Short
死ぬ前に、ようやく憧れの湖を目にした

死ぬ前に、ようやく憧れの湖を目にした

بواسطة:  まねき猫ちゃんمكتمل
لغة: Japanese
goodnovel4goodnovel
10فصول
6وجهات النظر
قراءة
أضف إلى المكتبة

مشاركة:  

تقرير
ملخص
كتالوج
امسح الكود للقراءة على التطبيق

20歳の誕生日を迎えたその日、私――白石栞(しらいし しおり)は、兄の白石和臣(しらいし かずおみ)と白石亮介(しらいし りょうすけ)、そして幼なじみの柏木遼(かしわぎ りょう)がいるはずのリビングへ向かい、大声で言った。 「私、今日で20歳になったよ。 誕生日は毎年、一緒に祝ってくれるって約束したよね」 けれど、返ってきたのは、やはり沈黙だけだった。 ソファには、和臣、亮介、それから遼をかたどった小さな人形が三体並んでいた。三体とも目を開けたまま、これまで幾夜もそうしてきたように、ただ静かに私のそばにいてくれた。 その人形を前にして、三人はとっくに私を見放していたのだと、改めて思い知らされた。 私が10歳で腎臓病を患ったとき、和臣は、移植の適合検査で私と型が合った白石美羽(しらいし みう)を、「栞を救うために迎えた妹だ」と言って、児童養護施設から引き取ってきた。 けれど、美羽が私を救うより先に、家族は美羽を誰よりも大切にするようになっていた。

