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私だけが、あなたの外側にいた

私だけが、あなたの外側にいた

By:  ページの住人Completed
Language: Japanese
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黒瀬怜司(くろせ れいじ)は、自分の領域に人を入れることをひどく嫌っていた。3年付き合っていても、私は彼の家に入るための暗証番号を知らなかった。 泊まりに行くたび、前もって許可を取り、彼が下まで迎えに来るのを待たなければならなかった。 必要な線引きなんだ、と彼は言った。私はその考えを尊重していた。 けれど、ある日、予定より早く着いて電話をかけようとしたときのことだった。 エレベーターのドアが開き、彼の同僚の望月千晴(もちづき ちはる)が、カードキーでセキュリティ扉を通り抜けた。 そして、彼の部屋の前では指紋認証のセンサーに指を当てた。 ドアが開いた。 振り返って私に気づいた彼女は、一瞬、きょとんとした。 「どうしてここにいるの?怜司、今夜は都合が悪いって言ってたけど」 どうして指紋を登録してあるのか、私は尋ねた。 「去年からよ。よく猫にごはんをあげに来るから」 彼は、猫を飼っていることすら教えてくれていなかった。猫の毛にアレルギーがあるから、ペットは飼えない。そう言って、猫を飼いたいという私の頼みを、3回も断ったのに。 あとで千晴の投稿をさかのぼり、あの猫は、彼女が誕生日プレゼントとして贈ったものだったと知った。 私はスマホから、彼の家に行ってもいいか、いちいち確認していたメッセージをすべて消した。 怜司、あなたの引いた線が閉じ込めていたのは、私一人だけだった。彼女は、とうの昔に、あなたの領域の中で暮らしていたのに。

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Chapter 1

第 1 話

「梓、ドアを閉めて」

怜司は玄関に立ち、驚いてソファの下へ逃げ込んだ猫を先に見てから、ようやく私に目を向けた。

千晴は、もうスリッパに履き替えていた。靴箱には同じデザインの男性用もある。急に用意したものではないのは明らかだった。

ドアを閉めて足元を見ると、私には使い捨てのスリッパが一足、置かれていた。

怜司の口調は淡々としていた。

「早く来るなら、どうして言わなかった?」

「メッセージは送ったよ」

「会議中で、スマホを見ていなかった」

そう言うと、彼はスーツの上着を千晴に渡した。

彼女は当たり前のように受け取り、振り返ってウォークインクローゼットに掛けると、慣れた手つきで冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出した。

猫がソファの下から顔をのぞかせた。

千晴はしゃがみ込み、優しく手を差し伸べる。

「モチ、ママが帰ってきたよ」

怜司の眉間にあった険しさが、少し和らいだ。

「あまり甘やかさないでくれ。さっきもまたカーテンを引っかいて駄目にしたんだ」

立ち尽くしたまま、私は指先をゆっくりと手のひらに食い込ませた。

モチという名前だったんだ。この家には、千晴の指紋も、スリッパも、コップもある。それだけではない。彼女の帰りを待つ猫までいた。

私は十数回も来ているのに、置いておく歯ブラシさえ自分で持ってこなければならなかった。

千晴は猫を抱き上げ、ようやく私の存在を思い出したように言った。

「森川さん、誤解しないでね。怜司は仕事が忙しいから、私がたまにモチの世話をしに来てるだけなの」

「たまにって、どのくらい?」と私は尋ねた。

猫の背中をなでる彼女の手が、一瞬止まる。

「週に3、4回かな。遅くなったときは、ゲストルームに泊まることもあるけど」

怜司が眉をひそめた。

「そんなことを聞いて、何か意味があるのか?」

「あるよ」

私は彼を見た。

「怜司、私たち、付き合って3年だよ。私はあなたの家に来るのに、前もって許可を取らなきゃいけない。彼女はいつでも入れて、泊まることまでできる。それって公平だと思う?」

