LOGIN#そんな愛はどこか掴みどころがない。一瞬で消えてしまうような恋に、自分の時間を費やしたくはない。もっと意味のあることに時間を使いたい。たとえばUME。たとえば未来。例えば……星乃は顔を上げ、律人を見つめた。あのとき律人は命がけで自分を助けてくれた。その後も自分のために圭吾と対立し、危険な目に遭いかけた。恋愛感情はひとまず置いておくとしても、律人は間違いなく自分の命の恩人だ。律人は彼女の視線を受け止めても、目を逸らさなかった。そして、薄く口元を緩める。その笑顔を見た途端、星乃はなぜか頬が熱くなった。気まずそうに視線を逸らし、適当に話題を変える。「先生、もうすぐ退院できるって言ってなかった?なのにどうしてまた点滴してるの?どこか具合悪いの?」星乃は彼の手の甲に刺さった点滴の管へ目を向けた。なんとなく顔色も少し変な気がする。「念のためだよ。再発防止ってところかな」律人は笑いながら、点滴につながれた手を軽く持ち上げた。「正直、これ結構不便なんだよね」「不便?」星乃は言った。「何かすることがあるなら、私が手伝うよ」律人の笑みがさらに深くなる。「君には無理かな」「そんなことないでしょ?」そう言われた途端、星乃の負けず嫌いな性格に火がついた。「やってもいないのに、どうして無理だってわかるの?」星乃は自信満々に言い切る。律人は、今にも腕まくりして挑みそうな彼女の様子に思わず笑った。「本当に手伝ってくれるの?」星乃はうなずく。「じゃあ、もう少し近くに来て」律人が言った。星乃は何の疑いも持たなかった。彼が妙に秘密めかした言い方をするので、何か大事な話でもあるのかと思い、立ち上がってベッドに腰掛ける。そして体ごと彼のほうへ身を寄せた。ところが近づいた瞬間、律人の片手が彼女の頬をつまんだ。もう片方の腕は彼女の腰を抱き寄せ、そのまま背中に手を添えて引き寄せる。ほんのり熱い唇が、彼女の唇に重なる。星乃はようやく状況を理解し、顔が一気に真っ赤になる。頭の中が弾けたように真っ白になった。キスをするのは初めてではない。けれど、キスそのものと、病院という、いつ誰が通りかかるかわからない場所でするのとでは、話が別だ。前回、偶然看護師に見られて以来、星乃はとても注意して距離を保っていた。心のどこかが落ち着か
背後からかすかなすすり泣きが聞こえてきたが、今度の悠真はもう振り返らなかった。彼は門を出ると、どんよりと曇った空を見上げた。胸はまるで大きな手でぎゅっと締めつけられているようで、息苦しくてたまらなかった。この数年間、自分は結衣に対する後ろめたさから、あらゆる方法で彼女に償おうとしてきた。自分に与えられるものは、すべて与えた。そのために、星乃にまで仕返しをした。結婚式の夜には彼女を放置して街中の笑い者にし、結婚後も冷たく突き放し、何かにつけて彼女に逆らい続けた。自分では結衣への償いのつもりだった。だが、それは五年にも及ぶいじめだったのだ。滑稽だ。本当に、滑稽すぎる。ゴロゴロ――そのとき、雷鳴が空を裂き、激しい雨が降り始めた。悠真は顔を上げた。生温かい雨が視界を滲ませ、全身を容赦なく打ちつける。彼は雨宿りしようともせず、ただその場に立ち尽くした。雨水は服をすっかり濡らし、肌に張りついていた。「悠真」聞き慣れた声が背後から聞こえた。悠真は勢いよく振り返る。ぼやけた視界の向こうに、星乃が少し離れた場所に立っていた。傘を差し、にこにこと笑いながら彼を見つめている。「迎えに来たよ。一緒に帰ろう」「星乃……?」悠真の心臓が激しく脈打った。息が荒くなり、小走りで駆け寄る。だが近づいた瞬間、それがただ傘を差して通りかかった見知らぬ人だと気づいた。相手は彼を見るなり、まるで変な人を見るような目を向け、避けるように足早に去っていった。どこに星乃がいるというのか。悠真は呆然とその場に立ち尽くした。しばらくしてようやく、頭が現実を受け入れる。星乃とは、とっくに離婚していた。彼女が自分から近づいてくることもない。「迎えに来たよ」などと言ってくれることも、もうない。気づかないうちに、自分は星乃を失っていたのだ。悠真はふと、あの日のことを思い出した。星乃が篠宮家を追い出され、自分の胸で泣き崩れた夜。自分は彼女を元気づけようと、一晩中花火を上げ続けた。そのとき自分は言った。「星乃。お前は俺の妻だ。だから、愛せるように努力してみる」自分は昔から、一度口にしたことは守る人間だ。なのに、なぜこの約束だけは果たせなかったのだろう。雨はますます激しさを増していく。高く通った鼻筋を伝い、次々と雨粒が流れ落ちた。