عرض المزيد

الفصل الأول

第1話

化学療法を受けてから、私は辛いものを受けつけなくなった。それでも和臣は、食事のたびに辛い料理ばかり作った。

「美羽はこれから、お前のために片方の腎臓を失うんだぞ。好きなものくらい、食べさせてやってもいいだろ?」

美羽が私の成人祝いのネックレスを欲しがると、亮介はその場で私の首から外し、美羽に手渡した。

「美羽はお前に腎臓をくれるんだぞ。ネックレスの一本くらい、譲ってやってもいいだろ?」

遼は再診の日に一緒に病院へ行くと約束していたのに、その日は美羽とコンサートへ行き、病院には来なかった。

「美羽は、もうコンサートに行けないかもしれないんだ。お前は今日くらい我慢したって死なないだろ」

私の命がかかった手術さえ、美羽が「海を見たい」「スカイダイビングをしたい」「オーロラを見たい」と言い出すたびに、何度も先延ばしにされた。

広い家にひとりで残るのが怖くて、私も連れていってほしいと頼んだ。

それだけだったのに、三人は「栞のためだ」と言って、私だけをこの部屋に住まわせた。

この部屋に越してきた夜、私は和臣、亮介、遼をかたどった小さな人形を作った。食事のときも、眠るときも、痛みに耐えながら話しかけるときも、いつもそばに置いていた。

そして今日、私は貯金を使い切り、中古車を一台買った。

いつか四人で行こうと約束した青凪湖を、最後にこの目で見ておきたかった。

そして、そのまま二度と戻らないつもりだった。

……

この部屋で暮らし始めて三年。こんなふうに部屋を眺めたのは、初めてだった。

壁紙はあちこち剥がれ、その下から灰色がかった下地がのぞいていた。

カーテンは何度も洗ったせいでごわつき、端には落ちきらないカビの染みが残っていた。

古いエアコンは頭上でうなり続けていたが、出てくるのは生ぬるい風ばかりだった。

何より嫌だったのは、この部屋に染みついた臭いだ。

消毒液と薬の臭い。それに、咳き込んで吐いた血の生臭さが、何度拭いても消えずに残っていた。

けれど、白石家が貧しかったわけではない。

両親が交通事故で亡くなったあと、私たちには多額の遺産が残された。

その後、和臣は会社を立ち上げ、亮介も業界で名の知れたデザイナーになった。二人はそれぞれの道で成功し、都心のタワーマンションに300平米もある部屋を買った。

美羽には専用の書斎と音楽室があり、人形やお気に入りのグッズを置くだけの部屋まで用意されていた。

それなのに、私が家を出されるとき、和臣が口にしたのは、たったこれだけだった。

「ほんの数日なんだ。部屋なんて、寝られれば十分だろ。

手術が終わったら迎えに来る。それまでの辛抱だ」

けれど、迎えを待つうちに、一日、また一日と過ぎていった。

そうして三年が経っても、誰も迎えには来ず、命をつなぐための手術も受けられないままだった。

不意に、胃の奥をえぐるような痛みが走った。

私はすぐに洗面所へ駆け込み、洗面台に身をかがめて、大量の血を吐いた。

リビングに戻ったときには、明かりがぼんやりと滲んで見えた。

ソファには、三人をかたどった人形が変わらず並んでいた。

つぶらな目をこちらに向け、何も知らずに私を見つめていた。

その姿を見た途端、胸の奥からやりきれない思いが込み上げてきた。

「何よ、そんな目で見ないでよ!

