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第5話

Author: 春雷の轟き
咲夜は聞けなかった。せっかくのこの一瞬の温かさを壊すのが怖かった。

でも、その夜は特にぐっすり眠れた。

翌日、雨宮グループがスポンサーのファッションショーで、トリのモデルが変更されたというニュースが、なぜかトレンド入りした。

もともとこのファッションショーは注目度が高くなかったが、モデル交代の裏話がみんなの好奇心を刺激した。

咲夜は陸斗の妻だが、誰もが知っている通り、晴香は陸斗の初恋だった。

「初恋」というテーマで、トリのモデルが晴香に変わった。

この裏にある理由は、野次馬たちがしばらく盛り上がるのに十分だった。

「やっぱり雨宮さんは晴香を忘れられないんだ。スーパーモデルの初恋を捨てて、デザイナーと結婚するなんて、雨宮さんは一体何を考えていたんだ?」

「おや、知らないのか。あのデザイナーと雨宮さんはただの政略結婚だ。雨宮さんは水村さんと結婚するはずだった。あの江口って女が雨宮さんにしつこく絡んで、無理やり雨宮家に嫁いだんだ」

「マジで?横取するとは、恥知らずもいいところだな!」

「可哀想なのは晴香よ。愛する人と一緒になれないなんて、本当に胸が痛むよ……」

ネット上の論争はどんどん激化していった。

アシスタントから咲夜に連絡が届いたころには、彼女を非難するトレンドがすでにツイッターのトップ3に入っていた。

アシスタントは慌てふためき、悪評は個人攻撃から咲夜の仕事にまで波及していた。

彼女の以前のデザインは全く価値がないと叩かれ、準備中のファッションショーもボイコットされていた。

それはもう咲夜の広報チームでは手に負えない状況だった。

スマホは罵倒や個人攻撃のメッセージで埋め尽くされた。中傷もどんどん過激になっていった。

「咲夜さん、どうしたらいいんですか?」

困り顔のスタッフを見て、咲夜は歯を食いしばりながら言った。

「私が対処する」

彼女は雨宮グループに向かいながら車を走らせ、アシスタントにメッセージを送った。

このサイバー暴力はあまりにも突然だった。

モデル交代のニュースが出てからわずか翌日に世論は一方的に傾き、細かい事情まで暴かれていた。

誰かが仕掛けているのは間違いない。

「主要なアカウントを全部調べて。誰が世論を操っているのか知りたい」

雨宮グループに向かって猛スピードで走り、入口を通り過ぎる時、人々の視線が背中に突き刺さるように感じられた。

しかし咲夜は気にしない。

今は陸斗を見つけて、何とか損害を食い止めなければならない。

社長専用エレベーターに乗り、直通で陸斗のオフィス階へ向かった。

エレベーターが開くと、陸斗の秘書である鈴木大宙(すずき だいちゅう)と出くわした。

「陸斗はいる?」

そう言いながらオフィスへ向かう。

大宙は礼儀正しく頭を下げ、さりげなく咲夜の進路を阻んだ。

「奥様、社長は今会議中です。お会いできません」

「大事な用事があって、陸斗に会いたいの」

大宙は表情を変えずに言った。

「奥様がお越しになったのは今日のトレンド入りの件ですか?」

咲夜は足を止めた。

「彼はもう知っているの?」

「いいえ。社長から、奥様のことは知らせなくていいと指示されています」

咲夜は喉が詰まり、その場で硬直した。

大宙は明らかにショックを受けた咲夜を見て、少し困り顔になった。そして、鼻筋のメガネを押しながら申し訳なさそうに言った。

「奥様、私を困らせないでください。社長は今、本当に大事なお客様と会っています」

「大事なお客様」という言葉に、咲夜はハッとした。

彼女はどうしても会いに行きたかったが、大宙は止めなかった。

半分だけ覆われたガラスのブラインド越しに、彼女は大宙が話していた大事な客人の姿を見つけた。

