INICIAR SESIÓN私の名前は、高橋千紗(たかはし ちさ)。 祖母が亡くなったあと、私は両親に引き取られ、田舎から天城市へ引っ越した。 そこで初めて、一歳年下の妹・高橋結衣(たかはし ゆい)がいることを知った。 母の高橋真由美(たかはし まゆみ)は、私の手を握ると優しく笑って言った。 「千紗はお姉ちゃんなんだから、ゆいちゃんには譲ってあげるのよ。ね?」 私は小さくうなずいた。この家では、「お姉ちゃん」でいることが私の役目だと理解した。 その頃から、家族の中で一番後回しになるのは、いつも私だった。 それから数年後、弟の高橋陽斗(たかはし はると)が生まれた。 家族が増えるたび、私の居場所は少しずつ狭くなっていった。 大学二年の夏休み。 私は大学から久しぶりに実家へ帰った。 けれど、家の前で足が止まった。玄関のドアには、いつの間にかスマートロックが取り付けられていた。 そのことを私に知らせてくれた人は、一人もいなかった。 スマホはもう電池が切れていた。誰にも連絡できないまま、私は午後二時から夜十時まで、玄関先で家族の帰りを待ち続けた。 夜十時を過ぎて、ようやく帰ってきたのは、父の高橋恒一(たかはし こういち)、母の真由美、結衣、そして陽斗だった。 四人は大きなスーツケースを引きながら、旅行の思い出話に花を咲かせていた。おそろいのTシャツ姿の四人が、ひどく楽しそうに見えた。 その輪の中に、私の居場所だけはなかった。 玄関先に立ち尽くす私を見つけると、父は驚いたように目を丸くした。しばらく気まずい空気が流れた。 私の指紋を登録しようとして、登録画面を開いた父は、小さく舌打ちした。 「ったく……利用者登録は五人までか。もう追加できないな」 母はまるで大したことではないと言うように肩をすくめた。 「じゃあゲスト登録でいいじゃない。千紗が帰ってくるたびに、登録し直せばいいでしょ」 呆然とする私を見て、陽斗が悪びれもせず笑った。 「結衣姉ちゃんがね、ポチの鼻紋も登録したんだよ。 ほら、ポチも家族でしょ?だから、もういっぱいだったんだ」 犬のポチでさえ、この家では大切な家族だった。それなのに、私は最後まで「ゲスト」のままだった。 この家を出ていく理由としては、それだけで十分だった。 その夜、私は政府の機密プロジェクトへの参加申請書を提出した。 この家で、私の帰りを待つ人はいない。 だから、私はもうこの家に未練はなかった。
Ver másその夜、机の上のスマホが何度も震えた。画面には、陽斗の名前が表示されていた。通話に出ると、開口一番、陽斗が声を荒らげた。「千紗姉さん、結衣姉ちゃんから聞いた!もう僕たちと関わるつもりはないって言ったんだって?どういうつもりだよ!お父さんもお母さんも、姉さんに会いたがってるのに、全然帰ってこないじゃないか!今は二人とも歳を取ったんだぞ。そんなふうに突き放すなんて、本当に家族なのかよ!」私はスマートフォンを手にしたまま、窓際へ歩いた。窓の外では、街路樹の葉が静かに風に舞っていた。私は小さく息をついた。「陽斗。私が大学生だった頃、生活費は月2万円だった。その頃のあなたは、何万円もする靴を当たり前のように買ってもらってたよね。私のお金を勝手に持っていってゲームを買っても、お父さんたちも、あなたをかばってた……もう忘れたの?」電話の向こうが一瞬黙った。やがて、歯切れ悪そうに陽斗が答えた。「そ、それは……昔の話だろ」それでも、陽斗は食い下がった。「けど今は違うじゃん。お父さんもお母さんも歳を取ったし、仕事もうまくいってない。姉さんだって立派になったんだから、一度くらい帰ってきてもいいだろ」「現地へ行く前に、同意書にサインしたのはお母さんだった。でも、内容なんて見てもいなかった。