私を捨てたくせに……!」

ソファの人形を片づけようと手を伸ばしたとき、スマホが鳴った。和臣からのメッセージだった。

【栞、あとで家に帰ってこい。話がある】

私はしばらく、スマホの画面を見つめたまま動けなかった。

とっくに諦めたはずなのに、「帰ってこい」の一言に、ほんの少しだけ期待してしまった。

もしかしたら、まだ私のことを気にかけてくれているのかもしれない。

そう思うと、じっとしてはいられなかった。私はすぐに部屋を出た。

バスを待つのももどかしくて、思い切ってタクシーを呼んだ。自分のためにタクシーを使うなんて、初めてのことだった。

家の玄関を開けると、リビングから明るい笑い声が聞こえてきた。

和臣と亮介、それに遼もそろっていた。三人に囲まれた美羽の前には、きれいに包まれたプレゼントがいくつも並んでいた。

和臣は美羽の頭を撫でながら、聞いたこともないほど優しい声で言った。

「美羽も今日で19歳か。大きくなったな」

亮介が笑いながら口を挟んだ。

「19歳になったくらいで、急に大人になるわけじゃないだろ。

美羽は80歳になったって、俺にとってはかわいい妹のままだからな」

そう言って、亮介はからかうように続けた。

「なあ、美羽。やっぱり俺が一番好きだよな?」

美羽が答える前に、遼が笑って割って入った。

「いや、一番は俺だろ。

小さい頃は、いつも『遼、遼』って俺のあとをついて回ってただろ?」

美羽が恥ずかしそうに頬を染めると、リビングは楽しげな笑い声に包まれた。

私は玄関に立ち尽くしたまま、その光景を見ていた。自分の家のはずなのに、私だけがよそ者のようだった。

やがて、和臣がこちらに気づいた。目が合った途端、口元の笑みが少し薄れた。

「栞、帰ってきたのか」

その一言で、笑い声が止んだ。

美羽は私をちらりと見ただけで、プレゼントを抱えて自分の部屋へ戻っていった。

あとに残った三人の間に、気まずい沈黙が流れた。

先に口を開いたのは、亮介だった。

「いつまでそこにいるんだ。こっちに来て座れよ」

私は返事をせずにリビングへ入り、隅にある一人掛けのソファに座った。

和臣は一度咳払いをして、話を切り出した。

「今日呼んだのは、相談したいことがあるからだ」

そう言うと、ローテーブルの下に手を伸ばし、書類を取り出した。

「まず目を通してくれ。問題がなければ、ここにサインしてくれ」

私は目の前の書類に目を落とした。

一枚目には、太字でこう書かれていた。

【生体腎移植に関する同意撤回書】

توسيع
الفصل التالي
تحميل

أحدث فصل

فصول أخرى
لا توجد تعليقات
10 فصول
第1話
化学療法を受けてから、私は辛いものを受けつけなくなった。それでも和臣は、食事のたびに辛い料理ばかり作った。「美羽はこれから、お前のために片方の腎臓を失うんだぞ。好きなものくらい、食べさせてやってもいいだろ?」美羽が私の成人祝いのネックレスを欲しがると、亮介はその場で私の首から外し、美羽に手渡した。「美羽はお前に腎臓をくれるんだぞ。ネックレスの一本くらい、譲ってやってもいいだろ?」遼は再診の日に一緒に病院へ行くと約束していたのに、その日は美羽とコンサートへ行き、病院には来なかった。「美羽は、もうコンサートに行けないかもしれないんだ。お前は今日くらい我慢したって死なないだろ」私の命がかかった手術さえ、美羽が「海を見たい」「スカイダイビングをしたい」「オーロラを見たい」と言い出すたびに、何度も先延ばしにされた。広い家にひとりで残るのが怖くて、私も連れていってほしいと頼んだ。それだけだったのに、三人は「栞のためだ」と言って、私だけをこの部屋に住まわせた。この部屋に越してきた夜、私は和臣、亮介、遼をかたどった小さな人形を作った。食事のときも、眠るときも、痛みに耐えながら話しかけるときも、いつもそばに置いていた。そして今日、私は貯金を使い切り、中古車を一台買った。いつか四人で行こうと約束した青凪湖を、最後にこの目で見ておきたかった。そして、そのまま二度と戻らないつもりだった。……この部屋で暮らし始めて三年。こんなふうに部屋を眺めたのは、初めてだった。壁紙はあちこち剥がれ、その下から灰色がかった下地がのぞいていた。カーテンは何度も洗ったせいでごわつき、端には落ちきらないカビの染みが残っていた。古いエアコンは頭上でうなり続けていたが、出てくるのは生ぬるい風ばかりだった。何より嫌だったのは、この部屋に染みついた臭いだ。消毒液と薬の臭い。それに、咳き込んで吐いた血の生臭さが、何度拭いても消えずに残っていた。けれど、白石家が貧しかったわけではない。両親が交通事故で亡くなったあと、私たちには多額の遺産が残された。その後、和臣は会社を立ち上げ、亮介も業界で名の知れたデザイナーになった。二人はそれぞれの道で成功し、都心のタワーマンションに300平米もある部屋を買った。美羽には専用の書斎と音楽室があり、人
