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梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった

梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった

By:  夜宮紫Completed
Language: Japanese
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結婚5周年の日、島川千夜子(しまかわ ちよこ)は駐車場で、自分の車に擦り傷がついていることに気づいた。 何があったのか確認しようとドライブレコーダーを再生しただけだった。ところが、思いがけず夫・島川浩輔(しまかわ こうすけ)の声が聞こえてきた。 はっきりとした、落ち着いた声。それなのに、一言一言が刃のように千夜子の胸を抉る。 「俺は一度も千夜子を愛したことなんてない。結婚したのは、妻にするにはちょうどよかったからだ。 紗和、俺の初恋はお前だ。ずっと愛しているのも、お前だけだ」 千夜子は、全身の血が一瞬にして凍りついたような感覚に襲われた。 続いて、笑みを含んだ羽成紗和(はなり さわ)の声が聞こえてくる。 「私なんて一度離婚してるのよ?千夜子さんは大学教授なのに。浩輔、どうして私のことなんか好きだって言えるの?」 「千夜子は淡白すぎる。お前みたいに、生き生きとした魅力がない」 浩輔の声には迷いがなく、紗和へのあからさまな偏愛が滲んでいた。 「千夜子なんて、お前とは比べものにならない」

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Chapter 1

第1話

音声が途切れ、車内に一瞬、不自然な沈黙が落ちた。

続いて聞こえてきたのは、顔が火照るような、生々しいリップ音。

その吐き気を催す音がようやく静まると、紗和が甘えた声で文句を言った。

「もう、やだー。口紅、ぜんぶ取れちゃったじゃない」

浩輔が低く笑って、なだめる。

「お前が甘すぎるのが悪い……何年経っても、苺の香りの口紅が好きなんだな」

バンッ。

千夜子は手にしていた箱を、助手席のシートに叩きつけた。

何軒も洋菓子店を歩き回って、ようやく手に入れた苺のショートケーキだった。

浩輔は昔から、物静かで自制の利く人だった。そんな彼が、苺の味や香りにだけは不思議なほどこだわった。

彼らしくないその好みを、千夜子はずっと、ふたりだけが分かち合う秘めやかな愛らしさだと思っていた。

彼自身が取り憑かれたように好むだけではない。贈ってくれるものも、決まって苺だった。苺のチョコレート、苺の香りのアロマ、苺のリップクリーム……

今、すべてがわかった。

浩輔は苺が好きだったのではない。ましてや、千夜子が好きだったわけでもない。

ただ、苺の香りをまとった紗和を忘れられなかっただけ。

あの贈り物は、千夜子に紗和の面影を重ね、別の女を懐かしむためのものにすぎなかった。

千夜子自身もそうだ。「妻」というポジションを埋めるために、彼が丹念に選び抜いた、いちばん都合のいい道具。

車内には、甘ったるい苺の香りが立ちこめていた。傷みかけたクリームの匂いが、そこに重なる。

この瞬間まで、千夜子は疑いもしなかった。自分と浩輔は、運命の糸で結ばれたふたりなのだと。

同じように留学を経験し、帰国後はともに楓川大学の教授を務める。研究では肩を並べ、暮らしでは呼吸が合い、誰もが羨む理想の夫婦。

彼と初めて出会ったのは、留学先でのパーティーだった。

あの夜の千夜子は、非の打ちどころのない微笑みを貼りつけ、次から次へと交わされる社交辞令をそつなくこなしていた。学業のこと、研究のこと、将来のこと。精巧に組み上げられた、完璧な人形のように。