その姿はまさに晴香だった。

外の声が中の晴香の注意を引いた。

彼女は咲夜の姿をちらりと見て、目に暗い光が走った。

彼女は全身で陸斗の前に立ちはだかり、ちょうど顔を上げた男性の視線を遮った。

「陸斗」

女性の優しく柔らかい声が、ドアの隙間からはっきりと聞こえてきた。

外にいる咲夜は、胸がつかえるような思いに押しつぶされそうだった。

その話し方の調子は何を意味するか、これ以上に明白なことはない。

自分が何年も愛し続けてきた男を、いちばん必要としていたその時、彼はオフィスで別の女といちゃついているのか?

咲夜は、自分がまるでピエロのようで、馬鹿げた一人芝居を演じている気がした。

周囲は皆、彼女の失態を笑う瞬間を待っているのに、彼女だけは歯を食いしばって耐えていた。

昨日の陸斗の優しさは、まるで咲夜だけの幻覚だったかのように思えた。

今日目覚めても陸斗は相変わらず冷たく、自分のことなど気にも留めなかった。

ドアの前に立つ大宙こそが、最も良い証拠ではないか?

外の咲夜は心身共に疲れ果てているが、中の晴香は簡単に諦める様子はなかった。

彼女は声を高くし、誰もが答えを知っている質問をした。

「陸斗、もしあの時、私が離れなかったら、あなたは結婚してくれたの?」

その質問は咲夜が一番聞きたくなかったものだ。

なぜなら、彼女も陸斗の答えを知っていていたからだ。

彼女はずっとそれを受け入れられず、知らないふりをして、陸斗にとっては重荷でしかないかもしれない結婚生活を慎重に続けてきた。

咲夜は今、陸斗に答えてほしくなかった。

しかし、ドアの中のひとことが、咲夜にとって死刑宣告のように響いた。

「ああ、してた」

咲夜の胸は突然ぎゅっと締めつけられ、心臓にナイフが突き刺さるような衝撃を感じた。激しく心の奥の肉を抉り出されるようで、血に濡れるほどの痛みが心を貫いた。

突然、胃が激しく痛み始め、どんどんひどくなった。

咲夜は無様にエレベーターを駆け下りた。

オフィスの中で、晴香は咲夜が去るのをちらっと見ると、得意げな表情を見せる前に、陸斗の冷たい視線に捕らえられた。

「その質問をするために来たか?」

晴香は一瞬ぽかんとして、「はい」と答えた。

「残念ながら、世の中にもしもはない。俺は一度別れた相手には戻らない。ほかに用がなければ、出て行ってくれ」

晴香の笑顔はそのまま硬直した。

陸斗は追い出しの命令を出し、彼女に一瞥もくれなかった。

咲夜はこれらのことを聞くことなく、まるで後ろに恐ろしいものが追いかけているかのように、慌てて雨宮グループを飛び出した。

胃の痛みは毎日彼女に残された時間が少ないことを告げていた。

ネット上の悪評は更新され続けている。

彼女と社員の努力は無駄になり、苦労して築いた関係も夫にとってはただの重荷でしかなかった。

咲夜は、自分がこれほどまでに無力で惨めだと感じたことはなかった。

身体の痛みなど、心の傷に比べれば何でもなかった。彼女はついには、かつて陸斗を愛してしまった自分さえ恨み始めた。

なぜ成果のないことに固執した?

晩秋の冷たい風が咲夜の頭痛を誘い、彼女は道端に座り込んだ。

厚い雲に覆われていた空は、まるで今の彼女の心情のように、息苦しいほど重苦しかった。

過ぎ去ったすべての時が彼女の記憶の中で腐り、ただれていた。

突然、スマホの着信音が彼女の思考を遮った。

画面に米村弁護士の名前が表示され、彼女は無理に気力を振り絞った。

遺言書について、彼女はいくつか細かい修正をしたいと思っていた。

いくつか項目を追加した後、咲夜は歯を食いしばり、もう一つの要求をした。

「米村さん、離婚協議書も書いてください」
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