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第6話

Author: こがね
明弘の表情に波風は立たなかった。

権力を握ることに慣れ、感情を隠すことにも慣れている。だが今、眼下のわずかな痙攣を抑えることはできなかった。

その言葉はあまりに耳障りだった。

奈々美はいつだって、明弘にとって最も耳障りな言葉を知っている。

「どうしても、そんな口の利き方しかできないのか」

「じゃあ、どう話せば満足なの?」

視線がぶつかり合う。

かつての野良犬と高貴な令嬢。その立場は、今や残酷なまでに逆転していた。彼女は天上から泥沼へと堕ち、彼は権力の頂に君臨する男となった。

奈々美の目には相変わらず愛も憎しみもなく、あるのは皮肉だけ。

「荒井さん!」

その時、左側の道路でピンクのスーパーカーがクラクションを鳴らした。窓が下がり、先ほどの会食にいたあの娘、明美が書類を振った。

「お忘れ物ですよ」

奈々美はそちらを一瞥し、視線を戻した。再びあの穏やかな態度に戻っていた。まるで先ほどの攻撃的な態度が幻覚だったかのように。

「深夜に私をつけてきた理由なんて聞きたくない。昔のことはすべて、とうに終わった話だもの。

でも荒井さん、これからは自重してちょうだい。ご自身の品位を落とさないで。私みたいな足の悪い女と関わってるなんて知られたら、世間の笑い者よ。

……ま、とにかく。今日はありがとう」

彼女は無表情で唇の端を上げ、ニット袋から牛乳のパックを一本取り出して彼に渡した。

「お礼よ。じゃあ」

そう言うと奈々美は背を向け、傘を差して歩き去った。

何事もなかったかのように。

車を停めた明美が書類を抱えて小走りに駆け寄り、遠ざかるあの地味な女性の後ろ姿を二度見した。どこか見覚えがあるが、思い出せない。

「お届け物です。私はこれで失礼します。寒いですから、風邪ひかないでくださいね」

明弘の表情は暗く読み取れず、まだあの遠ざかる人影を見つめているようだった。

地下鉄は確かに止まっていた。

奈々美は交差点を出た後、タクシーを拾った。

運転手が世間話をする。

「今年の雁取市の天気は本当におかしいですね。数日前まで半袖だったのに、ここ数日はダウン着てる人もいますよ」

彼女は窓の外を流れる景色を見ながら、「そうですね」と応じた。

実は、さっきのような場面には慣れていた。

ハストン王国に渡り肺結核を患った時期、路上生活は危険で、男につけられることもしょっちゅうだった。

奈々美は割れた酒瓶を強く握りしめ、激しく咳き込みながらも、必死に凶悪な形相を作って男たちを怒鳴りつけた。足を引きずりながら後退し、空中で瓶を振り回し、狂人のように振る舞って彼らを退けた。

あんな時を乗り越えたのだから、もう怖いものなんてない。

ネオン輝く夜景、街灯が濡れた路面に極彩色の光を映し、車が水を跳ね上げていく。

タクシーの後ろを、付かず離れずついてくる黒塗りの車があった。

時間が経つにつれ、運転手も気づいた。

「後ろのあのレクサス、何なんですかね?あんな大社長の車が、仕事もせずずっとついてくるなんて」

奈々美はさらりと言った。

「私に惚れて、ストーカーしてるのかも」

運転手は震え上がり、精神を集中させ、三回交差点を曲がってようやく車がついてこなくなったのを確認してから、目的地へと急いだ。ストーカーも怖いが、レクサスのストーカーはもっと怖い。

車が文苑レジデンスに停まり、奈々美は降りた。

通りの向こうの遠く、あのレクサスLMがいつの間にかまたそこに現れており、Uターンしようとしたタクシー運転手は肝を冷やし、アクセルを踏んで逃げ去った。

その車はその場に停まったまま、どれくらい経っただろうか。

手元には場違いな牛乳パックが一本。明弘の視線は車内に沈んでいる。

「あの男」

助手席の政彦が、即座にその意図を察した。

「法に則って、警察に処理させます。ご安心を」

明弘は淡々と目を上げ、彼を見た。法とは別の意味を含んだ目だった。

深夜、人目につかない場所。

あの男は酒を大量に飲まされ、泥のように酔っ払っていた。明弘は大股で彼の前に歩み寄り、黒い革靴が男の視界の先の地面で止まる。

男が鈍く顔を上げ、目の前の人物の顔を見る間もなく、腹部に重い衝撃が走った。拳がまるで鉄槌のように胃にめり込み、激痛で脳が炸裂しそうになる。男は苦痛に呻き、乱れた風の音と枯れ葉の音がカサカサと響く中、のたうち回った。

