Mag-log in誠司は、実はずっと前から事故の件を悠真に伝えようと思っていた。けれど怜司に、悠真に話せば職を失うと脅され、迷い続けていたのだ。将来のためというだけじゃない。怜司が言っていたように、悠真は星乃のことを好きではない。だから事故のことを伝えたところで、きっと余計なトラブルを増やすだけだと感じたからだ。自分は直属助手として、悠真の負担を減らす立場であり、煩わせるべきじゃない。そう考えていた。あれは「善意の嘘」のつもりだった。けれど、あの日、星乃がひとりで離婚届の手続きをしに行く姿を見たとき、胸の奥がぐらりと揺れた。もし自分が黙っていれば、星乃のあの苦しみを、悠真は一生知らないままだ。たとえ離婚がもう決定事項だとしても、せめてこの事実だけは悠真に知らせるべきだ。今日伝えるつもりだったのに、悠真は一日中、登世の寿宴の準備で忙しく、なかなか話す機会がなかった。そんな折、悠真のほうからその件に触れてきた。誠司はもう隠すのをやめ、口を開いた。「前に結衣さんが巻き込まれた交通事故、相手の車は星乃さんでした。星乃さんが流産したのも……あの事故が原因です」「……っ!」病院の上階ではそのころ、怜司が登世の寿宴を終えて戻り、夜勤に入っていた。暇を持て余していた彼は、また何人かの友人を呼び出していた。宴のあと、出席者の間ではこんな噂が流れていた――登世が星乃に株を譲ったのは、悠真と星乃を復縁させるためだと。それを受けて、今度は裏で新しい賭けが始まった。悠真は財産のために星乃と復縁するか、それとも誘惑を断ち切って結衣と結婚するか。怜司たちは休憩室で集まり、さらにこっそり別の賭けをしていた。悠真が再び星乃を口説き落とすのか、それとも彼女を脅して株を吐き出させるのか。「せっかく悠真は星乃を振り切ったのに、また追いかけるなんてあり得ないだろ。星乃なんて、ただの言いなりの犬みたいなもんだ。犬に媚びる必要なんてない。少し脅せばすぐ従うさ」「そうそう。星乃がどれだけ悠真に従順だったか、俺たちみんな知ってる。きっと明日には株を返すって泣きついてくるさ」「いや、それはわからないぞ。冬川家の株の半分だ。そんな大金、簡単に手放せるか?」「愛だの金に淡泊だの言ってたけど、要するに金が足りなかっただけだろ」「まあ、賢いなら株を返すべきだ。受け
地下駐車場の高級車の中。誠司は運転席に座り、緊張のあまり手のひらに汗をにじませていた。ルームミラー越しに、後部座席の悠真をちらりと見る。車に乗り込んでからというもの、悠真は一言も発さず、感情の読めない顔で黙り込んでいた。この沈黙の圧力は、怒鳴られるよりもよほど恐ろしい。さっきの寿宴での出来事はすでに耳にしている。星乃が大勢の前で離婚を宣言し、その場で新しい恋人の話までしたという。それだけでなく、登世が株の持分を星乃に譲ったらしい。離婚のことはさておき、悠真のこの表情は、おそらくその株の件が原因だろう。彼の気持ちは理解できる。何年もかけて育ててきた果実を、やっと実ったところで他人に半分持っていかれたようなものだ。誰だって、そんな状況で平静ではいられない。けれど、相手は星乃だ。五年の夫婦生活があるのだから、きっと話し合えばどうにかなるはずだ――誠司はそう思っていた。しばらく考えたあと、恐る恐る口を開く。「悠真様……もう一度、星乃さんと話してみませんか?」星乃は筋の通らない人間ではないし、人のものを当然のように奪うような人でもない。株を受け取ったのにも、きっと何か理由があるはずだ。悠真は黒い瞳を窓の外に向け、何かを思案しているようだった。誠司の声でようやく我に返る。拳を握りしめ、皮肉な笑みを浮かべた。「話す?今さら何を?」もう離婚は成立している。ただの気まぐれかと思っていた。けれど、まさか、一ヶ月も前から離婚の準備をしていたなんて。――星乃、お前ってやつは、ほんとに隠すのがうまいな。考えれば考えるほど、胸の奥が重くなる。息が詰まりそうだった。誠司が小さく言った。「五年も一緒にいたんですし、星乃さんもまったく気持ちがなかったわけじゃないと思います。一時の衝動かもしれません。少しでも折れて、謝れば、もしかしたら考え直してくれるかも」彼は、星乃が登世の株を受け取ったのは、悠真と結衣に見せつけるためだと思っていた。最近の悠真は、結衣のことでさすがにやりすぎだったから。その言葉に、悠真は鼻で笑った。「俺に謝れって?」彼女は一方的に離婚を言い出し、それどころか、ひと月も前から計画していた。それなのに、今になって自分が悪者だと?謝るのは自分だって?「ありえない」悠真は低く言った。
