로그인「分かった。君が俺のそばから離れないでいてくれるなら、何でもする」プライドの塊だった神崎蓮が、ついに頭を下げた。誰かに屈した経験など一度もない彼が、私を取り戻すためなら何でもすると誓ったのだ。こうして、彼の必死な「罪滅ぼし」の日々が始まった。包丁すら握ったことのない蓮は、毎朝早く起きて私のために料理を作り始めた。不器用な手つきで指を何度も切り、作った料理が不味くて私が怒っても、彼は一切言い返さない。そうして努力を重ねた蓮は、ついに満足のいく料理を完成させ、嬉しそうに私の練習部屋へと届けてきた。しかし、扉を開けた彼が目にしたのは、私と神木が距離を詰めて親しげに練習している姿だった。「あ、ちょうどいいところに来たわね。写真を撮ってくれる? SNSに載せたいから」蓮の顔が引きつる。かつて彼が玲奈と仲良くし、私に酷い痛みを味わわせたあの光景。それと全く同じ苦しみを、今、彼はカメラのレンズ越しに突きつけられているのだ。「何でもできるんじゃなかったの? やらないなら帰って」私の冷酷な言葉に、蓮は感情を押し殺してシャッターを切った。その瞬間、彼は自分が私に与えていた過ちの深さをようやく理解したのだろう。撮影が終わり、私は彼が作ってきたお弁当に視線を落とした。「どうして一人分しかないの? 私の友達はお腹を空かせていてもいいってこと? それに……どうしてナスが入っているの? 私はナスが大嫌いよ、知らなかった?」そう言い捨てると、私はお弁当箱を床へと投げ落とした。ガシャン、と重い音が響く。蓮は昔、私が「ナスが好き」と言ったことを覚えていただけだった。けれど、それはかつて彼の好みに合わせようとしてついた、私のささやかな「優しい嘘」に過ぎない。しかも、そのお弁当箱は自動加熱式だったため、落ちた衝撃で激しい熱気が噴出し、蓮の手に赤く腫れ上がるほどの火傷を負わせた。「まあ、もう演技を始めたの? 痛いなら早く病院に行けば? 」私が冷たく言い放っても、蓮は何も言い返さなかった。こうなった原因は全て自分にあると思い知らされ、強い罪悪感に苛まれていたからだ。「大丈夫だ……。俺が片付ける。落ちた料理を片付けて、薬を塗ればいい」火傷の痛みに耐えながら、彼は絞り出すような声でそう言った。私はそんな彼に一切の情けをかけることなく、お弁当箱を見下ろしたまま
「残りの情報については、音楽会が終わった後に教える。それまでは大人しくしろ」神崎家の当主から提示されたのは、海外にいる「人物A」に関するごく一部の情報だけだった。私が「新曲お披露目を兼ねたチャリティー音楽会」の開催を発表したことで、玲奈の成りすまし騒動は一気に沈静化した。当主はその音楽会を神崎家の威信回復に利用しようと考え、終わるまで私をコントロールしようと浅はかな駆け引きを仕掛けてきたのだ。だが、私があの男の言葉をそのまま鵜呑みにするはずもない。私は裏で手回しを行い、信頼できる恩師とお兄様に人物Aについての独自調査を依頼した。すると、すぐにお兄様から驚くべき報告が届いたのだ。『音羽、例の人物Aだが……10年前に、すでにおばあ様と直接の接点があったことが分かったよ』当主が隠していた真実の一端。祖母のヴァイオリンを巡る過去の因縁は、私が考えていたよりも遥かに深く、神崎家と複雑に絡み合っているようだ。当主の誘導を完全に見破った私は、次なる罠を仕掛けるべく静かに思考を研ぎ澄ませていった。一方、急遽開催が決まったこのチャリティー音楽会は、私にとっても非常に重要な意味を持っていた。世間の醜い騒動を上書きし、本物の『名前のない音』としての圧倒的な存在感を満天下に知らしめるための完璧なステージ――。その準備を着々と進めていたある日、練習部屋を訪れた神木仁が、不敵な笑みを浮かべながら提案してきた。「当日、俺も一緒にステージに立ってもいい?」「……ええ、もちろん」私は彼の申し出をあっさりと受け入れた。神木の存在は、神崎家や蓮を揺さぶるための極めて有効な駒となる。こうして、私と神木は二人きりで密密な合奏練習を重ねるようになった。だが、この状況に誰よりも狂わされていたのは蓮だった。私が彼の父親を牽制した通り、今の蓮は私への激しい罪悪感と「過去の自分の過ちで、音羽を完全に失ってしまう」という猛烈な恐怖に支配されている。私が自分を赦してくれない焦りと、かつて自分が『影』として扱っていた私が、今や自分以外の魅力的な男と信頼を深め合っていることへの激しい嫉妬。その歪んだ情熱が、彼の精神を破滅寸前まで追い詰めていたのだ。ある日の練習後、神木が立ち去った直後の部屋へ、蓮が血相を変えて駆け込んできた。かつての高慢な神崎家のトップの面影などどこにもない。