そこへ、彼が人波を縫って歩み寄り、静かに尋ねたのだ。

「ここ数年、しんどかったんじゃない?」

たったそれだけの言葉で、彼女が必死に築いてきた体裁は、あっけなく崩れ落ちた。

あれは救いだと、愚かにも信じていた。

けれど今なら思う。あれも、彼が冷静に見極めたうえで選んだ、効率よく心の隙を突くための言葉だったのかもしれない。

そんな言葉に、5年も心を動かされ、5年も尽くしてきたなんて。

滑稽だった。

千夜子は目を閉じ、深く息を吸った。もう一度開いたとき、瞳に残っていたのは、冴えわたった静けさだけだった。

表情ひとつ変えずにスマートフォンを取り出し、中古車買取業者に電話をかける。

業者はすぐに駆けつけ、新車同然に磨き上げられた車の周りを2周して、怪訝そうに首を傾げた。

「いや、こんなに手入れの行き届いたお車ですよ。この程度の擦り傷なら、塗装で直せば済むのに。本当に手放されるんですか?」

「ええ」

迷いのない声だった。

「目障りなものを、置いておく理由はありませんから」

鍵を差し出すとき、彼女は一度も振り返らなかった。

夜。家に帰ると、ひっそりしているはずの部屋は人であふれていた。

友人たちがわっと駆け寄ってきて、紙吹雪と花びらが肩に降りかかる。

「千夜子!結婚5周年おめでとうー!」

「サプライズでしょ?浩輔さんが、みんなを呼んでお祝いしようって!」

「やっぱり理想の夫婦は違うわ。演出まで完璧ね!今夜は飲み明かすわよ!」

口々に飛び交う賑やかな声のなか、千夜子の視線は人垣を越え、まっすぐにリビングの中央へと注がれた。

そこに、浩輔が立っていた。

きちんとプレスされたグレーのスーツ。金縁の眼鏡の奥の眼差しは、いつものように穏やかだ。口元には、かつて千夜子が見慣れていた、完璧と言っていいほど優しい微笑みが浮かんでいる。

