LOGIN結婚7年目、私・石田佳穂(いしだ かほ)の夫、松井直哉(まつい なおや)から『松井家の嫁の引き継ぎリスト』を渡された。 初恋の相手、岡崎沙耶(おかざき さや)が帰国したばかりで、松井家のしきたりがわからない。だから、1か月かけて教えてやれという。 1か月後、私たちは離婚する。そして彼女が、私に代わって妻になる。 リストの項目は全部で47。 直哉の胃薬の保管場所から、おばあちゃんの毎月の定期検査、松井家の付き合いまで。すべて、私が7年間こなしてきたことだった。 「離婚するのに、どうして私が教えなくちゃいけないの?」 そう尋ねると、直哉は眉をひそめた。 「沙耶は身体が弱い。無理はさせられないだろ。お前は何でもできるんだから、もう一度くらい助けてやれよ」 やがて沙耶は私たちの家に住み始め、私のために仕立てたドレスを着て、食事会では私の席まで奪った。 わざと直哉のアレルギーの薬を別の場所に移しておきながら、彼が発作を起こすと、私の説明が足りなかったのだと泣いた。 直哉は家族全員の前で、沙耶に謝るよう私に命じた。 私は何も弁解せず、リストの最後に一文だけ書き加えた。 【直哉には重いピーナッツアレルギーがある。緊急時の薬は書斎の2段目の引き出し】 引き継ぎ期間が終わった日、リストと署名済みの離婚協議書をテーブルに置き、私は一人で家を出た。 けれど彼は知らなかった。 7年前、どん底にいた彼を支えたのは、沙耶ではなかったのだ。
View More直哉は引き継ぎリストを手に、入口に立っていた。「話がしたい」「仕事中にプライベートな話はしないわ」「じゃあ、終わるまで待つ」彼は午後3時から夜8時まで待っていた。パソコンの電源を切って部屋を出ると、彼はまだ廊下のベンチに座っていた。「話して」「7年前のこと、全部わかった」「そう」「すまなかった」「ほかには?」これほど落ち着いているとは、思わなかったらしい。「あれだけ助けてもらったのに、俺はずっと……」「沙耶がやったと思ってた?」「ああ」「それで今度は、恩返しがしたいの?」「違う」「じゃあ、何?」彼は答えられなかった。時間を確かめた。「直哉、あなたはこの7年が記憶していたとおりじゃなかったと、今になって気づいただけよ。ずっと世話をしてくれていた人がいなくなったんだもの。戸惑うのは当然でしょう。そのうち慣れるわ」背を向けようとすると、彼が行く手に立った。「戸惑ってるだけじゃない」「だったら、私の何を知ってる?」彼は動きを止めた。私は尋ねた。「私が食べられないものは?」「特にないだろ」「ピーナッツアレルギーがあるわ。いちばん好きな花は?」彼は、私の手元にある白いトルコキキョウを見た。「トルコキキョウ」「これは、ここに通う子のご家族にいただいたの。私は花が好きじゃない。前の仕事を辞めて、松井財団に入ったのは、どうして?」彼はまた黙った。私は代わりに答えた。「お父さんが亡くなって、おばあちゃん一人では支えきれなくなったから。あなたは、財団なんて大したものじゃないから、適当に見ておいてくれと言ったわ。もっとお給料のよかった仕事を辞めて、5年間、あなたの代わりに『適当に』見てきたのよ。直哉、今になって私を失いたくないと言うけど、あなたは私のことを知りもしない」彼の目が、少しずつ赤くなった。「一度だけ、やり直すチャンスをくれ」「沙耶も同じことを言ってたわ」「あいつとは、もう終わった」「それは、あなたたちの問題でしょう」彼の脇を抜け、夜の中へ歩きだした。今度は、彼も引き止めなかった。……2か月後、療育センターが週末のボランティアを募集した。直哉が応募してきた。初日、高価なスーツを着て来た彼に、職員はおも
1週間後、松井財団の年次理事会が開かれた。直哉は沙耶を連れて出席した。沙耶は手直ししたシャンパンカラーのドレスを着て、以前の佳穂の席に座った。会議が始まる前、事務局の職員が席を移るよう頼んだ。「岡崎様、そちらは理事の席です」沙耶の顔がこわばった。「松井家の代表として来ているんですけど」職員は直哉を見た。「松井社長にはオブザーバーとしてご出席いただけますが、松井家を代表する理事は、今も文枝様です。佳穂様は、理事会の選挙でご自身が選ばれ、あの席に就いていらっしゃいました」沙耶は後ろの席に移るしかなかった。会議の半ばで、理事長が佳穂の辞任について報告した。進行中の3件の事業は、止まっていなかった。1か月前には後任のチームを決め、資料もすべて引き継いでいた。直哉が予想していた混乱は、起きなかった。佳穂がいなくても、財団はこれまでどおりに動いていた。ただ、松井家には、事業の候補を優先的に推薦する権利がなくなった。理事長が説明した。「佳穂さんの専門知識と手腕が、この5年間、松井グループの業界での信用を支えてきました。退任に伴い、関連する提携については、改めて検討する必要があります」直哉が尋ねた。「彼女は今、どこで働いているんですか?」「それは佳穂さん個人の情報です」会議のあと、沙耶がおばあちゃんと直哉を追いかけてきた。「おばあさま、信託監督人の仕事ですが、直哉から、私にも勉強させてもらえると聞いています」おばあちゃんは足を止めた。「直哉と結婚すれば、私のお金を管理できるなんて、誰に聞いたの?」「そういう意味ではありません」「それなら、どういう意味?」沙耶は直哉を見た。「直哉の奥さんになれば、家族信託に関わることになるって、あなたが言ったのよ」直哉が低い声で言った。「ばあちゃん、少しでも負担を減らしたいと思ってるだけだ」「私の信託監督人には、佳穂を指定してあるわ。あなたと結婚したからじゃない。信頼できる人だからよ。離婚しても、私が選んだ人であることは変わらない」沙耶の顔から、血の気が引いた。車に戻ると、彼女は初めて直哉と言い争った。「佳穂にできたことは、私だって覚えればできるって、言ったじゃない」「何で信託のことなんか聞く?」「これから結
