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第6話 ​

Auteur: 華々​
誠はノートを手に取り、私がつけたチェックの跡を一つひとつ消していった。

​

――今度は、俺が紗夜にアプローチする番だ。

​

彼は心の中で静かに誓った。

​

……

​

私は実家の外に立ちながら、ノックする手を止めている。

​

あんなに反対を押し切って誠と一緒にいたのに、怒った両親とは数年も連絡を絶っていた。今さら手痛いしっぺ返しを食らい、惨めな姿で戻ってくるなんて、顔向けできない。

​

迷っていると、不意にドアが開いた。数年ぶりに見る両親の髪には、白髪がずいぶん増えているように見えた。

​

気がつくと、私は二人にしがみついて声をあげて泣いている。

​

「おかえり。戻ってきてよかった……」

​

二人は阿吽の呼吸で何も尋ねず、ただ「痩せた」と私の体を案じ、すぐに私の好物ばかりを食卓に並べてくれた。

​

台所で忙しく立ち働く両親の後ろ姿を見ていると、目頭が熱くなった。こんな温もりを感じたのは、本当に久しぶりだ。

​

私は二人に、離婚することを打ち明けた。

​

「あいつは何か、紗夜にひどいことをしたのか?」

​

心配そうに見つめる両親の目を見て、私は気持ちを落ち着かせ、ただ「性格が合わなかった」
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  • 思い出は、思い出のままに​   第9話 ​

    その感覚に、私は見覚えがあった。かつて、私が誠に尽くしていた時と同じだったから。​尚弥の振る舞いを見ていた両親は、ある日、控えめに私の気持ちを尋ねてきた。​私は首を振り、「今はまだ考えられない」とだけ答えた。​二人が顔を見合わせると、母は諭すように言った。​「紗夜がどんな決断をしても、父さんと母さんは味方だよ。結婚したくないなら、一生面倒を見てあげる。​でもね、紗夜。人生はまだ長いんだよ。これからいろんな出会いがあるかもしれないが、一度の失敗で心を閉ざしてほしくないの。逃してしまったら、二度と戻らない縁だってあるから」​翌日、尚弥に「見せたいものがある」と連れ出されたのは、新しくオープンしたばかりの猫カフェだ。予感はしていた。そして次の瞬間、彼から鍵を渡された。​「はい、引き渡し完了。今日から君がここのオーナーだ」​あの日、何気なく「猫カフェを開けたらいいな」と呟いただけだった。まさか、そんな些細な一言を本気にし、形にしてくれる人がいるなんて。​「なんだ、感動しすぎ?」​私は目尻に溜まった涙をこっそり拭い、強がってみせた。​「そんなことないわよ」​それからしばらくして、私は小さな声で尋ねた。​「梅浦くん、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」​諦めようとしても、諦めきれなくなるほどに。​「そんなの、君が好きだからに決まってるだろ。好きな人のために何かしてあげたいと思うのは、当たり前のことだ」​「でも、もしこんなに尽くしてくれても、梅浦くんの望む結果にならなかったら?」​私がうつむくと、彼の優しく、それでいて力強い声が耳に届いた。​「好きっていうのは、見返りを求めることじゃない。もし僕の気持ちが君の負担になってるなら、それは僕の力不足だ。​紗夜ちゃん、僕はただ、君に愛される幸せを感じてほしいだけなんだ」​その日を境に、私はすべての迷いを捨てた。彼の言葉通り、彼が与えてくれるすべてを素直に受け入れることに決めた。​誠の近況を再び耳にしたのは、尚弥との結婚式を目前に控えた頃だ。​聞いたところによると、誠は舞の一家に付きまとわれて大変なことになっているらしい。離婚後、あの一家は誠の会社や自宅に押し寄せ、二股をかけた恩知らずの浮気者だと大々的に言いふらしたそうだ。​会社の評判はガタ落ち