そして彼の隣には、赤いドレスに身を包み、気だるげに巻き髪を揺らす女がいた。

ふたりの間には、礼儀正しい距離が保たれている。それなのに、視線だけは、見えない糸で結ばれているかのように、ねっとりと溶け合っていた。

浩輔が千夜子の視線に気づいて顔を上げ、ごく自然に女の手を取ると、人ごみを抜けて歩み寄ってくる。

「千夜子、紹介するよ。大学の後輩の、羽成紗和だ」

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松坂 美枝
松坂 美枝
クズ夫が初恋とかいうゴミ女のために全部失ったザマア話 主人公の離婚しても終わりじゃないぜ演説に誇らしくて全力で拍手してんのは意味不で草 大学も結構クズ夫を籍に置いてて不思議だった クズ夫よ、来世ではもうちょっと見る目を養え
2026-10-25 10:23:39
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21 Chapters
第1話
音声が途切れ、車内に一瞬、不自然な沈黙が落ちた。続いて聞こえてきたのは、顔が火照るような、生々しいリップ音。その吐き気を催す音がようやく静まると、紗和が甘えた声で文句を言った。「もう、やだー。口紅、ぜんぶ取れちゃったじゃない」浩輔が低く笑って、なだめる。「お前が甘すぎるのが悪い……何年経っても、苺の香りの口紅が好きなんだな」バンッ。千夜子は手にしていた箱を、助手席のシートに叩きつけた。何軒も洋菓子店を歩き回って、ようやく手に入れた苺のショートケーキだった。浩輔は昔から、物静かで自制の利く人だった。そんな彼が、苺の味や香りにだけは不思議なほどこだわった。彼らしくないその好みを、千夜子はずっと、ふたりだけが分かち合う秘めやかな愛らしさだと思っていた。彼自身が取り憑かれたように好むだけではない。贈ってくれるものも、決まって苺だった。苺のチョコレート、苺の香りのアロマ、苺のリップクリーム……今、すべてがわかった。浩輔は苺が好きだったのではない。ましてや、千夜子が好きだったわけでもない。ただ、苺の香りをまとった紗和を忘れられなかっただけ。あの贈り物は、千夜子に紗和の面影を重ね、別の女を懐かしむためのものにすぎなかった。千夜子自身もそうだ。「妻」というポジションを埋めるために、彼が丹念に選び抜いた、いちばん都合のいい道具。車内には、甘ったるい苺の香りが立ちこめていた。傷みかけたクリームの匂いが、そこに重なる。この瞬間まで、千夜子は疑いもしなかった。自分と浩輔は、運命の糸で結ばれたふたりなのだと。同じように留学を経験し、帰国後はともに楓川大学の教授を務める。研究では肩を並べ、暮らしでは呼吸が合い、誰もが羨む理想の夫婦。彼と初めて出会ったのは、留学先でのパーティーだった。あの夜の千夜子は、非の打ちどころのない微笑みを貼りつけ、次から次へと交わされる社交辞令をそつなくこなしていた。学業のこと、研究のこと、将来のこと。精巧に組み上げられた、完璧な人形のように。そこへ、彼が人波を縫って歩み寄り、静かに尋ねたのだ。「ここ数年、しんどかったんじゃない?」たったそれだけの言葉で、彼女が必死に築いてきた体裁は、あっけなく崩れ落ちた。あれは救いだと、愚かにも信じていた。けれど今なら思う。あれも、
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第2話
紗和が近づいてくるより先に、苺を思わせる甘ったるい香水の匂いが鼻先へ飛び込んできた。その匂いは鋭い棘のように、千夜子の脳裏からドライブレコーダーの生々しい音を引きずり出す。胃が激しくねじれるような吐き気が込み上げ、千夜子は思わず口と鼻を覆って、大きくあとずさった。隠そうともしない嫌悪に、紗和の足がぴたりと止まる。潤んだ大きな瞳がたちまち霞み、すがるように浩輔を見上げた。浩輔も呆気にとられていた。千夜子がこんな反応をするとは思ってもみなかったのだろう。胸に生まれた違和感を押し込めて、彼は紗和の手を取り、千夜子の前へ連れてくる。「……ふたりとも、そんなに待ちきれなかったの?」千夜子の冷ややかな声が、不意打ちのように飛んだ。