白石家。重たい空気が家の中に満ちていた。黒いスーツに身を包んだ数人のボディーガードが、外で息を殺して立っている。律人が扉を押し開けると、リビングの中央に美琴が立っていた。整った顔立ちは氷のように冷たく、その手には黒い長いムチが握られている。パシン――!律人が一歩踏み入れた瞬間、美琴はムチを振り上げ、手前のガラス製のローテーブルを勢いよく叩きつけた。甲高い音が響き、テーブルは粉々に砕け散った。律人は思わず身を引いたが、美琴が本気で自分を傷つけるつもりではないとわかっていた。彼女はただ、威嚇したかっただけだ。律人は何も見なかったふりをして、にこやかに歩み寄る。「うちの美人なお姉さん、どうして怒ってるんだ?そんなもの振り回してたら手を痛めるよ。誰が悪いのか言って、代わりに僕が懲らしめてあげるよ」そう言ってムチを受け取ろうと手を伸ばす。だが美琴はまたムチを振り下ろし、「パシッ」と床を打った。耳をつんざくような音が響く。「跪きなさい!」律人は即座に判断した。こういうときは逆らわないのが得策だ。一切の迷いもなく、きれいに膝をついた。そのあまりに滑らかな動作に、美琴は呆れて笑った。ムチを持ち上げたまま、最後は軽く彼の肩を叩くだけにとどめた。「……あなた、星乃と付き合ってるの?」律人は素直にうなずいた。「前に何て言ったか覚えてる?彼女は悠真の妻で、冬川家の人間よ。白石家と冬川家の関係を抜きにしても、星乃は瑞原市じゅうの笑いもの。そんな相手と一緒にいるなんて、どうかしてるわ」美琴はムチをくるりと巻き取り、軽く彼の方へ振ってみせる。だがすぐに肩を落とし、ソファに戻って座り込んだ。律人の自由奔放な行動には、普段から多少は目をつぶってきた。女遊びも軽いものなら笑って済ませていたが、まさか星乃にまで及ぶとは思わなかった。それも、あんなに騒ぎを起こして。先ほど彼女が見た動画――律人と星乃が一緒にいた映像を見た瞬間、美琴の頭に血が上った。律人はそんな姉の表情を見て、柔らかく笑う。「もう離婚してるんだよ、僕たちの関係はちゃんと合法だ」「それに、星乃が瑞原市の笑いものになったのは、悠真が彼女を愛さなかったせいだ。誰も悠真を敵に回したくないから、みんな彼女の悪口を言う。でも、彼女に非はない」「……あなた、庇
「星乃、少し話をしない?」結衣の言葉に、星乃はその笑みの裏に潜む棘を見抜いた。「私たちの間に、話すことなんてないわ」立ち止まることなく、星乃は結衣の横を通り過ぎた。結衣はその冷たさを気にも留めず、穏やかな声で続けた。「花音から聞いたけど、今日あなた、冬川家の本宅に行ったんだって?じゃあ、おばあさまが株をあなたに譲るって話、もう前から知ってたんでしょ?五年も耐え続けて、あんなに悠真を想ってるふりをしてたけど、結局は冬川家の財産目当てだったんじゃない?」結衣の瞳にはあからさまな軽蔑が宿っていた。星乃を罠に誘い込むように、言葉を重ねる。少しでも言い方を誤れば、それを口実に責め立てるつもりなのだ。今、冬川グループの取引先の中には、この件を疑っている者も少なくない。もしこの策略がうまくいけば、彼らは自分たちの利益を守るために、必ず登世に遺言を撤回させようとするだろう。登世が冬川家の他の誰の言葉にも耳を貸さなくても、冬川家と取引先が揃って反対したら、さすがに無視はできないはずだ。まだ、巻き返す余地はある。そう考えた結衣は、さらに挑発を強めた。「どうしたの?やったことを認める勇気もないの?」しつこく迫る結衣に、星乃は足を止めた。「株のことは冬川家と私の問題。あなたみたいな部外者が口を出すことじゃないわ」「つまり、それを認めるってことね?」結衣の問いに、星乃はちらりと視線を向けるだけで、答えずに言った。「てっきり、あなたは喜ぶと思ってた。だって、冬川家の妻の座も譲ってあげたし、悠真もあなたに渡した。それなのに感謝するどころか、追いかけてきてまで財産のことを責めるなんて、どういうつもり?」星乃は結衣の顔を見つめ、冷ややかに笑った。「それとも、あなたが悠真と一緒にいるのは、愛じゃなくてお金のため?」「な、なに言ってるのよ!」結衣は慌てて声を上げた。星乃は静かに笑う。その反応は、まさに予想通りだった。結衣は清楚を気取り、金には興味がないように振る舞ってきた。周囲の人々は皆、彼女がお金にも地位にも関心を持たないと信じている。けれど星乃は知っていた。この五年間、悠真が毎月三万ドルを結衣に送っていたことを。結衣が海外で借りていた高級マンションの家賃も、旅行の費用も、すべて悠真が払っていた。結衣が欲しい物をそ
