LOGINしばらく呆然としていた汐里は、一歩、また一歩と、ゆっくり俺のほうへ歩いてきた。「颯人……」俺は警戒するように後ずさり、無表情のまま彼女を見つめた。「ここに何しに来た?家族から、病気だって聞いてるけど」汐里は一瞬、言葉を失った。まるで冷水を浴びせられたかのように、顔が強張った。「私が病気だって知ってたのに、どうして戻ってきてくれなかったの?まさか……あなたにとって、私はいてもいなくても同じ存在なの?」彼女は信じられるはずがなかった。以前の俺なら、薬を買って彼女に飲ませ、一晩中ベッドのそばで付き添っていた。けれど今はもう、彼女が無事かどうかなんて、俺には関係ない。俺は苦しげに口を開いた。「もう別れたんだ。俺には、君の面倒を見る義務なんてない」次の瞬間、汐里が俺の手を握りしめた。その目には、どうしても納得できないという色が浮かんでいた。「どうして?どうしてあなたの一存で別れられるの?私は一度も別れるなんて言ってない。これからだって、絶対に認めないわ」彼女はひどく真剣な顔をしていた。まるで、本当に俺を大切に思っているかのように。でも、彼女の本性を誰よりも知っている俺は、もう二度と騙されるつもりはなかった。俺は苛立ったように彼女の手を振りほどき、自嘲するように笑った。「好きにすればいい。俺はもう、君とやり直すつもりはない」「じゃあ、私たちの思い出まで金に換えるの?」汐里は突然、激しく取り乱した。手にしていた設計図が、床一面に散らばっていく。今日の授賞式が終われば、俺の設計図はオークションにかけられる。優れた作品なら、かなりの高値がつく。「それがどうした?俺のものだ。売りたいと思ったから売る」汐里は茫然と俺を見つめた。「これ、私たちの新居の設計図でしょう?あなた、本当に簡単に手放すつもりなの?あなたがどれだけ心を込めて作ったか、私は知ってる。細かいところまで、全部私の体のことを考えて設計してくれたんでしょう?そんなものを、他人の手に渡すなんて……私にはできない」俺は思わず、皮肉な笑みを浮かべた。以前、俺はこの設計図を彼女に渡し、新居の施工を任せていた。それなのに、俺がずっと夢見ていた新居は、いつの間にか別の誰かの好みに染まってしまった。今になって彼女は、そ
結婚式を数時間後に控えた頃、俺のスマホには、ひっきりなしに電話がかかってきていた。だが、俺は一つひとつ着信を切り、最後にはかかってきた番号をすべてブロックした。汐里からも、何度もメッセージが届いた。どこにいるのか、どうしてまだ現れないのか。何度も尋ねてきた。けれど彼女は知らなかった。俺はもう、結婚式場をすべてキャンセルしていた。大切にされない結婚式なんて、結局はただの笑い話になるだけだ。いっそ、きれいに別れて、お互い何のしがらみも残さないほうがいい。新しい会社に入社してから、俺はすべての時間と労力を新しい環境に馴染むことへ注ぎ込んだ。数日後、汐里の親友たちが、違う番号から何度も俺に電話をかけてきた。うっかり一度だけ、電話に出てしまった。「颯人さんを探すため、汐里はもう気が狂いそうになってるんです。お願いだから、戻ってきてください。今、高熱が下がらなくて、如月のおばさんも心配のあまり入院しちゃったんです。颯人さんが戻ってくれたら、二人の関係もきっと元に戻せますよ」電話の向こうから、別の声も重なった。「そうですよ。颯人さんの継父も逮捕されたし、お母さんの事件も再捜査してもらえることになったんです。汐里がかなり動いてくれたんですよ」……向こうから延々と続く説得を聞いていると、ただただうるさく感じた。「汐里に伝えてください。俺は戻りません。それに、俺は何度も彼女に別れようって言ってました。ただ、彼女が聞いてなかっただけです。それがわざとだったのかどうかなんて、もうどうでもいいです。それでは……」そう言うと、相手が何か言い返すのも待たず、俺は電話を切った。窓の外を行き交う車や人々を眺めながら、俺は汐里が初めて補聴器をなくした日のことを思い出していた。「颯人……颯人……」人混みの中で、彼女は必死に俺の手を握り、不安そうに俺を見つめていた。その瞳には涙が溜まっていた。あの日から、俺は彼女を必ず守ると誓った。彼女の弱さも、優しい一面も、俺は誰より分かっていたからだ。なのに、まさか先に俺の手を放したのが彼女だったなんて。その日の夜、汐里の母親から、珍しく俺に電話がかかってきた。開口一番、咳き込む声が聞こえた。「颯人……今まで、私はあなたにあまりにも酷く当たってしまっ