視線は絡み合ったふたりの手に突き刺さっている。肉を抉るほど鋭い眼差しに、浩輔でさえ背筋に寒気を覚え、思わず紗和の手を振りほどいた。「千夜子、何を騒いでるんだ」彼は眉をひそめる。「お前だって留学中は、挨拶で頬を寄せ合うことくらいあっただろう。あっちのほうがよほど際どい。手を繋いだくらいで、そこまで騒ぐことか?」責任転嫁のつもり?千夜子は小さくかぶりを振って微笑み、凍てついた瞳でただ彼を見つめた。取りつく島もないと悟ると、浩輔の口調はますます強くなった。「紗和は帰国したばかりで、自分の部屋の片づけも終わってないんだぞ。今日が俺たちの記念日だと知って、誰よりも張り切ってくれたんだ!あれこれ駆けまわって、この集まりを準備してくれた。みんな、よく行き届いた素敵な会だって褒めてるだろう」千夜子は、思わず吹き出しそうになった。浩輔は静けさを好む人だった。付き合っていたころから、はっきり言っていたはずだ。ふたりのことは、ふたりだけのものだ。どんな形であれ、賑やかに祝ったり、人に見せびらかしたりするのは嫌いだと。だから丸4年、結婚記念日はいつもふたりきりだった。SNSにひと言書くことすら、彼は許さなかった。なのに今は?夫婦だけのものだったはずの夜は、見知らぬ顔で埋め尽くされ、紗和が人脈と気配りのよさを披露する舞台になっている。「そう」千夜子は口の端をわずかに上げた。「なら、彼女にお礼を言うべきかしら。それとも……あなたに?」「千夜子さん、どうかお気になさらないで」
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第3話
拍手が、ぷつりと途切れた。リビング全体が奇妙な静けさに沈み、ざわめきだけが、顔を見合わせる人々の間を這っていく。浩輔の眉が、きつく寄せられた。彼が皆の前で発表したのは、千夜子が、同業の先輩方の前で夫である自分の顔を潰すはずがない、研究者としての立場を自ら傷つけるはずがない、と見越してのことだ。彼は身を寄せ、押し殺した声に威圧を滲ませる。「もう、お前の名前で学部と話をつけてある。紗和がお前の学生になるのは、決まったことだ。今さら撤回して、みんなに恥をかかせるな」千夜子は彼の視線を受け止めたまま、微動だにしなかった。浩輔の顎の線がこわばる。やがて彼は、珍しく懇願にも似た調子で、声を和らげた。「紗和の研究テーマはお前の分野に近くて、俺の専門とは合わない……そうでなければ、お前に頼んだりしない。今回は、俺に貸しを作ったと思ってくれ」千夜子は彼を見つめた。口の中に、苦いものが広がっていく。「もし私が」彼女は一語ずつ、区切るように言う。「どうしても嫌だと言ったら?」浩輔の瞳に怒りが灯り、口を開きかけた、そのとき——彼の顔色が、突然変わった。さっと手で口を覆う。だが、指の隙間から刺すように鮮やかな赤があふれ出した。次の瞬間、体が前のめりに崩れる。吐き出された血が千夜子の白いブラウスに飛び散る。そして彼は、そのまま床へ激しく倒れ込んだ。「浩輔ッ!」千夜子は蒼白になり、とっさに駆け寄って彼の頭を抱きとめた。千夜子より近くにいた紗和は、悲鳴を上げて1歩あとずさっただけだった。そして千夜子を指さし、叫ぶ。「千夜子さん!あなたのせいで浩輔が血を吐いたのよ!」千夜子は言い返す余裕もなく、顔を上げ、周りの人々に必死に助けを求めた。「お願い、手を貸して!病院へ運ばないと!」こうして、この入念に準備された結婚5周年のパーティーは、救急車の耳をつんざくサイレンとともに幕を閉じた。救命処置を受け、浩輔は危機を脱して病室に移された。医師が立ち去った直後、ひと晩中姿を消していた紗和が現れた。派手な黄色い菊の花束を抱えている。病室に入る前から、甘ったるい声が先に届いた。「こーすけ」浩輔が弱々しく目を開ける。紗和はぱっと目を輝かせ、まっすぐベッドへ向かった。ベッドの反対側は空いているのに、わざわ
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第4話