家を出た日だって、家族のグループチャットでは、私じゃなくて、あなたに謝れって言われた……それも全部、『昔の話』だよね」電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。「今になって家族だなんて言われても、もう遅いよ」その直後、通話は一方的に切れた。夕方、お母さんからメッセージが届いた。長い文章だった。【千紗へ。お母さん、ずっと考えてた。あの頃は、本当にあなたをないがしろにしてしまっていたね。お父さんと二人で田舎から出てきて、毎日生活に追われてた。あなたが生まれても、ちゃんと育てる余裕がなくて、おばあちゃんに預けるしかなかった。あなたの成長を、ちゃんと見てあげられなかった。そのあとゆいちゃんたちが生まれて、気づけばあの子たちばかり見ていた。あなたには、寂しい思いばかりさせてしまったね。本当にごめんね】続いて、お父さんから一枚の写真が送られてきた。新しく取り付けられた玄関のスマートロックだった。
それから数日が経った。その日は、雲ひとつない青空だった。新しいプロジェクトのため、しばらく大学に戻って特別研修を受けることになった。佐伯教授は笑いながら言った。「現地からは、もう受け入れの話が来ている。特別研修を終えたら、そのまま戻ってきなさい。君には、一つテーマを任せるつもりだ。責任者としてな」私は深く頭を下げた。未来のことが少しずつ形になっていくのを感じながら、私は行政棟を後にした。そのときだった。不意に名前を呼ばれた。「……千紗姉」振り向くと、結衣が壁にもたれて立っていた。数年前よりずいぶん大人びて見えた。スーツをきちんと着こなし、口元には落ち着いた色のリップを引いていた。私を見ると、どこかぎこちない笑みを浮かべた。「おめでとう。母さんたちから聞いたよ。国家プロジェクトで表彰されたんだって?本当にすごいね」私は小さくうなずいただけだった。結衣はそのまま私の隣を歩き始めた。ヒールの音だけが、石畳に乾いた音を刻んでいた。「千紗姉、家を出てから一度も帰ってきてないよね。今、家がどうなってるかも知らないでしょ?」結衣は少し言いづらそうに視線を落とした。「父さんの仕事、最近あまりうまくいってなくて……前のお客さんもずいぶん離れちゃったの」結衣は小さく息をつき、足元へ視線を落とした。「家計にも余裕がなくて、私も働き始めたばかりなのに、お給料はほとんど家に入れてる。母さんも、毎日のようにため息ばかりついてるよ」しばらく黙り込んでいた結衣は、困ったように笑った。「それに……陽斗も反抗期に入っちゃってさ。すぐ母さんたちとぶつかるし、ドアを乱暴に閉めたりするの。先週なんて、ゲーム機が欲しいって大騒ぎして、父さんの血圧まで上がっちゃった」そう言って肩をすくめ、小さく苦笑した。「私が何を言っても聞いてくれないし……『千紗姉さんは何でも譲ってくれたのに』って、そんなことばかり言うの」結衣はしばらく黙って歩いていたが、やがて意を決したように足を止め、私を見つめた。「……一度、家に帰ってきてくれない?千紗姉が帰ってきたら、陽斗も少しは落ち着くと思う」私は何も答えなかった。結衣は私の表情をうかがうように、言葉を続けた。「母さんたちも、もう若くないんだ。この家には、千紗姉も必
月日はあっという間に流れた。気づけば、あれから三年が経っていた。プロジェクトは無事に完了し、私は佐伯教授率いるチームとともに北浜市へ戻った。プロジェクトの表彰式が行われたその日、講堂には、プロジェクト関係者が大勢集まっていた。表彰状とメダルを受け取った瞬間、スポットライトが少しまぶしかった。客席にはプロジェクトメンバー全員の姿があった。佐伯教授が拍手を送り、真帆は私以上に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。手にしたメダルは、ずっしりとした重みがあった。そこにはプロジェクト名と、私の名前が刻まれていた。