彼はアイランドキッチンへ行き、コップに水を注いだ。

「千晴はモチの世話をしている。自由に出入りできるようにしておく必要があるんだ」

「私は?」

「君には必要ない」

たったひと言。迷いもためらいもなかった。思わず笑いが漏れた。

「恋人なのに、あなたの家に入る必要はないってこと?」

「梓、恋人だからといって、越えていい境界じゃない」

怜司はコップを置き、指先でキッチンカウンターを軽く二度たたいた。苛立ったときの彼の癖だった。

「何度も言っただろう。自分の空間に勝手に踏み込まれるのは好きじゃない。今日、急に来たこと自体、よくないんだ」

「でも、望月さんが来るのはいいのね」

「彼女と君は違う」

千晴は目を伏せ、小声で彼をなだめた。

「怜司、そんな言い方しないで。森川さんが傷つくよ。私の指紋登録、消そうか?これからは管理会社の人に開けてもらえばいいんだし」

消すと言いながら、彼女は動かなかった。

案の定、怜司が止めた。

「その必要はない。モチには君が必要だ。彼女がすねたからって、今までのやり方を変えることはない」

モチは千晴の腕から飛び降り、私を避けて、慣れた様子で怜司の足元に寝そべった。

彼は身をかがめ、その頭をなでた。

3年前、ペットショップの前で、前の飼い主が手放した茶トラの猫を気に入ったことがある。怜司に3回頼んだ。でも、一度も頷いてはくれなかった。それだけは譲れないのだと思っていた。

今ならわかる。譲れるかどうかも、相手次第だったのだ。

私は彼のために買ったネクタイをバッグから出し、キッチンカウンターに置いた。今日は、付き合い始めて3年の記念日だった。早く来たのは、彼を驚かせて喜ばせたかったからだ。

千晴は箱に目をやると、ふと笑った。

「これ、見覚えがある。怜司、もう持ってなかった?」

怜司は箱を開け、ひと目だけ見た。

「ああ。先月、君が似たものをくれた」

千晴は申し訳なさそうに私を見た。

「ごめんね、知らなかったの。あのネクタイ、怜司にぴったりだと思ってつい……」

怜司は箱の蓋を閉め、私の前へ押し戻した。

「返品しておいで。無駄にすることはない」

「今日が何の日か、覚えてる?」

彼は腕を上げ、時計を見た。

「木曜日」

不意に、千晴のスマホが鳴った。電話を終えた彼女は、少し困った顔をした。

「動物病院から、モチの追加の予防接種の時期だって。でも私、夜は用事があって」

怜司は車のキーを取った。

「俺も一緒に行く」

玄関まで来て、ようやく私を振り返る。

「君も早めに帰って。これからは、俺の返事を待ってから来るように」

私はネクタイの箱を手に取らなかった。ただ、小さな声で尋ねた。

「怜司、私もこの家に自由に入れるようになりたいって言ったら?」

彼は2秒、黙った。

「梓、そんなやり方で俺を試さないでくれ」

目の前で、ドアが閉まった。

……

翌日の午後、怜司からメッセージが届いた。

【昨夜の態度は悪かった。だが、急に押しかけてきた君にも非がある。お互い反省して、この話は水に流そう】

私はその文面を長いこと見つめ、【わかった】とだけ返した。

すぐに、今度は店の住所が送られてきた。

【今夜は部署の食事会だ。俺の同僚に会いたいって、前から言ってただろう?18時に来て】

この3年間、彼は仕事関係の集まりに私を連れていったことがなかった。昨夜の言い争いで、少しは変わってくれたのかと思った。

仕事が終わると、私はわざわざ家に戻り、ワンピースに着替えた。

店に着いたときには、個室はもう人でいっぱいだった。怜司の隣に、一つだけ空いた席がある。

そこへ向かいかけたところで、千晴がケーキを提げて入ってきて、笑顔で言った。

「ごめんね。モチの手当てが長引いちゃって」

すぐに誰かが声をかけた。

「黒瀬家の奥様、お席は取ってありますよ」

千晴が頬を赤らめる。

「そんな呼び方しないで。森川さんもいるのに」

一瞬、個室が静まった。十数人の視線が、一斉に私へ向いた。

怜司は何も説明せず、千晴のために隣の椅子を引いただけだった。

「座って」

私はテーブルのそばに立ち、自分のために空けられているように見えた席を見つめた。

同僚が慌てて取りなした。

「森川さんは、こちらへ。弁護士の河原(かわはら)先生をご紹介します。黒瀬さんから伺いましたが、最近、お仕事でもご一緒されているんですよね?」

私はいちばん端の席に座った。

怜司が私を呼んだのは、恋人だと認めるためではなかった。私たちの会社が共同で入札に参加しているから、契約書の確認を担当する弁護士と引き合わせておきたかった。それだけだった。

食事が始まってからも、話題はプロジェクトのことばかりだった。

怜司は黙々と食べ、ときおり顔を傾けて千晴の話に応じていた。

私の取り皿は、ずっと空のままだった。卓上の料理には、ほとんどピーナッツが入っていた。私は重いピーナッツアレルギーだ。

この店を選んだのは、千晴だった。

付き合って1年目に、ピーナッツのソースをうっかり口にして、病院で手当てを受けたことがある。あの夜、怜司は明け方まで付き添い、私のアレルゲンをスマホにメモしていた。

