作って言う。「優奈さん、電話ですごく焦ってるみたいだったから、何かあったのかと思って。航に早く来ようって言ったんです。何か私にできること、ありますか?」私が無表情でいるのを見ると、航の機嫌はますます悪くなった。「一体何がそんなに急ぎなんだよ。電話じゃ言えないのか?わざわざここまで来
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第4章
「優奈さん、航に話があるんじゃなかったんですか?まだ帰らなくてもいいじゃないですか」茜にそう言われ、航も苛立ったようにテーブルを指で軽く叩いた。「そうだよ。結局、何の話なんだ?早く言ってくれ。俺と茜、このあと同窓会にも行かなきゃいけないんだから」私は口元だけで笑った。だがその笑みが目に浮かぶことはなかった。「私と航のことは、あなたが本当に暇になったときに話すよ。もう帰っていい?」航は言葉に詰まった。何か説明しようと口を開いたものの、結局何も言わなかった。数秒の沈黙のあと、少し後ろめたそうな声で言う。「じゃあ、先に帰ってて。同窓会が終わったら、お前が好きなマンゴークレープ買って帰るから。そのときちゃんと話そう」私は軽く手を振って、その場を離れた。伸ばされた航の手も、さりげなく避ける。背後から声が飛んできた。「優奈!明日、お前が好きそうな映画が公開されるんだ。一緒に観に行こう!」私は適当に頷いた。もう、本気にはしていなかった。家に帰ると、すぐに荷物をまとめ始めた。署名済みの離婚届を、一番目につく場所に広げて置く。その上に、自宅の鍵を重し代わりに載せた。そして、振り返ることなく家を出た。車に乗り込んだ直後、スマホが鳴った。画面に表示された名前は、航。私は眉を上げた。同窓会に行くんじゃなかったの?私に電話する暇なんてあったんだ。通話ボタンを押した途端、焦った航の声が耳に飛び込んできた。「優奈、今夜は帰れない。茜のお母さんが急に脳出血で倒れた。手術が必要らしくて、俺も茜と一緒に海外へ行ってくる」思わず鼻で笑った。やっぱりそうなると思っていた。「じゃあ、マンゴークレープは?明日の映画は?私たちの話は、いつするの?」電話の向こうはひどく騒がしかった。それでも、航の声が変わったことだけははっきり分かった。冷たく、苛立ちに満ちた声だった。「お前、医者だろ?脳の手術がどれだけ緊急か分からないのか?人の命がかかってるんだぞ。こんなときまで食べ物の話かよ。話なら帰ってからすればいい」でもあなたが帰ってくる頃には、私はもうここにいない。スマホを握る手に力が入った。堪えていたものが、ついにあふれ出す。「航!茜のことも、茜の家族のことも、いつだって私より大事なの?茜には両親もいる。親戚も友
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第5章
深夜便の機内は、驚くほど静かだった。うとうとしながら、私はあの日、渓が最後に言ってくれた言葉を夢に見た。「今回の一食だけが理由じゃなくて、今までこんな食事が何度も何度もあったからでしょ。優奈、もう自分ばっかり我慢しなくていいんだよ」あの日も私は、きれいな夕焼けを写真に収めた。でも、もう航には送らなかった。くだらない話を添えて、嫌がられるようなこともしなかった。ただスマホのアルバムに保存した。いつかきっと、私のどうでもいい話を笑って聞いてくれて、一緒に夕焼けを眺めてくれる人に出会える、そう信じていた。飛行機が渡航先に着いたのは、現地時間の午前4時だった。まぶたを開けているのもつらいほど疲れていた私は、そのまま医療チームの車に乗り込み、活動拠点へ向かった。簡素なベッドに横になるなり、泥のように眠った。次に目を開けたときには、テントの外から強い日差しが差し込んでいた。時計を見ると、もう正午近い。スマホを充電し、ネットにつないだ瞬間、蜂の羽音のような振動が、途切れることなく鳴り響く。画面には次々と通知が現れ、不在着信の赤い数字がどんどん増えていった。70件以上。そこには、航の名前がびっしりと並んでいた。LINEを開く。未読メッセージは99件以上。渓や両親から届いた心配の連絡も少しあった。