Mag-log in信三は、あの親子を本気で傷つけようとしたわけではないと由奈が知ったのは、秀明と智宏が本邸から戻った後だった。表立って態度を変えたわけではない。ただ一歩だけ引いた――それだけで、今後はもう干渉しないという意思は十分に伝わった。どうして急に考えを変えたのか、由奈は気になって父に尋ねた。秀明は苦笑する。「おじいさんは昔からああいう人だ。何を考えてるかなんて、誰にも分からないさ」長年付き合ってきた彼でさえそうなのだ。秀雄を除けば、兄妹の中で誰一人として、その気性を読み切れる者はいない。由奈はそれ以上、何も言わなかった。……それから二日後、茜がようやくメディアの前に姿を現し、「未婚での出産」について説明した。「後悔はしていません。子どもの父親は、私が思っていた以上に、この子を大切にしています」その二言だけで、世間の詮索はひとまず収まった。なぜ秀雄が彼女と籍を入れていないのか――誰もが薄々事情を察してはいたが、それ以上は推測の域を出ることはなかった。やがて騒ぎも落ち着き、一週間。延期されていた婚約パーティーが、いよいよ明日に迫る。あの霧がかったような淡いブルーのドレスに、由奈はようやく袖を通した。最高級のシルクベルベットは、室内のやわらかな光を受けて、しっとりとした艶をたたえている。幾重も重なるレースが上へと流れ、取り外し可能なフィッシュテールの裾は、淡い霧がたゆたうように由奈の体を包み込んでいた。襟元には、パールとブルーのビジューで白木蓮がかたどられている。控えめな上品さの中に、確かな華やぎがあった。指先でそっとなぞると、雲のようにやわらかな感触と、手縫いならではのわずかな起伏が伝わってくる。「お嬢様、本当にお似合いです。どんな女優さんよりもお綺麗ですよ」試着を手伝っていた使用人が、思わず声を弾ませた。由奈は小さく笑う。「大げさですよ」「いいえ、本当です。奥様の若い頃にそっくりで……皆そう思っております。もし奥様が今のお姿をご覧になったら、きっと誇らしく思われますよ」長年この家に仕えてきた彼女の言葉には、確かな実感がこもっていた。母の話題に触れた瞬間、由奈は視線を落とす。本当は――この日を、いちばん見てほしかった人だった。そのとき、不意に鏡の中にもう一つの影が映り込んだ。使用人は一歩下がり
「秀雄、お前は――私の子どもの中でも一番頭が切れる。誰よりも信頼していたし、私の考えも一番よくわかってくれた」信三はゆっくりと歩きながら続けた。「もしあのとき、私の言う通り安藤家の娘と結婚していれば……今ごろ、中道家の後継ぎはお前の息子で、智宏ではなかった」その言葉に、茜がそっと秀雄の方を見る。秀雄は一度、深く息を吸い込んだ。「もしあのときお父さんの言う通りにしていたら……お父さんは満足したでしょう。でも、俺は――今の俺でいられたでしょうか」わずかに間を置き、続ける。「お父さん。正直に言うと、俺は弟たちが羨ましかった。少なくとも、彼らには自分で選ぶ権利がありました。けど俺は違った。期待されていたのはわかっています。でも、その期待は……俺にとっては、枷でもあったんです」信三の眉がぴくりと動く。「今日は……この二人のために、私に逆らうつもりか」「もしお父さんが彼らを認めてくれないのなら――私は、やるべきことをやるまでです」張り詰めた空気が、リビングを満たす。外に控えるボディーガードたちですら、息を潜めていた。そのとき、秀雄の背後にいた光俊が一歩前に出る。「すみません」まっすぐ信三を見据えた。「父を困らせるのは、やめてください」その口から、「おじいさん」という言葉は出なかった。これまで一度も会いに来なかった相手に、そんな呼び方はできなかった。信三はその様子を見つめ、ほんの一瞬、複雑な感情が目の奥をよぎる。「光俊、部屋に戻りなさい」秀雄は息子を巻き込みたくなかった。だが光俊は首を振る。「僕はもう子どもじゃありません。今年で十八歳です。お父さん、僕にも、家族を守れます!」その言葉に、秀雄は言葉を失った。気づけば、息子は自分よりも背が高くなっている。守られる側だったはずの存在が、いつの間にか自分を守れるようになっていた。「……もういい」信三はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。「別に、この二人をどうこうするつもりはない。縁を切らせようと思っただけだ」淡々とした口調で続ける。「今日来たのは、ただ見たかったんだ。お前が十年以上も守り続けてきた相手が、どんな人間なのかをな」秀雄はわずかに目を見開く。信三は鼻を鳴らした。「……なかなか骨がある」それだけ言うと、顔を背けてその場を後にした。秀雄はしばらく