اقرأ المزيد
第2話
その文字を目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。顔を上げると、和臣は後ろめたそうに私から目をそらした。「栞、美羽は最近ずっと体調がよくない。今の美羽じゃ、手術にはとても耐えられないんだ。それに、美羽はまだ19歳だ。これから先の人生のほうが長い。腎臓を片方提供して、この先、体に何かあったらどうするんだ」私が口を開く前に、亮介が眉をひそめた。「栞、兄さんをそんな目で見るな。美羽はお前より一つ下なんだぞ。本当にあの子に手術を受けさせるつもりか? 美羽はお前に何の借りもないだろ!」私は遼を見た。目が合うと、遼はしばらく黙っていた。やがて、二人よりは穏やかな声で口を開いた。それでも、言うことは二人と同じで、私を責める言葉だった。「今は医療も進んでるんだ。適合するドナーが見つかるまで待てばいいだろ。栞、自分のことばかりじゃなく、美羽の気持ちも考えろよ」何か言おうとしたのに、喉が詰まって声が出なかった。最初に美羽を家へ連れてきたのは和臣だった。けれど、あのとき私に生きる希望を抱かせたのは、三人だった。それなのに今になって、美羽に手術は受けさせられないと言い出したのも、その三人だった。三人は知らない。前回の化学療法をひとりで受けたとき、医師から、私の体はもう移植を待てる状態ではないとはっきり告げられていたことを。その日、兄たちも遼も美羽に手術を受けさせたくないのなら、もう美羽の腎臓には頼らないと、ひそかに決めた。その痛みで涙をこらえ、震える手で署名欄に書いた名前は、ひどく歪んでいた。それを見た三人は、ようやくほっとしたように息をついた。それから、まるで示し合わせたように、それぞれ隠していた紙袋を取り出した。「ほら、いつまでもそんな顔するな。お前の誕生日プレゼントだ。美羽にだけ用意したわけじゃない。お前の分もちゃんとあるんだから、俺たちが美羽ばかり可愛がってるなんて言うなよ」目の前の紙袋を見た途端、かえって涙がこみ上げた。本当は今日、美羽の誕生日ではない。身寄りのなかった美羽は、自分がいつ生まれたのかも知らなかった。美羽は私を救うために来たのだから、これからは私と同じ日に誕生日を祝えばいい――そう言ったのは和臣だった。最初の頃、ケーキのプレートに書かれていたのは、私の名前だけだった。や
اقرأ المزيد
第3話
帰りのバスに揺られながらSNSを開くと、美羽が新しい投稿をしていた。【嫌な人も帰ったし、これでやっとゆっくり誕生日を楽しめる〜】添えられた写真には、和臣と亮介、それに遼が食卓を囲んでいる姿が写っていた。テーブルには、見るからに辛そうな料理ばかりが並んでいた。どれも、化学療法を受け始めてから、医師に食べないよう厳しく言われていたものばかりだった。その写真を見て、夕食を断って正解だったと思った。あのまま残っていたら、かえって惨めになるだけだった。あの食卓で私が口にできるものなど、白いご飯くらいしかなかっただろう。アパートに戻ると、具のないかけうどんを一杯作った。その夜は初めて、三体の人形をそばに並べなかった。ひとりでうどんをすすり、ささやかな誕生日の食事を終えた。熱いうどんを食べ終えるころには、汗と涙で顔中ぐしゃぐしゃになっていた。翌日、私はいつもどおりドリンクスタンドのアルバイトへ向かった。青凪湖へ行く前に、途中で痛みに耐えられなくなったときに備えて、病院で鎮痛剤を多めに処方してもらう必要があった。けれど、そのためのお金がまだ少し足りなかった。あと数日分の給料が入れば、どうにかなるはずだった。その日は、店がショッピングモールの正面入口でキャンペーンを行っていた。私の担当は、マスコットの着ぐるみを着てチラシを配ることだった。