LOGIN僕――竹内靖樹(たけうち やすき)は3年間、姉の親友――早瀬清美(はやせ きよみ)にしつこくアプローチし続ける。ようやく、彼女は僕と秘密の恋人になることを承諾する。 だけど、誰にも知られない関係が5年目に入った頃、僕が彼女にプロポーズしようと決意したその日、偶然にも彼女と友人たちの会話を耳にしてしまう。 「初恋の人、もうすぐ帰国するんでしょ。あの代わりの彼氏、どうするつもり?」 「別れるときはちゃんと理由を考えておきなよ。あんまり揉めると面倒だから。璃子(あきこ)さんに弟がいじめられたなんて知られたら、絶対に許してもらえないよ」 長い沈黙のあと、彼女は静かに決断する。「じゃあ、記憶喪失ってことにする。この5年間のこと、全部忘れたことにすればいい。どうせ秘密の恋人なんだから、誰にも知られてないし」 忘れる?それなら、それでいい。忘れてしまえば、もう二度と苦しまなくて済む。 その日の夜、僕はこの道で一番腕のいい催眠療法士を訪ねる。そして、僕は、自分の8年間の記憶を消してもらう。 けれど、本当に彼女のことを忘れてしまったら、いつもは冷静で、感情をほとんど表に出さない彼女が、まるで別人のように取り乱した。 彼女は、僕の記憶を取り戻そうと、狂ったように僕へ訴え続ける。
View More「僕はあいつと絶対に相容れない。ただ、今どうしてるのか聞いてみただけだ。火に油を注げるかもしれないと思ってね」僕は弁護士に連絡し、清美への告訴内容をさらに厳しくした。証拠が揃っていたため、清美は懲役5年の実刑判決を受ける。清美が服役している間、会社は経営不振に陥って倒産し、会社の資産もすべて競売にかけられ、一円も残らなかった。僕はしばらく療養したあと、千晴と二人で研究所の仕事に全力を注ぐようになる。毎日の生活はシンプルだけど充実していた。僕たちは一緒に朝早くから夜遅くまで机に向かって研究を続ける。一緒に全国各地を駆け回って現地調査を行い、古建築のフィールドワークに取り組み、論文を発表する。一緒に古建築を模写し、図面を描き、その修復と保存のためにひたすら努力を重ねていく。4年後、無事にプロジェクトを終えた僕は、千晴にプロポーズする。その後、僕は千晴のために盛大な結婚式を準備し、街中に向けて彼女への愛を宣言した。親しい友人や家族も次々と祝福してくれて、会場は幸せな空気に包まれる。さらに、結婚式で僕が千晴に愛を伝える動画を誰かがネットに投稿し、こんな文章を添えた。【建築学界の無名カップル、本日めでたくゴールイン】すると、事情を知る人たちから次々とコメントが寄せられる。【この二人が無名?働き者カップルとして、とっくに有名だろ。お正月にフィールドワークしてる人なんて、そうそういないぞ】【この二人、もうとっくに結婚してたんじゃなかったの?】【よく分からないので質問。この主人公って、4年前に愛する人のために記憶を消したあの男と同一人物?】ネットではちょっとした騒ぎになった。祝福する声が半分、過去を惜しむ声が半分。僕と千晴はネット上のコメントには何も答えず、相変わらず建築学の研究に没頭していた。それから5年後、僕のもとに突然、ところどころ血の跡が付いたハードディスクが届く。調べてみると、それは服役を終えた清美が僕に送ってきたものだと分かった。唯斗が先に出所したあと、何をやっても上手くいかず、2年間をただ茫然と過ごした末、ギャンブルにのめり込むようになった。3か月前、清美も刑期を終えて出所した。だが、以前の騒動のせいで、彼女にできる仕事は小さな露店や日雇いのような仕事ばかりだった。唯斗は時期を見計らっ
「目が覚めたなら、手術を始めるよ」僕は手術台の上でもがきながら起き上がろうとする。だが、自分の手足がすべて縛られていることに気づく。手術?清美は僕に何をするつもりなんだ。その傍らにいた手術着姿の白髪の老人が近づいてくる。「患者が潜在意識の中で記憶を取り戻すことを拒んでいる場合、手術の成功率は大幅に下がります。最悪の場合、記憶が混乱するだけでなく、記憶機能そのものが損なわれ、廃人になってしまう可能性もあります」それを聞いた僕は、さらに激しくもがく。縄が手首に食い込んで赤く腫れ、今にも血が滲みそうだ。老人は僕を哀れむように一瞥すると、振り返って清美に尋ねる。「それでも……続けるおつもりですか?」清美は眉間に深い皺を寄せる。まるで、僕が廃人になった後の姿を想像しているかのようだ。「前は、かなり自信があるって言っていたでしょう?麻酔をかけても、そんなにリスクが高いの?」老人は困ったように頷く。「現状、患者は明確に手術を拒絶しており、精神状態もかなり不安定です。潜在意識の中で、記憶を取り戻す可能性そのものを閉ざしている。医療技術と本人の意識がぶつかり合っている以上、手術がどんな結果になるのかは、誰にも断言できません」「じゃあ、ここ一か月の記憶を消すか、その一か月の記憶を書き換えるなら、リスクは少し下がる?」老人は顎に手を当て、数分ほど考え込む。「患者が協力しない以上、記憶に関わる手術なら何をしてもリスクはあります。ただ、記憶を消去するほうが、確かにリスクは低いでしょう」数秒の沈黙の後、清美は決断する。「それなら、彼のこの一か月の記憶を消して。たとえ廃人になったとしても……私が受け入れる」僕は血走った目で、清美を睨みつける。「やめろ!僕に憎まれるようなことはしないでくれ」清美は陰鬱な目で僕を見つめ、確信に満ちた口調で言う。「何?あの千晴を忘れるだけでしょう。それだけで、そんなに苦しいの?まさか、本当にあの子を好きになったの?」僕は歯を食いしばる。そして、一言一言を喉の奥から絞り出す。「僕の記憶を奪うっていうなら、僕はこの先、一生、君を好きになることはない」清美の目には涙が滲む。それでも、その眼差しには揺るぎない決意が宿っている。「いいわ。あなたが廃人になったあと、どうやって私を憎むの