答えは、もうとっくに出ていた。祐一はそっと由奈の手を取る。低く落ち着いた声だった。「家柄とか立場なんて、所詮は一つの基準にすぎない。誰にとっても同じ重さがあるわけじゃないよ。中道家のことに俺が口を出すのは違うけど……秀雄さんにその気があるなら、あとはおじいさんが折れるか、それとも最後まで通すか――結果を待つしかないな」由奈はじっと彼を見つめ、目を細めた。「中道家のこと、あれだけ詳しかったくせに……こういう時だけ口を出すのは違うって?」祐一は小さく笑う。「全部わかってるわけじゃないからな」一瞬だけ言葉を区切り、それから付け加えた。「……君のこと以外は」由奈はさっと手を引き、腕を組む。「ほんと口がうまいのね。どうりで、お父さんの態度があんなに変わるわけだ」祐一はわずかに身をかがめ、距離を詰める。楽しげに目を細めた。「じゃあ、頑張った甲斐があったね」……吉光町にある一軒家。広々としたリビングには、不自然なほどの静けさが満ちていた。水晶のシャンデリアの光だけが、磨き上げられた床に細かく揺れている。ソファに座る茜は、画面の中で見せる華やかな姿とは違い、わずかに緊張を帯びていた。それでも背筋は伸び、言葉には揺らぎがない。「今日はわざわざお越しいただいて、ありがとうございます。……光俊くんにも、会っていただけましたし」向かいに座る信三は両手を握りしめていた。視線は、奥の部屋で勉強に没頭する少年へ向けられている。背筋をまっすぐに伸ばし、脇目も振らず問題に向かう姿。その周囲には、学校で得た賞状やトロフィーが整然と並んでいる。やがて視線を戻し、手つかずの茶へと一瞥を落とした。「……よく育てているな」「それは……秀雄さんのおかげでもあります」「だとしてもだ」信三の手が止まる。ゆっくりと顔を上げ、その目が鋭く細められた。「私が来た理由はそこじゃない。この子が優秀なのは認める。だが――」言葉の続きを待つまでもなく、茜は静かに微笑んだ。「母親の出自がふさわしくない――そうおっしゃりたいんですよね。秀雄さんと縁を切って欲しいのは承知しています。でも、私は最初から結婚なんて望んでいません。そもそも、いわゆる名門の奥様には向いていませんし、今の仕事を手放すつもりもありません。光俊くんがいれば、それで十分です。あの子に好きなこ
張りつめた空気の中で、信三が咳き込んだ。執事が煎じ薬の入ったカップを手に部屋へ入り、足早に机の前へ進む。「旦那様、お薬のお時間です。このあと吸入もございますので」信三は何も言わずにカップを受け取り、そのまま飲み干した。執事はそれを見届けると、今度は秀雄へ向き直る。「秀雄様、旦那様の体調はまだ完全に回復されていません。これ以上は……」「……お大事にしてください。失礼します」秀雄はそれ以上言葉を重ねず、踵を返して書斎を後にした。信三は空になったカップをテーブルに置く。執事がそれを片付けながら、ふと口を開いた。「旦那様、もし秀雄様が、あの親子をどうしても迎え入れるとおっしゃったら……?」信三の目が細くなる。「これまであいつは、誰よりも私の言うことを聞いてきた。だがもし今回、あの親子のために私に逆らうというなら――」一拍置き、低く言い切った。「先に手を打つしかあるまい」……青ヶ丘。帰宅してまだ二日だというのに、秀明はすっかり祐一の料理に心を掴まれていた。いつもなら祐一の名前を聞くだけでも顔をしかめるのに、今日は珍しく上機嫌だ。「気に入っていただけたのなら、これからも作りますよ」祐一が穏やかに言うと、秀明は箸を動かしながら答えた。「約束だからな?後で後悔しても知らないぞ。まあ、もっと早くこの腕前を知っていたらなあ。