真昼の日差しが容赦なく照りつけ、分厚い着ぐるみの中には熱がこもって息苦しかった。とうとう耐えきれなくなり、着ぐるみの頭を外して、隅にしゃがみ込み水を飲んだ。「お姉ちゃん?」背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、少し離れたところに、和臣と亮介、遼、美羽がいた。三人とも、両手いっぱいにショップバッグを提げていた。美羽のために買い物をしてきたことは、一目でわかった。和臣は汗だくの私を見るなり、眉間にしわを寄せた。その顔に浮かんだのは、心配ではなく、ばつの悪さと苛立ちだった。「栞、毎月金は渡してるだろ。そんな格好で人前に立ってたら、俺たちが病気のお前を働かせてるみたいに見えるじゃないか。知り合いにでも見られたら、会社の評判にまで響くだろう」手の中で、ペットボトルがくしゃりと音を立てた。「毎月もらってるのは、たった8万円。家賃だけで6万
اقرأ المزيد
第4話
「違います。そんなはず……」思わずそう口にした。けれど、窓口の機械が短いエラー音を鳴らし、入れたばかりの紙幣を吐き出した。その音を聞いた途端、もう何も言えなくなった。どうやって病院を出たのか、自分でも覚えていない。胃の奥がまた痛みだし、喉まで込み上げてきた血の味を、必死に飲み込んだ。紙幣を握りしめたまま、ドリンクスタンドへ向かった。店に入るなり、10万円をカウンターに叩きつけた。「これ、偽札でした。どういうことですか?給料を偽札で渡すなんて、詐欺じゃないですか。警察に相談しますから!」店長は売上の計算を続けたまま、ちらりとこちらを見た。「俺に言われても困る。その金を用意したのは俺じゃない。昨日、君のお兄さんが来て、先に給料を受け取っていったんだ。代わりに置いていったのが、その金だよ。金を稼ぐのは簡単じゃないって、少しはわからせたいんだとさ」その言葉を聞いた瞬間、何も考えられなくなった。ぼんやりしたままバスに乗り、家へ戻った。家に入るなり、和臣と亮介を問い詰めた。「私の給料、勝手に受け取ったの?」亮介は悪びれるどころか、どこか得意げだった。「これでわかっただろ。金を稼ぐのがどれだけ大変か。困ったときは、意地を張らずに俺たちを頼ればいいんだ。結局、お前のことを一番考えてるのは家族なんだから。俺たちに言いづらいなら、遼に相談したっていい」腹が立って、悔しくて、震えも涙も止まらなかった。頼らなかったわけじゃない。化学療法のあと、痛みでベッドから起き上がることもできなかったとき、私は和臣に電話をかけた。少しでいいから来てほしい。そばにいてほしい。泣きながら、何度もそう頼んだ。けれど、和臣は来なかった。「今日は美羽がずっと落ち込んでるんだ。今は放っておけない。その痛みなら、もう何度も経験してるだろ。少し我慢すれば治まる」治療費が足りず、病院から支払いを求められたときもあった。請求書を握りしめ、病院の廊下から亮介にメッセージを送った。長い沈黙のあと、返ってきたのは――【また金か?栞、何でも病気のせいにするのはやめろ。生活費なら毎月渡してるだろ】夜中に熱が40度まで上がったとき、手元には水さえなかった。意識が朦朧とする中、遼に電話をかけた。
اقرأ المزيد
第5話
栞が白石家を出ていった翌日、和臣と亮介、それに遼は、美羽がオーダーしていたアクセサリーを受け取りに、4人でショッピングモールへ向かっていた。車が街の南にある古い通りに差しかかったとき、遼は道沿いの古びた質屋に目を留めた。ショーウィンドウの中に、見覚えのある小さな金のペンダントが飾られていた。店の前を通り過ぎた直後、遼がはっと振り返った。「止めてくれ」和臣はすぐに車を止め、怪訝そうに遼を見た。「どうした?」遼は答えないまま車を降り、質屋へ駆け込んでいった。和臣と亮介も顔を見合わせ、すぐにそのあとを追った。ショーケースの中には、あのペンダントが置かれていた。金色は少しくすみ、縁には浅い傷がいくつも残っていた。それでも、3人にはひと目でわかった。栞が10歳のとき、3人で贈ったものだった。その年、栞は腎臓の病気が見つかったばかりで、痛みに苦しみ、夜もろくに眠れずにいた。和臣はベッドのそばにつきっきりで、何度も汗を拭いてやった。亮介は人目を忍んで泣いていた。それでも栞の前では、何とか笑わせようと明るく振る舞った。