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私は何も言わない。ただ、心の中で少しだけ感慨にふける。美咲があれほど必死になって手に入れようとしていたものは、結局すべて泡のように消えてしまった。「今になって、ようやく分かった。あのとき、紗月がどうしてあれほど迷いなく俺から離れようとしたのか」悠斗が私を見る。その目には、深い罪悪感と後悔が浮かんでいる。「俺が馬鹿だったんだ。何も見えてなかった。すぐそばにいた、一番大切な人を見落としてた」「もう、終わったことだよ」私は静かに言う。「今さらそんなことを言っても、意味はないよ」「分かってる」悠斗が頷く。その声には、わずかな寂しさが滲んでいる。「今回、俺がここへ来たのは、紗月の生活を邪魔するためじゃない。ただ、伝えておきたかった。俺はもう、神谷家とは縁を切った。会社を継ぐ権利も捨てた。財産も、全部手放した。これからは、ただの普通の人間として生きたい」私は少し驚いて悠斗を見る。「どうして、そこまでするの?」「もう一度、最初からやり直したいから」悠斗は私を見る。その目には、揺るぎない決意が宿っている。「昔の自分が犯した間違いを、少しでも償いたい。それに、これからは意味のあることをしたい」悠斗は少し間を置いて、続ける。「緋山の近くで、子供たちのための学校を始めた。親が遠くで働いていて、一人で暮らしている子供たちや、経済的に苦しい家庭の子供たちを受け入れている。ここで、俺にできることを少しずつやっていきたいんだ」私は悠斗を見る。まさか、こんな決断をするとは思っていなかった。「それは……よかったね」私は笑って言う。「ちゃんと続けていけるといいね」「うん」悠斗が頷く。「続けるよ」私たちはそのあともしばらく話をした。大半は、この辺りの景色や、悠斗が始めた学校の話だった。そして、帰る時間になる。悠斗が私を見る。その目には、まだ隠しきれない名残惜しさが浮かんでいる。「紗月。今さらこんなことを聞くのは、迷惑だって分かってる。でも……一つだけ聞かせてほしい。俺たちに、もう一度やり直せる可能性はあるか?」私は悠斗を見る。長い間、何も言わない。そして、ゆっくりと口を開く。「悠斗。私たちは、もう変わったんだよ。あなたはもう、昔みたいに高いところから人を見下ろすような社長じゃない。私も、昔
悠斗は私を見る。その目には、どうしようもない諦めと、まだ消えない未練が滲んでいる。「そんなに俺が嫌いなのか?この家が、そんなに嫌なのか?」「嫌いなんじゃないよ。もう、愛してないの。それに、もう疲れた。悠斗。私たちの間には、もう何も残ってない。だから、署名して。私を自由にして。あなた自身のことも、もう解放してあげて」長い沈黙が流れる。やがて、悠斗がゆっくりと口を開く。「もし俺が署名したら、一つだけ、約束してくれないか?」「何?」私は悠斗を見る。「離婚したあとも……連絡を絶たないでほしい」悠斗の目には、かすかな懇願が浮かんでいる。「昔の俺が、お前を傷つけたことは分かってる。許してくれなんて言わない。でも……お前が元気にしてるか、それだけは知りたい。困ったときは、俺に頼ってほしい。俺にできることなら、力になりたい」私は黙って悠斗を見る。少しだけ迷う。本当なら、離婚したら、完全に縁を切るつもりだった。過去を全部置いて、新しい人生を始める。そのつもりだった。けれど、目の前にいる悠斗の表情を見ていると、どうしても冷たく突き放せない。私たちは、かつて夫婦だった。最後はこんなにも酷い結末になったけれど、それでも、幸せだった時間まで嘘だったわけじゃない。「分かった」三日後。悠斗は離婚協議書に署名した。そして、それを私へ差し出す。書類に走る彼の筆跡を見つめながら、私はようやく胸を撫で下ろす。もう二度と思い出したくないほど傷ついた結婚生活が、ようやく終わる。民宿のオーナーは、私たちが到着するより前から入口で待っていてくれた。私の姿を見つけると、笑顔で駆け寄ってくる。「新井さん、やっと来ましたね!長旅、お疲れさまでした」民宿は思っていた以上に、素敵な場所だった。庭には色とりどりの紫陽花が植えられている。ちょうど見頃を迎えていて、鮮やかな花が一面に咲き誇っている。庭の中央には小さな池がある。その中では、赤い金魚が何匹も泳いでいる。水面を揺らしながら、のんびりと行ったり来たりしている。部屋は温かみのある落ち着いた雰囲気に整えられている。窓を開ければ、目の前には青々とした海がどこまでも広がっている。遠くには山々が連なり、その景色はまるで一枚の絵のようだ。それからの日々は、私にとってまったく新しいも