あの時、ハードルを少しは下げてやってもよかったかもしれない」それを聞いて、智宏がすぐに口を挟んだ。「お父さん、話が違うんじゃないですか?」秀明は肩をすくめて、どこ吹く風といった調子で言った。「人間、臨機応変が大事なんだよ」智宏は呆れたように箸を止める。「ただ美味しい料理に弱いだけでしょう」「お前な……ちょっと家に置いといたら、口が達者になったじゃないか」わざとらしく眉をひそめる秀明に、智宏はため息をついた。その時、外から戻ってきた由奈が、その光景を目にする。思わず足が止まった。――祐一が、父の隣に座っている。しかも、やけに自然に馴染んでいる。「由奈、おかえり。お腹空いてないか?」秀明が手招きする。「これ、全部祐一が作ったんだぞ。この腕で社長なんてやってるのがもったいないくらいだ。今度、うちの料理人にも教えてもらおう」由奈はかすかに口元を引きつらせた。……結局、料理で落とされたって
「あの森川茜が、由奈お義姉ちゃんの叔父さんの彼女で、しかも子どもまでいるの?」由奈と同じくらいの衝撃を受け、紬は思わず声をあげた。由奈も、秀雄が女優との間に子どもがいることを知っていた。けれど、その女優が誰なのかまでは――今日まで知らなかった。森川茜。十六でデビューし、八年もの下積みを経て、二十四のとき映画「デイジー」で一気に名を上げた女優。だが同時に、最も賛否の分かれる存在でもあった。あの作品での大胆すぎる演技は、彼女を一躍トップに押し上げた一方で、「話題性先行の女優」という烙印も残した。男性からは熱狂的に支持され、女性からは嫌悪される――そんな極端な評価の中で、彼女は一度表舞台から姿を消している。三年後、彼女は復帰し、再び一線に返り咲いた今でも、その評価は完全には消えていない。「ねえ、無視しないでよ」頬を膨らませる紬の声に、由奈ははっと我に返った。「無視してませんよ。ただ……私も今日知ったばかりで、驚いてるだけ」苦笑してそう答えると、紬は机に突っ伏したまま顔を上げる。「その叔父さん、何も教えてくれなかったの?」「そんなに親しいわけじゃないし、そこまで踏み込んだ話、聞けるわけないでしょ」由奈が肩をすくめると、紬も「まあね」と頷いた。「でもさ、今まで二人が結婚しなかったのって……やっぱり彼女が芸能界の人間だからでしょ?」由奈は少し驚く。「そこまで読めるなんて、すごいですね」「そりゃね。似たような話、いくらでも見てきたし。知り合いのボンボンもさ、女優に入れ込んで、車だの家だの散々貢いでたのに、結局『家族が認めない』で終わったんだよ。年に何千万も使ってたのにね。まあ、そういうの、珍しくないよ。特にああいう家は」由奈は黙り込む。信三が茜を認めない理由。それは単に芸能人だからではない。――彼女に付きまとう数々の噂。過去の経歴。世間の評価。そのすべてが、名家にとっては受け入れがたいものなのだろう。……一方、その頃。茜との関係が表に出た直後、秀雄は本邸へと向かっていた。茜と光俊を家族として迎え入れるなら、今しかないと思った。書斎の扉を開けると、信三は背を向けたまま椅子に座っていた。「……あの親子の件で来たんだろう」秀雄は迷わず答えた。「はい」そして、一歩踏み出す。「お父さん。茜と籍を入れたいと思
たしかに――帰っておとなしくお嬢様をしていれば、欲しいものは何でも手に入る。今みたいにみじめな思いをする必要もない。実際、紬は苦労に慣れていない。アルバイトを始めてまだ半月、もう心が折れかけている。それでも――紬はわずかに視線を逸らし、小さく言った。「……いつかは、自分の力でやらなきゃって思ってるから」倫也は淡々と返す。「力が足りないのに無理をする。その結果の苦労を、自業自得と呼ばずして何と呼ぶべきでしょう。それとも、同情して欲しいのですか?」彼の声音は、あくまで穏やかだった。けれどその静けさは、彼女には皮肉のように響く。どこか突き放すような、不信の色さえ滲んでいた。――どうせ続かない、そう思っているのだろう。自分が本気で自立しようとしているなんて、きっと信じていない。確かに、自分がどこまで踏ん張れるのか、はっきりとは言えない。それでも――軽く見られるのは、やっぱり悔しい。まして、それが好きな人からだなんて。