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思い出は白い雪のように消えて
思い出は白い雪のように消えて
Author: 菓音

第1話

Author: 菓音
前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。

出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。

医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。

子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。

明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。

両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。

冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。

「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」

そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。

看護師に「最後に会いたい人はいますか」と問われ、枯れたプラタナスを見つめながら、彼女は最後の希望を胸に寒成へ電話をかけた。

電話は、偶然にも繋がった。

向こうからは賑やかな声が聞こえ、子どもたちの弾む声が耳を刺した。

「お父さん、ケーキ食べたら、杏奈さんと家族写真撮ろうよ!」

「いいよ」

胸の奥がずきりと痛み、明里の手からスマートフォンが滑り落ちた。床に叩きつけられた画面は、粉々に砕けた。

果てしない絶望の中、彼女は深い海に沈む小舟のように、静かに瞳を閉じた。

……

再び目を開けた時、明里は二十七歳に戻っていた。

彼女が最初にしたのは――離婚届の作成だった。

そして次に、離婚届を手に、夫の初恋の女である沢渡杏奈(さわたり あんな)を訪ねた。

「氷見寒成と離婚することにしたわ」

明里は離婚届をテーブルに置き、淡々と言った。

「彼にこの離婚届へサインさせられるなら、氷見夫人の座はあなたにくれてやるわ」

杏奈は一瞬言葉を失い、戸惑いの色を浮かべた。

「七年も夫婦で、子どもも二人いるのに……本当に、捨てられるの?」

明里の脳裏に、前世の惨痛な記憶がよぎる。

彼女はただ静かに答えた。

「寒成はあなたを忘れられない。子どもたちもあなたが好き。私が身を引けば、みんな幸せになれる」

その時、スマートフォンが鳴った。

明里が応答すると、電話の向こうから息子・氷見蒼辰(ひみ あおと)と娘・氷見柚菜(ひみ ゆな)の泣き叫ぶ声が響いた。

「ママ、助けて!」

「悪いおじさんが僕たちを殺そうとしてる!うわあああん……」

次の瞬間、低い男の声が耳を突いた。

「お前の子ども二人は俺の手の中だ。助けたけりゃ二億円用意しろ。さもないと――」

「殺せばいいわ」

明里はその言葉を遮るように電話を切った。

杏奈が青ざめた顔で言った。

「今、蒼辰と柚菜の声が聞こえたけど……行かないの?」

明里は冷ややかに笑った。

「ただのいたずらよ」

前世では、彼女はこの電話を信じた。

家計を握る寒成とは連絡が取れず、必死に金を工面してやっと二億円を揃えた。

子どもたちの無事を祈りながら車を走らせ、焦りのあまりガードレールに衝突して血まみれになった。

だが、あの拉致は子どもたち自身の仕業だった。

彼らは杏奈の誕生日プレゼントを買うため、金を騙し取ったのだ。

だから今度こそ、もう騙されない。

明里はバッグを手に取り、立ち上がった。

家に戻ると、寒成と子どもたちのために編んだマフラーや、用意していたクリスマスプレゼントをすべてゴミ箱に放り込んだ。

彼女と寒成の結婚は、ただのビジネス婚だった。

そして杏奈こそ、彼が一生忘れられない初恋の女だった。

当時、寒成と杏奈はすでに結婚を前提に交際していた。だが、氷見家が沢渡家の裏にグレーなビジネスの影を見つけ、「素性の怪しい女」として杏奈との関係を一方的に引き裂いた。

杏奈が渡航したあの日から、寒成はまるで魂を抜かれたように、半年もの間、何も手につかずにいた。

その後、氷見家と桐島家のビジネス婚が決まった。

結婚式の日、寒成は明里に向かって、冷たく宣言した。

「俺たちはあくまでビジネス婚だ。氷見夫人という肩書き以外、お前に与えられるものは何もない」

明里は口では「気にしない」と答えながらも、どこかで幻想を捨てきれずにいた。

人の心は血の通ったもの。

尽くして、耐えて、寄り添い続ければ――

いつか、この冷えきった関係にも、少しは温もりが生まれるかもしれない。

そう信じて、彼女は寒成の好物を覚え、ひとつひとつ丁寧にシャツへアイロンをかけ、彼と子どもたちの好みをすべて心に刻み込んでいった。

けれど、彼が彼女に与えたのは――週に一度、機械のように繰り返される義務的な夜だけだった。

心は、最初から最後まで、彼女に向いてはいなかった。

メッセージは既読無視。

電話も出ない。

彼女が何をしても、何を望んでも、寒成は微塵も気に留めなかった。

杏奈が帰国してからは、二人の関係は再燃し、子どもたちまで杏奈になついていった。

だからこそ、今世では、もう誰のためにも自分を犠牲にしない。

その時、背後から足音が近づき、低く冷たい声が響いた。

「何をしている?」

振り返ると、寒成が立っていた。

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