神崎家の応接室に駆け込んできた蓮は、私を守ろうと必死な形相で私と父親の間に割り込んできた。かつて私を「ゴミ」のように見下していた男が、今や全財産や立場を投げ打ってでも私を引き止めようと必死になっている。ただの地味で無能な令嬢だと思っていた私が、世界を魅了する天才バイオリニストであり、なおかつこれほどまでに底知れぬ意志を持っている。私の本当の身分は、ただ者ではないのではないか――。危険を察知した当主は、私を蓮から完全に引き離すため、新たな一枚のカードを切ってきた。「そのバイオリンは、海外のどこかにあると聞いている。……この人物に連絡しろ。彼なら、お前に本当の置き場所を教えてくれるはずだ」当主は一枚のメモをテーブルに滑らせた。そこには、海外に拠点を置く謎の人物――新たな協力者か敵かの名前が記されていた。「俺の条件を飲んでくれるなら、その人物の連絡先を今すぐ教えてやる。西園寺家との騒動を収め、玲奈のために弁明しろ」祖母の形見という最大の弱みを握られ、私はしばしの間、静かに葛藤してみせた。当主の思惑通りに動くフリをし、彼の提示した条件を飲む答えを口にする。「……分かりました。必要なのは、この騒動を収めることだけですよね?」当主は満足そうに浅く頷いた。けれど、それは私の表面上の譲歩に過ぎなかった。私は玲奈の罪を覆い隠すための虚偽の説明など、最初からするつもりはなかったのだ。翌日、私はメディアの前に立ち、玲奈のための言い訳ではなく、より世間の注目をさらっていく巨大な話題を発表した。「近いうち、新曲のお披露目も兼ねた大規模な個人音楽会を開催いたします。本物の演奏を、皆様にお届けします」世界的なバイオリニストによる音楽会開催のニュースは、一瞬にして世界中を駆け巡った。玲奈の成りすまし騒動という醜いスキャンダルは、圧倒的な「本物の音楽会」への期待と熱狂の渦によって、一気に過去のものとして押し流されていったのだ。私の打った一手により、神崎家のメンツも表面上は保たれ、当主も文句を言えない状況を作り出した。その後、神崎蓮の私に対する態度は劇的に変化した。彼はいまや全力で私を取り戻そうと、過去の過ちを死に物狂いで償い始めていた。私が望むもの、欲しがるものすべてを手配し、私に許しを乞うために必死に尽くす蓮。その息子の狂乱とも言える変貌ぶりに、当主
学園祭でのあの大騒動から一夜が明け、神崎家の本邸は重苦しい静寂とピリピリとした緊迫感に包まれていた。重厚な応接室で私を待ち受けていたのは、神崎蓮の父親――神崎トオルだった。冷酷な眼光で私を射抜く彼の表情には、底知れない怒りが渦巻いている。「音羽……お前がしでかした狂言のせいで、神崎家と西園寺家の長年の信頼関係は完全に破綻した。どれほどの損害が出たと思っている」当主は低い声で私を責め立て、テーブルを強く叩いた。しかし、かつての私なら恐怖で身をすくませていたであろうその威圧も、今の私には一切通用しない。私は背筋を伸ばしたまま、冷ややかな瞳で静かに彼を見つめ返した。すると、当主は口元を歪め、不敵な笑みを浮かべながら懐から一枚の写真を取り出した。そこに写っていたのは、亡き祖母が大切にしていた、行方不明のヴァイオリンに関する手がかりだった。「音羽、お前が探し続けているそのバイオリンの行方は、もう分かっている。今回の騒ぎを収め、大衆の前で西園寺家との誤解だったと撤回するなら、その所在を教えてあげるよ」私を操るための卑劣な脅迫。しかし、当主の言葉はそれだけに留まらなかった。「それから、お前のその『名前のない音』のアカウントだ。世界的に有名になろうが関係ない。我が家の力を以てすれば、そちらには、お前を潰す手段もいくらでもあるのだからな」家族の絆や大切な思い出までをも踏みにじり、力で全てをねじ伏せようとする神崎家の傲慢さ。私は静かに立ち上がると、脅しに屈するどころか、当主の目を正面から強く睨み返した。「どうぞ、お好きなように。ですが、私が一度放った真実を消し去ることなど、誰にもできません。祖母のヴァイオリンも、私自身の力で必ず取り戻してみせます」一歩も引かない私の態度に、当主の顔が怒りで引きつる。互いに譲らぬまま、部屋の中には鋭い殺気を含んだ沈黙が流れた。もはや、私と神崎家を繋ぐ理不尽な鎖は完全にちぎれ飛んでいたのだ。一方、その頃。学園の旧校舎の裏手では、打ちひしがれた神崎蓮の前に、転校生の神木仁が立ち塞がっていた。事件以来、魂を抜かれたように彷徨っていた蓮は、神木を激しい憎悪の目で見つめる。しかし、神木はそんな蓮の視線をあざ笑うかのように、優雅に肩をすくめてみせた。「哀れだね、神崎先輩。世界を魅了する本物の旋律を毎日のように隣で聴いて