そう悟り、胸の奥がじわりと痛む。紬はぎゅっと拳を握り、まっすぐ彼を見据えた。「同情なんていらない!どうせみんな、私には無理だって思ってるんでしょ。松本家の娘だから、甘やかされて育って、そのまま用意された道を進むだけだって。でも、それは私の望んだ人生じゃない!私は操り人形じゃないし、やりたいことくらい、自分で決めたいの。見下すのは勝手だけど、できないって決めつける権利はないでしょ!」それ以上は何も言わず、紬は踵を返して走り去る。ドアの前に残された倫也は、わずかに眉を寄せた。しばらくして、小さく息を吐く。――言い過ぎたのは分かっている。だが、ああでも言わなければ、彼女の気持ちは断ち切れないのだろう。……同じ頃、秀雄は栄東市のテレビ塔にある回転レストランを貸し切り、妻と一緒に息子の誕生日を祝っていた。少年は十七、八歳ほど。整った顔立ちに、屈託のない明るさと自信がにじむ。大切に育てられてきたことが一目で分かる。その隣に座る女性はベレー帽をかぶり、化粧っ気は薄い。だが骨格の整った顔立ちと、どこか人目を引く気品を隠しきれていなかった。秀雄は息子――光俊に視線を向ける。「光俊、賑やかな誕生日パーティーを用意できなくてごめんな……がっかりしてないか?」光俊は首を横に振る。「ううん。家族で一緒にい
由奈は長い沈黙のあと、以前彰が語った滝沢家との因縁を思い出し、彼を見つめた。「じゃあ……Aというのは、滝沢家の人なんですね?」「そうだ」彰は否定しなかった。「そしてBの妹は僕の祖母。その女の子が、僕の母だ」由奈は息を呑む。彰の母親は、滝沢家の血を引いていた。もし滝沢家が彼女を認めていれば、今ごろ彼女は滝沢家の長女として生きていたはずだ。「……それを、どうして私に?」「正直に話すよ」そう言って、彰は由奈の手を取った。「最初は、君を利用するつもりで近づいた。でも……由奈ちゃん、僕は後悔したんだ。君と久美子さんが僕をあんなに信頼してくれた時から後悔したんだ。もう、これ以上嘘をつき
久美子の異変に、看護師はすっかり怯えてしまった。騒ぎが大きくなるのを恐れ、慌てて彼女の腕を掴む。「池上さん、落ち着いてください……!言いたいことがあるなら、外でゆっくり話しましょう!」その隙に、歩実ははっと我に返り、踵を返して走り出した。「待ちなさい!」久美子は看護師の手を振りほどき、後を追う。階段に差しかかったところで、ハイヒールのせいで足を取られた歩実を、久美子が掴まえた。「答えなさい!浩輔をあんなふうにしたのはあんたでしょう?あんたがやったのね?」強く引かれ、歩実の身体は廊下の手すり際へ追い込まれる。背後には、十数階分の高さ。道路を走る車が、異様なほど小さく見えた。
歩実はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。頭が重く、意識は濁った水の中に沈んでいるようだった。――自分が、切り捨てられる側になるなんて。転落する前は、誰もが彼女に味方していた。けれどひとたび立場を失えば、同じ人間たちが、まるで示し合わせたかのように背を向ける。急に、昔のことが恋しくなった。祐一が、まだ彼女を宝物のように扱ってくれていたあの頃。あのときの彼女は、すべてを手にしていたはずなのに、それでも満たされなかった。だからこそ、圭介とあんな愚かな関係を持ってしまったのだ。圭介が与えてくれる金銭的な余裕を享受しながら、祐一の信頼と甘やかな愛情も手放せなかった。迷いがなか
祐一への憎しみは本物だった。その薄情さが骨の髄まで許せない。だが、それ以上に――由奈の存在が憎い。彼女のせいで、自分の計画がすべて狂わされた。もし由奈が現れなければ、いまごろ自分は祐一と結婚し、目の前の悪魔からも逃れられていたはずだ。圭介はグラスの酒を軽く揺らしながら、彼女の瞳に宿る激しい憎悪を眺め、くすりと笑った。「なら、まずはお前の覚悟を見せてもらおうか」歩実は一瞬、言葉を失う。次の瞬間、彼の表情の意味を悟り、血の気が引いた。……午後。由奈は足早にエレベーターへ乗り込んだ。だが中に倫也の姿を見つけ、思わず足を止める。目が合った瞬間、彼女は視線を逸らし、軽く笑って挨拶