かつて星乃の母親は、命の恩を盾にして二人に別れを迫った。誰もが、結衣は無理やり別れさせられ、仕方なく海外へ行ったのだと思っていた。けれど今、彼女は言った。別れることに同意したのは自分で、海外へ行ったのも、星乃の母親から受け取った補償金があったからだと。――じゃあ、あの時の「別れを強いられた」って話は何だったのか。自分がこれまで星乃を傷つけ続けてきたのは、一体何だったのか。悠真の骨ばった指先が小さく震える。目は血がにじんだように赤い。そんな彼とは違い、結衣は不思議なほど落ち着いていた。「だって、あなたが好きだったから。離れたくなかったの」悠真は低く問い返す。「別れたくなかったなら、どうして受け入れた?」「……私には必要だったの。そのチャンスが」結衣は静かに言った。「あなたと対等に並んで立ちたかった。みんなに釣り合ってないって思われるのが嫌だったの。悠真、あなたは生まれた時から何不自由なく育ってきたでしょ。身分も立場も特別で、誰もあなたを軽んじたりしない。だから、表には出ない悪意がどれだけ人を傷つけるか、きっと分からないのよ。ずっと下の立場にいた人間にとって、『上に行ける未来』がどれほど大きいものかも。私は胸を張ってあなたの隣に立ちたかった。佳代おばさんにも認めてもらいたかったの。私たちの関係を、ちゃんと許してほしかった」けれど、それを悠真に話すわけにはいかなかった。冬川家の力で留学する形にも、したくなかった。もし最初から冬川家に与えられたものになってしまえば、どれだけ努力して戻ってきても、結局は冬川家より下の立場のままだったから。そこに星乃が関わったことで、話は変わった。星乃の母親は秘密を守ると約束してくれた。しかも、その出来事を利用して周囲の同情まで得ることができた。冬川家にも、ほんの少しでも罪悪感を抱かせることができれば、それだけで状況は変わる。結衣はふっと笑い、焦点の合わない視線を悠真へ向けた。すべて、自分の思い描いた通りに進んでいた。――ただ、一つだけ予想外があった。それは悠真だ。自分がいない間に、悠真は星乃を愛してしまった。結衣は彼を見つめ、痛みを押し殺した声で言う。「あなたが今、何を考えてるか分かる。私のこと、ずるいとか卑怯だって思ってるんでしょ?でも、星乃たちだって同じじ
花音は呆然としたまま目を見開いていた。その事実は、さっきの出来事に負けないほど大きな衝撃だったらしい。その反応を見て、星乃は花音がすべて理解したのだとわかった。本当は、この話を花音にするつもりはなかった。花音が結衣をどう思おうと、どれだけ慕っていようと、それは花音自身の問題だ。わざわざ口を出すつもりはなかった。自分は自分で、結衣とは最後までやり合うつもりでいた。けれど、さっき花音が結衣のために登世のところまで来た姿を見て、このまま諦めさせなければ、あとあと面倒になると悟った。「たとえ悪気がなかったとしても、あなたが危険な目に遭うってわかっていながら、事実を隠してたのよ。あなたにさえそんなことができる人なんだから、私に対してどうだったかなんて、言うまでもないでしょ。だから私の考えは、もうわかったはずよ。あなたや冬川家のみんなが何を言っても、私は絶対に気持ちを変えない」星乃は静かに言った。そう言い残し、背を向ける。今度は花音も引き止めなかった。その場に立ち尽くしたまま、胸の奥で何かが少しずつ腐っていくような感覚だけが残っている。……空はどんよりと曇っていた。通りでは、一台の車が人々の悲鳴を引き裂くように猛スピードで走り抜け、そのまま結衣の住むエリアへ突っ込んでいく。悠真は急ブレーキを踏み込んだ。タイヤが地面を擦る耳障りな音が響き、周囲の視線が一斉に集まる。だが悠真は気にも留めず、そのままドアへ向かい、暗証番号を入力した。ここは以前、悠真が結衣のために用意させた家だった。訪れた回数は多くない。それでも暗証番号だけは、身体に染みつくほど覚えている。結衣の誕生日だからだ。これまで彼の別荘やマンションさまざまなパスワードに、ずっと同じ数字を使ってきた。もともとは別れる前に結衣が変更した番号で、当時の悠真は特に気にも留めず、そのまま使い続けていた。その後、星乃がその番号を見るたび傷ついていると気づいてからは、逆に星乃への当てつけのような気持ちになり、結局今まで変えないままだ。けれど今になって、悠真は胸が引き裂かれるように痛い。自分では意地になって続けてきたことが、全部ただの笑い話になってしまった気がした。悠真がドアを押し開ける。途端に、濃い酒の匂いが押し寄せてきた。結衣はソファに座
