LOGIN杏奈があの日の代償を払うまでに、実に三年という時間がかかった。故意傷害罪で実刑三年。出所したとき、外の世界はすっかり変わっていた。社会に戻ろうとしても、扉はどれも固く閉ざされていた。履歴書をいくら送っても、返事はない。ようやく面接まで辿り着いても、前科の記録を知った瞬間、相手の表情が曇る。絶望の果て、杏奈は最後の望みを寒成に託した。かつて愛していた男に。だが、氷見グループのビルの入口で彼女を待っていたのは、スーツ姿の警備員と、ひとつの封筒だった。「氷見社長からです。このお金を受け取って……もう二度と、関わらないでください」杏奈は震える手で封筒を受け取り、見上げたビルの硝子に映る自分の姿を呆然と見つめた。その目に宿るのは、悔恨と惨めさ。彼女はかつて、氷見夫人という称号を手に入れると信じていた。だが、現実は――誇りも愛も、すべて失った孤独な女だけが立っていた。……一方その頃、明里の人生は、まるで別の季節を迎えていた。五年間で彼女の人生は大きく変わった。子育て関連のSNSアカウントはフォロワー二千万を超え、出版した三冊の育児書はいずれもベストセラーに。彼女の暮らしは穏やかで、自由で、そして――充実していた。傍らには、暁臣とその息子・星凪。二人は、彼女の新しい家族のように寄り添っていた。暁臣は彼女の性格を知り尽くしていた。人付き合いが苦手なことも、静かな時間を愛することも。だからこそ、彼は明里の仕事場の隣に庭付きの家を買い与え、不必要な会食はすべて断り、明里には「好きな仕事だけをしてほしい」と告げた。そして星凪はもう怯えがちな少年ではなかった。明るく、伸びやかに成長し、笑顔がよく似合う青年になっていた。その誕生日の日。明里は一週間も前から準備を始め、家じゅうを風船と、星凪の好きなサッカースターのポスターで飾りつけた。手作りのティラミスには、星凪の好きなココアパウダーで笑顔のマーク。キッチンの入り口にもたれて、暁臣が冗談めかして言う。「なんだか、星凪より俺のほうが嫉妬してしまいそうだな」「柏木社長、大人が子どもに嫉妬してどうするの」明里が笑って返すと、暁臣も微笑んだ。やがて、客が次々と到着した。暁臣の友人、明里の同僚、星凪の同級生たち。
明里が寒成の名を再び耳にしたのは、あの別れから五年が経った、ある午後のことだった。育児講座を終えたばかりの彼女は、教室で資料を片づけていた。そのとき、研修生の一人がスマートフォンを眺めながら、何気なく口にした。「氷見グループの社長、氷見寒成が、またニュースになってますよ。取引先との交渉が破談になったとか……家庭のことで気を取られてるらしいです」明里の手が、一瞬だけ止まった。けれど顔を上げずに、淡々と答えた。「仕事に集中して」研修生は舌を出して慌ててスマホをしまった。静寂の中で、ふと心の奥に小さな波紋が広がった。それはもう「想い」ではなく――ただの「余韻」だった。五年という歳月。かつて彼女の世界をすべて占めていた男は、今ではただの「ニュースの一項目」に過ぎなかった。あとになって、友人から寒成の近況を耳にした。どうやら、五年間は決して順調ではなかったらしい。帰国後、寒成は海外の業務をほとんど手放し、家族との時間を優先するようになった。けれど――彼は明里ではなかった。あの繊細さも、忍耐も、慈しむ手つきも、寒成にはなかった。日を追うごとに、子どもたちは反抗的になり、彼との距離は広がっていった。蒼辰は中学生になると、早くも恋にのめり込み、授業を抜け出しては恋人と会い、成績は中位から最下位近くまで落ち込んだ。柚菜はさらに手がつけられなかった。校外の不良グループに混ざり、酒場に出入りし、挙句の果てには喧嘩沙汰で学校に呼び出される始末だった。寒成は必死に手を打った。蒼辰には一流の家庭教師をつけたが、彼はわざと悪ふざけをして教師を追い出した。柚菜を外に出さぬよう鍵をかけた夜もあった。だが、少女は窓から抜け出し、笑いながら夜の街へ消えていった。怒りに任せて手を上げたこともある。そのとき、柚菜は涙を見せず、まっすぐに睨み返した。「パパなんて、ママの足元にも及ばない!ママがいたら、こんなこと絶対しない!」その一言が、胸に突き刺さった。寒成はようやく悟った。自分が失ったのは、妻だけではない。家族という、もう二度と取り戻せない温度そのものだった。やがて氷見家の年長者たちは、そんな彼を見かねて言った。「寒成、そろそろ再婚を考えたらどうだ?家の将来のためにも、子どもた