「興味ないわ」千夜子は踵を返そうとした。「そりゃあ興味なんてないでしょうね!」紗和は食い下がり、声を跳ね上げる。「だって千夜子さんはね、あの人が本気で恋をした時の姿を、見たことがないんだものー!私を口説いてたころなんて、心まで差し出しかねない勢いだったのよ」千夜子の足が止まった。脳裏に、浩輔の氷のように冷え切った顔が浮かぶ。その冷たさを溶かそうと必死に手を伸ばしては、そのたびに凍えるような思いをし、傷だらけになってきた。「私が遊びたいって言えば朝まで付き合ってくれたし、ゲームで私が負ければ、罰ゲームのお酒を代わりに飲んでくれた。私が負け続ければ、あの人は黙って飲み続けたの。胃から血が出るほど飲んでも、笑ってた」紗和は畳みかけ、言葉に棘を含ませる。「お酒なんて1滴も口にしない人だったのに、文句ひとつ言わずに、胃潰瘍になるまで飲み続けたのよ。千夜子さんのために、1杯でも飲んでくれたことあるかしら?」千夜子の胸が、ずしりと沈んだ。思い出したのは、親戚の集まりでの浩輔だった。彼は千夜子の代わりにお酒を飲んでくれるどころか、彼女の背中を押し出して、無理やり何杯も付き合わせたのだ。「フフフ……ねえ」紗和は首を傾げ、くすりと笑う。「浩輔ってね、私のことがこんなに好きなのよ。明日にでも千夜子さんと離婚してって言ったら、すぐうなずくと思わない?」「ええ、願ったり叶ったりよ」千夜子は冷ややかに笑って顔を上げた。その目は、氷のように冷たかった。「今すぐ言ってきたらいいわ。この結婚、私のほうから終わらせるから」紗和の表情が凍りつく。これほど即答されるとは、思ってもみなかったらしい。千夜子は蔑むように一瞥をくれて歩き出したが、その手首を、大きな手がいきなりつかんだ。いつの間にか、浩輔が目を覚ましていた。顔は紙のように白いのに、瞳の奥では恐ろしいほどの怒りが燃えている。「俺が倒れた途端に、離婚かッ?」「離して」千夜子は、もうこのふたりと関わりたくなかった。言葉を費やす気にもなれない。「離婚協議書と離婚届は、今日中に送るわ」「千夜子!」浩輔の指が、手首の骨を砕かんばかりに食い込む。「……俺はお前を見誤っていたな!」「あなたが、これまで誰かを見誤らなかったことなんてあるの!?」
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第5話
弁護士から離婚協議書の草案がメールで届いた直後、父、尾坂久雄(おさか ひさお)からの着信音が鳴った。「千夜子!亭主が入院してるってのに、お前はどこへ行った!今すぐ帰ってこい!」久雄の怒号に、鼓膜がしびれる。「誰から聞いたの?」「浩輔くんから直々に連絡があったんだぞ!看病が面倒で、楽をしに逃げたそうじゃないか!彼は心が広いから許してくれたが、お前はさっさと戻って頭を下げろ!」千夜子は深く息を吸った。「浮気したのは浩輔よ。私、離婚する」電話の向こうが、一瞬だけ静まる。そして、さらに激しい怒声が爆ぜた。「浮気?だからどうした!浩輔くんのご実家がどれほどの家柄だと思ってる。離婚してもっといい相手が見つかるとでも思ってるのか!離婚するなら、お前なんか娘じゃない!うちの家に、そんな恥さらしはいらん!」罵声が終わらないうちに、母、尾坂幸江(おさか ゆきえ)のすすり泣く声が割り込んだ。「千夜子、お母さんたち、お詫びの品を持ってもう浩輔くんのお宅へ向かってるの。あなたも早く戻ってきて……」「行かないで!」千夜子の心臓がぎゅっと縮んだ。けれど電話はすでに切れ、ツーツーと無機質な音が響くだけだった。ふたりは、必ず行くだろう。彼女にはわかっていた。幼いころから、父が自分に向けるのは、厳しい要求と拳だけだった。母は黙って涙を流すことしかできない。浩輔との結婚は、両親の目には玉の輿に乗ったも同然の、これ以上ない成功だった。ふたりが胸を張っていられる、唯一の拠り所なのだ。浩輔はもう紗和を選んだはずなのに、どうして両親まで巻き込むのだろう。自分の尊厳を、もっと徹底的に踏みにじるためなのか。千夜子は急いで家へ戻り、玄関を開けた途端、ソファにふんぞり返る浩輔の母、島川昭子(しまかわ あきこ)の姿が目に入った。そして、深く頭を下げて、お詫びの品を差し出している両親。まるで許しを請うように小さくなっていた。「立って!」千夜子は駆け寄って贈り物をひったくり、幸江の腕を引き上げた。「謝るべきは浩輔のほうでしょう!ふたりとも、こんな惨めな真似は……」パンッ。容赦のない平手打ちが頬に叩きつけられ、耳の奥が鳴った。久雄は千夜子の鼻先を指さしたかと思うと、すぐさま昭子に向き直って愛想笑いを浮かべる。「ハハ……そ