それくらいは、覚えてくれていると思っていた。

けれど彼は、顔を上げて私を見ただけだった。

「どうして食べない?」

「食べられるものが、ほとんどないから」

「好き嫌いはよくない」

千晴が、すぐに店員を呼んだ。

「サラダを一つ追加してください。ピーナッツは入れないで。怜司、森川さんはピーナッツアレルギーでしょう。忘れたの?」

怜司の手がわずかに止まった。

「……最近、忙しくてな」

謝罪はなかった。代わりに、千晴が優しい声で私を慰めた。

「この人、自分の誕生日も忘れるくらいだから、気にしないで。私たち、10年の付き合いだけど、私のアレルギーまで忘れることがあるの」

同席していた一人が笑った。

「またまた。この前、君がマンゴーアレルギーだって、黒瀬さんは取引先から届いた果物を全部送り返したじゃないか」

別の人が続けた。

「黒瀬さんは物忘れがひどいんじゃなくて、大事なことしか覚えないんですよ」

急に、場が静まり返った。言った本人もまずいと気づいたらしく、気まずそうに酒をひと口飲んだ。

ようやく怜司が眉をひそめた。けれど、その相手は彼らではなかった。

「梓、そんな顔をしないでくれ。みんな冗談を言っているだけだ」

何でもないことのように言われた。

まるで私が恥をかかされたのではなく、場違いな態度を取っただけのように。

私は唇の端をわずかに持ち上げた。

「今夜、私を呼んだのは、仕事の話をするため?」

彼は手を拭いた。

「ほかに何がある?」

「同僚の人たちは、私たちが付き合ってるって知ってるの?」

怜司の目が、少し冷たくなった。

「たかが冗談を、わざわざ人前で問題にするのか?