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    私は口角を上げ、自嘲気味に笑った。​「それとも、浮気はすべて大柴さんへの同情だったとでも言うつもり?」​もし誠があっさりと「舞に心を奪われた」と認めてくれていたなら、私は数日間思いきり泣き、男運がなかったと諦め、家族や友人の助けを借りて立ち直れただろう。​けれど彼はどこまでも不誠実だった。私を「救い」だと言いながら、他の誰かの救世主になろうとしていた。​私が彼に与えた温もりを使って、他の女を照らそうとしたのだ。​そして、ようやく授かったあの子も、不幸にして消えてしまった。何もかもが、誠と出会ってからの自分の行動が、まるで冗談のように思えてならない。​自己満足に過ぎない尽くしは、結局、他人の幸せを成し遂げてしまった。​私の言葉を聞くと、誠の顔から血の気が引いた。痛いところを突かれたからだろう。​去りゆく私の背中を見つめながら、彼は私が二度と戻らないことを悟ったに違いない。胸を焼き尽くすような後悔に苛まれても、今さら誰を責められようか。​数日後、誠は離婚を受け入れた。離婚届を提出した彼が戻ったのは、あの空っぽになった家だ。引っ越してきたばかりの頃、未来への希望に胸を膨らませながら、私が一つ一つ丁寧に整えた空間。​今、私の痕跡はそこから完全に消し去られ、すべてが原点に戻ってしまったことに、彼はようやく気づいた。​もう、私の気遣いの声が響くことはない。あちこちに貼られたメモ書きも、夜更けに眠気をこらえて出来たてのラーメンを用意して待っている人も、もういないのだ。​失って初めて、彼は自分が何を失ったのかを痛感した。​罪滅ぼしのつもりか、離婚に際して誠は多額の財産を譲ると言ってきた。「君が受け取るべき当然の報いだ」と。​起業当初、私は自分の貯えをすべて彼に差し出した。だから今、私は自分の分だけを受け取った。これで、お互いに貸し借りはない。​すべてを片付けて両親のもとへ帰ると、穏やかで自由な日々が待っている。二匹の猫を飼い始め、たまに親戚が持ってくる見合い話も、両親がうまく断ってくれた。​一度結婚に失敗した私は、すべてを悟り、誰に出会っても心に波風が立つことはないと思っている。​ただ一つ、あの短い出会いを除いては。あの人の姿が、なぜか頻繁に脳裏をよぎる。​あれはただの偶然で、一度きりの出来事だと自分に言い聞か

  • 思い出は、思い出のままに​   第7話 ​

    疲れ切った誠の瞳が、私を見るとたちまち輝いた。​「紗夜……」​無視することなく、淡々と彼のそばへ歩み寄った。​「考えはまとまったの?」​「舞はもう、クビにしたんだ」​問いかけに噛み合わない答えが返ってきて、少し戸惑った。​「あの日は俺が悪かった。君を疑うべきじゃなかったんだ」​誠は先日、舞が両親と言い争っているところに出くわしたらしい。そこですべてが舞の仕組んだ計画だったと知ったのだ。私に濡れ衣を着せ、誠との仲を引き裂こうとしていたことを。​「あの女がいなくなれば、すぐに私が社長と結婚できるわ。そうなれば、お金なんていくらでも手に入るのよ」​その言葉を聞いた誠は、激しい後悔に襲われたという。あんな女のために、何度も大好きな女に心ない言葉をぶつけてしまった、と。​「紗夜、舞のことは必ずけじめをつける。だから……離婚はやめてくれ」​私は小さくため息をついた。​「私たちの離婚が、本当に彼女一人のせいだと思ってるの?」​舞はただの引き金に過ぎない。私と誠の間にはずっと前から溝があり、ただ二人とも、それに触れないようにしていただけだ。​たとえ彼女がいなくても、私たちは遅かれ早かれ別れていただろう。​ただ、誠はそのことに気づいていないようだ。​それ以来、彼はたびたび家の前に現れるようになった。花束を抱えていたり、遠くまで足を運んで私の好きなケーキを買ってきたりした。私の誕生日には、ただ一人のためだけに花火を打ち上げてくれた。​もともと、彼は決してロマンチックな人ではなかった。けれど、私は何よりも記念日や特別な日を大切にするタイプだ。​その違いのせいで、私たちは最初から、同じ道を歩める二人ではなかったのだ。​「たった数回断られただけで、俺はこんなに落ち込んでしまう。当時の君がどんな思いだったのか、ようやく分かった……」​誠が取り出したあのノートを見て、私はようやく、最近の彼の不可解な行動の理由を知った。​それはかつて私の宝物だったもの。彼に恋をしていた頃の思いと気持ちが、一文字ずつ丁寧に綴られた、彼を深く愛していた証。​彼の謝罪を遮るように言った。​「ごめんなさい。急いで家を出たので、いらないものを処分し忘れてたみたい」​彼の顔が強張った。信じられないという表情で私を見上げた。​誠