登世が帰ってからそう経たないうちに、星乃と律人も寿宴の会場を離れた。律人は軽く眉を上げ、からかうように言った。「おめでとう、もうすぐ瑞原市でいちばんの資産家になるんだね」「僕の見る目はやっぱり正しかったな。こんなに綺麗で、しかもお金持ちの彼女を見つけるなんて」そう言って彼は小さく笑い、星乃の手を取って、その手のひらを頬に当てると、わざと擦りつけるようにした。家事をよくするせいか、彼女の手には薄いタコがあるけれど、手のひらは驚くほど柔らかい。キスをしてからというもの、律人はすっかり虜になっていた。星乃の身体には不思議な魔法があるようで、触れたくて仕方がなくなるのだ。さっき壇上にいたときも、つい彼女の手をこっそり握ってしまった。その瞬間、星乃は警告するように彼を睨んだが、その顔さえ愛おしく見えた。「金持ちになっても、僕のこと嫌いにならないでよ?」彼が少し甘えるように言った。星乃の手のひらがくすぐったくなった。もう皆の前で律人との交際を公表してしまったし、今さら隠すこともない。星乃は彼に手を握られたまま、真面目な口調で「慰める」ように言った。「嫌いになんてしないよ。だって、私が金持ちになることはないから。冬川家は私に株なんて渡さないもの」――登世の気持ちは本物かもしれない。でも冬川家には、自分に株を渡さないための手段ならいくらでもある。星乃が署名をしたのも、あくまで時間を稼ぐために過ぎなかった。契約書にサインしたあと、周囲の人の態度が目に見えて変わった。名刺をこっそり渡してくる人までいたほどだ。以前は、皆が星乃と悠真の離婚を確実視して、彼女を切り捨てていた。悠真に取り入るために、どうにかして星乃と距離を取ろうとしていたのだ。けれど今は、登世が冬川家の株を星乃に譲ると言った。となると、彼女を避けるべきか、それとも関係を保つべきか。皆、計算し直さなければならない。律人は小さく笑い、彼女の手の甲にそっとキスを落とした。星乃の肌から、彼女がいつも使っているボディソープのやさしい香りが漂う。「それで、欲しい?」彼は少し目を伏せ、瞳の奥で光を反射させながら言った。「君が欲しいって言うなら、冬川家がくれなくても、僕が取ってあげるよ」星乃は思わず動きを止めた。そのとき、着信音が鳴る。律人がスマホを
最後の一言を聞いた瞬間、会場がざわめきに包まれた。佳代と雅信は同時に顔をこわばらせる。雅信は素早く動き、登世の手からマイクを受け取った。「お母さん、もう疲れただろう。ちょっと混乱してるだけだ。先に休ませてやってくれ」佳代もすぐに反応し、登世をなだめながらその場を離れようとした。だが登世は動かず、入口の方へ視線を向けた。すると、スーツ姿の弁護士が足早に前へ出てきて、一通の株式譲渡契約書を星乃の前に差し出す。星乃は呆然と立ち尽くした。まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった。登世の持つ株は、冬川家全体のほぼ半分にあたる。つまりこの契約を受け取れば、星乃は冬川家の財産の半分を手にすることになる。花音が慌てて駆け寄り、弁護士の手から契約書を奪おうとしながら、星乃に詰め寄った。「星乃、あなた、おばあちゃんに何をしたの?どうして冬川家の株を、よそ者のあなたに渡すの?おばあちゃんに何の薬を飲ませたのよ!」弁護士はあっさりと契約書を持ち直し、淡々とした声で言った。「申し訳ありませんが、花音さん。遺言書の作成時、登世様の判断能力に問題がないことは確認済みです。この遺言書も譲渡契約も、すべて法に基づき有効です」そして、弁護士は再び契約書を星乃に差し出した。「星乃さん」星乃は一瞬ためらい、呼吸が乱れる。「星乃、あんた、私とした約束を覚えてるね?」登世は穏やかに微笑みながら言った。もちろん覚えている。ホテルに来る前、登世に呼ばれて本宅へ行った。そのとき言われたのだ――「今夜、私が何を言っても、素直に従ってちょうだい」と。けれど、まさかこんな重大なことだとは思ってもいなかった。登世が衝動で動く人ではないことは知っている。この契約が今日ここで差し出されるということは、ずっと前から用意されていたはずだ。それでも理由は分からなかった。登世が自分に優しいことは知っていた。でも、なぜ冬川家の半分を託そうとするのかが、理解できなかった。星乃は少し間を置いてから、思い切って尋ねた。登世は静かに言った。「昔、あんたのお母さんがね、私の息子の命を救ってくれたの。彼女がいなければ、今の冬川家もなかった。この何年も、あんたは冬川家で苦労ばかりしてきた。これはその償いよ。あんたが受け取るべきものなんだ」星乃がまだ