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第3話

Penulis: 梓
法律事務所は家からそう遠くなかった。

弁護士の高橋誠(たかはし まこと)は私が持参した資料に目を通し終えると、顔を上げて尋ねた。

「浅倉さん。本当に離婚されるおつもりで間違いありませんか?」

「はい。決意は変わりません」

「神谷さんが同意されない場合、手続きが長引く可能性があります」

「構いません」

私は少し間を置いてから、静かに続けた。

「彼に急いでサインしてもらおうとは思っていません。彼はいつも、私が待つものだと思っているんです。だから……彼にも一度、待つ側を経験してもらおうと思います」

誠は少し意外そうな表情を浮かべた。

法律事務所を出ると、空はどんよりと曇っていた。

その時、研からメッセージが届いた。

【寧々さんが低血糖で倒れて、点滴が終わるまで付き添う】

数分後、またメッセージが届く。

【夜、帰って一緒に飯を食べよう。君の好きなスペアリブを買って帰る】

私は長い間、画面を見つめていた。

彼はいつもそうだった。先に私の心を傷つけておいて、後から食事ひとつで機嫌を取ろうとする。

まるで、自分が埋め合わせさえすれば、私がなぜ傷ついたのかなんて忘れるべきだと言わんばかりに。

家に着いた時、研はまだ帰っていなかった。

私は書斎へ入り、自分のパソコン、カメラ、仕事の資料を段ボールに詰めた。

本棚には、分厚い旅行アルバムが1冊あった。

最初のページには、付き合い始めた頃、一緒に海へ行った時の写真が貼られている。

あの頃、研は私を抱きしめながら言った。結婚したら、毎年違う街へ連れて行く、と。

その後、彼は本当にたくさんの街へ行った。

ただ、その隣にいたのは、ほとんど私じゃなく、寧々だった。

寧々は寒がりだからと、彼は彼女を南浜市へ連れて行き、砂浜で日光浴をさせた。

寧々が失恋した時には、古城市へ気晴らしに連れて行った。

私が一度「海が見たい」と言った時、彼はいつも「忙しい仕事が落ち着いたら」と答えるだけだった。

そして仕事が落ち着いた後には、今度は寧々のことがあった。

私はアルバムを閉じ、段ボールの一番下へしまった。

……

夕方6時。

研が帰ってきた。

手にはスペアリブと果物の袋を提げていて、家に入ってきた時には笑顔さえ浮かべていた。

「腹減っただろ?寧々さんには先に帰ってもらった」

まるで自分が何かを成し遂げたような口調だった。

でも私は、彼のシャツの袖口に薄い口紅の跡がついていることに気づいた。

私が使っている色ではなかった。

研は私がまとめた段ボールには気づかず、スペアリブをキッチンへ置いた。

「寧々さん、今日はちょっと情緒が不安定でさ。ずっと迷惑をかけてるんじゃないかって気にしてたよ。あいつ、本当はすごく気を遣う人なんだ。それに、早く帰って君のそばにいてやれって言ってた」

