ANMELDEN「東山家が必要って……どういう意味ですか?」凪紗はその言葉の裏にある含みを感じ取り、数秒間言葉を失った。明夫は何も答えず、軽く手を上げて合図する。すぐにボディーガードが近づき、凪紗の腕を取った。「ちょっと、待ってください!父と母がまだ――」言い終わる前だった。後ろから突然、首筋に鋭い痛みが走る。「……っ」視界がぐらりと揺れた。次の瞬間、意識は闇に沈む。倒れかけた身体を、ボディーガードがすぐに支えた。その様子を見ていた亜紀が、静かに室内へ入ってくる。「東山家があなたの本当の狙いを知ったら、たぶんこの縁談には最初から同意しなかったでしょうね」亜紀は腕を組み、皮肉な笑みを浮かべる。明夫はくすりと笑い、振り向いた。「なんだ、俺を告発でもするつもりか?」「告発して、私に何の得があるの?」亜紀は凪紗の横へ歩み寄り、気を失った彼女を見下ろす。「こんなふうに気絶させて……このままホテルから運び出せると思ってるの?」少し肩をすくめた。「結局、私の手が必要なんじゃない?」明夫は何も言わず、ただ意味ありげに笑うだけだった。……亜紀が凪紗を別の部屋へ運び、手配を整えたあと、明夫は何事もなかったようにレストランへ戻った。席に戻ると、ちょうど佳苗がスマホを取り出し、娘に電話をかけようとしていたところだった。明夫は穏やかな声で言う。「凪紗さんなら、さっき私に挨拶して帰りましたよ」隆が驚いて顔を上げる。「え?もう帰ったんですか?」「仕事が忙しいそうですからね、親として理解してやらないと」明夫は席に腰を下ろし、テーブルのナプキンで手をゆっくり拭いた。そして何気ない口調で続ける。「それより――結婚式のことですが。先ほど凪紗さんの考えも聞きました」佳苗と隆は顔を見合わせた。明夫はさらりと言う。「日取りは、こちらで決めて構わないそうです。どうでしょう、そろそろ良い日を選んで決めてしまいませんか?」圭介はグラスを持つ手をわずかに止め、父をちらりと見た。東山夫妻は少し驚いた様子だった。つい数日前まで、凪紗は結婚の話をなるべく避けていたはずだったからだ。「お二人はまだ何か心配事でも?」明夫が穏やかに尋ねる。隆はすぐに首を振った。「いえ、もう話はまとまっていますし……」少し考えてから言った。「それなら、来月にでも式
由奈はホテルの下でしばらく待った末、ようやく一台のタクシーを拾うことができた。運転手がバックミラー越しに振り返る。「どちらまで?」由奈は数秒、言葉に詰まった。この時間に凪紗のところへ押しかけるのも気が引ける。結局、行き場は一つしか思い浮かばなかった。「……スクエアタワーまでお願いします」タクシーは静かな夜の街へ走り出した。……翌朝。倫也が家を出ようとしたとき、由奈の部屋の前に置かれたゴミ袋が目に入った。昨日の夜はなかったはずだ。彼は扉の前まで歩み寄り、少し迷ったあと、インターホンを押した。ほどなくして、ドアが開き、由奈が顔を出す。どうやら起きたばかりらしい。髪はゆるくまとめただけで、まだ寝ぐせが残っている。頭にはアイマスクを乗せたまま。ゆったりした淡い黄色のナイトドレス姿だった。こんな無防備な彼女を見るのは、倫也にとって初めてだった。由奈も彼を見て一瞬で目が覚めた。「白石先生……おはようございます」「おはようございます。いつ帰ってきたんですか?」「えっと……昨夜です」倫也は彼女をじっと見つめ、何か察したように眉をひそめた。「……喧嘩したんですか?」由奈は首を振る。「してません」倫也は目を細めたが、それ以上は追及しなかった。「今日は手術がありますよね。遅れないように」「はい」……由奈は急いで支度を済ませ、ぎりぎりの時間で病院に到着した。エレベーターを降りた直後、スマホが鳴る。着信はマンションの管理会社だった。「もしもし?」「スクエアタワー十号棟の件ですが、外部に賃貸として出してもよろしいでしょうか?」由奈は足を止めた。「……どうして私に?」「滝沢社長から名義変更の手続きがありまして。現在、あの建物は池上様の名義になっています」由奈の足がぴたりと止まる。「……え?」電話では返事をしているが、頭の中は真っ白だった。通話を終えると、由奈はすぐにスマホの連絡先を開く。祐一の番号を探し、発信ボタンを押す。――しかし。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所に……」由奈は眉をひそめた。祐一が電源を切ることは、ほとんどない。胸の奥に、妙な予感がよぎる。もう一度かけようとして、はっと気づいた。――繋がらないのではなく、ブロックされているのだ。
