LOGIN帰路の車内で、祐一は隣に座る由奈の様子がいつもと違うことに気づいていた。病院を出てから、ずっと口数が少ない。何かあったのだろうか。そう察した祐一は、そっと由奈の手を取った。指を絡め、しっかりと握る。「昔の同僚に会って、嫌な気分になったのか?」その言葉を聞いて、運転席の卓巳が、ちらりとバックミラーを覗いた。由奈は我に返ると、握られていた手をそっと引き抜いた。「中央病院に行くと、昔の知り合いに会うでしょう?そうすると、どうしても嫌なことを思い出しちゃうの」祐一は何も言わなかった。ただ、シートに深く身を預ける。口元には、何を考えているのか分からない、かすかな笑みが浮かんでいた。――嫌なこと。由奈ははっきり口にしなかったが、その言葉が自分や歩実のことを指しているのは、祐一にも分かっていた。そんな祐一の胸中など知る由もない卓巳は、車内に漂う妙な空気を感じ取ると、首を傾げた。「池上さんって、昔は中央病院で働いてたんですよね?もしかして、待遇が悪かったとか、前の同僚にいじめられたりしたんですか?」由奈が答えるより先に、祐一が眉間に皺を寄せた。「君には関係のない話だ」「いやいや、僕は池上さんのためを思って聞いてるんですよ!」卓巳は悪びれる様子もなく、むしろ得意げに続ける。「もし昔、池上さんをいじめていた人がいるなら、僕に任せてください。副業でいろいろやってましたから、そういう相手にちょっと痛い目を見せるくらいならできますよ」「へえ、副業なんてやってたんですか?」由奈が興味深そうに眉を上げる。「それは……いや、まあ……昔の話です」卓巳は前を向いたまま、背中に突き刺さる視線をひしひしと感じていた。――怖い。この後部座席から、身体を貫通するほどの圧が放たれている。祐一は由奈のほうへ向き直ると、途端に低姿勢になった。「じゃあ……次から別の病院にする?」「ですが社長、他の病院より中央病院のほうが安心するでしょう」卓巳が思わず口を挟む。「来月のボーナスはないと思え」「えっ?」卓巳は飛び上がるように反応すると、慌てて路肩に車を停めた。そして両手を合わせ、後部座席へ振り返る。「社長、申し訳ありません!静かにしますから!」さらに由奈へ助けを求める。「池上さん、助けてください!」由奈は思わず吹き出し、暗
翌日。昨夜のことを何も知らない紬は、咲子の同僚から話を聞こうと、再び病院を訪れた。ところが、薬剤部のオフィスへ足を踏み入れた途端、医療スタッフたちが示し合わせたように彼女を避け始める。目が合っても、見なかったことにされる。声をかけても、聞こえなかったふりをされる。これでは話を聞くどころではない。仕方なく、紬は一度病棟へ向かった。ところが、病室の前まで来てみると、そこにいたのはベッドを片づけている介護スタッフだけだった。「すみません。このベッドの患者さんは?」紬が尋ねると、介護スタッフが顔を上げる。「さっき退院しましたよ」紬は慌てて病院を飛び出した。ロビーまで駆け下り、咲子に電話をかける。しかし、何度かけても繋がらない。電源を切っているらしい。紬が途方に暮れていると、そのとき、一人の若い看護師が横を通り過ぎた。「きゃっ!」肩がぶつかり、看護師が手にしていたアイスコーヒーが大きく傾き、中身がそのまま紬の服へこぼれる。「す、すみません!大丈夫ですか?クリーニング代、出します!」紬は自分の服を見下ろした。コーヒーの染みが広がっている。さすがに腹が立ち、思わず文句が口をつきそうになった。けれど、相手の胸元にある名札が目に入る。――どうやらまだ研修中らしい。紬は一度息を吐き、怒りを飲み込んだ。「大丈夫です。染み抜き、自分でできますから」「……本当にごめんなさい」看護師は何度も頭を下げると、その場を離れていった。紬はしゃがみ込み、服についた染みを拭おうとする。そのときだった。足元に、折り畳まれた紙幣が落ちているのが目に入った。「……あれ?」さっきまで、こんなものはなかったはずだ。もしかして、今の看護師が落としたのだろうか。紬は紙幣を拾い上げた。ところが、折り畳まれた紙幣を開いた瞬間、その内側に小さな紙切れが挟まっていることに気づく。紙片には、ひとつの住所が書かれていた。……祐一は定期的に、由奈の妊婦健診に付き添っていた。今日も診察を終えると、片手で由奈の腰を支え、もう片方の手でさりげなく彼女の身体をかばいながら歩いている。「祐一、会計してきてくれる?私なら一人で大丈夫だから」由奈が足を止めて言う。けれど、祐一は心配そうに彼女を見た。「あとで土屋に払わ