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第6話
浩輔の体が、ほとんど見えないほど小さく揺れた。体の脇で強く握りしめられていた拳が、やがてゆっくりとほどける。彼は黙ったまま千夜子を見据えた。まるで見知らぬ人を眺めるような目だった。「離婚協議書は用意してあるわ。あなたの財産は、1円もいらない」千夜子は息をつく暇も与えない。飢えと衰弱のせいで声は掠れていたが、ひと言ひと言ははっきりしていた。ようやく口を開いた浩輔の声は、ひどくかすれていた。「……っ。次の相手でも見つけたのか?財産まで要らないなんて」千夜子は頭が割れるように痛み、もう説明する気にもなれなかった。めまいをこらえてバッグから協議書を引き抜き、彼の前に押し出す。ペン先を、署名欄に向けた。浩輔の視線が、きれいに印刷された離婚協議書の文字に釘づけになる。ほんの一瞬のことだった。彼は顔を上げた。瞳の底で、暗い感情が渦巻いている。「……離婚には応じる。ただし、条件がある。紗和が無事に修了するまで、心から納得したうえで指導すること」ここまで来てもなお、彼の心にあるのは紗和だけだった。胸の奥に鋭い痛みが走った。けれど千夜子は、口の端をわずかに動かしただけだった。錯覚かと思うほど、一瞬のことだった。「いいわ」彼女は協議書をもう一度、前へ押しやる。「あなたが署名するなら」浩輔は、何の揺らぎもない彼女の顔を見つめ、胸を大きく波打たせた。ペンをひったくり、紙面を破りそうな勢いで、末尾に自分の名を書き込む。千夜子は協議書を受け取り、内容を確かめた。「今日中に、私はここを出ていくわ」「その必要はない」浩輔は立ち上がり、背を向けたまま、冷たく言い放つ。「出ていくべきは俺だ。この家には……お前の気配が染みついていて、1分だっていたくない」そう言うと、まっすぐ戸口へ向かった。光の加減だろうか。去っていく足取りが、わずかにふらついて、頼りなく見えた。……翌日、千夜子は大学に戻った。研究室に入るなり、先に来て待っていた紗和の姿が目に入る。浩輔は、その隣に立っていた。紗和はまるで別人のような顔つきで、しおらしくお辞儀をした。「これからご指導のほど、よろしくお願いいたします」「紗和、無理はするなよ」浩輔は愛おしげに紗和を見ていた。だが千夜子へ視線を移した瞬間、その眼差
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第7話
千夜子が研究室で待ち始めて、1時間近くが過ぎた。紗和はようやく、悠々と姿を現した。悪びれる様子はまるでない。腰をくねらせながら千夜子の机の前まで歩いてくると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「浩輔がお昼を『あーん』してくれて、ちょっと遅くなっちゃったわ。次からは、あの人も気をつけてくれると思うよ」「あーん」して食べさせてくれた、という部分だけ、わざとゆっくり、ねっとりと嫌らしく強調する。千夜子の反応を、期待に満ちた顔で待っていた。千夜子はパソコンの画面から目も上げず、淡々と告げた。「私の指導では、遅刻も評価に響く。修了が延びるのは、困るでしょう」紗和の顔色が変わった。バン、と乱暴に机を叩く。「私を脅す気なの!?」千夜子はゆっくり立ち上がった。紗和より少し背が高い。見下ろす眼差しには、おのずと冷ややかな圧が宿っていた。「食事まで人に食べさせてもらわないといけないのは事実でしょう。それが受け入れられないなら、退学なさい」「千夜子!」戸口で、浩輔の怒声が弾けた。大股で入ってくる彼の目は、刃のように鋭い。「約束したことを忘れたのか。もしわざと紗和に嫌がらせをするなら、俺はお前のお父さんに直々に電話して、離婚のことを話してもいいんだぞ。そうしたら彼は、またお前を『教育』しに来るんじゃないか?」