三年前、彼は片膝をついてプロポーズし、「君を世界で一番幸せな花嫁にする」と誓ってくれた。 けれど一年後、彼女は思いがけず流産し、彼は事故に遭い、腎臓移植を受けた。すべては、もう元には戻らない。 そして今、疲れ果てた彼女は離婚を望んだ。だが澤村隼也は、彼女を家に閉じ込め、こう言い放った。 「離婚?そんなの、絶対にさせない。お前は一生、罪を償い続けるんだ!」 森川琴美は乾いた笑みを浮かべた。「隼也、私は肺がんの末期なの。あなたが私を閉じ込めても、この命を引き止めることなんて、できない!」
Lihat lebih banyak琴美は凍りついた。咲良は、すべて知っていた。もし彼女にとって「後悔」という言葉があるとすれば、それはあの日、道端であの毒蛇――咲良を拾ってしまったことだ。「本当に、最低」咲良は軽く笑って肩をすくめた。「そうよ、私は最低。だけど、隼也はそう思ってないの。むしろ、私のこと『いちばん優しい』って言ってくれるのよ?」そう言って顔を近づけ、琴美の目をのぞき込むようにして、口角を上げてささやいた。「彼の中では、あなたこそが『悪い女』なの」その言葉が、琴美の胸を深くえぐった。認めたくない、でも、否定もできない。隼也は、本当にそう思っているのかもしれない。馬鹿みたい。「だったら、咲良。あんたが隼也に離婚を迫りなさいよ。私は『澤村奥様』を三年もやったのよ。そろそろ疲れてきた。譲ってあげる」それが咲良にとって、何よりも腹立たしいことだった。彼女は何もかも手に入れた。けれど、唯一「澤村奥様」の座だけは、どうしても手に入らなかった。彼女は歯を食いしばり、琴美の頬を思いきり平手打ちした。そして顔をゆがめながら、こう言った。「森川琴美……ひとつだけ教えてあげる」「高木信吾が来たの、私が対応したのよ」その言葉に琴美は硬直した。頬の痛みすら、一瞬忘れるほどの衝撃だった。高木信吾――そうだ、高木さんのことをすっかり忘れていた。咲良が家に入り込んでから、すべてがぐちゃぐちゃになっていた。病院でどれだけの時間が過ぎたのかも、もうわからない。そもそも、意識がはっきりしている時間のほうが少なかったのだから。「高木さんに何をしたの?」琴美が必死で問いかけると、咲良は一層嬉しそうに笑った。「そんなに焦らないでよ。まだ死んでないわ」そう言ってから、ふと何かを思い出したように続ける。「でも、そろそろ死ぬかもね。あなたのお母さんみたいに、地面に倒れ、じわじわと苦しみながら」何?琴美は目を見開き、ベッドから起き上がった。「嘘よ!お母さんは難産で亡くなったって」「難産?ああ、それは『表向き』ね」咲良の目に、ぞっとするほどの憎悪が宿ていた。「養女の私を迎えたくせに、今さら実の子を産む?妊娠した瞬間、私を葉山家に送り返して、あんな偽善者、許せると思う?」えっ?琴美は言葉を失った。母が弟を産んだことと、咲良に何の関係があ
隼也は病室のベッドのそばに腰を下ろし、優しく声をかけた。「もう大丈夫だ。怖がらなくていい」咲良は涙で濡れたまつ毛を瞬かせ、唇を噛みながら隼也を見つめた。「……ねえ、隼也。抱きしめて、いい?」隼也は一瞬戸惑ったが、すぐに腕を広げて彼女を抱きしめた。その瞬間、咲良が胸の奥に溜め込んだ不安をぽつりぽつりとこぼし始めた。「なかなか帰ってこないし、琴美の姿も見えなかったし……すごく不安だったの。何かあったんじゃないかって、心配で……それでベランダに出てみたの」「そしたら、突然コウモリが飛んできて、すごく驚いて。追い払おうと思って手を伸ばしたら、傷口に触れてしまって……それからはもう、気づいたら倒れてたの」「それに、電話かけたのに……隼也、全然出てくれなかった。