帰国後、寒成はすべての仕事を辞退し、病院に泊まり込んで二人の子どもの看病に専念した。だが、目を覚ました蒼辰と柚菜は、枕元に座る彼の姿を見るなり、その瞳に浮かんだのは安心ではなく、はっきりとした失望だった。夜。柚菜の高熱が下がらず、寝言のように何度もつぶやいた。「ママの、おかゆ、食べたい……」寒成は慣れない手つきでスマホを操作し、レシピ動画を見ながら必死におかゆを炊いた。何度も味見をして、やっとの思いで完成させ、湯気の立つ器を大事に抱えてベッドへ向かう。「いらないっ!」小さな手が器を払いのけ、熱いおかゆが床に散った。甘い匂いが病室に広がり、静寂を裂くように、子どもの泣き声が響いた。「ママのとは違う!ママのはね、甘いナツメが入ってるの!パパなんて、何も知らないくせに!」寒成は動けなかった。胸の奥を、鈍く重たい痛みが貫いた。――ずっと、明里がいなくても家は回ると思っていた。だが今、ようやく悟った。あの家は、明里がいたからこそ「家」だったのだ。その日を境に、彼は変わった。必死で子どもたちに寄り添おうとした。冷蔵庫の扉には、明里がよく貼っていたようにメモを残した。【柚菜、牛乳を忘れずに】【蒼辰、算数の宿題チェック】だが、柚菜はそのメモを見るなり、目を潤ませて紙をぐしゃぐしゃにし、ゴミ箱に放り込んだ。週末、寒成はひとりで子どもたちを公園に連れ出した。昔、明里がよく買っていたいちご味のわたあめを手渡してみる。だが、二人の顔はどこか沈んでいて、笑顔はどこにもなかった。夜、宿題を見てやると、蒼辰の算数がどうしても進まない。図を描いて三度も説明したが、彼は首をかしげたままだ。思わず、寒成の声に苛立ちが滲んだ。その瞬間、蒼辰がぽつりと呟いた。「ママもね、何回も説明してくれたけど……ママは怒らなかったよ」その一言に、寒成の喉が詰まった。――そうだ。かつては、明里の「ゆっくり」をうっとおしいと思っていた。言葉が多い、細かいと何度も責めた。だが今なら分かる。あの「ゆっくり」の中にあったのは、愛情。あの「言葉」のすべては、気遣いだったのだ。彼は、明里のいない生活を必死に受け入れようとした。子どもたちの好きな食べ物、好きな音楽、寝る前の習慣――
明里はしばらく黙っていた。やがて、静かに口を開く。「だからこそ、なの。可哀そうだと思うから、いつも我慢してきた。でも……何年そうしても、結局は同じ結果だったでしょう?」言い終えると、ためらうことなく電話を切った。その仕草には、もう迷いの影もなかった。……寒成の入院からしばらくして、明里の生活はゆっくりと日常を取り戻した。その日、彼女は暁臣のオフィスを訪れた。以前、彼が寒成のしつこい追及を止めてくれたことへのお礼を言うためだった。柏木はデスクチェアに腰かけ、口元に穏やかな笑みを浮かべた。「お礼を言いたいなら、ひとつ提案があるんだが」「提案?」「星凪はね、お前のことが大好きなんだ」暁臣は少し間を置き、続けた。「もしよければ――星凪のもうひとりの母さんになってくれないか」星凪は暁臣の兄の子だ。数年前、兄夫婦が事故で亡くなり、暁臣が引き取って育ててきた。彼は父親代わりとして、星凪をまっすぐで思いやりのある子に育て上げた。明里ももともと星凪が大好きだった。「もちろん。ぜひそうさせてください」彼女は笑顔で即答した。その夜、暁臣は温かな雰囲気の洋食レストランを予約し、その知らせを星凪に伝えた。星凪は、その言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。母を亡くしてからというもの、彼は母のぬくもりというものをほとんど知らなかった。だからこそ、明里が優しく声をかけてくれたり、服の襟を直してくれたりするたびに、星凪はその時間が少しでも長く続くよう願っていた。「これからは、明里さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」暁臣が星凪の額を軽くつつき、穏やかな声で言った。「うん!」星凪は力強くうなずくと、ランドセルの中から小さな木製の舟を取り出した。両手で大事そうに抱え、明里に差し出す。「これ、僕が作ったんだ。これからの明里さんの人生が、順風満帆でありますように」明里は小舟を受け取り、胸の奥が温かく締めつけられた。氷見家でどれほど子どもたちの世話をしても、彼女は一度も「手作りの贈り物」をもらったことがなかった。なのに――最初に彼女へ贈り物をくれたのは、血のつながりもない「新しい息子」だった。「ありがとう、星凪。とても嬉しいわ」明里は小さな頭を優しく撫で、滅多に見せない穏やかな