夜も更け、そろそろお開きという頃になって、突然雨が降り出した。庭にいた一同は慌てて屋根の下へ避難する。やがて呼んだ車が次々と到着し、皆それぞれ帰っていった。気がつけば、残っているのは数人だけだった。「白石先生、僕も先に帰ります!池上先生のこと、ちゃんと送ってくださいよ!」ちょうど裕人の運転手が到着し、彼はそう言い残して車に乗り込んだ。雨音の中、残ったのは――由奈と倫也の二人だけ。倫也が彼女を振り返る。「私に聞きたいことでもあるんですか?」由奈は一瞬、言葉を失った。少し迷ってから、ようやく口を開く。「白石先生……昔、誘拐されたことってありますか?」倫也はわずかに眉を上げた。「森さんに何か聞いたんですか?」由奈は答えなかった。その沈黙だけで、倫也には十分だったらしい。彼は小さく息をつく。「……自分で思い出せると思ったんですけどね」由奈の目が大きく見開かれる。「やっぱり……あの時の子、白石先生だったんですね?」「そうです」倫也は苦笑した。「でも当時のニュースでは、生存者は二人だけって発表されてたでしょう?」「……はい」「うちが公表を止めたんです。白石家の跡取りが誘拐されたなんて、外に出たら体裁が悪いって」由奈は彼を見つめたまま、言葉を失った。雨は強くなり、夜の空気がいっそう冷えてくる。由奈は無意識に腕をさすった。それに気づいた倫也が、手首に掛けていた上着を彼女の肩へそっとかける。由奈は一瞬、頭が真っ白になった。――不思議と、嫌ではなかった。倫也は決して距離を踏み越えてこない。いつも絶妙なところで止まる。そのさじ加減が、かえって心地よかった。「あとで洗って返してくださいね」倫也は軽く笑う。「その上着、借り物ですから」由奈は下を見る。着ているのは女性用のコートだった。「……森先生の?いつ借りたんですか?」「店を出る前に」由奈が何か言いかけた、そのときだった。ふと、視界の端に黒い影が映る。振り返ると、雨の向こう、傘の下に、背の高い男の影が立っている。祐一だった。どれくらいそこにいたのだろう。雨の夜に溶け込むように、彼は静かに立ち尽くしている。――ずっとこちらを見ていたのかもしれない。由奈の視線が、彼の漆黒の瞳とぶつかった。胸が、わずかに震える。倫也もその視線の先に気づき、目を
咲希は裕人の肩を軽く叩いた。「仕事が片付いたら、あとで顔出すわ」それからテーブルの面々を見回す。「食べたい料理があったら、遠慮なく呼んでね」そう言って店の中へ引っ込んだ。しばらく席にいた由奈だったが、ほどなくして立ち上がる。「ちょっとお手洗い行ってくるね」軽く言い残し、屋内へ入っていった。倫也はその後ろ姿を目で追いながら、何か考えるように黙り込む。店内に入ると、外の賑やかさとはまるで別世界だった。バーのカウンターには咲希が一人、グラスを丁寧に拭いている。ドアベルが小さく鳴り、彼女が顔を上げた。由奈を見ると、ふっと笑う。「池上先生、本当に久しぶりですね。例の心の病気、最近はどうですか?」由奈は目を伏せた。「……今のところ、大丈夫です」咲希はほっとしたように頷く。「それなら良かったです。症状が安定しているということですね。薬をたくさん飲む必要はないし、体への負担も少なくて済みます」由奈は店内を見回した。「それにしても……夜はこんなお店をやってるなんて、意外です。クリニックのほうはどうしてるんですか?」咲希は拭き終えたグラスを棚に戻す。「閉めちゃいました」由奈は思わず聞き返した。「閉めたんですか?」「ええ」咲希は肩をすくめる。「精神科医を七、八年やってたんですけどね。そのうち、自分のほうが精神的におかしくなりそうで」冗談めかして笑った。