だがほとんどは航からだった。おそらく航は、空港で私のSNS投稿を見た瞬間、ようやく何かがおかしいと気づいたのだろう。冷静さを取り戻すにつれて、思い出したのかもしれない。私は医者だ。離婚なんて大事なことを、勢いで口にするような人間ではない。胸騒ぎを覚えた航は、茜に一言断ると、慌てて家へ戻ったらしい。玄関を開けると、家の中は不気味なほど静まり返っていた。「優奈?優奈!」声を張り上げても、返事はない。帰ったら何を言い訳しようかとそんなことばかり考えていたはずなのに、その言葉はすべて喉の奥に消えた。なぜか、胸の奥に嫌な予感が広がっていく。理由の分からない恐怖に突き動かされるように、航は寝室へ駆け込んだ。勢いよくドアを開ける。そこで初めて異変に気づいた。茜と海外へ行く荷物をまとめることばかりに気を取られて、今までまるで気づいていなかった。クローゼットの、私が使っていた半分が空っぽになっていた。残って
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第6章
電話の向こうで、航は諦めきれず、もう一度かけ直した。けれど、さっきまではつながっていたはずの電話から、再び無機質なアナウンスが流れ始める。その瞬間、航はすべてを悟った。力が抜けたようにソファへ崩れ落ち、両手で顔を覆う。そして、声を上げて泣いた。医療支援チームでの毎日は、忙しくも充実していた。毎日、手術をしているか、巡回診療へ向かっているかのどちらか。ベッドに入ればすぐ眠ってしまうほど疲れていて、余計なことを考える暇なんてなかった。仲間たちにも恵まれた。世界中から集まった私たちは、同じ目的のために力を合わせている。ここでは誰も私の過去を知らない。航のことも、茜のことも、誰一人口にしない。私はようやく、本当の自分に戻ることができた。高瀬航の妻ではなく、人の命を救う外科医、篠宮優奈として。渓は二日に一度くらいのペースでビデオ通話をかけてきた。母国であったくだらない話を聞かせてくれたり、航のことを自業自得と散々罵ったりする。両親も、私を責めることは一度もなかった。ビデオ通話のたびに、危ないことはしないでね、ちゃんとご飯食べるのよ、とそればかり繰り返していた。誰かが本気で自分を心配し、大切にしてくれている。その温かさが、胸の奥から少しずつ全身へ広がっていった。なんだ、航がいなくても生きていけるんだ。いやむしろ航がいないほうが、私の人生はずっと穏やかで、ずっと幸せだった。その頃、航は憔悴しきった様子で、私が以前勤めていた病院を訪れていた。ナースステーションにいた小松さんが顔を上げ、航に気づく。だがその表情は冷ややかだった。「篠宮先生ですか?もう退職しましたよ」航がはっと息を呑んだ。瞳が大きく見開かれる。「退職?いつですか?どこへ行ったか、何か聞いてませんか?」「少し前ですよ」そこでようやく小松さんは航を真正面から見た。その目には、隠す気すらない軽蔑が浮かんでいる。「どこへ行ったかまでは知りませんけど。というか、旦那さんなんですよね?そんなこと、どうして他人の私に聞くんですか?ああ、そうでした。今は奥さんより、ほかの女性のことで頭がいっぱいでしたっけ。奥さんが仕事を辞めたくらいじゃ、気づく余裕もなかったんでしょうね」航は何も言い返せなかった。顔が赤くなったかと思えば、今度は青ざめて
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第7章
ブツッと電話は乱暴に切られた。航はスマホを耳に当てたまま、渓から散々罵られたというのに、腹を立てる気力すら湧かなかった。今の彼にあるのは、ただ一つ、私を見つけたい、私に会いたい。そして、ちゃんと伝えたい。後悔している、自分が間違っていたと、ようやく分かったのだと。現地に来て二年目。私はすでに、医療支援チームの中心メンバーの一人になっていた。そんなある日の午後。活動拠点に思いがけない人物が現れた。テントの外に立っていたのは航だった。ひどくやつれている。無精ひげを生やし、目には生気がなく、肌も強い日差しですっかり焼けていた。