まだ少年だった遼も、栞の冷え切った手を握り、震える声で励ました。「大丈夫だ。僕たちがずっとそばにいるから」そのあと3人は何軒もの店を回り、ようやくこのペンダントを見つけた。和臣はそれを栞の首にそっとかけた。「これからは、このお守りが俺たちの代わりに栞を守ってくれる。だから、絶対に元気になるんだぞ。元気になったら、みんなで青凪湖を見に行こう」栞は顔色こそ悪かったものの、目を細めてうれしそうに笑った。そして首元のペンダントを大事そうに撫で、何があっても絶対に手放さないと約束した。けれど今、そのペンダントは売り物としてショーケースに並んでいた。和臣の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「このペンダント……誰が持ち込んだんですか?」店主は3人を見回した。「若い女の子だよ。ひどく痩せてて、顔色も悪かったな。店を出たところで血まで吐いてたよ。ずいぶん具合が悪そうだった」店主がショーケースからペンダントを取り出すと、和臣は受け取ろうと手を伸ばした。けれど、その指先はひどく震えていた。亮介も黙ったままペンダントを見つめていた。やがて、その目の縁が赤くなった。
اقرأ المزيد
第6話
和臣は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。ソファには、3体の小さな人形が並んでいた。縫い目は粗く、布もすっかり色あせていた。それでも、目元や口元はひと針ずつ丁寧に縫われていた。中でも和臣をかたどった人形の胸元には、彼が以前よく着ていたスーツを思わせる濃い色の布が縫いつけられていた。亮介がそっと触れると、人形はソファの上に倒れた。その下から、くしゃくしゃになった診療明細書の束が現れた。亮介は身をかがめて拾い上げ、明細に目を通した途端、顔色を変えた。化学療法、透析、救急外来、鎮痛剤の処方――そこには、ここ数年、栞が受けてきた治療の記録が細かく残されていた。遼がローテーブルの引き出しを開けると、中には空になった薬の箱がいくつも詰め込まれていた。その一番下には、何度も洗われてごわついたタオルが押し込まれていた。広げると、洗っても落ちなかった暗赤色の染みが、まだはっきりと残っていた。部屋の中が、しんと静まり返った。和臣の脳裏に、数日前の光景がよみがえった。白石家で栞が血を吐いたとき、自分は心配するどころか、芝居だと決めつけて家から追い出した。亮介もその場に立ち尽くしていた。明細書を握る手に力が入り、紙がくしゃりと音を立てた。「どうして……だって、栞はずっと平気だって……」そこまで口にして、言葉が続かなくなった。栞は一度でも、自分は平気だと言っただろうか。栞がどれほど苦しさを訴えても、大したことはないと決めつけ、まともに耳を傾けなかったのは自分たちだった。3人はそのまま病院へ向かい、栞の主治医を訪ねた。「あなたたちが、白石さんのご家族ですか?」「はい……」医師は3人をしばらく見つめてから、静かに尋ねた。「ご家族の方が来られたのは、今日が初めてですか?」そのひと言に、3人の顔から血の気が引いた。「白石さんは、いつ容体が急変してもおかしくない状態です。以前から、できるだけ早く手術を受けるか、少なくとも入院して治療を続けるよう、何度もお話ししてきました。今の体で鎮痛剤だけを頼りに生活を続けるのは、あまりにも危険です」和臣はこぶしを強く握った。「どうして、家族には何の連絡もなかったんですか?」医師の表情が険しくなった。「緊急連絡先として登録されていたご実家
اقرأ المزيد
第7話
そのころ私は、青凪湖を目指して車を走らせていた。出発して3日目、ふと助手席に目をやった。そこでようやく、3体の人形をアパートに置いてきたことに気づいた。白石家を離れると決めたときは、一緒に連れていこうと思っていた。けれど、出発する間際には、すっかり頭から抜け落ちていた。ただ忘れただけなのか、それとも心のどこかで置いていきたいと思っていたのか、自分でもわからなかった。和臣も亮介も遼も、もう昔の3人ではなかった。あの人形に重ねていたのは、今の3人ではない。私がそばに置いておきたかったのは、あのころの3人だった。病室でずっとそばにいて、何度も汗を拭いてくれた和臣。泣いて赤くなった目を隠すように、おどけて私を笑わせてくれた亮介。