記念撮影では、佐伯教授が私を真ん中へ呼んだ。大きな手を私の肩にぽんと置き、誇らしそうに笑った。「千紗さん。今回の初飛行が成功したのは、君のデータがあったからだ」私は思わず目を伏せ、胸元のメダルへ視線を落とした。隣では、真帆がそっと親指を立てて微笑んでいた。私も思わず頬がゆるんだ。このメダルは、誰のものでもない。私だけのものだった。表彰式が終わり、会場を出ようとしたときだった。大学時代の同級生が、慌てた様子で駆け寄ってきた。「千紗。ご実家の近所の人から伝言頼まれたんだ。ご両親が表彰のこと聞いて、今こっちに向かってるらしいよ。少しでも会えないかって」私は小さくうなずいただけだった。応接室で30分ほど待つと、扉が静かに開いた。父と母、それに陽斗が入ってきた。三年ぶりに会った二人は、少しだけ歳を取って見えた。父のこめかみには白髪が増え、母の目尻にも以前より深い皺が刻まれていた。陽斗はすっかり背が伸び、いつの間にか私より大きくなっていた。手には、最新型の折りたたみスマートフォンが握られていた。画面にはゲームが映ったままだった。「……ちっちゃん」母が口を開いた。その声はどこかかすれていた。「三年ぶりね。なんだか、前とはずいぶん雰囲気が変わったわ」私は小さく笑った。「少し大人になっただけだよ」父は私を頭の先から足元まで眺め、胸元のメダルに目を留めると、すぐに視線を逸らした。「……痩せたな」少し間を置いてから続けた。「向こうは大変だったんだろう。あのとき、君は何も言わずに出ていったから、こっちは本当に心配したんだ」私は静かに答えた。「ちゃんと話したよ。家
データの照合も、三巡目に入っていた。午前二時。サーバールームには、機械の低い駆動音だけが響いていた。私はモニターを見つめ、推進剤の配合データを一行ずつ確認していた。「もう休め。目が真っ赤だぞ」先輩の一人が肩を軽く叩いた。私は首を横に振った。視線は、ある数値の小数点以下四桁目に釘づけになっていた。理論値との差は、ごくわずかだった。通常のチェックなら、そのまま見落としてしまう程度の誤差だった。それでも、どうしても違和感が拭えなかった。私はこの半年分の実験データをすべて取り出し、一枚ずつ照らし合わせていった。静まり返った部屋に、紙をめくる音だけが響いていた。真帆は何も言わず、私の手元に水筒をそっと置いた。中には、まだ温かいはちみつ入りのお茶が入っていた。東の空が白み始めた頃、私はようやくその誤差の原因を見つけた。あるセンサーの低温時ドリフト係数が、入力の段階で最後の一桁だけ四捨五入されていたのだ。それだけ見れば、ごくわずかな違いだった。だが、その誤差が機体全体に影響すれば、軌道は17キロもずれてしまう。私は計算結果を手に、佐伯教授の部屋へ駆け込んだ。佐伯教授は資料を読み終えると、しばらく黙り込んだ。そして内線を取り、プロジェクトメンバー全員を招集した。検証会議が始まると、佐伯教授は私に視線を向けた。「千紗さん、どうしてこの誤差に気づいた?」私は答えた。「ほかのデータには、それぞれ説明のつくばらつきがありました。でも、この値だけは、不自然なくらい揃いすぎていたんです」会議室は静まり返った。佐伯教授は手元の資料を閉じ、小さくうなずいた。「よく見つけたな。このままだったら、試験運転は三か月延期になっていただろう」その日を境に、それまで話したことのなかったメンバーとも、顔を合わせれば自然と挨拶を交わすようになった。食堂のおばちゃんも、何か一品おまけしてくれるようになった。私は少し戸惑った。でも、それが嫌な気持ちではないことくらい、もう分かっていた。認めてもらえるって、こういうことなんだ。もう、自分を押し殺す必要はない。目立ちたがりだなんて言われることもない。ある日、真帆と一緒にデータを整理していると、ふいに真帆が笑った。「最初は静かな子だなっ