明弘は顔色一つ変えず、崩れ落ちる男の肩を片手で掴む。濃い茶色のコートの影が街灯の下で斜めに伸びる。

政彦が明弘に仕えて以来、彼が自ら手を下すのを見たのは、これが初めてだった。

一瞬呆気にとられ、自分が割って入るべきだということすら忘れて立ち尽くした。

明弘が手を離すと、男は泥のように崩れ落ち、錆びついた機械が軋むような、掠れた呼吸音を漏らした。彼は静かに手袋を脱ぎ捨てた。

……

冷たい風に吹かれたせいか、奈々美はその数日、頭痛に悩まされていた。

秋冬は骨が脆くなりやすく、転倒による骨折患者が増える。医局は戦場のような忙しさだった。

そんな中、二週間が慌ただしく過ぎ去った。

月曜日。

奈々美は数人の医師を連れて回診に回っていた。

432号室。ここの患者は妊婦だ。骨折箇所が骨盤に近いためリスクが高く、先日、麻酔科、整形外科、産婦人科の合同手術を行ったばかりだ。幸い母子ともに無事だった。

病室に入ろうとした時、怒鳴り声が聞こえてきた。

「あんた気でも狂ったの?この二週間どこ行ってたのよ!電話も繋がらないし姿も見せないし、やっと戻ってきたと思ったら、もうすぐ生まれそうな妻を転院させるですって?

それにその顔はどうしたの、どこで転んでそんなになったのよ!」

妊婦の母親が怒りに震えている。

だが男は歯を食いしばり、うつむいたまま繰り返すだけだ。

「行くぞ、さっさと行くぞ、別の病院へ……」

奈々美が医師たちを引き連れて入室した。

男の顔は青紫に腫れ上がり、痣だらけで、なぜか足を引きずっている。

奈々美の姿を見た瞬間、男の体がビクリと震えた。彼はベッドの上の妊婦を無理やり引きずり下ろそうとした。固定具などお構いなしだ。虚弱な妊婦は激痛に冷や汗を流し、行きたくないと泣きじゃくる。

「ここを病院だと思ってるの?何してるのよ!」

蛍子が顔を強張らせて止めに入った。

「警告しますけど、警察に通報する義務があるんですよ」

「通報だと!?何の権利があって通報するんだ。俺が入院させないと言ったらさせない、妻を連れて帰って何が悪い!ここは悪徳病院か……」

その言葉に触れたのか、男の顔色は青ざめたり白くなったりし、逆上して手を出そうとした。

奈々美が前に出て、蛍子を背に庇った。

彼女を見ると、男は急に後ろめたくなったのか、目を合わせられずにうつむいた。

「いかなる暴力行為であれ、発生すれば通報は我々の義務です。もちろん、ここが悪徳病院だと思うなら、あなたが警察に通報してもいいんです。それはあなたの権利ですから」

奈々美は彼を見据え、一言一句はっきりと告げた。

「奥さんは臨月間近です。転院はリスクが高すぎます。よく考えなさい。もし何かあれば、再手術での回復率は保証できないし、リハビリにかかる時間と費用はあなたが一番よくわかっているはずです。

同時に、お腹の子供が無事でいられるかどうかも考えるべきです」

妊婦の母親がついに我慢できなくなり、泣きながら男を叩き、気でも狂ったのかと罵り始めた。

「誰も行かないなら、俺が行く!俺一人で行く、それでいいだろ!」

男は捨て台詞を吐いてドアを蹴り開け、泣き崩れる妻と義母を残して去っていった。

人間とは奇妙な生き物だ。

他人を傷つけたのは彼なのに、誰よりも恥じ入り、怒り、まるで自分が被害者であるかのように振る舞うのだから。

奈々美は男が去るのを静かに見送った。

回診を終え、エレベーターで下りる際、蛍子が言った。

「さっき三階の石塚(いしづか)先生から聞いたんですけど、あの男、悪友と飲みすぎて喧嘩して、十日ほど留置所に入ってたらしいですよ。だから最近顔を見せなかったんですね。

さっき医長が止めてくれなかったら、私、あいつと殴り合いになってましたよ!

あんな男、どうせ内弁慶のクズですよ。男らしさを自分の奥さんに使ってどうすんの、バカみたい……むぐ」

言い終わらないうちに、奈々美が手動で彼女の口を閉ざした。

エレベーターのドアが開く。奈々美は蛍子の口を塞いだまま、ドアの外にいる男の子に尋ねた。

「入院病棟に行くの?」

和紀の病気はもう治っているし、薬を取りに来ることも、もう随分となかったはずだ。奈々美は彼を見て少し意外に思った。

彼は小さなリュックを背負い、首を横に振った。

「じゃあ、どうしてここに?」

和紀は顔を上げて彼女を見つめた。

「あなたを探しに来たんです」

奈々美の動きが止まる。

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