千夜子の背筋が、一瞬でこわばった。知っていたの?それとも、あの日の父の暴力は、最初から彼が黙認していた、いえ、焚きつけていたからなの?鋭い氷の刃で心臓を真っ直ぐに貫かれたようだった。それでも、声はますます硬く冷えていく。「好きにすれば。学内掲示でも校内放送でも、公表したいならどうぞ。一人ひとりに説明する手間が省けるわ」浩輔の顎がこわばり、眼差しが陰鬱に沈んだ。「お前なんかのために、そこまでする価値もない」そのとき、ひとりの教員が慌てて駆け込んできた。「尾坂先生!大変です、正門で問題が起きて、先生に会いたいという人が来ています。ものすごい剣幕で!」千夜子の胸がざわつく。ふたりにかまっている場合ではなく、すぐに後を追って外へ出た。正門に着いた瞬間、相手の顔を確かめる暇もなく、いきなり拳が飛んできて、顔面をまともに殴られた。不意を突かれた千夜子は、目の前に火花が散り、よろめいてアスファルトに
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第8話
千夜子が研究室を出ていったあと、浩輔は苛立たしげに眉間を押さえた。なぜかひどく胸騒ぎがする。少しためらってから、やはり正門の様子を見に行くことにした。ふたりは前後して歩き出したが、浩輔の足は速く、紗和は小走りでも追いつけない。息を弾ませて呼びかける。「浩輔っ、待ってよ……」浩輔は振り返りもしなかった。自分でも気づかない焦りが、声に滲んでいる。「千夜子の様子を見てくる。お前は来るな」言い終わらないうちに、血が凍りつくような声が、キャンパスのあらゆるスピーカーから爆発するように響き渡った——自分の声だった。「……俺は一度も千夜子を愛したことなんてない……紗和、俺の初恋はお前だ。ずっと愛しているのも、お前だけだ……」録音は鮮明だった。車内での紗和との私的な会話も、あの生々しいリップ音も、すべて入っている。それが今、これ以上ないほど公然と、屈辱的な形で学内中に響き渡っていた。浩輔はその場に凍りついた。一気に血が上り、頬が焼けるように熱くなる。次の瞬間にはサーッと血の気が引いた。すべてを白日の下にさらされたような気分だった。無数の好奇の目と嘲笑の的になっていた。羞恥心を煽るような音声がようやく終わると、短い静寂を挟んで、冷ややかなほど平静な千夜子の声が、校内中に響き渡った。「いまの録音の男性は、島川浩輔教授です。女性は、羽成紗和さんです。録音の時点で、私と島川浩輔はまだ婚姻関係にありましたが、現在は正式に離婚しています」彼女は本当に公表した。こんなやり方で、ふたりの間にあった最後の体面を、木っ端微塵に打ち砕いたのだ。怒り、屈辱、そして自分でも認めたくない恐慌が、彼を一気にのみ込んだ。通りかかった学生たちが、指をさし、口を押さえて笑う。かつて親しくしていた同僚は、遠くから彼を見つけると、目を逸らし、足早に遠ざかっていった。無意識に隣の紗和を見る。ところが彼女の顔には、恥じらいのかけらもない。ひどく退屈そうに、毛先をくるくると指に巻きつけていた。彼は驚いて尋ねた。「恥ずかしいとは思わないのか?」紗和は小さく笑い、どこ吹く風だった。「フフ……別に大したことないと思うけど?」スマホの着信音が甲高く鳴った。学長からだ。浩輔は深く息を吸い、重い足取りで学長室へ向かった。部屋に入ると
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第9話
浩輔は電話を切ると、すぐに踵を返した。だが、その腕を紗和が絡め取る。彼女は半身を預けてきて、目元をほんのり赤くした。「浩輔ったら……さっき探して走ってきたら、足をくじいちゃって……痛いの……保健室まで送ってくれないかしら?」浩輔が見下ろすと、たしかに足首のあたりが少し赤くなっていた。彼は唇を引き結び、腕をほどいた。「保健室は近い。自分でゆっくり行ってくれ。急ぎの用がある。先に行く」言い終えるより早く、彼は駆け出していた。紗和に、何かを言う隙も与えなかった。その場に取り残された紗和の目から、涙がすっと引き、代わりに悪意に満ちた陰湿な色が浮かんだ。