「清美、俺がお前の目の前で他の女と親しくしても、お前は何とも思わないの?」彼女は聞こえていないかのように、唯斗の手を必死に掴む。まるで、それが最後にすがれる一本の藁であるかのように。「私が聞いてるのは、まだ方法があるのかってことよ。靖樹にもう一度、私を愛してもらう方法はないの?」一言一言、涙とともに吐き出される。唯斗は呆れたように笑う。「俺と付き合ってたときは、そんなに一途じゃなかったじゃないか!お前はもう一生、あいつを手に入れられないよ!」その言葉を聞いた清美は、唯斗の手を乱暴に振りほどく。その勢いで、唯斗は床に倒れ込む。「そんなわけない!靖樹はまた私を愛してくれる。出ていって!」清美は机の上にあるものをすべて床へ叩き落とす。大きな音が響き渡り、その音とともに、靖樹を失った絶望で彼女の心も崩れ落ちていく。翌朝、部下がオフィスの荒れ果てた床で眠り込んでいる彼女を起こす。「社長、起きてください!小林が会社の現金資金の9割を持ち出しました!今、会社の資金繰りが完全に行き詰まっています。損害賠償への対応も各生産ラインも止まりかけていて、広報部も各部署の主任たちも、もう抑えきれません!」清美は呆然としたまま部下を見つめる。その口から発せられた言葉が頭の中で何度も繰り返され、ようやく事態を理解する。唯斗が会社の金を横領し、会社は存亡の危機に陥っている。他に頼れる資金源もない。清美は自分名義の資産をすべて売り払い、車も家も手放して、ようやく会社の穴を埋める。その後、手元にある証拠を使い、経済犯罪の容疑で唯斗を警察に突き出す。だが、僕がライブ配信をして以来、ネット上の世論は悪い方向へと加速度的に燃え広がっている。会社への批判も止まらず、企業イメージは大きく傷つき、多くの取引まで相次いでキャンセルされる。経営も立ち行かなくなり、大規模なリストラを断行。さらに事業の一部まで売却し、どうにか一時的に生き延びるしかなくなる。それでも清美は、「碧海の青」だけは手放さない。もう会社に利益をもたらすことなどないというのに。部下たちは何度も彼女を説得する――「碧海の青」は会社の商品の中でも特に評判が悪い。これを再び軌道に乗せるには莫大な宣伝費が必要になるうえ、成功する保証もない。それでも清美は、頑なに手放そうとし
【暴露情報:早瀬社長の彼氏、実は病気なんかじゃないらしい。退職届を出しに来た日に社長と揉めて、ハードディスクまで叩き壊したとか。その日にわざとデータを改ざんした可能性もあるんじゃない?しかも、この5年間、二人はそもそも恋人同士ですらなかったらしい】【やっぱりね。私の勘違いかと思ってた。今回と前回のライブ配信を見ても、早瀬社長が彼氏の話をするとき、全然愛してる感じがしなかった。なるほど、あれは全部脅されてたってことか】その瞬間、世間の風向きが一変する。ネットの人々は一斉に僕を叩き始めた。僕のSNSのDMには、批判のメッセージが殺到する。僕への注目が集まるにつれ、さらなる暴露情報まで次々と掘り起こされていく。中には、僕が唯斗と清美の関係に割って入り、裕福な家の出身だという立場を利用して、唯斗を海外へ追いやったという話まで出てきた。さらには、僕が3年間清美を追いかけ続けても相手にされず、商品の販売ルートを盾に脅して、5年間も会社に入り込んで彼女につきまとっていた、とまで言われる始末だ。ネット上では根も葉もない噂が飛び交い、僕への批判はますます激しくなっていく。僕は最初、相手にするつもりなんてなかった。ところが、連中はついに璃子の会社まで突き止めてしまった。璃子は仕方なく出社できず、自宅で仕事をする羽目になる。一方、千晴は家で完全にブチ切れている。スマホを片時も手放さず、ネットの連中と徹底的に言い争っている。なんと20以上のアカウントを相手に論破し続けている。さすがに我慢の限界だった。僕はそのままネットでライブ配信を始め、動かぬ証拠を公開する。璃子が以前、人を雇って調べさせた写真は今、最大の証拠になる。配信画面に映る僕は、無表情のまま、実に千枚近くの写真を一枚ずつ説明していく。そこには、僕がどれだけ彼女のために尽くしてきたのかだけじゃない。清美が僕に隠れて唯斗とデートしていた場面まで、はっきりと写っている。だが、ネットの反応は冷たい。【今どきAIがあれだけ進歩してるんだから、私だってこんな写真を何枚も作れるよ】【それに、こいつ写真を見ても全然傷ついた様子がないじゃん。もう演技する気すらないんだろ。そもそも早瀬社長のことなんて愛してないんだよ】【金持ちの御曹司が、他人のために毎日料理まで作って尽くす?