夜が更け、宿の中は明かりが煌々と灯っていた。風呂を終えた倫也が寝室へ戻り、ドアを開ける。ベッドでは紬が布団にすっぽりくるまっていた。黒い髪のてっぺんだけが覗いている。寝息も穏やかで、すっかり眠りに落ちているように見えた。ところが、倫也がベッドの端に腰を下ろした途端、布団の塊がわずかに動いた。その隙間から片目だけがひょこっと覗き、倫也をちらりと盗み見る。そしてすぐに閉じた。いかにも「寝ています」と言わんばかりに。倫也は気づかないふりをした。ほどなくベッドへ横になると、いつものように背筋を伸ばし、眠る姿勢を取る。しばらくして、紬がそっと目を開けた。布団の端を指先でつまみ、何度も瞬きをする。唇を噛みながら、しばらく迷っていた。やがて、背後から落ち着いた声がした。「寝てないのは分かっていますよ」「……やっぱりバレてた?」紬は気まず言う。「あのね……看護師さんの鈴木さんに、もう調べないでって言われたの。私、まだ調べていいのかな。これ以上続けたら、本当にあの人が死んじゃったらどうしよう……」今の紬にとっては、同僚に失望されることも、笑われることも二の次だった。それより、人ひとりの命を危険にさらすことのほうが怖い。倫也は紬を見た。相変わらず、感情を読み取らせない淡々とした声だった。「だったら、まずはなぜ彼女が態度を変えたのかを突き止めましょう。自分の命を投げ出してまで、ヤクモヘルスの調査を止めようとしたんです。きっと何か大きな理由があるはずです」「……確かに!」紬は一度嬉しそうに頷いた。けれど、すぐに別の疑問が浮かんだらしい。ごろんと寝返りを打ち、倫也のほうを向く。「でも、今は会ってくれないよ。どうやって調べればいいの?」倫也も身体を横向きにして、彼女と向き合った。「本人が会ってくれないなら、周りの人間に聞けばいいじゃないですか?」一瞬、空気が止まった。紬の口元が引きつる。視線もふっと泳いだ。――自分が頭悪いと思われたりしてないだろうか。そんな不安がよぎる。けれど、すぐに何事もなかったような顔を作った。「そ、そうだった。分かった。明日、聞いてみるよ」そう言って目を伏せる。布団に半分顔を埋め、覗いているのはくるくる動く瞳だけ。何も言わなくても、彼女が考えていることまで倫也には手に取るように分
倫也は視線を戻した。「病院にいるんじゃなかったんですか?」「そうだけど……」紬は俯き、いかにも傷ついたように唇を尖らせた。「鈴木さん、何だか様子がおかしくて……急にすごく警戒するようになっちゃったの。私たちに帰ってほしいって、ずっと言ってる」「……そういえばこの前、農場で彼女に会ったとき、何人かの男を見たと言っていましたよね?」紬は頷いた。「うん。あのおばさんが言ってたんだけど、先頭にいた人が木谷市では有名な商売人で、金子さんっていうんだって。商売してる人なのに、周りには見るからに怖そうな不良みたいな人たちを何人も連れてて……」倫也の目が、すっと険しくなる。何か考えているのか、それ以上は口を開かなかった。紬は腕を組み、部屋の隅へ歩きながら考え込む。「やっぱり、誰かに脅されてるんじゃないかな。だって、あの日とは態度がまるで違うんだもん。うん、きっとそうだよ。ねえ、白石さんもそう思わない?」振り返った紬の瞳には、ひらめいたことへの嬉しさが浮かんでいた。笑うと、口元に大小の違うえくぼが浮かぶ。その無邪気な表情には、どこか人を惹きつける愛嬌があった。倫也は答えなかった。ただ、目の前で生き生きと話す彼女をじっと見つめる。やがて視線がゆっくりと下がり、よく動く唇へと吸い寄せられた。その視線は、深い夜のように静かで、どこか危うい気配を纏った。「ねえ、ちょっと!私が話してるのに、全然聞いてないじゃん!」紬が抗議しようと一歩近づいた、そのときだった。「わっ……!」足先を自分のスリッパに引っかけ、身体が大きくよろめく。倫也は避けなかった。――いや、避ける暇がなかったのかもしれない。倒れ込んできた紬の身体を、反射的に両腕で受け止める。大きな手が彼女の腰をしっかりと支え、紬もとっさに倫也の肩へ両手を回した。紬は目を見開いたまま、完全に固まった。以前の倫也なら、すぐに彼女を引き離していたはずだ。なのに今は――自分から抱き留めている。「え……あ、ごめんなさい」頭が真っ白になりながらも、紬は慌てて謝った。わざと距離を詰めたと思われたくない彼女は、倫也の腕からそっと抜け出すと、顔を見ることもできないまま、逃げるように寝室へ駆け込んでいった。一人残された倫也は、しばらくその場から動かなかった。やがて片手を額に当てる。
