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第7話

Author: 小川
澪がドアを押し開けると、二人は同時に顔を上げた。

「白川先生?」杏が先に口を開き、眉を吊り上げた。「どうしてここに?地方へ行くんじゃなかったの?」

しかし、澪は杏に視線を向けず、隼人だけを見据えた。

「山下さんの案件、なんで手を引いたの?」

隼人は書類を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかった。「杏が言っていた件か?」

「なぜ手を引いたのかって聞いてるの」

しかし、隼人は淡々としていた。「あの事件は債権回収の難易度が高いし、事務所のリソースも限られているからな。実質的な利益を生む案件を優先するのは当然だろ」

「回収の難易度が高い?」澪は隼人を睨みつけた。「証拠は完全に揃っていて、法的関係も明白だし、未払いの事実も確定している。これでも難易度が高いって言うの?」

横から杏が軽く鼻で笑った。「白川先生、分かってないわね。業者が夜逃げしてるのに、判決が出たって何の意味があるの?ただ無駄に労力を使うだけじゃない」

澪は杏を無視する。

「もう契約を結んで、委任だって成立してたんだよ?だから、あなたに一方的に解除する権利なんてないの」

隼人が立ち上がった。「澪、少し冷静になれ」

「私は至って冷静だけど」

澪は数歩進み、隼人の目の前に立つ。

「山下さん、53歳。奥さんは尿毒症で週2回の透析治療を受け、息子さんは大学に入ったばかりで学費も借金でなんとかしてる。山下さんの半年分の給与は96万円。だけど、彼はそのお金だけを頼りに借金を返し、奥さんの治療費を工面しようとしていたの」

隼人が答えた。「知っている」

「いいえ、あなたは分かっていない」澪は一字一句噛み締めるように言った。「96万円が、山下さんたちにとってどれほどの重みを持つのかを……

彼はバス代すら惜しんで、毎日1時間も歩いて事務所に書類を届けに来ていた。

私に電話をかけてくる時も、終始迷惑じゃないかって謝り続けていたことも、あなたは知らない」

杏が横で口を尖らせる。「貧乏人っていつもそうよね。すぐに不幸自慢をして……」

「黙って」

澪は杏を振り返って睨みつけた。

杏は一瞬呆気に取られ、信じられないという顔をした。「今、なんて言ったの?」

「黙ってって言ったの」

オフィスの中が、数秒間静まり返る。

杏は顔を真っ赤にしながら、隼人に縋り付いた。「隼人、聞いた?今の言葉!」

隼人が眉をひそめた。「杏に悪意は無い」

「ええ、分かってる」澪は隼人を見据える。「彼女は理解できないだけ。そして、あなたも理解できないだけなの」

澪は少し言葉を区切った。

「あなたたちの言う善良さとは、高い所から見下ろし、施すものであって、自分たちの気分に影響しない範囲での慰めに過ぎない。

けど、知ってる?字もまともに読めない山下さんが、あの書類を書き上げるために、なけなしのお金で人に2回もご飯を奢って、助けてもらっていたことを。なぜなら、彼は『弁護士は紙に書かれた証拠しか信じない』と聞いたから」

隼人は数秒沈黙した後、言った。「この案件は、誰かに引き継がせるよ」

「その必要はないから」

澪は一歩後ろへ下がる。

「私が自分でなんとかするから」

澪は背を向け、オフィスを出て行った。

事務所のドアを出る頃には、空はすでに暗くなっていた。

風は少し冷たく、なぜだか目頭を微かに熱くさせる。

澪は道端に立ち、ある番号に電話をかけた。

呼び出し音は長く鳴り続け、ようやく繋がった声には眠気が混じっていた。「もしもし?こんな夜更けに誰だよ……」

「石田先生、私よ」

「白川先生か?」石田拓海(いしだ たくみ)の声が一瞬にしてはっきりとした。「電話なんて珍しいな。地方の法テラスに行くって聞いたぞ?」

「一つ、お願いしたい案件があるの」

「なんだ?」

「未払い給与の回収。被告の業者は逃亡中だけど、証拠は揃っていて、居場所の特定もできる。でも、私が発つまでに結審できないから、引き受けてもらえないかな?」

拓海は2秒ほど黙り込み、「よし。明日、依頼人にこっちへ連絡させろ」と答えた。

「ありがとう」

「礼なんかいいから。今度飯でも奢ってくれ」

電話を切った澪は、しばらく道端に佇んでいた。

街灯が灯り始め、行き交う車の波。仕事を終えて家路につく者、急いで待ち合わせに向かう者。

夏美の車がマンションの前に停まっており、遠くから彼女が手を振っているのが見えた。

「どうして電話に出ないのよ?」夏美が駆け寄ってきた。「10回以上もかけたのに!」

澪はスマホを取り出して確認する。

そこには17件の不在着信があった。

「行こう」

夏美が呆気にとられて尋ねる。「行くってどこに?」

「空港。フライトを変更したの」
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