冷えた私の手を握り、これからも毎年一緒に誕生日を祝おうと約束してくれた遼。街を離れるにつれ、高い建物は減り、やがて家並みもまばらになっていった。行き交う車も、次第にまばらになった。少し開いた窓から風が吹き込み、目の奥がつんとした。いつもの癖で首元に手をやったが、指先に触れるものはなかった。ペンダントは、もう手放してしまったのだ。そう思っても、不思議と涙は出なかった。悲しくないわけではない。ただ、何度も傷つくうちに、もう悲しむ力さえ残っていなかったのかもしれない。途中のサービスエリアに立ち寄り、薬を飲んだ。冷たい水で錠剤を流し込むと、すぐに胃がむかついた。車を降り、ドアに手をついたまま何度もえずいた。最後に、血の筋が混じった唾を少し吐いた。近くにいた人がこちらを見ていた。私は急いでマスクをつけ直し、何でもないふりをして笑った。「大丈夫です。いつものことなので」また、同じ言葉が口から出た。私はもう何年も、「大丈夫」と言い続けてきた。そのうち3人は、私が本当に大丈夫なのだと信じた。そして私自身も、いつしかそう信じかけていた。車に戻ると、スマホが震えた。画面に表示されていたのは、和臣の名前だった。一度だけ画面を見て、鳴りやむまで待った。けれど、すぐにまたスマホが震えた。今度は亮介だった。続いて、遼。今になってようやく私のことを思い出したように、3人から次々と電話がかかってきた。しばらく画面を見つめたあと、3人の番
اقرأ المزيد
第8話
車を走らせて4日目に入るころには、目の前の道さえぼやけて見えるようになっていた。何度も視界が暗くなり、胃の痛みもますますひどくなっていった。これ以上は無理だと思い、道端に車を寄せた。ハンドルに額を預け、痛みが少し治まるのを待った。バックミラーの向こうには、低い雲が重く垂れ込めていた。あと少し走れば、青凪湖に着くはずだった。薬瓶を取り出し、2錠を手のひらに出した。口に入れようとしたそのとき、すぐ後ろで急ブレーキの音がした。何が起きたのかわからないまま顔を上げると、運転席のドアが外から勢いよく開いた。冷たい風が車内に吹き込んできた。そこに立っていたのは、和臣だった。「栞!」聞いたこともないほど取り乱した声で、私の名前を呼んだ。亮介も息を切らしながら駆け寄ってきた。目は真っ赤だった。「栞、お前……こんなところまで一人で運転してきたのかよ!今の体で、そんな無茶したらどうなるかわかってるのか!」遼は二人の後ろで足を止めた。血の気の失せた顔で私を見つめ、かすれた声を絞り出した。「栞、一緒に帰ろう。先生も言ってた。今すぐ治療を始めれば、まだ間に合うって」私は3人を見つめ、静かに聞き返した。「帰る?どこへ?あのアパート?それとも、美羽の家?」3人とも何も言えなくなった。和臣の目元が赤くなった。「違う。あそこは今でも、お前の家だ」私は首を横に振った。「もう、そうは思えないよ。出ていけって言われた日から、あそこは私の帰る場所じゃなくなった」亮介が震える声で言った。「そんなに悪くなってるなんて、本当に知らなかったんだ」「知らなかった?」思わず笑いがこぼれた。「ウィッグが落ちたとき、見たよね。私が血を吐いたときも、そこにいたよね。治療費が足りないって言ったときも、聞いてたよね。知らなかったんじゃない。私の言うことを、信じようとしなかっただけだよ」亮介の顔から血の気が引いた。何か言おうと口を開いたが、声は出なかった。遼が、かすれた声で私の名を呼んだ。「栞……ごめん。病院から何度も連絡が来てたのに、美羽が何も知らせなかったなんて、知らなかった。でも、そんなの言い訳にならないよな。あの夜、栞は高熱を出して一人で苦しんでたのに、俺は
اقرأ المزيد
第9話
ようやく、青凪湖にたどり着いた。着いたころ、空はまだ薄暗かった。路肩に車を止め、ドアに手をついてしばらく息を整えた。それから、ゆっくりと湖へ向かった。湖まではそう遠くなかった。それでも足は思うように動かず、一歩進むたびに体の奥へ痛みが走った。喉の奥には、何度も血の味がこみ上げた。それでも、不思議とうれしかった。ようやく、ここまで来られたからだ。20歳の誕生日には、ケーキもろうそくもなく、「おめでとう」と言ってくれる人もいなかった。それでも今、目の前には青凪湖が広がっていた。ずっと昔、みんなでいつか必ず来ようと約束した場所だった。湖畔に腰を下ろし、鞄から用意しておいた便箋を取り出した。