第3話

森川琴美は顔を真っ赤にし、息ができないほど苦しさを感じていた。そのとき、隼也が突然手を離し、代わりに彼女の顎をきつくつかんだ。

「森川琴美、俺は咲良の子どものために正義を貫く。だから、お前には生き地獄を味わってもらう」

琴美は咳き込んだ。涙が頬を伝って静かに落ちる。

「隼也、私は、彼女が妊娠してるなんて知らなかった。本当に殺す気なんて……」

隼也は鼻で笑った。「ふん、この二年、嫉妬に狂ったお前の姿、少なくとも俺は何度も見てきたぞ。咲良は言ってる、お前は嫉妬で彼女まで殺そうとしたってな」

夫婦関係が壊れてから、もう二年になる。

この二年、隼也は離婚を拒みながら、琴美に対しては何度も屈辱を与え続けた。

ふと、琴美の喉元に熱いものが込み上げてきた。眉をひそめ、それを無理やり飲み込んだ。血の味がした。

「二年前に、何があったの？」

隼也の瞳は恐ろしいほど陰り、そのまま琴美を睨みつける。まるで次の瞬間、殺しにかかるかのように。「自分でやったことを、覚えてないのか？もしあの時、咲良が腎臓をくれなかったら、俺はもうこの世にいなかった」