「だから思い切ってやめたんです」由奈はそれ以上、何も言えなかった。そのとき、入口のベルがまた揺れた。振り返ると、倫也が入ってくる。咲希はカウンターに手をつき、笑った。「久しぶりね、倫也くん。何にする?」倫也は短く答える。「テキーラを」咲希は笑う。「相変わらずね。来るたびにそれなんだから」振り向いて酒を取り出そうとしたとき、倫也が続けた。「あと――」由奈のほうをちらりと見る。「彼女にはジュースを」咲希が二人を見比べる。由奈は戸惑った。「でも外でお酒飲んでるし……」倫也はさらっと言う。「酒は控えたほうがいいです。体に良くありません」由奈はすぐ言い返す。「じゃあ、あなたは?」倫也は真顔で答えた。「私は男だから」そのあまりに堂々とした言い方に、咲希が吹き出す。「ねえ、二人って付き合ってるんですか?」即座に声が重なった。「違います」
そのとき、不意に祐一が足を止めた。振り返ると、由奈がまだ廊下の途中で立ち止まっている。薄く動いた唇から静かな声が落ちた。「どうかした?」由奈ははっとして視線を外した。「ううん、なんでもない。部屋の中、そんなに寒くないし」それだけ言うと、彼の返事を待たずにドアを開けて外へ出ていった。閉まった扉を、祐一はしばらく見つめていた。やがて、無意識に握りしめていた拳をゆっくりほどく。――本当にできるのだろうか。彼女を、誰かへ差し出すことが。……その夜。外科の食事会は、小さな中庭のあるレストランで開かれた。古民家風の建物に、庭のテーブル。いわゆる「隠れ家レストラン」だ。ここは会員制のような店で、基本は常連客しか受け付けない。裕人が顔の広い男で、店のオーナーと旧知の仲だったため、今回ここを使うことになったらしい。由奈が庭へ入った瞬間、テーブルにいた全員の視線が一斉にこちらへ向いた。思わず足が止まる。裕人以外に知っている顔は二、三人だけ。残りの四人はどうやら別の科の医師らしく、初対面だった。自然と肩がこわばる。すると裕人がすぐ立ち上がった。「池上先生、待ってました!こっちこっち!」「ええ」由奈は軽く会釈して席についた。すると検査科の医師が、まじまじと彼女を見てから裕人に言う。「ねぇ、彼女ってほんとに外科の先生?」裕人は眉をひそめた。「なんだよ、外科に美人がいたらおかしいのか?」相手は肩をすくめる。「だってさ、美人がみんな外科に行くのって損じゃない?検査科に来ればいいのに」「やめとけって」裕人は即座に返す。「検査科なんて、美女でも数ヶ月で『薄毛ちゃん』になるだろ」その場にいた全員がどっと笑った。どうやら皆、気心の知れた仲らしい。初対面の由奈も、少しだけ緊張がほどける。そこへ店の女性オーナーが料理を運んできた。「はい、焼き串お待たせ」声を聞いた瞬間、由奈はふと顔を上げた。どこか聞き覚えがある。振り向いた瞬間、相手も目を丸くした。「あれ?あなた――」由奈も思わず言う。「……森先生?」裕人が二人を見比べた。「森先生、池上先生のこと知ってるんですか?」森と呼ばれる女性――森咲希(もり さき)は軽く背筋を伸ばして笑った。「ええ、前にお会いしたことがあって。まさか皆さんが同じ病院だったなんて
歩実はようやく我に返ると、鼻で笑った。「まるで、私を助けられるみたいな言い方ね」亜紀は彼女に近づき、声を落とす。「このままではできないけど……もし精神鑑定があったら、話は変わると思わない?」その言葉に、歩実のまぶたがぴくりと上がった。視線が亜紀とぶつかる。亜紀は一度距離を取り、姿勢を正すと淡々と言った。「手を貸すかどうかは、あなた次第よ」歩実はじっと彼女を見つめる。「……条件があるんでしょう?」亜紀の赤い唇が、ゆっくりと弧を描いた。「ええ。もちろん、ひとつだけ条件があるわ」……ホテルの書斎。祐一はノートパソコンの前に座り、書類の草案を作成していた。しばらくして、電話が鳴る。画面に表示されたのは悠也の名前だった。「どうした?」「急に連絡して悪い。実は健斗のことで相談があってな……あの子が最近、ずっと母親に会いたがってるらしい」祐一の指先が、キーボードの上で止まった。悠也の声が続く。「母親とは……もう半年くらい会ってないんじゃないか?」