その夜、直哉は初めて気づいた。佳穂の新しい住所も、仕事の予定も、これからどこへ行くのかも知らなかった。彼は佳穂に電話をかけた。応答はなかった。家に帰ると、沙耶が使用人に、寝室の机を運び出させていた。「ここ、暗いでしょう。ドレッサーに替えたいの」半分ほど空になった部屋を見て、直哉はふと尋ねた。「佳穂の物は?」「全部持っていったわ」「何も残してないのか?」沙耶は不思議そうに答えた。「引き継げって言ったの、あなたでしょう?」すぐに笑顔になり、彼の腕に自分の腕を絡めた。「直哉、これからは私がちゃんとそばで支えるから」その深夜、直哉の胃がまた痛みだした。枕元に薬はなかった。書斎の2段目の引き出しにもない。沙耶は家中を探し回ってから、ようやく、予備の薬を車に置いたままだったと思い出した。取りに行こうとした彼女を、直哉が止めた。「もういい」アシスタントに電話をかけ、医師を呼ぶよう言いつけた。そして暗闇の中に一人座り、リストを最初のページから読み直した。初めて、すべての項目に日付が添えてあることに気づいた。中には、二人が結婚するより前の日付もあった。7年前、直哉の父は重い病気を患っていた。沙耶は海外へ行く準備をしていて、二人はしょっちゅう言い争っていた。専門医への連絡も、診療記録の整理も、沙耶がしてくれた。酔った自分に一晩付き添ってくれたのも彼女だった。直哉はそう記憶していた。けれど、リストに添えられた日付とは食い違っていた。専門医の診察についてやり取りしたメールの差出人は、佳穂。診療記録の1ページ目にある文字も、佳穂の筆跡だった。直哉はリストを持って本邸に行った。おばあちゃんの目には、まだガーゼが当てられていた。彼の質問を聞き終え、おばあちゃんは冷ややかに笑った。「今頃になって、やっとあの子のことに気づいたの?」「ばあちゃん、7年前、本当は何があったんだ?」「沙耶があなたと病院に行ったのは2回だけよ。そのあとは海外へ行くからと、お父さんの病気を重荷に思っていた。医師に連絡してくれたのも、お通夜であなたに付き添ってくれたのも佳穂よ。松井家の借金に関する書類をそろえるために、3か月も走り回ってくれた」「どうして言わなかったんだ?」「あの頃
最後の引き継ぎは、直哉の父の命日だった。毎年この日になると、彼は一晩中眠れなくなる。私は慰めの言葉をかけることも、何を考えているのか尋ねることもしなかった。ただ、温かいお茶を入れたポットを書斎に置き、彼の父が生前好きだった古いレコードをかけた。リストの注意書きを見た沙耶が、私に尋ねた。「どうして話し相手になっちゃいけないの?」「つらいところを、人に見られたくないのよ」「でも、昔は私、ずっとそばにいたわ」「それなら、自分のやり方でやればいい」その夜、沙耶は昔の写真が入った箱を書斎に持ち込んだ。直哉と一緒に、思い出話をしたかったのだ。30分もしないうちに、カップの割れる音がした。沙耶が泣きながら飛び出してきた。「少しでも楽になってほしかっただけなのに」私は中には入らなかった。午前1時、直哉からメッセージが来た。【レコードはどこだ?】私は返信した。【沙耶に渡したわ】数分後、また届いた。【今どこにいる?】【ホテル】【帰ってこい】その文面を見つめたまま、返信はしなかった。結婚して7年、彼がいちばんつらいときにそばにいなかったのは、初めてだった。胸が痛んで、眠れなくなるだろうと思っていた。けれどスマホの電源を切ると、ぐっすり眠れた。翌朝、最後の箱を取りに、二人で暮らした家に戻った。直哉は目の下に隈をつくり、リビングに座っていた。「どうして帰ってこなかった?」「明日、離婚するから」「まだしてないだろ」「だから?」彼にも、その先に言う言葉がなかったらしい。テーブルには、昨夜、沙耶が書斎に持ち込んだ写真が置かれていた。いちばん上にあったのは、7年前、直哉の父の葬儀のあとに撮られた写真だった。病院の廊下で、直哉がうつむいて座っている。中央には沙耶が立ち、彼の肩に上着をかけていた。写真の隅には、受け取ったばかりの薬を手に、しゃがみ込む私が写っていた。私の顔は、半分しか写っていなかった。直哉はその写真を手に取った。「あの日、お前もいたのか?」「ええ」「どうして俺は知らないんだ?」「胃から出血して気を失ったあなたを、病院に連れていったのは私よ」「沙耶は、自分がずっと付き添っていたって」「彼女は夜9時まで。私は、