LOGIN結婚5周年の日、島川千夜子(しまかわ ちよこ)は駐車場で、自分の車に擦り傷がついていることに気づいた。 何があったのか確認しようとドライブレコーダーを再生しただけだった。ところが、思いがけず夫・島川浩輔(しまかわ こうすけ)の声が聞こえてきた。 はっきりとした、落ち着いた声。それなのに、一言一言が刃のように千夜子の胸を抉る。 「俺は一度も千夜子を愛したことなんてない。結婚したのは、妻にするにはちょうどよかったからだ。 紗和、俺の初恋はお前だ。ずっと愛しているのも、お前だけだ」 千夜子は、全身の血が一瞬にして凍りついたような感覚に襲われた。 続いて、笑みを含んだ羽成紗和(はなり さわ)の声が聞こえてくる。 「私なんて一度離婚してるのよ?千夜子さんは大学教授なのに。浩輔、どうして私のことなんか好きだって言えるの?」 「千夜子は淡白すぎる。お前みたいに、生き生きとした魅力がない」 浩輔の声には迷いがなく、紗和へのあからさまな偏愛が滲んでいた。 「千夜子なんて、お前とは比べものにならない」
View Moreこの配信騒動の影響はあまりに大きく、昭子がどれだけ手を尽くしても、完全にもみ消すことはできなかった。捜査、起訴、裁判、判決と、すべてが早送りされたかのような速さで進んだ。浩輔は学術不正が認定され、さらに文書偽造や贈賄など複数の罪に問われ、拘禁刑5年の判決を受けた。紗和のほうも、次々と不正が明るみに出た。学部時代の卒業論文の剽窃に加え、元夫と結託した恐喝事件への関与も発覚し、複数の罪に問われた。そして、浩輔よりも重い刑が言い渡された。刑務所での日々は、単調で灰色な、息が詰まるほど規則正しいものだった。けれど、浩輔の体は驚くほどの速さで蝕まれていった。長年の胃潰瘍が悪化し、深夜になると激痛が彼を襲い、体を限界まで丸めさせた。外部で療養することも拒み、ほとんど外部と連絡を取らないまま服役を続けていた。刑務官だけが知っていた。痛みの引いた合間に、彼がよく高い小窓から射し込むひと筋の光を見上げ、小さな声である名を呼んでいたことを。その名は、千夜子だった。服役3年目の、ある冬の夜。何の前触れもなく、これまでのどれより激しい痛みが襲ってきた。浩輔は寝台から床へ転がり落ちた。冷や汗がたちまち囚人服を濡らす。胃を必死に押さえ、歯をがちがちと鳴らしながら、まともな叫び声さえ上げられない。刑務官が発見したとき、彼の意識はすでに朦朧としていた。浩輔はすぐに外部の医療機関へ救急搬送され、そのまま緊急手術を受けることになった。手術室の灯りは、ひと晩じゅう消えなかった。明け方、ようやく灯が消えた。出てきた医師は、待っていた刑務官に向かって静かに首を横に振った。「急性胃穿孔による大量出血で、多臓器不全を起こしました……手遅れでした」彼を看取った刑務官によれば、彼は息を引き取る間際、意識も朦朧としたまま、ある名前を何度も繰り返しつぶやいていたという。呼吸が完全に絶えるまで、ずっと。その名は、千夜子だった。その知らせが大学に届いたとき、千夜子は研究室のミーティングを進行していた。同僚が言葉を選んで伝え終えると、会議室は水を打ったように静まり返り、全員の視線が彼女に集まった。千夜子は落ち着いた表情で手元の資料を閉じ、小さくうなずいた。「わかりました」そして助手のほうを見る。「先ほど話し合っ
動画は瞬く間に拡散された。「学界の恥」「不倫教授」といった言葉とともに浩輔の名はキャンパスを飛び出し、ネット上でおもちゃにされ、大炎上した。学長室の空気は、恐ろしいほど重く沈んでいた。「島川教授!」学長は印刷したネットのコメントの束を、机に激しく叩きつけた。「見なさい!大学の名誉が、君のせいで台無しですよ!この前、私は何と言いました!?停職!今すぐ停職です!この騒ぎが収まってから、ほかのことは考えますけど!帰って、しっかり反省しなさい!」「学長、私の担当している重点プロジェクトが、今まさに正念場で……」「プロジェクト?」学長は怒りのあまり笑い出した。「今になってプロジェクトを思い出しますかね?あの羽成紗和とふしだらに遊んでいたときは、考えもしなかったのですか!今さら誰が君にプロジェクトを任せるというのです!?今まで教職を続けられていたのも、お父上への配慮があってのことだ!出ていきなさい!」浩輔は灰色の顔で事務棟を出た。スマホが鳴る。紗和からだった。麻痺したように、彼は電話に出た。「浩輔、私からの贈り物、気に入ったかしら?」紗和の声は、ひどく晴れ晴れとしていた。「手元には、もっと見どころのある場面があるのよ。身の破滅を迎えて、大学をクビになりたくなかったら、おとなしく私が修了できるようになんとかしてちょうだい。そうでなければ、全国の皆さんに、島川先生の情熱的なお姿を鑑賞してもらってもいいのよ」浩輔はしばらく黙り込み、それからひどく掠れた声で言った。「紗和。お前は俺を愛したことがあったのか。ほんの一瞬でも」受話口の向こうで、甲高い笑い声が弾けた。「フフフ……ハハハ!愛?あなたいくつよ?中学生じゃないんだから。あんなのただの遊びよ。まさか自分が私の初恋だとでも思ってたの?あなたと付き合ってた頃には、彼氏なんてもう十数人も取り替えてたわ!あなたを宝物みたいに扱ってたのは、千夜子っていうあの馬鹿だけ。あなたはもう使い道がないの。私を修了さえさせてくれれば、これで最後にしてあげる。それと、言っておくけど。私が終わるなら、あなたがいちばん愛してる千夜子さんだって……無事では済まさないわよ」電話は切れた。浩輔はスマホを握りしめ、初冬の寒いキャンパスに立ち尽くした。すべてが、ふ