  • 思い出は、思い出のままに​   第6話 ​

    誠はノートを手に取り、私がつけたチェックの跡を一つひとつ消していった。​――今度は、俺が紗夜にアプローチする番だ。​彼は心の中で静かに誓った。​……​私は実家の外に立ちながら、ノックする手を止めている。​あんなに反対を押し切って誠と一緒にいたのに、怒った両親とは数年も連絡を絶っていた。今さら手痛いしっぺ返しを食らい、惨めな姿で戻ってくるなんて、顔向けできない。​迷っていると、不意にドアが開いた。数年ぶりに見る両親の髪には、白髪がずいぶん増えているように見えた。​気がつくと、私は二人にしがみついて声をあげて泣いている。​「おかえり。戻ってきてよかった……」​二人は阿吽の呼吸で何も尋ねず、ただ「痩せた」と私の体を案じ、すぐに私の好物ばかりを食卓に並べてくれた。​台所で忙しく立ち働く両親の後ろ姿を見ていると、目頭が熱くなった。こんな温もりを感じたのは、本当に久しぶりだ。​私は二人に、離婚することを打ち明けた。​「あいつは何か、紗夜にひどいことをしたのか?」​心配そうに見つめる両親の目を見て、私は気持ちを落ち着かせ、ただ「性格が合わなかった」とだけ答えた。​「お父さんたちの言う通りだったわ……」​「そんな風に言うんじゃない。自分で経験しなければ気づけないこともあるんだから」​二人は、一度の結婚の失敗で自分を否定してほしくないのだ。​両親の励ましもあり、私は二人がボランティアをしていた施設へ行くことにした。​「前に行ってみたがってたじゃないか。いい機会だし、羽を伸ばしておいで」​幼い頃、両親はいつも不在だった。当時の私は、二人がどんな理想のために私を祖父母の家に預けてまで出かけていくのか理解できなかった。けれど大人になり、徐々に理解できるようになると、自分もボランティア活動に参加してみたいと思うようになった。​しかし結婚してからは誠のことで頭がいっぱいで、ずっと先延ばしにしていたのだ。​最初は馴染めるか不安だったけれど、思いのほかすぐに施設の子供たちと仲良くなることができた。ボランティア活動に参加するたびに、今までにない穏やかさが私に訪れた。あんなに苦しんだもめ事による痛みも、少しずつ和らいでいった。​ボランティア活動で、自分と似た境遇の男性に出会った。名前は梅浦尚弥(うめうら なおや)。

  • 思い出は、思い出のままに​   第5話 ​

    机の上に置かれたものを、誠は信じられないという目で見つめた。スマホを手に取り私に電話をかけるが、一向に繋がらない。​途端に、彼は激しい不安に襲われた。​慌てて車を走らせて家へと急ぎ、「そんなはずはない」と自分に言い聞かせ続けた。​家の中をくまなく探しても、私の姿はどこにもない。​けれど、クローゼットの中を見て、彼はほっと胸をなでおろした。服はほとんど手付かずのまま残っていたからだ。​だが、彼は知らない。それらはすべて彼から贈られたもので、私は何一つ持っていきたくなかったのだということを。​その時、玄関のチャイムが鳴った。誠の目がぱっと輝いた。​しかし、そこに立っているのは舞だ。​「どうしてここへ?」​「社長、私、怖くて……今夜だけここに泊めてもらえませんか?私の部屋、まだ空いていますよね?」​「心配いらない。あのマンションはセキュリティが堅いから、あいつらも簡単には入ってこれないはずだ」​彼の冷ややかな態度に、舞は焦りを隠せなかった。​「ずっと言いたかったことがあるんです。私の方が、紗夜さんよりもずっと社長のことを分かっています……」​最後まで話させず、誠は言葉を遮った。​「舞、君を助けてきたのは、似た境遇だったからに過ぎない。これからはもう、そんなことは口にするな。特に、紗夜の前では。​この件が片付いたら、支社の方へ行ってもらう」​その言葉に、舞は一気に青ざめた。​「私、何か悪いことをしましたか?前はあんなに優しくしてくれたのに……」​それを聞き、誠は呆然とした。目の前で涙を流す彼女の顔を見つめながら、脳裏にはこれまで何度も見てきた、私のがっかりした表情が浮かんだ。​「君はまだ若い。良い経験になるはずだ」​その一言で、二人の微妙な関係は終わりを迎えた。​翌朝、誠は私の会社を訪ねたが、京子から私がすでに辞めたと告げられた。​「いつのことですか?」​「先週、手続きを済ませましたわ」​誠の心臓はギュッと掴まれるように止まった。それはちょうど、私の態度が変わった日だった。彼が二人の関係をやり直そうと心に決めていた時、私はすでに、いつでも去れるよう準備を整えていたのだ。​「彼女は……まだ俺を責めていますか?」​京子は深いため息をつき、含みのある口調で言った。​「彼女は