「……腎臓？」

琴美が言い終わるか終わらないかのうちに、隼也は彼女を床に押し倒し、乱暴に服を引き裂き始めた。

「とぼけるな！」

琴美は恐怖に目を見開き、泣きながら抵抗するが、弱った体ではどうにもならない。服はあっという間に破られ、白い肌が次々と露わになっていく。

「やめて！……隼也、お願い、やめて……！」

隼也は鼻で笑い、微塵の優しさもなく吐き捨てた。「これが欲しかったんだろ？何を今さら……」

琴美の頬を伝う涙が止まらなかった。

この瞬間、自分でも分からなかった。体の痛みか、それとも心の痛みか。

あの、命までかけて愛してくれた隼也は、いったいどこへ行ってしまったのか。

この二年、彼が変わった理由を必死で探してきた。でも、答えはどこにもなかった。

ただひとつだけ分かるのは――彼は自分を、心の底から憎んでいる。強く、深く、底知れないほどに。

それでも。その「答え」だけは、今も分からない。

彼は本当に葉山咲良を愛してしまったのだろうか？

数え切れない浮ついた噂があっても、どの相手にも手を出したことはなかった隼也。なのに――咲良だけは、違った。

しばらくして――

隼也は琴美を一瞥することもなく、さっさと服を着て部屋を出ていった。

琴美の目は痛んだ。まるで泣きすぎて、涙がすっかり干からびてしまったかのように、乾いてヒリヒリと痛む。

天井を見上げながら、胸の上からそっと肺のあたりに手を当てた。そして、かすれるような声で呟いた。「あと半年。十分だよね」

隼也のあの態度を見て、決心がついた。もうすぐ死ぬというのに、まだこの人のそばにいて、嫌われ続ける意味なんてない。

もう出ていこう。

そして、二年前に何があったのか、必ず確かめる。

なぜ隼也は変わってしまったのか。なぜ父は自殺したのか。弟はいったいどこへ行ったのか？

あれこれ思い巡らせるうちに、琴美の頭に浮かんだのは、ひとりの人物だった。もしかしたら、その人なら何かを知っているかもしれない。

体の痛みをこらえながらバスルームに向かう。鏡の前を通り過ぎたとき、全身に広がる青黒い痣が目に飛び込み、思わず苦笑した。

そんなに私が憎いなら、どうしてまだ触れてくるの？

シャワーを浴び、ロングスカートに着替えると、琴美は家を出た。

病院に着き、葉山咲良の病室へとまっすぐ向かった。

扉を開けると、隼也の姿はなかった。琴美はほっと息をついた。

咲良は琴美を見てもまったく驚かず、冷たい視線を投げかけてきた。「なにしに来たの？隼也にでも会いに？」

「違う」

「じゃあ、私に『どうして隼也を奪ったのか』って文句でも言いに来たわけ？」

「それも違う」

この問答が面白くなかった。

咲良は面倒くさそうに眉をひそめた。「じゃあ何？まさか機嫌取りにでも来たわけ？」

琴美は首を横に振った。「二年前に、何があったのか、教えて」

咲良は一瞬言葉を失い、それから冷たく笑った。「二年前に何があったかって？それ、私に聞く？間違ってるでしょ」

「うちの父は……なぜ自殺したの？」

「知らない」

「弟は？」

咲良は顔色の悪い琴美を見て、嫌悪感を隠そうともしなかった。ベッドの脇にあった果物用のナイフをつかみ、それを琴美に向かって投げつける。

「森川琴美、いい加減にしてよ！あんたの家のことなんて、私に関係ないでしょ？頭おかしいの？」

琴美はしゃがんでナイフを拾い、唇を噛みながら落ち込んだ表情で咲良のベッド脇まで歩み寄った。

「本当に何も知らないの？」

「知らないって言ってるでしょ！」

咲良は琴美を訝しげに見つめた。――どうして今さら、二年前のことなんて？

この二年、琴美は一度も自分を疑ったことがなかったはず。

そんな咲良の反応に、琴美はさらに落胆し、ナイフを元の場所に戻そうと手を動かした。

その瞬間だった。咲良が琴美の手をぐっと握り、自らその刃に体を押し付けてきた。

動きはあまりにも早く、琴美には反応する暇さえなかった。

「えっ……？」ナイフを手から離し、恐怖に駆られて一歩後ずさった。

しかしその瞬間、見慣れた影が視界を横切り、次の瞬間には頬に平手打ちを受けていた。

「森川琴美、お前、本当に死にたいんだな」

彼女は言い訳しようと手を伸ばし、隼也の腕をつかもうとした。だが、その手は乱暴に振り払われ、彼女はそのまま床に倒れ込んだ。

その目の前で、隼也は咲良を抱きかかえ、慌ただしく病室を出て行った。

琴美が顔を上げた瞬間、咲良の口元にかすかな得意げな笑みが浮かんでいるのが見えた。だが、次にまばたきをしたときには咲良はもう、目を閉じていた。

見間違い？

彼女が今、笑ったように見えた……

熱い頬を押さえながら、琴美はふらつきながら立ち上がった。そのとき、口の奥から突然血が込み上げ、慌ててトイレへ駆け込む。

便器に吐き出された鮮血が排水口へと流れていくのを見つめ、彼女は眉をしかめて口元を拭った。

肺がん、もうこんなに進んでたの？

半年は、持つよね。

病室から出て、琴美は別荘へ戻ろうとしたが、ドアを開けると、そこに立っていたのは隼也の秘書、守谷崇真（もりや たかまさ）だった。

「奥様、旦那様のご命令で、別荘までお送りします」

琴美は一瞬驚いたが、すぐに答えた。「自分で帰れます」

それでも崇真は退かない。「申し訳ありません。旦那様の命令です。どうか、私を困らせないでください」

その様子に、琴美は観念してうなずいた。「……分かった。じゃあ行こう」

車の中で、彼女はぽつりとつぶやく。「私が逃げないように、見張れってこと？」

崇真は気まずそうに笑った。「旦那様は、奥様が海に落ちて冷えてしまったのを心配されてるんだと思います」

自分で言っておいて、崇真自身も信じていなかった。この二年の隼也の仕打ちを、彼はすべて目にしてきたから。

幸い、琴美はそれ以上何も聞かず、ただ静かに顔をそらし、窓の外を見つめていた。

離婚しよう。

もう、澤村隼也のそばにはいられない。

これまで、時が全てを解決してくれると思っていた。きっと彼も、いつかは戻ってきてくれると信じていた。

けれど今は未来が見えない。そして、彼に付き合っている時間も、もう残されていない。

隼也がもう葉山咲良を選んだのなら、しかも、あれほどまでに彼女を愛しているのなら――彼女が間に立って邪魔をする理由なんて、どこにもない。

たとえ未練があっても、まだ愛していたとしても……

あと半年しかない時間を、もっと大切なことに使いたい。待っている余裕なんて、もうない。

別荘に戻ると、予想通り崇真は帰らず、ずっと部屋の前に控えていた。

琴美がどこへ行こうとしても、彼はついてくる。

お互いに何も言わなかったが、その意図は明白だった。

最後、琴美は「シャワーを浴びたい」と言って、なんとか崇真を部屋の外に出した。

そして――離婚届を枕元に置き、名残惜しそうに部屋をぐるりと見渡してから、窓から外へと出た。

部屋は二階。下を見下ろすと、脚が震える。

深呼吸を一つし、意を決して排水管に手をかけて降りていた。

二階なら、まだ大丈夫。

琴美は車の運転ができないため、歩くしかなかった。別荘は郊外にあり、まだ市街地にも辿り着いていないうちに日が暮れてしまい、彼女の足も、もう前に進めないほど重くなっていた。

「疲れた」

薬の影響か、頭がぼんやりしてくる。

意識がぼんやりとする中、正面から一台の車がライトをつけたまま近づいてきた。次の瞬間、まるでぶつかりそうな勢いで車が急ブレーキをかけ、琴美は思わず尻もちをついてしまった。

ナンバープレートに目をやった瞬間、彼女の頭上に黒い影が覆いかぶさっていた。

「森川琴美、逃げられると思うなよ」