「松本さんが、今まさに解決に動いているんじゃないですか?」「……松本さん一人で、どうにかできるんですか?」和典は意外そうに振り返った。祐一は指先で机を軽く叩きながら、淡々と答える。「一人じゃありませんよ。ほかにも助っ人がいます」和典はその場をゆっくり行き来した。歩幅は小さく、足取りも重い。しばらく考え込んだ末、ようやく足を止め、祐一へ向き直った。「滝沢社長、単刀直入に聞きます。もしかして……木谷市の病院に問題があること、最初から知っていたんですか?」「実は、ずっと引っかかっていることがあるんです」祐一の視線が、机の上に置かれた会議用のネームプレートへ落ちる。「田辺部長が長い間、偽造薬を横流ししていたのに、誰にも気づかれていなかった。しかも、その偽造薬の流通先の中に、木谷市も含まれています。それは、本当に偶然だと思いますか?」和典の表情が固まった。「まさか……」「もし、数が合わなかった薬の中に、偽造薬が混じっていたとしたら?」祐一の口調はあくまで静かだった。だが、その言葉には一つ一つ確かな重みがあった。「考えられるのは、こういう仕組みです。まず本物の薬を納入したように見せかけて、実際にはよく似た偽造薬とすり替える。本物の薬は別ルートで流し、偽造薬を使って差額まで抜く」和典は黙って聞いている。「だから、こちらの帳簿と実際の在庫が合わない。一方で、システム上は納入された薬に異常がない。ヤクモヘルスグループが納入した薬の数量自体は決まっているからです。余分に出回っている薬――それが、システムには記録されない偽造薬だったと考えれば説明がつきます。その差額問題も、偽造薬の存在を隠すための口実でしょう。偽造薬が出回っていると認めるより、自分たちの薬を高く売って、その分で差額を埋めていると言ったほうが、まだ体裁がいいからね」和典は呆然と立ち尽くしていた。例の偽造薬問題が、まさか木谷市の病院にまでつながっているとは思ってもいなかった。「……だったら、どうして先ほどの会議で言わなかったんです?」「まだ確信がないからです。裏が取れていない段階で口にすれば、相手に警戒されるだけですから。それに、田辺部長が長期間にわたってあの薬を扱えた以上、背後に誰もいなかったとは考えにくい。単なる私利私欲だけでここまで続けられたとは、私は
会議室にいた一同は、祐一が入ってきた途端、ぴたりと口を閉ざした。祐一はそのまま和典の隣に腰を下ろし、軽く姿勢を整える。「山本さん、木谷市で何かあったんですか?」和典が頷き、木谷市の病院が薬の差額を補填していない件について説明する。その間も、祐一の表情をさりげなく窺っていた。話を聞き終えた祐一は、しばらく考えるように黙り込んだ。「木谷市のここ数年の人口動態を考えれば、経営が厳しいのは無理もないでしょう。若い世代は町を離れて、残っているのは高齢者や子どもが中心です。病院の収益が落ち込むのも理解できます」すると、先ほどの幹部が鼻を鳴らした。「まさか滝沢社長まで、後払いでいいなんて言うつもりじゃないでしょうね?そこだけ特別に認めてしまうと、他の病院はどう思います?『うちも待ってくれ』と言い出したら、きりがありません。ヤクモヘルスグループは慈善事業をやってるわけじゃないんですから」ほかの出席者たちは互いに顔を見合わせた。誰も口を挟まなかったが、彼の言葉に頷く者も少なくない。ヤクモヘルスグループは創業から数十年にわたり、国内でもトップクラスの医薬品研究・開発技術を築いてきた。全国各地の大きな病院にも、その拠点が置かれている。とりわけ特効薬の分野では圧倒的なシェアを誇っている。だからといって、これまで守ってきた会社のルールまで曲げるわけにはいかない。祐一は椅子の背にゆったりと身体を預け、組んだ長い脚の上で両手を重ねた。「では、皆さんはどう思います?法務部に動いてもらって、裁判所に強制執行を申し立てればお金を全額回収できると?」先ほどの幹部が少し躊躇ったが、すぐはっきりと答えた。「たとえ全額回収できなくても、こちらの姿勢は示すべきです。うちと契約を切ることが、どれだけ大きな損失になるのか、あの病院には思い知らせる必要があります」その言葉に、周囲から小さなざわめきが起こった。賛成する者もいれば、難色を示す者もいる。祐一はそれを聞きながら、ほんのわずかに口元を緩めた。そして、麗子へ視線を向ける。「土屋、そもそも、これまでヤクモヘルス側が、裁判所を通して差額の支払いを求めていたことはあるか?」「ありません」麗子はすぐに答えた。「契約上は、毎年こちらから担当者を木谷市へ派遣し、薬の納入状況と代金を精算することになっています。しかし