  • 思い出は、思い出のままに​   第4話 ​

    舞を実家から連れ出した際、当然ながら彼女の毒親からは強い抵抗があった。相応の見返りを与えて、ようやく納得させたのだ。​「舞はこっちに身寄りがないんだ。放っておけるわけないだろう」 ​私は誠に視線すら向けなかった。​「好きにすれば」 ​彼は、私が昨日の急な不在に怒っていると思い込んでいる。​「昨日は悪かった。でも、毒親に連れ戻されそうな舞を黙って見てるわけにはいかなかったんだ」 ​彼は少し黙ってから言った。​「君は、昔はこんな風じゃなかった……」 ​私は彼を見返した。​「誠だってそうでしょ?」 ​私の言葉に詰まり、誠はそれ以上何も言わなかった。​「数日中にまたあのお店に行こう。昨日の分を埋め合わせさせてくれ」 ​昔から、喧嘩をするたびに彼は私をあの店に連れて行った。それが彼なりの仲直りのサインだった。​おそらく彼の中では、私は今でも食事一回で機嫌を直す女のままなのだろう。​けれど彼自身が言った通り、私はもう昔の私ではない。​退職の手続きを終えた後、用意しておいた離婚届を持って誠のもとへ向かった。​話を切り出そうとしたその時、舞が書類を届ける名目でオフィスに押し入ってきた。彼女の頬にはっきりと平手打ちの跡があり、目は泣き腫らしている。誠の顔色が変わった。​「また奴らが嫌がらせに来たのか?」 ​その言葉を聞いた途端、舞の目は涙でいっぱいになった。​「どうして居場所がバレたのか分かりません。連絡は絶っていたはずなのに……」 ​そう言って、彼女はおどおどしながら私を盗み見た。​当時、忙しい誠に代わって支援の手続きを一手に引き受けていたのは私だった。舞の毒親に縁を切るための金を渡したのも私だった。つまり、彼らと接点を持っていたのは私だけだ。​「これが君の望んでたことなのか?」 ​「違うわ……」 ​思わず否定しようとしたが、誠はそれを遮った。​「もういい。​ここにいる中で、あいつらと関わりがあったのは君だけだ。他に言い訳があるか?」 ​舞のわずかな言葉だけで、誠は私を疑った。​そして舞は、わざとタイミングを選んだかのように誠を宥めた。​「きっと紗夜さんも、ついカッとなってしまっただけです。私は恨んでいませんから」 ​その心優しい態度が、彼の罪悪感を煽った。​

  • 思い出は、思い出のままに​   第3話​

    疲れていても幸せだった。​残念ながら誠に料理の才能はなく、火が出そうになった台所を見て、彼は照れくさそうに外食を提案した。​「あのお店に行きたいって、ずっと言ってただろう?」 ​期待を込めたその眼差しは、かつての私そのものだ。私が何度もせがんだ時には、そのたびに「忙しい」という一言で冷たくあしらわれてきたのに。​断ろうとした言葉を、私はそっと飲み込んだ。​もうすぐお別れだ。最後の食事だと思えばいい。​結局、その食事はうまくいかなかった。舞からの電話が、これ以上ないという絶妙なタイミングでかかってきた。途切れ途切れの泣き声の中で、助けてほしいと誠に縋っているのが聞こえた。

  • 思い出は、思い出のままに​   第2話 ​

    会社に着くと、真っ直ぐ上司の小泊京子(こどまり きょうこ)のもとへ向かい、退職願を手渡した。​京子は、心の底から名残惜しそうな顔をした。​「どうして急に?本当に決めたの?」​入社したばかりの頃から京子には目をかけてもらい、この数年間、色々助けてもらった。​「あの件のことなら、あんまり気にしすぎないでね」​彼女が言う「あの件」とは、誠が私の原稿をわざとライバルのデザイナーに漏らし、私の昇進の機会を奪ったことだ。​「いえ、あの件とは関係ありません」​京子の目には心配の色が宿っている。何しろ、彼女はずっと私と誠のことを見守ってきてくれたのだから。​若かった頃、私たちは

  • 思い出は、思い出のままに​   第1話 ​

    接待を終えて帰宅した夫・広地誠(ひろち まこと)の襟元に、薄いオレンジ色の口紅の跡がついていた。​彼の秘書・大柴舞(おおしば まい)が好んで使っている色だ。​彼は何でもないことのようにそれを拭い、言い訳をした。​「接待で彼女が俺の代わりに酒を飲んでくれた。酔っ払って少しはしゃいでたから、その時にうっかりついたんだろう」​私・広地紗夜(ひろち さよ)は頷き、甲斐甲斐しく酔いざましのしじみ汁を差し出した。​舞が酒に酔って暴れる姿は見たことがある。誰かれ構わず抱きつき、誠の名前を呼び続けて離さないのだ。​これまでは、そのたびに私は誠に詰め寄ってきた。​酔って誰の顔も分から

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