私は怒らなかった。ただ、静かに千恵子を見る。「お義母さん、言葉には気をつけてください。悠斗とはまだ離婚していません。私は今も神谷家の妻です。この家には、私の居場所もあります」「神谷家の妻ですって?」美咲が小さく笑う。そして、自分のお腹をそっと撫でる。「紗月さん、もう現実を見たほうがいいよ。悠斗が愛しているのは私。紗月さんは、ただの邪魔な存在よ。分かったら、さっさと自分から身を引いたほうがいい。最後に恥をかくのは、紗月さんなんだから」得意げに笑う美咲を見ていると、なんだかおかしくなってくる。悠斗が美咲に優しくする理由なんて、私には分かっている。お腹の中にいる子供、そして美咲の家柄。それらが神谷家にとって利用価値があるからだ。もしその二つがなくなったら、美咲の末路はきっと私より悲惨なものになる。「私が身を引くかどうかを決めるのは、あなたじゃない。お義母さんでもない。決めるのは、悠斗本人だよ」私は少しだけ間を置く。「それに、もう悠斗には離婚したいって伝えてある。今は、あの人が署名するのを待ってるだけ」その瞬間、美咲と千恵子の顔色が同時に変わる。美咲は、まさか私から離婚を切り出しているとは思っていなかったらしい。千恵子も呆然としている。何か言おうとして口を開く。けれど、言葉が出てこない。そのとき、悠斗が帰ってきた。リビングに私と美咲、千恵子が揃っているのを見ると、悠斗の表情がわずかに変わる。そして、複雑な目で私を見る。「悠斗、お帰りなさい」美咲がすぐに立ち上がる。そして、甘えるような表情で悠斗のそばへ歩み寄り、腕に絡みつく。「やっと帰ってきた。さっきまで紗月さんと少しお話ししてたの。それでね……紗月さん、悠斗と離婚するんだって」悠斗の目がわずかに暗くなる。けれど、何も言わない。ただ、美咲の体を支えながらソファへ座らせる。すると千恵子が慌てて口を挟む。「悠斗!まさか、離婚なんて認めないでしょうね?この紗月ったら、本当に何を考えてるのかしら!せっかく神谷家の妻として暮らせているのに、自分から離婚したいだなんて……頭がおかしいんじゃないの?」悠斗は私を見る。その表情は、驚くほど平静だ。「そのことなら、俺がちゃんと考える」それ以上、何も言わない。そして、美咲へ視線を向ける。「美咲。お前は
「本当に、そんなに冷たいのか?」悠斗が小さな声で尋ねる。その声には、わずかな懇願が混じっている。「先に私を切り捨てたのは、あなたでしょう」私は淡々と答える。「私はただ、自分のものを取り戻しているだけだよ」それだけ言って、私はもう悠斗を見ない。再び荷物をまとめ始める。悠斗はその場に立ったまま、黙って私を見つめている。その目には、苦痛と後悔、そして諦めきれない執着が入り混じっている。長い沈黙のあと、悠斗がようやく口を開く。「俺は、署名しない」私の手が止まる。そして顔を上げる。「どういう意味?」「俺は、お前とは離婚しない」悠斗は私をまっすぐ見つめる。その瞳には、はっきりとした決意が宿っている。「紗月。俺が同意しない限り、お前はずっと俺の妻だ。俺から離れられると思うな」私は眉を寄せる。胸の奥に、少しだけ苛立ちが湧く。「悠斗……私を追い詰めないで」声も自然と冷たくなる。「もし、どうしても離婚しないと言うなら、私から離婚を申し立てる。そうなれば、話は大きくなるよ。神谷家の評判にも傷がつく。それに、美咲さんの名前だって無傷では済まない。あなたが一番避けたい結果でしょう?」悠斗の表情がわずかに変わる。図星だったのだろう。悠斗が何より大切にしているのは、神谷家の評判。そして、自分の体面だ。もし離婚問題が公になれば、世間から笑いものにされる。会社のイメージにも影響が出る。美咲との関係についても、当然いろいろと噂されることになる。私は静かに続ける。「私だって、こんなふうに大事にしたいわけじゃない。夫婦だったんだから、最後くらい穏便に終わらせたい。でも、私を追い詰めるなら、私もそれなりの手段を取るしかないよ」悠斗は黙って私を見ている。その目には、怒りと無力感が浮かんでいる。きっと分かっている。私は、もう昔の私じゃない。泣いて縋れば、簡単に言いくるめられる女ではない。長い沈黙のあと、悠斗がようやく口を開く。「三日だけくれ、三日後に、俺が答えを出す」私は少し考えてから頷く。「分かった。三日なら待つ。でも、三日経っても署名する気がないなら、私はすぐに離婚を申し立てるから」それだけ告げて、私はもう悠斗を相手にしない。再び荷物の整理を始める。悠斗はしばらく私を見つめていた。やがて、何も