数秒間、空気が凍りついた。次の瞬間、紗和は狂ったように駆け込んできて、浩輔の腕をつかんだ。爪が腕に食い込むほどの力で、声は裏返るほど甲高い。「浩輔!今、何て言ったの!?救いようがないって何よ!?規則どおりにするってどういうことよ!?私の修了証は!?約束してくれたじゃない!」腕を激しく揺さぶりながら、詰問の眼差しを突き刺してくる。浩輔は力任せに振りほどいた。眉の間には、あらわな煩わしさが浮かんでいる。「自分の実力がどの程度か、わかっていないのか!論文のデータは不備だらけ、論文審査の準備もめちゃくちゃだ。それでよく学位をよこせと言えるな!修了?その態度とその能力で、修了を口にする資格があるのか?楓川大学の学生になれただけでも、とんでもない幸運だったんだぞ!もう俺を煩わせるな。これ以上、お前の面倒を見る余裕はない!」「じゃあ仕事を見つけてよ!まともな仕事を!」紗和は執拗に食い下がり、1歩踏み出してまた掴みかかろうとする。「私に言い寄ってきたときは、そんな言い方じゃなかったでしょう!今さら知らん顔で済ませるつもり?そうはいかないわよ!」浩輔は1歩下がり、完全に取り繕うのをやめた。冷たく、容赦のない眼差しだった。「紗和、はっきりさせておく。俺とお前は、とっくに何の関係もない。あのとき手を貸したのは、昔の情があったからだ。その情も尽きた。もうまとわりつくな。誰かにたかりたいなら、元の旦那のところへ行け。もっとも、刑務所に入ってでもお前から逃げたかったという気持ちは、今なら痛いほど理解できるがな!お前みたいな理不尽な女と、誰が一生連れ添いたいと思う?」そのひと言が、紗和を完全に打ち砕いた。全身を震わせ、その目は懇願からたちまち憎悪の色に変わる。傍らに静かに立つ千夜子を睨みつけ、それから浩輔へ視線を戻すと、突然、甲高く笑い出した。「ハ……ハハハハ!いいわ!上等じゃない!浩輔、いい度胸ね!覚えてなさい、後悔しても知らないから!」ふたりをひと睨みすると、彼女は踵を返し、研究室を飛び出していった。浩輔はかまう気もなく、すぐ千夜子へ向き直る。「千夜子、あいつのでまかせを真に受けないでくれ。俺とあいつは、とっくに……」千夜子はすでにコートと鞄を手に取り、そのまま戸口へ歩いていた。浩輔は慌てて後を追う。
翌日、浩輔はひどく念入りに身支度を整えた。かつて千夜子が褒めてくれたシャツを選び、彼女が嫌いではなかったはずのウッド系の香水をまとう。鏡のなかの男は今も端整だったが、眉にも目元にも陰りが差し、拭い去れない病の影と深い疲労の色が濃く滲んでいた。浩輔は早めに千夜子の研究室を訪れた。彼女は机に向かい、静かに集中した横顔を見せている。「千夜子」そっと呼びかけた。千夜子が顔を上げる。彼だと認めても、眼差しは微塵も揺れなかった。どうでもいい家具でも見るような目だった。「大学の用事でしたら、手続きどおりに予約を。個人的な用事なら」彼女は一拍置いた。「話す気はないわ」浩輔の喉が締めつけられる。1歩、前へ出た。「どうして……どうしても、あの家を売らなければならなかったんだ?」千夜子はかすかに眉をひそめ、背を椅子に預けてすっと距離を取った。「あそこには、あなたの痕跡ばかりだったから」平淡な口調は、取るに足らない事実を述べるようだった。「汚らわしくて」「汚らわしい」という言葉が、鋭い刃となって、浩輔の胸に深く突き刺さった。離婚のとき、彼自身が口にした、後先を考えない残酷な言葉を思い出す。それが今、報いのように、もっと徹底した形で返ってきた。彼は無意識に自分の匂いを嗅いだ。紗和がいつもつけている、あの甘ったるい苺の香りが頭をよぎる。顔から血の気が引き、慌てて上着を脱いで脇へ放った。「お前が嫌なら、もう使わない。どんな香りが好きなんだ?俺は何だって変える……」「浩輔」千夜子が冷たくさえぎった。その眼差しには、あからさまな嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。「言葉が通じないの?私たちには、大学の業務以外で関わる理由が一切ないわ。帰りなさい」追い払う言葉は、迷いなく明瞭だった。浩輔はうろたえ、慌てて言い募る。「紗和だ!紗和のことで来たんだ……お前が修了させてくれないと言っていて……」千夜子は椅子の背にもたれ、両手を組んだ。完全な防御と、拒絶の構えだった。「彼女の学業については、指導教員としての責任を果たした。だけど、無断欠席に剽窃まである。論文の内容も到底、審査に出せるものではない。今日、正式に報告書を出すわ。修了を認めるべきではないと進言するつもり。私自身の評価に響いたとしてもね」彼
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