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恋も夜も、終わりにして
恋も夜も、終わりにして
Author: ごはんまん

第1話

Author: ごはんまん
結婚して五年目。藤崎結衣(ふじさき ゆい)は、夫が買ってきたビタミンCがあまりにも苦いと文句を言いながら、その薬の瓶を持って桜丘総合病院へ向かった。

医師は瓶をしばらく眺めてから言った。「これはビタミンCじゃありませんよ」

「先生、もう一度言っていただけますか?」

「何度言っても同じですよ」医師は瓶を指さした。「これ、中身はミフェプリストンです。これを飲み続けると、不妊になるだけじゃなく、体にも大きな害があります」

喉に何かが詰まったようで、結衣は瓶を握る手に思わず力が入り、指先が白くなっていた。

「そんなはずありません。これ、私の夫が用意してくれたものなんです。私の夫は藤崎風真(ふじさき かざま)です。この病院の医師です」

医師は一瞬、何とも言えない表情を見せてから、苦笑した。

「あなた、一度精神科にかかったほうがいいですよ。藤崎先生の奥さんなら、皆知っています。ついこの前、赤ちゃんが生まれたばかりです。あまり思い詰めないでください、世の中には叶わないこともあるんです」

そう言って、医師はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。

写真には、白衣姿の風真が赤ん坊を抱き、その隣にはやさしく微笑む女性が写っていた。

それは、風真がよく「妹のような存在」だと言っていた桐谷玲奈(きりたに れいな)だった。

頭の中が一瞬、真っ白になった。

医師は、あの写真の女性が風真の奥さんであり、赤ん坊がその子どもだと言うのだ。

息が詰まるほど苦しくなり、結衣はよろめきながらエレベーターへと駆け込んだ。十五階に行って、風真に会って、真相を問いたださなければ。

エレベーターの扉が閉まったと同時に、ふたりの聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

今日はしっかりと厚手のコートに身を包み、帽子を深くかぶっていたからか、相手は結衣に気づかず、遠慮もなく会話を続けている。

「風真、本当に結衣さんにバレるの、怖くないのか?最初から玲奈と結婚していれば、子どもをこそこそ隠す必要もなかったのに」

声の主は宮野慎吾(みやの しんご)だった。

風真の声が冷たく響く。「心配いらない。宮野、余計なことは言うな。結衣に何を話していいか、ちゃんとわかってるだろう」

「俺には本当にわからないですよ」宮野は皮肉めいて笑う。「玲奈は五歳のときからお前の家で家族同然に育ったのに、大人になったら結衣さんに夢中になって。

結衣さんのために玲奈を遠ざけたと思ったら、今度はまた手を尽くして彼女を呼び戻して……風真、一体誰を愛しているんだ?」

風真はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。「俺は結衣を愛してる。だけど玲奈を完全に切り捨てることもできない。玲奈が海外で辛い思いをしていたと思うと、どうしても気持ちが乱れるんだ。

籍は結衣に与えた。子どもは玲奈に。せめて玲奈には頼れるものを残してやりたいんだ」

宮野がため息をつき、「でも、もし結衣さんと子どもができたら、そのときはどうする?玲奈は俺の従姉妹でもあるんだ」

そのとき、エレベーターの到着を知らせる「チン」という音が鳴った。

扉が開く音と重なるように、風真の低い声が聞こえた。「そんなことは、あり得ない」

宮野はその言葉の意味がすぐにはわからず、少し首を傾げてからエレベーターを降りていった。

だが、結衣にははっきりと分かった。

「子どもはできない」

彼は、結衣に「不妊薬」を飲ませ続けていた。玲奈のために、妻である結衣が母親になる可能性を、最初から排除していたのだ。

エレベーターは人であふれ、蒸し暑ささえ感じたが、結衣の身体は氷の中に閉じ込められたように冷え切っていた。

一階に着いたとき、溺れていた人間がやっと水面に顔を出して息を吸うように、結衣は激しく咳き込んだ。

ポケットの中のスマートフォンが震える。画面には風真からのメッセージが表示されていた。

【結衣、明日のレースで会おう。お守り、ちゃんと持ってきてね】

そのメッセージを見た瞬間、結衣の心に溜まっていた感情が一気に溢れ、涙がとめどなく流れ出した。

どれだけ忙しくても、結婚してからのすべてのレースに、風真は必ず駆けつけてくれた。どんなに夜遅くても、どんなに疲れていても、ゴールで結衣を待っていてくれた。

その日は、あらかじめ予約していたレストランで彼女を迎え、花束を手渡してくれた。毎年、必ず。

彼の友人たちは冗談めかして言っていた。「結衣は風真が命を賭けて手に入れた特別な存在だ」

彼女を森国に呼び戻すため、海外チームと争い、何度も危険な目にあった。

彼女を繋ぎとめるために、一流のコーチを揃え、結衣専用のレーシングクラブまで作った。

結婚後も、寝言で「お母さんに会いたい」とつぶやいただけで、風真はすぐに夜中から動き出し、朝が来る前には母の遺品を手配してくれた。

そんな風真が、裏で別の家庭を築いていたなんて。

結衣はふと、すべてを悟った。

なぜ玲奈が自分より藤崎家のことを知っていたのか。なぜ海外暮らしのはずなのに、全員のあだ名まで知っていたのか。なぜ「妹のような存在」なのに、手術のスケジュールまで動かして、堂々と一緒にレースに参加していたのか。

「妹のような存在」なんかじゃなかった。子どものころから決められていた、正真正銘の許嫁だったのだ。

さっきまでは「もし玲奈が間に割り込んできたら絶対に許さない」と思っていた。

でも今になって分かった。本当に割り込んだのは自分のほうで、身を引くべきなのは自分だった。

足元から這い上がってくるような冷たい絶望に、結衣の四肢は痺れるように麻痺していく。

人は崩れるとき、きっと大声で泣き叫ぶのだと思っていた。だけど、本当に絶望したときは、声さえ出ない。

止めどなくあふれる涙と、どん底まで沈むような心の痛みだけが、「自分はもう限界だ」と教えてくれる。

胸の奥を大きな手で鷲掴みにされ、心臓の最後の一滴の血まで絞り取られるような感覚だった。

スマートフォンが再び震える。画面には玲奈からの家族写真と、冷ややかな一文が添えられていた。

【結衣さん、いい加減に自分の居場所じゃないって分かったらどう?あなたが自分から出て行くかと思ってたのに、本当に図太い女だね。風真さんが「子どもは自分に似ている」って。どう思う?】

結衣は一瞥してすぐ画面を閉じた。

「欲しいなら、あげる」

けれど、結衣は風真の性格をよく知っていた。一度手に入れたものは、たとえ興味をなくしても、簡単には手放さない人なのだ。

指先が電話帳の番号の上でしばらく止まり、ようやく思い出しかけていた番号を押す。

電話がつながった瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。

「……遥斗(はると)、あのときの賭け、まだ有効?」
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