私的な関係を仕事の場に持ち込む必要はない。君はプロジェクトの協力相手だ。感情的になって、仕事の実力まで疑われるようなことはしないでくれ」

心が一瞬で冷たくなった。私は立ち上がり、バッグを取った。

千晴も立ち上がった。

「帰らないで。あなたに謝るよう、私からみんなに言うから」

「結構です」

私は怜司を見て、静かに言った。

「黒瀬さんのおっしゃるとおりですね。私的な関係で、仕事に影響を与えるべきではありません」

怜司の眉が、ぴくりと動いた。

私は初めて、彼が送ってくれるのを待たずに、一人で個室のドアを開けた。

ドアが閉まりかけたとき、中から同僚のひそめた声が聞こえた。

「黒瀬さん、あの子、本当に恋人なんですか?」

短い沈黙のあと、怜司が平然と答えた。

「まだ、どうなるかわからない。千晴の前で余計なことは言わないでくれ」

……

確かに怜司は、仕事と個人的な感情をきっちり分けている。そのことが、よくわかった。

翌日の午後、入札に向けたリハーサルの前に、アシスタントが新しい進行表を手に、驚きもあらわに駆けてきた。

「森川さん、メインのプレゼン担当の名前、どうして変わっているんですか?」

受け取って、目を通す。

進行表の、もともと私の名前があったメインのプレゼン担当の欄には、はっきりと千晴の名が載っていた。

この住宅プランは、コンセプトから300枚を超える図面まで、私がチームを率いて半年かけて作り上げたものだ。千晴は会議を2回、傍聴しただけだった。

私は進行表を握りしめ、そのまま会議室のドアを開けた。

「怜司、説明して」

彼は身をかがめ、千晴のためにプロジェクターを調整していた。私の声を聞いても、淡々と目を上げただけだった。

「急な変更だ。千晴が説明して、君は質疑応答を担当する。彼女はマーケティング部門の責任者だ。君より説明がうまい」

私は進行表を机に置いた。

「核になるコンセプトも、平面図も、模型も、全部私のものよ。望月さんは図面の寸法を確認したことすらない。どうして彼女がメインのプレゼンをするの?」

千晴はノートパソコンを閉じ、静かに言った。

「あなたの手柄を横取りするつもりはないの。最近のあなたは調子がよくないから、本番で取り乱さないか心配だって、怜司が言ってたの」

「私がいつ、取り乱したの?」

怜司が口を挟んだ。

「昨夜、チーム全員の前で俺たちの関係を問い詰めただろう。あれで、協力し合う雰囲気を壊したんだ」

怜司は椅子を引き、私に座るよう促した。

「梓、俺と千晴が親しくしているのが気になるのはわかる。でも、これは40億円の案件だ。君の機嫌を取るために使うわけにはいかない」

彼の口調は、相変わらず落ち着いていた。けれど、ひと言ひと言が、私のデザイナーとしての実力を否定していた。

「だから、私の成果を彼女に渡すの?」

「説明を任せるだけだ」

「じゃあ、誰の名前を載せるの?」

私は進行表の最後のページを開いた。メインデザイナーの欄まで、千晴に変わっていた。

会議室では、誰も何も言わなかった。チームの何人かは俯き、私と目を合わせようとしない。

怜司は眉間をもんだ。

「クライアントは千晴を買っている。彼女の名前を出したほうが、受注しやすい。案件を取れたら、ボーナスも利益の取り分も、きちんと払う」

千晴が、水の入ったコップを差し出した。

「怒らないで。受注できたら、祝賀会であなたのことも話すから」

私は受け取らなかった。

「このプランの初稿、見たことある?」

千晴は答えられなかった。

怜司はとうとう我慢しきれなくなり、冷たい声で言った。

「今日から、君はプレゼンのチームを外れる。残りの資料は千晴に渡して。今後の会議にも出なくていい」

胸が締めつけられた。

「怜司、何の権利があって、私を外すの?」

「俺がこのプロジェクトの総責任者だからだ」

「著作権は私が持ってる」

「契約書に明記してある。プロジェクトの期間中に生まれた設計成果は、共同チームに帰属する」

彼は私のことをよくわかっていた。あのとき、彼と一緒に仕事がしたくて、契約書を一条ずつ確認しなかったことも。

渡すとき、彼が言ったのはひと言だけだった。

「君に損はさせない」

それで、私は署名した。

千晴が私の前へ来て、優しく言った。

「森川さん、恋愛のことで、みんなの仕事を止めないでくれる?怜司だって、プロジェクトのためにやってるの」

私はプロジェクターの接続ケーブルを抜いた。画面が、突然真っ暗になった。

怜司が私の手首をつかんだ。力は加減していても、振りほどくことは許さない握り方だった。

「やめてくれ。ケーブルをつなぎ直して。プロジェクトが終わったら、埋め合わせはする。

千晴がここで足場を固めるには、この案件が必要なんだ。君はもう2つも賞を取っている。今回くらい、なくても困らないだろう」

私は彼の目を見据えた。

「彼女が必要としてるから、私が譲るべきなのね?」

怜司は正面から答えなかった。

「どうして彼女と張り合う?」

ふいに、争う気が失せた。手首の力を抜くと、彼も手を放した。

私は接続ケーブルを千晴に渡した。

「わかった。あなたが説明して」

怜司の表情が、少し和らいだ。

「仕事が終わったら会いに行く。そのとき、また話そう」

「もういい」

私は背を向け、会議室を出た。

エレベーターのドアが閉まる前に、プロジェクトのアシスタントが追いかけてきて、書類の入った封筒を私に押しつけた。

「森川さん、黒瀬さんから処分するように言われた古い資料です。シュレッダーにかけるところだったんですが、森川さんのものが入っているかもしれないと思って」

私は封筒を開けた。いちばん上にあったのは、3年前の新人デザインコンテストでの申し立ての記録だった。

申し立ての対象者は、千晴。申し立てた側にあるのは、私、森川梓(もりかわ あずさ)の署名だった。