騒乱の極みに達したステージの上で、私はただ一人、凛として立ち尽くしていた。無数のカメラのフラッシュが激しく焚かれ、メディアの記者たちが一斉にマイクを突き出してくる。「音羽さん! あなたが本当に『名前のない音』なんですね!?」「神崎家でのあなたの立場は!? 西園寺玲奈の嘘はいつから……!?」浴びせられる質問の嵐。かつては私を「神崎蓮の影」としてしか見なさず、名前すら覚えようとしなかった大人たちが、今や私の言葉一つを逃すまいと飢えた獣のように群がっている。私は彼らに向かって、冷ややかな、けれど完璧に計算された微笑みを向けた。「皆様、どうか落ち着いてください。私が『名前のない音』として活動していたのは、神崎家や西園寺家とは何の関係もない、私個人の意志です。ただ……」私はそこで言葉を切り、床に崩れ落ちたままピクリとも動かない玲奈へと視線を落とした。「西園寺さんが、私の名前を騙ってまであのような大舞台に立とうとされたことは、とても悲しく思っています。私の技術や楽譜、そして手のタコの位置まで執拗に調べ上げて模倣しようとしていた彼女の“努力”は、認めざるを得ませんが……」「違う……! 私は、私は……っ!」玲奈は床に涙と泥をまみれさせながら、掠れた声で 絶望の悲鳴を上げた。しかし、私の「慈悲深い被害者」としての完璧な振る舞いの前では、彼女の言葉はただの狂人の戯言にしか聞こえない。メディアの記者たちは一斉にノートにペンを走らせ、「西園寺玲奈、計画的な成りすまし発覚」という最悪の速報を世界へと発信し始めた。 西園寺家の誇りと名誉は、今この瞬間、完全に社会的死を迎えたのだ。しかし、真の処刑を受けるべき男は、まだそこにいた。ステージの下、最前列で魂を抜かれたように立ち尽くしている神崎蓮。彼の瞳は完全に光を失い、焦点の合わない目で私を見上げていた。その全身は小刻みに震え、呼吸をすることすら忘れたかのように胸が浅く上下している。私はゆっくりとステージの縁へと歩みを進め、蓮のことを見下ろした。かつて、私が何度も何度も、すがるような思いで見上げていた彼の瞳。その高慢な双眸に、今はじっとりと、ドロドロとした絶望と恐怖の色が張り付いている。「蓮」私がその名を呼ぶと、蓮の身体がビクリと跳ね上がった。「私が『カラオケボックスで一人で練習していた』と言ったあの
割れんばかりの歓声に包まれていた会場は、一瞬にして凍りついた。バックスクリーンに映し出された生映像――ステージの裏側で、漆黒の仮面を被り、鬼気迫る表情でヴァイオリンを掻き鳴らす私の姿。そして、目の前のステージで、ただ弓を虚しく動かしていただけの西園寺玲奈の姿。そのあまりにも残酷な対比を前に、会場は三秒間、完全な静寂に包まれた。「……え?」「嘘、でしょ……?」観客たちの脳が、目の前の現実を拒絶するようにフリーズする。しかし、次の瞬間、静寂を切り裂くようにして、嵐のような怒号とどよめきが沸き起こった。メディアのフラッシュが、まるで濁流のように玲奈の青ざめた顔を白々と照らし出す。「偽物……!? 玲奈様が、偽物だったの!?」容赦のない糾弾の声がステージに突き刺さる。その瞬間、西園寺玲奈は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。手にしていたヴァイオリンが、床に虚しい音を立てて転がる。彼女が被っていた偽物の仮面もまた、床へと落ちて虚高なプライドと共に砕け散った。「あの女……! 私を、私を嵌めたのね……っ!」玲奈はガタガタと全身を震わせ、涙と脂汗でドロドロになった顔を床に擦り付けながら、狂ったように叫んだ。「最初から私を陥れるつもりだったんだわ……! 私を騙したのよ!」醜く叫び散らすかつての女王。しかし、自ら「私こそが本物だ」と嘘を吐き、この断頭台へ上がったのは他でもない彼女自身だ。自業自得という名の鎖が、彼女の四肢を冷酷に縛り付けていた。客席がパニックに陥る中、ステージの袖から、私はゆっくりとした足取りで歩み出た。私の手には、祖母の形見である、古びた、けれど至高の輝きを放つヴァイオリン。仮面を外し、私はありのままの姿を晒した。私の登場に、騒然としていたメディアのカメラが一斉にこちらを向き、無数のレンズが私を射抜く。蓮が、そして全校生徒が、息を呑んで私を見つめていた。私はマイクの前に立つと、会場全体を見渡しながら、静かに、けれど凛とした声を響かせた。「先ほどの曲を演奏していたのは、私です。西園寺さんの手は……今日も“少し調子が悪かった”ようですので」嫌味なほどの慈悲を込めた私の言葉に、会場は再び騒然となった。誰もが、これまで「無能な影」として見下していた私が、世界を熱狂させた本物の天才バイオリニストだったという事実に直