かつて、自信に満ちあふれていた建築デザイナーの面影など、ほとんど残っていない。だが航がここまで来たこと自体には驚かなかった。渓から聞いていたからだ。航は丸一年かけて、ようやく私がここにいることを突き止めたらしい。仲間たちも異様な空気を察したのか、警戒するように航を囲んだ。私は軽く手を上げ、大丈夫だと伝える。「ここじゃ話しにくいから。少し先にカフェがある。一度きちんと話をするべきね」午後の日差しは目が眩むほど強かった。私はコーヒーを頼まず、氷水だけを注文した。航は、グラスを持つ私の手をじっと見つめていた。何か言おうと唇を動かしたが、私は先に口を開いた。「去年の冬、私が夜勤中に患者さんの家族に突き飛ばされて、腕を骨折したこと、覚えてる?あなたに電話したよね。でも航は、茜が雷を怖がってるから離れられないって言った。同僚に頼めばいいだろって」航の顔から一気に血の気が引いた。目が赤くなり、震える声でようやく言葉を絞り出す。「……ごめん」私はその謝罪には答えず、淡々と続けた。「2軒目の家をリフォームしたときのことも覚えてる?茜がたまに泊まりに来るから、茜の好きなインテリアにしたいって言ったよね。3年目の結婚記念日は?忙しいから私とは食事できないって断ったのに、茜とは私が予約したレストランに行った」そこで一度、言葉を切った。目の前に座る、かつて誰よりも好きだった男を見る。なんだか不思議な気分だった。「航。私があなたを追いかけてた5年間のこと、覚えてる?あの頃は、一日に何百通もメッセージを送り合ってたよね。仕事で忙しくても、航は時間を見つけて返事をくれた」私はわずかに口元を上
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第8章
「いま私、幸せなの。毎日、人の命を救って。同じ志を持つ仲間たちに囲まれて。もう誰かの好みに合わせる必要もないし、誰かの顔色をうかがって生きる必要もない。航。私、もうあなたのこと好きじゃないの」その言葉を聞いた瞬間、航の体から、最後に残っていた力まで抜け落ちたようだった。がっくりとうなだれ、顔を涙で濡らしながら、それでも必死に言葉を重ねる。「……いいんだ。大丈夫だよ、優奈。俺、待つから。いつかお前が帰りたいって思ったときまで、ずっと待ってる。俺はここにいるから」もうそんな後悔の言葉を聞く気にはなれなかった。私は立ち上がり、そのままカフェのドアを押し開けた。あの日から、航は活動拠点の近くに残った。小さな部屋を借り、毎日のように医療チームの拠点までやってくる。朝食を届けたり、水を持ってきたり、医療機材を運ぶのを手伝ったりもした。茜とはもう完全に縁を切ったという。国内にあった2軒の家も売り払い、もう戻るつもりはないらしい。自分が変わったことを証明するように、メッセージも次々と届いた。私は一度も返事をしなかった。その言葉は風のようにスマホへ流れ込み、やがて埃のように、何の痕跡も残さず積もっていった。私は変わらず決まった時間に働き、手術をした。仲間たちと巡回診療へ向かい、一緒に夕日を眺めた。航はまだ、過去の中でもがいている。でも私はもう、ずっと先を見ていた。それからさらに1年、再び雨季が訪れた頃、医療支援チームでの任期が終わった。私は荷物をまとめ、母国へ帰る準備をしていた。そのことを知った航は、朝早くから活動拠点の入り口で待っていた。手には、私が昔から好きだった白いバラの花束。花びらには、まだ雨粒が残っている。「優奈、俺も一緒に帰国する。今はまだ俺に会いたくないのも分かってる。いいんだ。待つから。いつか許してもいいと思えたとき、そのときにまた会いに行く」私は航の持つ白いバラを見て、静かに首を横に振った。「航、もうやめて。次の医療支援にも参加することにしたの。私はあと2年ここに残る」航の手から花束が落ちた。ぽとりと地面に落ちた白いバラはばらばらに崩れ、雨に打たれて見る影もなく濡れていく。航は信じられないものを見るように、私を見つめた。「どうして?あとどれくらいここにいるつも
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