そして、対応方針の最後のページに、怜司が直筆で署名した社内メールが一通、挟まれていた。件名は、ただこう書かれていた。

【森川梓に接近し、申し立ての取り下げを促す計画について】

……

3年前、私は新人デザインコンテストに参加した。決勝の前夜、私の応募作品は何者かによって無断で公開された。千晴は、それとほとんど同じプランで金賞を取った。

私は異議を申し立てた。けれど主催者は証拠不十分だと言い、調停を受け入れるよう勧めてきた。

どうすることもできずにいた私の前に、怜司が現れた。

彼は弁護士に連絡を取り、一緒に証拠を整理してくれた。私が高熱を出したときには、一晩中付き添ってくれた。

その後、証拠を保存したドライブが思いがけず壊れ、申し立てを続けられなくなった。

彼は言った。

「もうやめよう。一度のコンテストのことで、いつまでも立ち止まっていなくていい。君には俺がいる」

それが、彼を好きになったきっかけだった。この3年間、彼が私を愛してくれたと信じられる、たった一つの証拠でもあった。

けれど、そのメールの日付は、私たちが初めて会った日の7日前だった。

私は一枚ずつ、めくっていった。千晴が彼に送ったメッセージがあった。

【森川さんは、まだバックアップを持っているかもしれない。叔父様が、この件が大事になれば、会社の次の資金調達に響くって】

怜司の返信。

【俺が彼女に接触する】

【すごく警戒してるけど、うまくいく自信はあるの?】

【愛情に飢えている人間ほど扱いやすい。少し辛抱強く付き合ってやれば、自分から諦める】

最後のやり取りは、私たちが付き合うと決めた翌日だった。千晴が尋ねていた。

【彼女、申し立てを取り下げた?】

怜司は返していた。

【もうすぐだ。なだめるのは簡単だよ】

手の中で、紙がかすかに鳴った。

ちょうどそのとき、スマホの画面が明るくなった。母からの電話だった。

今日は、母が腫瘍の摘出手術を受ける日だった。怜司は、来ると約束していた。

病院に着いたときには、もう看護師から2回、催促されていた。

母は病院のベッドに横たわり、顔色が悪かった。

「怜司さん、渋滞にでも巻き込まれたの?」

「うん。もうすぐ着くよ」

私は非常階段へ行き、怜司に電話をかけた。

1回目は、出なかった。2回目は、切られた。3回目に出たのは、千晴だった。

「森川さん、怜司は今、手が離せないの」

「彼に代わって」

「モチがいなくなって、捜してるの。臆病な子だし、外は雨でしょう。本当に危ないのよ」

私はスマホを握りしめた。

「母は30分後に手術なの。来るって約束したのよ」

千晴は少し黙った。

「でも、手術はお医者さんがしてくれるし、あなたもいるでしょう。モチには、私たちしかいないの」

怜司が電話を代わった。呼吸が少し乱れ、電話の向こうからは雨音が聞こえた。

「梓、お母さんの手術は覚えている。でも、モチがいなくなったんだ」

「今から来れば、まだ間に合う」

「千晴は心配のあまり、喘息の発作を起こした。こんなところに一人で置いていけない」

「じゃあ、私の母は?」

「よくある手術だし、危険性も低い。君がそばにいるなら、それで十分だろう」

少し間を置き、彼は口調を和らげた。

「言うことを聞いてくれ。モチが見つかったら、すぐに行く」

言うことを聞いてくれ。3年前、申し立てを取り下げるよう説得したときも、彼はそう言った。

「梓、言うことを聞いてくれ。もう追及はやめよう。君なら、これからもっといい作品を作れる」

私は冷たい壁にもたれ、尋ねた。

「怜司、最初に私へ近づいたのは、望月さんのためだったの?」

電話の向こうが、急に静かになった。傘をたたく雨音だけが聞こえる。

その沈黙が、すでに答えだった。

「……何を言いたい?」

「そうか、違うか。それだけ答えて」

「昔のことは複雑なんだ。電話では説明しきれない」

「つまり、そうなのね」

怜司の声が低くなった。

「最初に君へ近づいた理由には、確かに彼女が関わっていた。でも、そのあとは違う。梓、そこにこだわりすぎないでくれ」

「証拠の入ったドライブ、誰が壊したの?」

「知らない」

答えるのが、あまりにも早かった。

そばで千晴が泣きながら、モチの名前を呼んだ。

怜司はすぐに言った。

「ひとまず切る。またあとで連絡する」

通話が切れた。

看護師が非常階段のドアを開けた。

「森川さん、お母様が手術室に入られます」

私は頬を濡らしていた涙を拭った。

手術室へ運ばれながらも、母は私を慰めていた。

「怜司さんを責めないでね。仕事は大事だから」

私は母の手を握り、笑顔で頷いた。

4時間後、手術は無事に終わった。

ようやく怜司からメッセージが来た。

【猫は見つかった。お母さんはどう?】

私は返事をしなかった。

昔の申し立ての記録をすべてスキャンし、3年間使っていなかったメールアカウントに再びログインした。

宛先の欄には、コンテストの実行委員会、共同プロジェクトのクライアント、そして業界団体の通報窓口のアドレスを入れた。

添付したのは、当時の手描きの原稿だけではない。怜司の社内メールと、たった今見つけ出したクラウドのバックアップ記録も加えた。

最後に、共同プロジェクトの管理画面を開いた。

設計の使用許諾を取り消す。自分の電子署名を削除する。

画面に、続けて二つの警告が表示された。

【取り消すと、このプロジェクトは入札への参加を継続できなくなります】

【よろしいですか?】

私は確認ボタンを押した。

同時に、怜司から音声メッセージが届いた。

「梓、君の指紋も登録していい。もうすねないでくれ。今夜、病院へ迎えに行く……」

最後までは聞かなかった。

画面の中で、通報メールの送信状況を示すバーが、端まで伸びた。

送信完了。

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