彼女はゆっくりしゃがみ込み、指で足首を擦った。さっきまで真っ赤だった場所は、すっかり元の肌色に戻っている。掌のほうに、赤い色が付着していた。放送室にいた学生が、目を丸くした。「まさか……チークを塗ったんですか?」紗和は、氷のように冷たい視線を投げた。「黙っていたほうが身のためよ」学生は彼女の蛇のような視線にすくみ上がり、二度と口を開けなくなった。紗和はゆっくり放送室の前を離れ、誰もいない廊下に向かって、悔しげに歯を食いしばった。「浩輔……あなたは絶対に手に入れてみせる!だって私のこれからの生活は、あなた次第なんだから」警察署へ向かう道すがら、浩輔は、紗和のその後の言動など知る由もなかった。頭の中では、相反するふたつの思いがせめぎ合っていた。ひとつは冷たく言う。「どうせ千夜子とはもう離婚したんだ。お前の名誉を汚すような真似をした女は、もう妻にふさわしくない。放っておけ」もうひとつは低く響く。「千夜子は嫉妬で頭に血が上っただけだ。それは、彼女が一途に、まだお前を愛している証拠じゃないのか。会いに行ってやれ」ふたつの思いの間で揺れ動きながら、彼は警察署に足を踏み入れた。入るなり、帰ろうとしている千夜子の姿が目に入った。その背後から聞こえた罵声が、頭の中の葛藤を一瞬で吹き飛ばした。声のほうを見ると、久雄がふたりの警察官に押さえられながら、なお激しく暴れている。額に青筋を浮かべ、唾を飛ばして叫んでいた。「千夜子、この親不孝者が!よくも実の親を警察に突き出しやがって!お前なんか産むんじゃなかった!生まれたとき、そのまま便器に沈め
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第10話
「あぁ?自分でメッセージを送ってきたじゃないかッ!」久雄が声を荒らげてわめいた。メッセージ?浩輔の胸がざわついた。すぐに自分のスマホを取り出して調べる。受信履歴も送信履歴も、下書きにも、それらしい記録は一切残っていなかった。警察官が差し出した久雄のスマホを、ひったくるように受け取る。画面は点いたままで、彼の番号から届いたメッセージがはっきりと表示されていた。【俺と千夜子は離婚した。今後、そちらの家は俺に近づくな】送信時刻は、彼が紗和の引っ越しを手伝っていた、まさにあの日の午後だった。足元から背筋へ、冷たいものが一気に駆け上がる。浩輔はスマホを久雄の前へ突き返した。その眼差しは、凍えるほど冷え切っていた。「千夜子があなたを訴えなかったとしても、彼女に手を上げた人間を、俺は絶対に許しません」警察署を出ると、浩輔はどこにも寄らず、まっすぐ紗和の部屋へ車を走らせた。車を停めるが早いか、階段を駆け上がる。ドアを激しく叩いた。その音に、隠しきれない怒りが滲む。ドアが開くと、紗和はワインレッドのシルクのキャミソール姿だった。胸元は大きく開き、華奢な鎖骨があらわになっている。口元には、色っぽい笑みが浮かんでいた。「まぁ、浩輔?こんな遅くにどうしたの……」「俺のスマホで、お義父さんにあんなメッセージを送ったのか?」浩輔は彼女の露骨な誘惑には目もくれず、単刀直入に問い詰めた。紗和の笑みが、不自然に凍りついた。目が泳ぎ、彼の視線を避ける。「わ、私……知らないわ……何か誤解してないかしら?」浩輔は無駄口を叩かず、あらかじめ撮っておいたスクリーンショットを表示したスマホを、彼女の目の前に突きつけた。画面を見た瞬間、紗和の顔からさっと血の気が引いた。けれど、それもほんの一瞬だった。彼女の目はたちまち赤くなり、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。そのまま、彼の胸に縋りつくように飛び込んできた。「わ、私……あなたのことが好きすぎて!千夜子さんなんて、あなたにふさわしくないもの!あの人、あなたが倒れたときに放り出して、見捨てたじゃない。この先だって絶対そう。あなたに本気なのは私だけ。あのとき私が離れたのは、あなたの将来の邪魔になりたくなかったから。この何年も、毎日ずっと後悔してた……」彼女は涙に濡れ
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