悠斗の目には、相変わらず複雑な色が浮かんでいる。顔には疲労が滲み、額にかかった前髪は乱れて垂れ下がって、その目元を隠している。「本当に、行くのか?」悠斗が小さな声で尋ねる。その声には、ほんのわずかに、私には分かってしまうほどの懇願が混じっている。「うん」私は頷く。そして悠斗を見ようともせず、荷物をまとめ続ける。悠斗が私のそばまで歩いてくる。私が手にしている服へ視線を落とした時、突然私の手首を掴む。そして、私が手にしていた服を床へ放り投げる。「片付けるな!」悠斗が低く怒鳴る。「紗月……俺は、お前を行かせない」私は眉を寄せる。手を振りほどこうとする。けれど、悠斗はさらに強く手首を握り締める。「悠斗、やめて。私たちはもう無理だよ」「無理?」悠斗が冷たく笑う。けれど、その瞳の奥には深い苦しみが滲んでいる。「最初に復縁したいって泣きながら言ったのは、お前だろ。それなのに今度は、離婚したいって言う。お前は俺を何だと思ってる?呼べば来て、必要なくなれば捨てられる……便利な道具か?」私は悠斗を見る。そして、ふと皮肉な気持ちになる。「悠斗。あなたは、私を本当に愛したことなんてないよ。ただ、私がいることに慣れていただけ。私があなたに尽くすことに慣れていただけ。だから今、私が離れようとして初めて寂しくなった。初めて罪悪感を抱いた。でも、それは愛じゃない。ただの執着だよ」悠斗の顔が、さらに険しくなる。充血した目で、私を睨みつける。「違う!」悠斗が声を荒らげる。「俺は紗月を愛してた!ずっと……愛してる!」「愛してる?」私は思わず笑ってしまう。「私が妊娠しているとき、他の女と関係を持つのが愛なの?私が病気で苦しんでいるときは放っておいて、他の女と海外旅行に行くのが愛?私が濡れ衣を着せられて警察に留め置かれていたとき、一週間も一人で放っておくのが愛なの?」一つ。また一つ。私は悠斗へ問いかける。けれど、悠斗は何も答えられない。さっきまで怒りに満ちていた顔に、今は深い後悔と苦痛が浮かんでいる。「あなたは、私を愛してなかった」私は悠斗を見つめる。静かながらも、決然とした口調で言う。「あなたが愛しているのは、結局自分自身だけ。今、美咲さんがお腹の中にあなたの子供を宿している。彼女ならあなたにも
男って、本当にみんな同じなのかもしれない。手に入らないものほど欲しくなる。愛されているうちは、それが当たり前だと思ってしまう。「だって、もうあなたを愛してないから」私は静かに言う。まるで、これ以上ないほど単純な事実を告げるように。「離婚してからの五年間、私はいろんなことを経験した。人の優しさも、冷たさも、嫌というほど知った。そして、いろんなことが分かったの。愛なんて、結局は形のないものだよ。それよりも、お腹いっぱいご飯を食べられること、安心して眠れる家があること、そういうもののほうがずっと現実的で大切なんだって」私は悠斗を見る。その顔には、まだ信じられないという表情が浮かんでいる。「昔は悠斗を愛してた。だから、悠斗の一挙一動だけで私の気持ちは簡単に揺れた。悠斗に裏切られれば、息をすることすら苦しいくらい傷ついた。でも、今はもう愛してない。誰と一緒にいようと、誰に優しくしようと、私には関係ない。私はただ、自分の人生を生きたい。これからは、穏やかに、静かに、自分らしく生きていきたいの」言葉を聞いた瞬間、悠斗の顔から血の気が引いていく。唇が小さく震えている。けれど、何も言えない。私はもう悠斗を気にしない。そのまま背を向け、浴室へ入る。タオルを濡らして、額に付いた血を拭き取る。傷はそれほど深くない。けれど、思った以上に血が流れている。鏡に映った自分は、ひどく惨めな姿をしている。私はそんな自分を見て、ふっと笑う。これが最後だ。悠斗のために涙を流すのも。この、とうに形だけになっていた結婚生活のために傷つくのも。これからは、自分のために生きる。傷の手当てを終えると、私は着替える。そして浴室から出る。すると、悠斗はまだそこに立っている。まるで魂を抜かれたような顔で、ベッド脇のテーブルに置かれた離婚協議書を見つめている。その姿からは、さっきまでの怒りも消えている。「私、先に自分の部屋へ戻るね。ゆっくり考えて」そう言って、主寝室を出ようとする。「紗月」背後から、悠斗の声が聞こえる。その声は、少し掠れている。「お前……本当に、俺のことを何とも思ってないのか?少しも?」私は振り返らない。ただ、静かに答える。「うん。もう何とも思ってない」それだけ言って、私は主寝室を出る。そして、自分の部屋へ戻る。そこ