事故にでも遭ったんじゃないかって、本当に怖かったの……」隼也はため息をついた。自分は疑っていたのか。こんなにも細くて優しい咲良を。「ごめん……気づかなかった。今度から、ちゃんと出るよ」咲良はこくりと頷き、小さな声で「うん」と返した。本当は全部、知っていた。全部、自分が仕組んだこと。咲良は、倒れてなんかいなかった。出血もしていない。そもそも失血なんてしていない。ただ隼也に注目してほしかっただけ。だからこそ、自ら病院に運ばれる状況を作った。そして、病室で瀕死の琴美に無理やり輸血させる隼也の姿を見て、心の中では歓喜していた。おかしくてたまらなかった。笑い出しそうなのを堪えるために、太ももを思い切りつねってなかったら、本当に吹き出していたかもしれない。「隼也、もう帰って休んで。私、点滴終わったらひとりで岬ノ邸に戻るから」隼也はその言葉に少し胸を痛めた。彼女の身体はもともと弱い。こんな状態でまた傷口が開いたらどうする?「大丈夫だよ」「何が大丈夫なの?顔見ればわかる、一晩中眠ってないでしょ。ちゃんと休まないと、あなただって倒れちゃうよ」「琴美のことは心配しなくていい。帰る前に様子を見に行くし、何かあればすぐに連絡する」こんなにも気遣いのできる咲良に、隼也の胸はさらに締めつけられた。「わかった。じゃあ、一度帰る。何かあったらすぐに電話して」「うん」病室を出ると、隼也は崇真に声をかけた。「咲良に付き添いの看護師をつけてやれ」崇真は内心、咲良の演技にう
隼也は足を止め、彼女を一瞥して言った。「森川琴美、もう演技はいい。どうせ死にはしない」死なない。彼女が救急処置室から出てきて、まだ二十四時間も経っていないのに。彼はもう忘れてしまったのだろうか?それどころか、「死なない」と断言してきた。琴美はふっと鼻で笑った。「隼也、賭けてみる?私が死ぬかどうか」隼也の心がひときわ強く波打った。思わず眉をひそめる。「いいだろう。賭けてやる」その言葉を聞いた瞬間、琴美は静かに口元をゆるめた。隼也、あなたはもう賭けに負けてる。隼也は病室の扉を押し開けた。中にはベッドがあり、咲良が横たわっていた。傍には看護師がいて、採血の準備を進めていた。彼が琴美を抱いたまま部屋に入ると、看護師は顔を上げた。彼女は琴美のことを覚えていた。夜中の救急手術に立ち会ったばかりだったからだ。「彼女の血を取って」「本当にこちらの方から採血されるご予定でよろしいでしょうか?この方は先ほどまで救命処置を受けており、すでにかなりの出血が……」看護師が言い終える前に、隼也隼也は冷たい目を向けた。「口数が多いな」その視線だけで、彼がどれほどの圧を持つ人物かが伝わってくる。看護師は言葉を飲み込み、小さく頷いた。「では、こちらに森川さんを」琴美の顔色は青白く、唇は紫色に変わっていた。手に巻かれた包帯からは血がにじみ出し、腕に触れると冷たく凍えている。その様子に、看護師の胸がきゅっと締めつけられた。いったい、どれほどの憎しみがあれば、こんなにも弱りきった女性に、ここまでの仕打ちができるの?看護師はそう思ったが、口には出せなかった。黙って、針を刺せそうな唯一の腕を探しながら、小さな声で言う。「森川さん……少しだけ我慢してくださいね」琴美は無表情で頷いた。「大丈夫です。必要なだけ持っていってください」だが、採血を始めて間もなく、琴美は意識を失った。看護師は慌てて顔を上げ、隼也を見た。「澤村さん、森川さん、意識を失いました。もうやめたほうが……」「続けろ。死んでないだろ」彼は冷たく言い放つ。この女は、いつだって騒ぎを起こす。これまでだって、騒ぎを起こしたことも一度や二度じゃない。死んだふりまでした女だ。今さら気絶したところで、何が大げさなんだ。じゃなきゃ、あんなふうに男を手玉に取れる
