「明弘様、奥様よりお尋ねです。『今夜はお時間ありますか、和紀様を連れて一度お顔を見せに来てはくれないか』と」「状況次第だ」会議を終えたばかりの荒井明弘(あらい あきひろ)は、病院のロビーへと足を踏み入れた。季節は秋。小児インフルエンザの流行期だ。院内は額に冷却シートを貼った子供たちで溢れかえり、至る所からゴホゴホと咳き込む音が聞こえてくる。明弘は通話を切り、視線を巡らせた。ようやく待合椅子に座り、薬の受取番号が表示されるのを待っている息子・荒井和紀(あらい かずき)を見つける。歩み寄ろうとした時、和紀のそばにしゃがみ込んでいる、ある女医の姿が目に留まった。白衣越しでも分かる痩せた背中。無造作に束ねたミディアムヘア。あまりにも見慣れた背中だった。何年も会っていないはずなのに、その影ひとつで、明弘の足は釘付けになる。女は昔と変わらない穏やかな目元で、声を潜めて和紀に問いかけていた。「どうしてまた一人で、薬ができるのを待ってるの?ご家族は?」七歳になる和紀は、まるで人生を何周もしたかのような落ち着き払った様子で座っていた。「父なら今着きました。先生の後ろに」桑原奈々美(くわばら ななみ)の動きがわずかに止まる。振り返った彼女の視線が、そのまま明弘のそれと衝突した。目が合う。それは、あまりに長い時を隔てた対峙だった。彼女も一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに平然とした表情に戻り、立ち上がった。長年の空白などなかったかのように、挨拶ひとつよこさない。奈々美はただ医師として事務的な態度を崩さず、まるで過去の愛憎など、すべて過ぎ去った雲か霞であるかのように、両手をポケットに突っ込んで言った。「これほど小さいお子さんを、院内で一人にするのは避けてください。危険ですし、医者たちも四六時中見守れるわけではありませんから」明弘は彼女を見つめたまま、言葉を発しない。「桑原先生、ちょっと来てください!」同僚の医師に呼ばれ、奈々美は短く応じると踵を返した。「今行く」言い終わるとすぐに立ち上がり、外来の方へ歩いていく。立っている時は目立たなかったが、早足になるとその歩行の違和感が露わになる。右足が、わずかに不自由そうに引きずられていた。明弘のまぶたがピクリと跳ねる。その表情は深く、重苦しい。
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