「し……汐里?」遠真は勢いよく立ち上がった。その顔は紙のように真っ白だった。そして、なんとか話題を逸らそうとする。「どうして急に来たんだ?もしかして、颯人が戻ってきたのか?」汐里は険しい顔のまま、ゆっくりと彼のほうへ歩いていった。「今、何て言ったの?あなたがお金を払って、この人を雇って颯人を脅させたってこと?」遠真は怯えたように、じりじりと後ずさった。「俺はただ、おじさんと話が合って、冗談を言い合ってただけだよ。他に何の意味もないって」颯人の継父も慌てて頷いた。「そうだ。俺は本当にもう改心したんだ。息子の結婚を祝いたくて来ただけなんだよ」だが、ついさっき交わされた二人の会話も、金のやり取りも、汐里の脳裏には鮮明に残っていた。汐里は目の前の男を見つめたまま、信じられないという顔をした。幼い頃から、何より可愛がってきた男の子が、まさかこんなにも腹黒いことを企んでいたなんて。「遠真!この人はもう改心したって、あなたが言ったから、私は結婚式に呼ぶことを許したのよ。それなのに、よくも私に嘘をついたわね!あなたたちが裏で手を組んでるって知ってたら、何があってもこのクズを呼ばせなかった!颯人の邪魔なんて、絶対にさせなかったのに!」彼女は知っていた。颯人が継父のもとで、どれほど苦しめられてきたのか。そして、颯人が継父をどれほど憎んでいるのかも。遠真から「二人のわだかまりを解いてあげよう」と持ちかけられたときも、汐里は迷っていた。それでも、颯人には一日も早く過去の苦しみから解放され、前を向いてほしかった。だからこそ、彼女はその提案を受け入れたのだ。汐里は颯人の継父を睨みつけた。「どうして、幼い子供にあんな酷いことができたの?殴るだけじゃなくて、お母さんまで奪ったんでしょう?」そう言ううちに、汐里の目はみるみる血走っていった。「どうしても改心する気がないっていうなら、私が颯人の代わりに、あなたに償わせる」そう言うと、汐里はスマホを取り出し、警察へ通報した。継父は慌ててその場に跪き、必死に懇願した。「頼む、警察だけはやめてくれ!如月さん、本当に悪かった!すぐにあいつに謝るから、頼む!」それでも汐里は、電話をかける手を止めなかった。「はい。この事件、よろしくお願いします…
「何ですって?!」汐里の額に青筋が浮かび、無意識に手のひらを強く握りしめた。会場責任者は息を整えると、申し訳なさそうな顔で言った。「この時期は結婚式を挙げる方が本当に多くて、ついお伝えするのを忘れてしまいました。それに、如月さんは新婦なのに、どうしてご存じなかったんですか?」汐里はその場に呆然と立ち尽くした。彼女の隣にいた花嫁介添えの友人たちも、一瞬気まずそうな顔を見合わせたが、すぐに場を取り繕い始めた。「たぶん颯人、私たちをからかってるだけよ。ずっと結婚したいって騒いでたじゃないの」「そうだよ。何年も前から、颯人は汐里のことを自分を救ってくれた人みたいに思って、べったりだったじゃないの。まさか何か問題が起きるなんて」「もしかしたら寝坊したんじゃない?それとも気が変わって、あなたにサプライズを仕掛けようとしてるんじゃない?」……ようやく我に返った汐里は、自分に言い聞かせるように言った。「そうね。あの人のわがままな性格なら、ありえない話でもないわ」口ではそう自分を慰めながらも、胸の奥にはずっと嫌な予感が引っかかっていた。家へ向かう車の中で、汐里は何度も颯人に電話をかけた。けれど、返ってくるのは冷たい機械音声ばかりだった。【おかけになった電話は、現在つながりません。しばらくしてから、もう一度おかけ直しください……】彼女は続けてメッセージを送った。【もういい加減にして。ふざけるのにも時と場合があるでしょう。今日は結婚式なのよ】【早く電話に出て。みんなの前で恥をかかせないで】結婚式場は、すでに大混乱に陥っていた。汐里の母親からも、何度も電話がかかってくる。「だから言ったでしょう。身分の低い家の男なんて結婚するものじゃないって。どう?こんなおめでたい日に、いい気になってるじゃない!」汐里はますます苛立った。「お母さん、ゲストの方たちを落ち着かせて。私は今、家に戻ってるところだから。絶対に彼を連れていくから」家に着くと、汐里と友人たちは手分けして颯人を探し始めた。だが、全員が集まったところで、返ってきたのは一様に首を横に振る姿だけだった。「物置まで探したけど、本当にいないわ」そして汐里が寝室のドアを開けた瞬間、言葉を失った。元々生活感に満ちていた部屋が、がらんとしてい