琴美は、全身に痛みを感じていた。肺が痛くて、お腹も、手も、膝も痛い。いったいどこに力が入らないのか、自分でもわからないほどだった。隼也に無理やり引っ張られて、ほんの数歩歩いただけで、彼女の膝ががくりと崩れ、その場に倒れ込むように膝をついた。膝はもともと石畳の上に跪かされて傷ついており、真っ赤に腫れあがっていた。そこに再び激しくぶつけたことで、骨の奥まで突き刺すような鋭い痛みが走った。その瞬間、琴美の目から涙がぶわっと溢れた。けれど、泣きたくない。歯を食いしばり、声も上げず、隼也を止めることもしなかった。それでも異変に気づいた隼也が足を止めて振り返ると、意地を張りながらも苦しげな琴美の顔が目に入り、不意に胸が締めつけられた。「立て」隼也は冷たく命じた。「立てない……」「森川琴美、何を装ってる?弱い女を演じてるつもりか?立て!」苛立ちを隠さず、隼也は強く彼女の手を引いた。包帯を巻いていたその手は、握力でにじんだ血が滲み出していたが、彼はまったく気づかなかった。律は少し離れたところで様子を見ていた。止めに入るべきか迷いながらも、自分の立場では出すぎた真似になるかもしれないと葛藤していた。だが、琴美が傷ついた膝で地面を引きずられるのを目にして、ついに堪えきれなくなった。彼はためらわず駆け寄り、琴美を地面から抱き上げ、隼也を睨みつけながら言った。「隼也、手を離してください」隼也はもともと怒っていたが、今の一言で火に油を注がれた。全身から冷気を放ち、鋭い眼差しで律を睨みつける。唇は固く結ばれ、声が低く響いた。「神谷律、お前、俺に逆らうつもりか?」「命を軽んじるような行動を見ていられないだけだ」琴美は小さく震えながら、まるで傷ついた兎のように律の胸に身をすくめていた。その姿が、隼也の目を刺すように焼きついた。男を乗り換えた女は、やっぱり節操がない。「神谷律、離せ!」「断ります」隼也は琴美に冷たい視線を落とした。「森川琴美!俺を、これ以上怒らせるな」咲良はまだ応急処置を待っている。こんなところで時間を無駄にする余裕などない。琴美はその視線に怯え、さらに体を震わせた。かすれた声で必死に言った。「神谷さん……放してください。私……咲良に輸血したいんです……」律は険しい顔で、声を低く荒げた。「自分
「旦那様、葉山さんが出血多量で気を失いました。ですが、今、Rhマイナス型の血液が足りていません……どうしましょうか?」隼也は眉をひそめた。そして、ふと琴美の手元から滲む血に目を留めると、低く冷たい声で言い放った。「咲良を病院に運べ。手はある」「かしこまりました」琴美に付きっきりだったせいで、隼也は丸一日、咲良の容体を確認しに帰れなかった。確かに、それは自分の過失だ。彼女は元々体が弱い。だが、琴美は違う。あの女はしぶとい。死にかけても、結局は死なない。さっきまで息も絶え絶えだったくせに、今はこうして元気そうに目を開けている。どこが瀕死だ?隼也は鋭い視線で琴美を見下ろし、唇の端を冷たく歪めた。「琴美。お前に、償いのチャンスをやる」琴美は一瞬、ぽかんとした。身体はすでに限界だった。さっきの騒動で無理をしすぎて、今にも崩れ落ちそうなほど全身が痛んでいた。乾いた唇を震わせながら、かすれた声で問い返す。「なに?」「咲良に輸血しろ。あいつは出血多量で意識を失った。お前は血が多いし、身体も頑丈だからな」琴美の胸に鋭い痛みが走り、全身が一気に冷え込んだ。