私は彼を見た。

「そう?」

「もちろんだよ」

研は振り返って答えた。

その瞬間、私は突然、ひどく馬鹿らしく感じた。

寧々は私の記念日を奪った。

本来なら私のために使われるはずだった時間を奪った。

それなのに、まるで施しを与えるように、研を数時間だけ私のもとへ返してくる。

そして研は、それすら彼女の優しさだと思っているのだ。

その時、スマホが鳴った。

誰からかなんて、考えるまでもなかった。

寧々からだった。

研はすぐに電話に出た。

電話越しに、泣き声混じりの彼女の声が聞こえた。

「研さん……うちに、誰か入ったみたい」

研の顔色が一瞬で変わった。

「家に入るな。すぐ行くから」

彼は上着を掴み、出て行こうとした。

私は彼を呼び止めた。

「研」

彼の足が止まる。

「また何だよ」

「スペアリブ、まだ作ってないわよ」

彼は少し苛立ったように言った。

「君一人で食べればいいだろ。寧々さんのほうが緊急なんだ」

私は頷いた。

「わかった」

研はドアを開けながら、ようやく私の静けさがどこかおかしいことに気づいたようだった。

彼は振り返って私を見る。

「妙、こんな些細なことでまた考えすぎるなよ。あとで戻って、君のそばにいるから」

ドアが閉まった。

私は静まり返ったリビングに立ち尽くし、ふと、彼が以前言った言葉を思い出した。

「予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだ」

彼には時間がなかったわけではない。

ただ彼は毎回、私を削除してもいい予定として扱っていただけだった。

私はスマホを取り出し、引っ越し業者へ電話をかけた。

「明日の朝8時に来てもらえますか。はい、スーツケース一つと段ボール2箱です。行き先は空港でお願いします」

翌朝7時半。

私はスーツケースを引いて寝室を出た。

研は一晩中、帰ってこなかった。

食卓の上のスペアリブは、手つかずのまま残っていた。

果物の袋には、私が大嫌いなマンゴーが入っていた。

研は寧々が辛いものを食べられないことも、海鮮アレルギーがあることも覚えている。

なのに、私がマンゴーを食べると湿疹が出ることは、ずっと覚えられなかった。

以前は、私が彼に教えていた。

でも、その後は教えるのはやめた。

本当に相手を大切に思っている人なら、どう愛せばいいのかを何度も教えてもらう必要なんてないはずだから。

引っ越し業者が到着してから、私は最後に家の中を一通り見回した。

研と一緒に買ったものは、何ひとつ持って行かなかった。

ソファも、ダイニングテーブルも、カーテンも、あのフロアランプも。

どれも私が少しずつ選んで買ったものだった。

でも、ここに残していっても、もう意味はない。

家というものは、家具や内装だけでできるものじゃない。

帰ってきた時に「疲れた?」と声をかけてくれる人、自分が食べられないものを覚えていてくれる人、予定表の一番後ろに置いていた自分を、心の一番近くへ連れてきてくれる人がいてこそ、初めて家になるのだ。

ここには何もかも揃っている。

ただ、私だけがいなくなる。

8時40分。

ようやく研からメッセージが届いた。

【昨夜は寧々さんがすごく怖がって、警察の事情聴取にも付き添っていた。起きてるか?怒るなよ。昼には帰るから】

私は返信しなかった。

飛行機の出発時刻は午後1時だった。

弁護士の誠はすでに離婚協議書を研のメールへ送っていた。

私は搭乗前に、最後の委任状へサインを済ませて提出すればよかった。

家を出る前、私は合鍵を玄関の棚に置いた。

その下には、1枚のメモを残した。

そこには一言だけ書いてあった。

【神谷研。これから先、あなたの予定表に私の居場所はもういらない】

正午、研が家へ戻ってきた。

彼がドアを開けて最初に目にしたのは、半分空になった書斎だった。

私がパソコンを置いていた場所は、何もなくなっていた。

ベランダにあった、私が5年間育てたクチナシの鉢も消えていた。

靴箱には私の靴はなく、スリッパ1足だけが残っていた。

研は玄関に立ったまま、顔色を少しずつ失っていった。

彼は私へ電話をかけた。

出なかった。

もう一度かける。

それでも、出なかった。

そこでようやく、彼は合鍵と、その下に置かれたメモに気づいた。

その時、スマホが鳴った。

誠からだった。

「もしもし、神谷研さんでいらっしゃいますか。浅倉妙さんよりご依頼を受け、離婚協議書をお渡しするよう申し付かっております。

それから、浅倉さんは午後1時の便で出発されたとお伝えするよう言われています」

研はスマホを強く握りしめ、声を震わせた。

「彼女は……どこへ行くんだ?」

電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。

「浅倉さんは、あなたが知る必要はないとおっしゃっていました」

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