昨夜、花音はずっと考えていた。そして気づいたのだ。星乃は、案外悪い人じゃないのかもしれない、と。少なくとも、自分があんなふうに傷つけられた側だったら、絶対に耐えられなかったはずだ。なのに、冬川家で星乃をいちばんひどく傷つけてきたのは、ほかでもない自分だ……花音が気まずさを覚えていると、星乃のほうから歩み寄ってきた。花音は慌てて背筋を伸ばし、何か言おうとしたが、その前に星乃が口を開いた。「数か月前、あなたが薬を盛られて、夜中に私へ電話してきたこと……覚えてる?」その言葉に、花音は一瞬固まった。すぐに顔をしかめ、苛立ったように言い返す。「何が言いたいの?その件で私を脅すつもり?証拠がないからって、あなたの仕業だって気づいてないとでも……」最後まで言い切る前に、星乃は一冊のファイルを彼女へ差し出した。「これ、見て。話は全部見終わってからにして」花音は半信半疑で受け取り、中身を一枚ずつ確認していく。だが読み終えた瞬間、身体がぴたりと固まった。そこには監視カメラの画像が入っていた。キャップをかぶった女性が、本棚から一冊の本を取り出し、その中に薄い小袋のようなものを忍ばせている。画像は驚くほど鮮明だった。袋の模様まではっきり見えるし、その人物が結衣だということもすぐに分かった。悠真が勝手に部屋へ出入りするようになってから、賃貸でも安心できないと感じた星乃は、室内に監視カメラを設置していた。けれど、結衣はそのことを知らなかったらしい。ただ、その頃の星乃は仕事が忙しく、映像を確認する暇がなかった。後になって荷物を整理していた時、この袋を見つけ、ようやく監視映像を確認したのだ。「そのあと、袋の中の粉を検査に出したの。結果は媚薬成分入りだった。しかも、結衣がそれを私の部屋に置いたタイミングは、ちょうどあなたが薬を盛られた翌日だった」星乃は静かな声で言った。写真の横には、検査結果の書類も添えられていた。衝撃、恐怖、喪失感……いくつもの感情が一気に押し寄せ、花音の手は震えていた。「結衣さんが……私を?」信じられないというように、花音は小さく呟く。だが星乃は首を横に振った。「違う。彼女が狙ってたのは、私」花音が理解できずにいるのを見て、星乃は続けた。「どうやってあなたに飲ませたのかは分からない。でも、
花音は登世を訪ねてきたが、中庭に入ったところで、悠真がすでにドアの前に立っているのを見つけた。花音が声をかけた直後、悠真は彼女を一瞥もしないまま、そのまま背を向けて立ち去っていく。漂う空気は冷え切っていた。怒っているようにも見えたし、別の感情を押し殺しているようにも見えた。とにかく、様子がおかしかった。さすがの花音も少し気圧され、すぐには追いかけられなかった。我に返ると、彼女はドアを開けて登世の部屋へ入った。さっきドアの外で話していた声が中まで聞こえていたため、花音が入ってくると、部屋にいた三人が一斉に振り向いた。「星乃、ちょっとおばあちゃんと話があるの。席を外してくれる?」本当はもう少し柔らかい態度で話すつもりだった。けれど、これまでの癖が抜けないのか、口調はどこか強く、命令のような言い方になってしまう。声のトーンもどこかぎこちない。星乃が返事をする前に、登世が口を開いた。「いいのよ。星乃は身内みたいなものだから、隠さずここで話しなさい」「おばあちゃん」花音は登世の腕に抱きつき、甘えるように身を寄せた。「孫娘なんだから、二人だけで内緒話したいの」そう言いながら、花音はちらちらと星乃を見る。空気を読んで、自分から席を外してほしかったのだ。星乃に頼みごとをしに来たことを、本人の前で口にするのは、さすがに気まずい。だが星乃は気づかないふりをしているのか、その場から動こうとしない。花音はだんだん焦ってきた。登世はくすっと笑い、花音の髪を撫でながら言った。「その内緒話っていうのは、結衣のことを許してくれるよう、私から星乃に頼んでほしいんでしょ?」図星を突かれ、花音は気まずそうに目を伏せた。登世の声が少し厳しくなる。「それはあなた一人の考え?それとも、あなたの両親も同じ意見なの?」登世の表情はかなり険しかった。花音は胸がひやりとして、答えられない。けれど、黙ったままでも登世にはだいたい察しがついたようだ。「帰ったら両親に伝えなさい。結衣の件には、冬川家の誰も口を出してはいけない」花音は小さな声で言った。「でも……結衣さんは冬川グループのいくつかのプロジェクトに関わってるし、辞めたら会社にも損失が……」「どれほどの損失なの?」登世は冷たい声で問い返した。「彼女一人いなくなったくら