強い風にあおられ、紙は何度もめくれそうになった。薬瓶で端を押さえ、ゆっくりと文字を書き始めた。最初に、和臣への手紙を書いた。【和臣兄さんへ。10歳のころ、痛くて眠れなかった夜、朝までずっとそばにいて、何度も汗を拭いてくれたこと、今でも覚えてる。兄さんがいるから大丈夫だって、何度も声をかけてくれたよね。苦しい夜は、いつもその言葉を思い出してた。あのころの和臣兄さん、本当にありがとう。必死になって私を助けようとしてくれたこと、ずっと忘れないよ】次に、亮介への手紙を書いた。【亮介兄さんへ。階段の踊り場でこっそり泣いてたのを見つけたとき、目にごみが入っただけだって言い張ってたよね。本当は亮介兄さんも怖かったはずなのに、毎日変な顔をして、私を笑わせてくれた。あのころの亮介兄さん、本当にありがとう。いちばんつらかったときにも、たくさん笑わせてくれたこと、ずっと忘れないよ】3通目は、遼への手紙だった。【遼へ。私の手を握って、これからは毎年、一緒に誕生日を過ごそうって言ってくれたこと、今でも覚えてる。あのころの私は、その言葉を本気で信じてた。だから、ずっと待ってたよ。あのころの遼、本当にありがとう。暗くて長い夜を、そばで一緒に過ごしてくれたこと、ずっと忘れないよ】そこまで書き終えると、しばらく手を止めた。湖から吹く風が目にしみた。それでも、涙はもう出なかった。やがて最後の便箋を取り出し、遺書を書き始めた。【青凪湖まで来ました。20歳の誕生日に欲しかったのは、青凪湖へ来ることだけでした。
اقرأ المزيد
第10話
あの日以来、青凪湖を渡る風は、3人にとって一生消えることのない悪夢になった。和臣は、栞が残した遺書と3人に宛てた手紙を胸に抱き、湖のほとりで膝をついたまま動かなかった。風にあおられて手紙が震え、和臣の肩も小刻みに揺れていた。わずか数枚の手紙を抱きしめた和臣は、今にもその場に崩れ落ちそうだった。亮介は取り乱したまま湖沿いを走り、何度も栞の名を叫んだ。「栞!戻ってきてくれ!兄さんが悪かった!俺を恨んでも、許してくれなくてもいい。だから……置いていかないでくれ!」叫び続けるうちに声はかすれ、とうとう足から力が抜けた。亮介はその場に膝をつき、痛みも忘れたように頭を抱えて泣き崩れた。昔の亮介は、栞が泣くたび、うんざりしたように顔をしかめた。大げさだ、また同情を引こうとしている――そう決めつけ、栞の苦しみをまともに見ようともしなかった。けれど今度は、亮介のほうが声を上げて泣き続けていた。遼は少し離れたところで、栞を見たまま動けずにいた。しばらくして、風に乱れたウィッグを直そうと手を伸ばした。けれど、触れる寸前で指が止まり、震える手をそのまま下ろした。3人が栞の遺骨を抱えて家に戻ったとき、美羽はまだ何も知らなかった。3人が帰ってくれば、きっとまた自分をなだめてくれる。そう思って、家で待っていた。玄関のドアが開くと、美羽は目を赤くして駆け寄ってきた。「やっと帰ってきた……お姉ちゃん、まだ怒ってるの?私、ちゃんと謝るから……」その言葉を遮るように、和臣が美羽を見た。「お前はもう、白石家の人間じゃない」美羽の顔から、さっと血の気が引いた。「……何言ってるの?」亮介は玄関にまとめてあった美羽の荷物を、外へ放り出した。「出ていけ。病院から何度も電話が来てたのに、どうして黙ってた!ちゃんと俺たちに知らせてくれてたら、栞はまだ助かったかもしれないんだぞ!栞を死なせたのはお前だ。もう二度と、この家に入るな!」美羽は泣きながら遼の腕をつかんだ。けれど遼は美羽に目も向けず、その手を振り払った。「今まで栞から奪ってきたものは、全部返してもらう」白石家を追い出された美羽は、すぐにSNSへ長文を投稿し、自分こそ被害者だと訴えた。自分は身寄りのない養子で、幼いころから姉に妬
اقرأ المزيد
استكشاف وقراءة روايات جيدة مجانية
الوصول المجاني إلى عدد كبير من الروايات الجيدة على تطبيق GoodNovel. تنزيل الكتب التي تحبها وقراءتها كلما وأينما أردت
اقرأ الكتب مجانا في التطبيق
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status