広間には親族や友人たちが所狭しと集まり、グラスを手に談笑していた。皺だらけのパジャマ姿で現れた俺を見ると、汐里は不機嫌そうに眉をひそめた。「今日が結婚式のリハーサルだって忘れたの?両親はもう来てるのよ。それなのに、そんな格好で降りてくるの?」周囲から、侮蔑や嘲笑の視線が俺に突き刺さる。まるで、こんな格の低い男と汐里が結婚するなんて、とでも言いたげだった。汐里は自分まで恥をかいたような顔をして、苛立たしげに手を振った。「ちゃんとした礼服に着替えてきて。まるで如月家があなたを粗末に扱ってるみたいじゃない」その一方で、遠真はまるで新郎本人であるかのように、結婚式用のタキシードを身にまとっていた。俺は汐里の横柄な態度を無視した。そして、みんなが集まっているこの場で、正式に婚約破棄を告げようとした。ちょうどそのとき、遠真が足早に近づいてきて、俺をある男の前へと連れていった。「こんなおめでたい日に、せっかくだからおじさんも呼んで、一緒にお祝いしてもらおうと思ってさ。颯人さん、余計なことしたなんて怒らないでよ」俺は顔を上げた。その瞬間、心臓が止まったような気がした。そこに立っていたのは――俺の目の前で母親を殴り殺した、あの継父。耳元で、継父の声が悪魔のように響いた。「颯人、結婚なんて大事な祝い事なのに、どうして父さんを呼ばないんだ?俺もお前を祝ってやろうと思って来たんだ」瞬間、恐怖と憎しみが電流のように全身を駆け巡った。すると遠真が突然、俺の耳元へ顔を寄せ、興奮した様子で囁いた。「この人、お前の母親を殴り殺したんだって?しかも遺体はいまだに見つかってないらしいじゃないか。なのに、よくこんなところで結婚なんかしてられるな。それに、こんな幸せな日に家族がいないなんて寂しいだろ?そう思わないか?」昼も夜も俺の悪夢に現れる、あの悪魔を目の前にして、俺は怒りで目を血走らせた。「どうして、そんなことを知ってる?」声は震え、俺の姿は自分でも恐ろしいほど狂気じみていた。遠真は、何も知らずに立っている汐里へ視線を向けた。「一度、汐里にイラッとさせられてしまって。そのとき、汐里が俺を慰めるためにこの話をしてくれたんだ。ああ、颯人さん、そんな怖い顔で睨まないでよ」パァン!俺は拳を振り上げ、遠真の顔面
元の家に戻ると、俺は出ていくための荷物をまとめ始めた。すると、思いがけず帰ってきた汐里にその姿を見られてしまった。彼女は、俺が新婚旅行の荷造りをしているのだと勘違いしたらしい。「こんなに早くから?気が早すぎない?それに、新婚旅行は南極に行くんだから、夏服なんて持っていってどうするの?凍え死ぬわよ」俺は呆然とした。ずっと前から、結婚したらノルウェーへ新婚旅行に行こうと二人で決めていた。そこは、俺たちが出会った場所だったからだ。あのとき彼女は俺にキスをして、こう言った。「何度思い出の場所を訪れたっていい。でも、隣にいる人だけは、ずっと変わらないからね」だから3日前、俺は彼女に航空券を買ってもらっていた。俺はほとんど反射的に口にした。「ノルウェーじゃなかったのか?」汐里は苛立ったように2枚の航空券を取り出した。確かに、行き先は南極だった。その直後、彼女のポケットからもう1枚の航空券が落ちた。日付も行き先も、同じだった。彼女は一瞬、動きを止めた。そして、どこか不自然に言い訳した。「たぶん、私が聞き間違えたんだと思う。あなたが南極に行きたいんだと思ってたの。支払いのときに間違えて押しちゃって、もう1枚買っちゃったみたい」けれど、そのもう1枚に書かれていた名前は、はっきりと遠真だった。ふと、3日前のことを思い出した。遠真はSNSに、南極のオーロラの動画を何本もシェアしていた。【誰か南極にオーロラを見に連れていってくれるかな。ここで願掛けしておこうっと】今なら分かる。その願いを叶えてやろうとしているのは、汐里だったのだ。俺の声は、一度だって彼女の心には届かなかった。そして俺という人間も、最初から彼女の心の中には入っていなかった。俺は顔を上げ、こぼれそうになる涙を必死に堪えた。「俺の分はキャンセルしてくれ」それを聞いた汐里は、ついに俺に対する忍耐を失った。「どこに旅行したって大して変わらないでしょう?一人増えたほうがお互い助け合えるし、そんなことにいちいちこだわる必要ある?ほんと、どんどん面倒くさくなってるよね」俺は顔を上げ、彼女の目を見つめた。まさか、こんな言葉を汐里の口から聞くことになるなんて、信じられなかった。継父の暴力から逃れ、暗闇から抜け出したあと、俺は