祐一は、健斗を滝沢家で療養させるよう手配して以来、ほとんど彼の様子を気にかけていなかった。とくに――歩実のしてきたことを知ってからは、健斗にも会っていない。沈黙を察したのか、悠也がため息まじりに言う。「そもそも、あの子を滝沢家に連れてきたのはお前だろ。今さら母親と引き離しておいて放置って、ちょっと無責任じゃないか?」「……健斗はどうしてる」祐一は結局、そう聞いた。「元気そのものだよ。ご飯もちゃんと食べてるし、背も伸びた。むしろ前よりぽっちゃりしたくらいだ」悠也が呆れたように続ける。「正直、あの母親の子とは思えないよ。自分は生活に困ってないのに、子どもを栄養失調にする母親なんて見たことない」そして少し声を落とした。「とはいえ、あの子は長門さんの息子だ。彼女の元に戻したら、ろくな生活じゃないのは目に見えてる。でもこのまま滝沢家で預かり続けるのもな……他人の子どもを育てるってことになる。お前の奥さん、嫌がるんじゃないのか?」祐一は視線を画面に落としたまま言った。「……すでに引き取り先は見つけてある」「は?」悠也の声が一段高くなる。「正気か?まだ保護者がいる子どもだぞ。勝手に養子に出すつもりか?長門さんがそれをネタにお前を脅す可能性だってある」「刑務所に入っているうえ
丸一週間、由奈は祐一の姿を見なかった。院長の勉から「長門先生を連れて学術大会に出席してほしい」と頼まれた時、それが祐一の提案だと聞いても、彼女は驚かなかった。当日、由奈は勤務用のスマホから歩実に連絡を入れ、支度するようにと伝えた。返ってきたのは「わかった」の一言。病院を出た後、由奈は彼女を待った。するとほどなくして、歩実から再びメッセージが届く。【ごめんなさい池上先生、先に行っててください。あとで祐一が送ってくれるので】由奈は画面を見つめ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。【了解しました】とだけ返し、スマホを閉じる。車を走らせシャイニングヒルズに到着すると、偶然に
由奈は唇を噛み、目に影が落ちる。カバンを下ろしながら言う。「……ご飯、作ってくるわ」そのままキッチンへ向かい、手際よく動き出す。冷蔵庫には家政婦が用意してくれた食材がそろっている。昔、由奈に余裕があった頃は、祐一の帰りを待って毎晩のように料理をしていた。たとえ彼が夕飯の時間に間に合わなかったとしても、帰ってきたときは温め直して出していた。けれど彼は、一度も箸をつけたことはなかった。「そんなことしなくていい」と、いつも冷たく言われるだけ。六年間、妻としてできることはすべてこなしてきたが、ことごとく拒まれた。今になって、由奈はもう疲れ切ったのに、逆に妻の役目を果たせと言
歩実は満足げにメイクを整えると、鏡に向かって口元をわずかに上げた。個室の方に視線を投げてから、軽い足取りでその場を後にする。……歩実が戻り、その少し後に由奈も会場へ戻った。大会のすべてのプログラムが終わる頃、由奈は彰や二人の医療界の大御所と共に会場を出てきた。「池上先生、彰くんから聞いたよ。白石教授の最後の弟子なんだってね。若いのにもう複雑な手術を独りで任されるとは、大したものだ」由奈は控えめに笑い、「お褒めに預かり光栄です、阿部先生。私なんかはまだまだです。ここまで来られたのは恩師のおかげですよ」と答える。阿部(あべ)と呼ばれた白髪の医師は手を後ろに組み、にこやか
歩実が由奈のバッグを開けると、中から本当にダイヤのブレスレットが出てきた。周囲の空気が一気に張りつめ、誰もが息をのむ。視線が一斉に由奈へと注がれた。「まさか池上先生がこんなことをするなんて」「信じられない……」「人のものを盗むなんて、医者失格でしょ?」「ブレスレットまで盗むとは、そこまでお金に困ってるのか?」四方から浴びせられる非難の声に、由奈は冷たい海に沈められたように体が冷えていく。顔色は青ざめ、けれどやがて瞳に冷静な光が宿った。間違いない。これは歩実が仕組んだ罠だ。そうでなければ、こんな自信満々で自分を糾弾できるはずがない。それはそうと、何度も自分を陥







