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第六十五話

Author: 麻木香豆
last update Last Updated: 2025-09-04 09:18:20

 しかしネット社会はあまりにも早かった。藍里の名前も顔も、そしてあの出来事も、瞬く間に拡散されてしまった。

 その波は一夜にして広がり、街の小さな出来事があっという間に全国の匿名の視線にさらされる。

 ニュースサイトの片隅やSNSのタイムラインに、無数の憶測や心ない言葉が流れはじめる頃、清太郎はすぐに異変を察した。彼は慌てて藍里に連絡を入れ、「今日は少し早めに集まろう」と提案したのだった。

 集合場所には、まだ夏の名残を感じさせる強い日差しが差し込んでいる。

 藍里はそんな騒動をよそに、どこか飄々とした顔で現れた。緊張や不安を押し殺しているというより、本当に何もなかったかのような顔だ。

 しかし、その態度の裏に隠れた強がりを、長年の付き合いである路子や清香は敏感に感じ取っていた。

「藍里、大丈夫なの?」

「うん」

 その返事はあまりにも短く、表情にも動揺は見えない。けれど、短い沈黙が周りの胸を締めつけた。

「……オーディションって何の話ですか、時雨さん」

 清太郎の低い声がその場の空気を張り詰めさせた。

 問い詰められた時雨は、躊躇いながらも真実を話そうと口を開く。その途中で――

「藍里っ……!」

 息を切らした声とともに、スーツ姿の女性が駆け込んできた。さくらだ。

「ママ」

 藍里が小さな声で呼ぶ。次の瞬間、さくらは強く彼女を抱きしめた。

「大丈夫よ、ママ……」

「何やってんのよ……これからが大変なんだから」

 震える声に必死で強がりを乗せる。

「もう逃げないよ。私は」

 藍里は短く、でも力のある声で言った。

 時雨が深々と頭を下げる。

「僕が……僕がオーディションを受けようって言ったんです。藍里ちゃんは悪くない。それに……すごく頑張ってた」

 さくらは抱きしめたまま涙をこぼした。母親の嗚咽は、長い時間の緊張と不安が一気にほどけてしまった証のようだった。

「さくらさん、藍里ちゃん……ほんと頑張ったね、今まで」

 そっと近寄ってきた路子が二人に声をかけた。その目には涙が光っている。

「さくらさんも……本当によく守ったね、ここまで。正直ね、あなたが逃げたって聞いた時はショックだった。裏切られた気持ちになった……」

「……!」

 さくらは目を見開いた。その顔に張り詰めたものが走る。

「でも……今はわかるよ。あなたは逃げたんじゃない。必死に戦ってたんだね。ここまで守り抜
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  • 恋の味ってどんなの?   第六十八話

    「さくらさん、最近どうかな」 「……まぁ、ぼちぼちだよ。まだ気にしてくれてるんだね」 賄いを食べながら時雨に聞かれると、藍里は少し笑った。 「そりゃ、一度は好きになった人だもん。それに……こんなこと言うのもあれだけど、情は残ってるよ。俺は」 その言葉に藍里は、母の元カレたちのことを思い出す。 お金や愛はなくても情だけは残っていて、母を助けてくれる――そんな話を思い出すと、さくらという女性がますます謎めいて見えた。自分の知らないところで、母は自分の知らない顔を持っているのだろう。 羨ましい気持ちもあったが、同時に「そうでもないのかもしれない」とも思った。 「清太郎くんのところ、また行くの?」 「うん」 「月2回の高速バスで遠距離恋愛かぁ。青春だねぇ」 「そうかな。今はネットですぐ話せちゃうしさ」 「便利になったもんだ」 「だから会うのは月2回に減らしたんだ」 「えええっ? ネットと生身は違うだろうに……」 「だよね」 二人で笑い合う。いつもと変わらない、ささやかな日常。 食器を片付けながら、時雨が少し声を落とした。 「……俺さ、今度お見合いの話があるんだ」 「お見合い?」 「そう。もう年齢も年齢だしね。地元の子で、三十歳くらいの女性」 「へぇ……」 藍里は思わず振り返った。 「写真見せてもらったら、すごく聡明そうで綺麗な人だったよ」 「……地元ってことは、仕事は?」 「その人の実家が喫茶店でね。そこの調理担当の人が若い人に代わってほしいって話で……」 「じゃあ、条件が良ければ地元に帰っちゃうんだ」 「……」 時雨は何も言わない。 沈黙の中、鳩時計が鳴り響いた。 「藍里ちゃん、そろそろ時間だ。今から出ないとバス間に合わないよ」 「あ、うん」 無理に明るく振る舞い、時雨は藍里の荷物を手渡した。 「……時雨くん、もう私たち親子のことは気にしなくていいんだよ。時雨くんも35歳でしょ。自分の人生を歩んでほしい」 藍里は時雨の右手をそっと握り、すぐに離した。 その手をもう一度握り返そうとした時雨だったが、藍里の表情に「もういい」という意志を感じ取り、力を抜いた。 「……うん、わかった」

  • 恋の味ってどんなの?   第六十七話

     それからというものの――。 もちろん、藍里はあのオーディションに合格しなかった。 しかし、会場でたまたま彼女の演技を目にしたという別の芸能事務所のスタッフから「一度、うちに来てみないか」と連絡があった。 突然の誘いに、藍里はしばらく悩み続けた。 自分の進路はずっと決められずにいたし、あの日の出来事はどう考えても「運命のような偶然」だった。 ――もしかしたらこれが人生を変えるチャンスなのかもしれない。 けれど同時に、ただ流れに身を任せるだけで本当に後悔しないのかという不安もあった。 何度も胸の中で問い直し、最終的に今回は丁寧にお断りすることにした。 あのオーディションは地方開催だったこともあり、さくらや学校関係者、さらには綾人側も「騒ぎにはしたくない」という意向だったようだ。 拡散されかけた写真や動画の大半は削除され、騒動は水面下でひっそりと終息していった。 娘役には綾人と同じ事務所の若手女優が選ばれ、撮影も順調に進んでいるらしい。近々、その映画も公開されると聞いた。 ――日常は、何事もなかったかのように元の形へ戻っていった。 けれど、さくらの心の中には小さな不安が残ったままだった。 あの日はあんなにも毅然として見えたのに、月の周期が来るたび情緒が乱れ、仕事も以前より家にいる時間が増えた。温和だった時雨とも小さな口論が絶えなくなり、結局、二人は一ヶ月後に静かに別れることになった。 それでも時雨は、以前と変わらず弁当屋で働いている。 藍里にとって彼はもう母の恋人ではなかったが、不思議と気まずさはなかった。昔抱いていた恋心も、もう遠い記憶になっていた。ただ、彼が今でもさりげなく自分を見守ってくれているのは、なんとなくわかっていた。 ――そして、時雨は藍里の未来にも確かに影響を与えていた。 彼の作る料理は、ただ美味しいだけではない。 疲れた心をほっとさせる力があった。厨房で一緒に仕込みを手伝いながら、包丁の持ち方や段取りを教わっていくうちに、藍里はもっと深く料理を学びたいと思うようになった。 迷いはなかった。 時雨が卒業した調理の専門学校に、自分も進むと決めたのだ。 ――春から始まった専門学校生活。新しい教科書、慣れない実習室の匂い。 それでも藍里は、弁当屋のバイトを辞めなかった。 昼のピークを過ぎると、厨房には一瞬の静けさ

  • 恋の味ってどんなの?   第六十六話

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  • 恋の味ってどんなの?   第六十三話

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