明里の瞳孔が瞬時に収縮し、驚きのあまり半歩後ずさった。反応する間もなく、扉の外から背の高い男の影が飛び込んできた。その手が杏奈の手首をがっちりと掴む。「沢渡杏奈、刃物を下ろせ!」寒成の声は、氷のように冷たく張りつめていた。杏奈の目は真っ赤に染まり、必死に腕を振り払おうとする。「嫌よ!この女と二度と関わらないって約束してくれなきゃ、絶対に放さない!」寒成は何も言わず、ただその手に込める力をさらに強めた。杏奈の怒りは、その沈黙が油を注ぐように燃え上がった。次の瞬間――鈍い音とともに、刃先が寒成の腹部に突き刺さった。深灰色のスーツが瞬く間に鮮血に染まり、裾を伝って床へと滴り落ちていく。空気が、その瞬間ぴたりと凍りついた。杏奈はその場に立ち尽くし、顔には信じられないという色が広がる。明里も我を失い、慌てて携帯を取り出し、救急へ電話をかけた。すぐに警備員が駆けつけ、寒成は担架に乗せられて搬送された。そして、刃物を持っていた杏奈は、警察に連行されていった。時間が止まったような静けさの中で、明里は広い応接室にひとり座り込み、長く、深く息を吐いた。どれほどの時間が過ぎただろう。ようやく呼吸が整ったころ、寒成の秘書が蒼辰と柚菜を連れて入ってきた。「奥様……氷見社長が入院されています。お二人はご実母でいらっしゃいますし、少しの間だけでも面倒を見ていただけませんか?」明里は怯えたように立つ二人の子を見つめた。胸の奥が軋んだが、冷たい声で答えた。「分かりました。でも、氷見寒成が退院したら、すぐに引き取ってください。私はもう、彼と関わるつもりはありません」その言葉を聞いた瞬間、蒼辰と柚菜の目に涙が溢れた。あんなに、明里がいなくなればいいと願っていたのに。本当にいなくなると、世界が急に色を失っていった。服も靴下もどこにあるか分からず、宿題を誰も見てくれない。美味しいクッキーも、ケーキももう出てこない。笑顔で迎えてくれた杏奈も、最近は苛立ちを隠さず、時には怒鳴るようになった。「ママ……お願い、帰ってきてよ。もう、悪いことしないからぁ!」柚菜が明里の服の裾を握り、顔をすり寄せる。涙で濡れた頬が震えていた。蒼辰も一歩前に出て、そっと明里のもう一方の手を握った。声を詰
十年前、明邦大学。暁臣と寒成は、当時「明邦大学の双璧」と呼ばれていた。一人は鋭く、頭脳明晰。もう一人は寡黙で冷静、決断力に長けていた。討論会でも研究発表でも、常に互いを意識し合い、火花を散らした。そして社会に出てからも、二人は長く宿命のライバルとして経済界を牽制し合う存在となった。だが数年前、暁臣がA国へ渡って以降、その名前は氷見グループの競合リストから消えた。まさか、再会がこんな形で訪れるとは――寒成自身、夢にも思っていなかった。「俺も驚いたよ、まさかここで再会するとは」暁臣はゆるやかに微笑む。「てっきり、お前は離婚のあと沢渡杏奈と結婚してると思ってたけど」寒成の眉間に深い皺が刻まれた。「離婚は想定外だった。だが、杏奈を妻にするつもりはない。今も、これからも」「ほう?なぜだ?」暁臣は片眉を上げ、探るような目を向けた。「明邦大学の頃は、お前と沢渡杏奈は『お似合いのカップル』って有名だったろ。家族の反対さえなければ、今ごろ、子どもが小学生になってたんじゃないか?」「あれは過去の話だ」寒成の声は冷たく、確信に満ちていた。「明里を選んだ時点で、俺にとって何が大事かははっきりしていた」その言葉に、暁臣は小さく笑いを漏らした。「彼女が大事?なら聞かせてもらおう。明里の好きなコーヒーの味は?」寒成の喉がわずかに動く。「じゃあ、好きな色は?」次々と投げかけられる質問に、寒成は何ひとつ答えられなかった。まるで、あの公開講座で明里から問われた「父親としての質問」を再現するかのように。「相変わらずだな、氷見寒成」暁臣は笑みを消し、低い声で続けた。「いつだって自分の世界だけで完結して、他人の心を覗こうともしない。そんなお前が、愛され続けると思うか?」暁臣は一歩近づき、冷ややかに言葉を落とした。「人の心は石じゃない。いくら我慢強くても、いつかは砕ける。明里はもう、お前に会う気はない。その意思は揺るがない。だから、もし本当に彼女を尊重するなら……もう追うのはやめろ」……寒成は屋敷に戻っても、しばらく呆然としたままだった。そのとき――リビングの扉が勢いよく開き、杏奈が怒りを宿した顔で踏み込んできた。「寒成!一体どういうつもり?」彼女は真っ直ぐに彼を睨みつけ