体は小刻みに震え、ぐらつきながら耳にした言葉が信じられなかった。つまり、私を生かしたのは、咲良の専属血液供給源にするため?私は、ただの「所有物」。彼にとって、ただの使い捨ての道具だ。彼はもう、私を人間だと思っていない。これが……あの『隼也』?本当に、ここまで冷酷になれるの?肺がギリギリと軋む。血の味が込み上げ、琴美は止める間もなく、シーツの上に鮮血を吐き出した。だが、隼也は一切、表情を変えなかった。冷たく言い放った。「琴美、そんな芝居はもう通じない。気を失っていようが何だろうが、血は取るぞ」律はついに堪えきれず、声を荒げた。「隼也、お前は正気か!?やっと助かったばかりの人間から血を抜くなんて、そんなに早く殺したいのか!?」「昨夜は死人みたいな顔してたくせに、今度はこれか。後悔って言葉を知らないのか!?」隼也は律を突き飛ばしながら怒鳴った。「神谷律、これは俺の『家のこと』だ!」「家のこと?葉山咲良は、お前の家族でもなんでもないだろ?誰が見ても分かる。身体が弱いどころか、琴美よりずっと健康じゃないか!」「何を言ってる! 咲良は俺に腎臓をくれたんだ。それ
「私は浮気なんてしてない」琴美は唇をぎゅっと結び、もう一度、はっきりと告げた。本当に、何もしていない。それでも、隼也が信じてくれないことも、琴美はわかっていた。隼也は鼻で笑った。「じゃあ、男と一緒にホテルに入って、何してたんだ?……芝居の稽古か?」琴美は首を振った。「私は……男とホテルなんか行ってない」「は?お前、俺をバカにしてるのか?この目で見たんだぞ?男と楽しそうに笑いながらホテルに入っていくところをな」「信じて!お願い……」あの日、たしかにホテルには行った。でも、誰かと「そういうこと」をしに行ったわけじゃない。あれは、咲良に頼まれたからだった。「ネックレスをホテルに忘れた」と言われて、しかも、自分は海外に行く準備で忙しいからって、彼女に取りに行かせた。彼女はネックレスを受け取っただけで、すぐにホテルを出た。その帰り道で、交通事故に遭った。目が覚めた時には、すでに病院のベッドの上で、そして……お腹の中の子供も、もういなかった。彼女はどう説明すればいいかわからなかった。それでも、まず最初に電話した相手は隼也だった。でも、彼は出なかった。交通事故で骨折し、全身に擦り傷や打撲も負って、彼女はしばらく、入院して安静にするしかなかった。どこへも行けなかった。トイレに行くことさえ、一人ではできなかった。それでも、森川雅信にはどうしても言えず。琴美は、ひたすら我慢して耐え抜いた。結局、看護師が父に連絡を入れ、彼はすぐに付き添いの介護人を手配してくれた。あの数日間を乗り越えられたのは、それがあったからだった。それでも、隼也は一度も姿を見せなかった。彼女は、毎日ニュースを見て、彼に何かあったのではないかと怯えていた。でも、彼に関する情報は何一つ出てこなかった。一ヶ月後、ようやく退院した彼女が家に戻ると、隼也は、そこにいた。そして、彼の隣には葉山咲良という女がいた。心は氷のように冷えきっていた。それでも、どこかでまだ信じたかった。だから、彼に伝えた「流産したの」と。けれど隼也は、何も言わず、彼女を家の外に追い出した。雨の中、一晩中、ただ立ち尽くすしかなかった。それ以来、隼也はずっと咲良をそばに置くようになった。咲良には優しく気を配り、琴美には、ひたすら冷たく、残酷だった。二年間、彼はほとんど
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