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恩讐の彼方
恩讐の彼方
Author: ちょうどよかった

第1話

Author: ちょうどよかった
桜木南(さくらぎ みなみ)は、特区の官舍で誰もが知る「棘のある薔薇」だった。

財閥令嬢の出身で、海外留学経験があり流暢な外国語を話し、さらにダンスカンパニーのトップスター。彼女を追う男性は数え切れないほどだった。

しかし彼女は、親同士の命の恩義から、スラム街出身で無骨な警備隊長・北村剛(きたむら ごう)と結婚することになった。

人々は皆、「美しい花が泥沼に捨てられたようなものだ」と噂した。

だが南だけは知っていた。自分が剛に惹かれたのは、最初は顔だったかもしれないが、最後はその誠実な人柄に忠誠を誓ったからだと。

初めての出会い、剛は彼女を下品な冗談のネタにする部下たちを一喝した。

二度目の出会い、南は普段笑わない彼が裏庭でこっそり野良猫の親子を世話しているのを見た。

三度目の出会い、剛は命懸けで暴漢から彼女を救い、片腕が骨折した。

その時から、南は自分が彼に堕ちたことを悟った。

必死のアプローチの末、彼女はようやく念願叶って剛と結婚した。

愛のある結婚だと思っていた。しかし結婚して七年、彼女はようやく気づいた。剛は一台の機械のようだった。

夜の営みさえも毎月決まった時間、決まった場所、決まった体位で。

妊娠しても、彼の計画にないからという理由で流産させられた。

剛はミスを許さない精密機器のように、すべての物事を規定通りに進めなければ気が済まない男だった。

彼女は、剛が取り乱す姿など想像すらできなかった。

あの日、行為の最中に彼が一本の電話を取るまでは。

山が崩れても顔色一つ変えないはずの男が、初めて慌てふためく表情を見せたのだ。

南の上にのしかかっていた重みが不意に消え、反応する間もなく、剛はベッドから降りていた。

彼女は慌てて彼の腕を掴み、拒絶を許さない強い口調で言った。

「せっかくの日なのに、終わらせてから行ってよ。お義母さんも昨日電話してきて、早く孫の顔が見たいって言ってたじゃない」

剛は彼女の手を乱暴に振り払い、椅子にかけてあった制服を掴んで身に纏った。

「緊急招集だ。わがままを言うな」

南は裸足のまま彼を追いかけ、鍛え上げられた腰に後ろから抱きつき、背中に頬を押し付けた。

「一回だけ、たった二十分でいいの。北村隊長はそれくらいの時間も作れないの?」

剛は彼女の指を一本ずつ引き剥がし、その眼差しは刃のように鋭かった。

「ふざけるな!南、自分の立場をわきまえろ。隊長の妻としての自覚はないのか?」

彼女はふっと笑い、彼の耳元に唇を寄せ、甘い吐息を吹きかけた。

「私の立場?私はあなたの妻よ。今すぐ夫としての義務を果たしてほしいの」

彼女は剛の襟を掴み、背伸びをして口づけを送り、指先を彼の腹筋に這わせた。

「剛、抱いて。今すぐに」

彼は顔を背けて避け、彼女の不埒な手首を掴み上げると、氷のような声で言った。

「南、恥を知れ。そんなに飢えているのか?」

その言葉は平手打ちのように彼女の顔を打ち据え、南が長年抑え込んできた感情がついに決壊した。

「七年も子供ができない私が、どれだけの重圧に耐えてきたと思ってるの?私のプライドなんて、とっくにあなたのせいでズタズタよ!

外じゃ私のこと、石女だとか、北村家の跡取りを絶やす罪人だとか言いたい放題なのよ!」

南は机の上の鋏を掴んで自分の首に突きつけ、激情で声を震わせた。

「月に一度の営みの日なのに、あなたはたった二十分すら私に割こうとしない。今日出て行ったら、死んでやる!」

剛はボタンを留める手を一瞬止めたが、その瞳はさらに冷え切っていた。

「勝手にしろ」

そう言い捨て、彼は振り返りもせずに部屋を出て行った。ドアが叩きつけられる轟音が、彼女の鼓膜を震わせた。

「北村剛、戻ってきて!」

鋏が床に落ちて鈍い音を立て、南は狂ったように電気スタンドをドアに向かって投げつけた。

ガラスの砕ける音が静まり返った夜に鋭く響いたが、彼の足音はすでに遠ざかっていた。

彼女は散乱した残骸の中にへたり込み、乱れたネグリジェを身に纏ったまま、先ほどの情事の余韻が冷めやらぬ体で震えていた。

七年目にして初めてプライドを捨てて懇願したのに、それでも彼を引き留めることはできなかった。

南は取り憑かれたように立ち上がり、適当な服を羽織って車の鍵を掴むと、後を追った。

一体どんな任務なら、夫婦の営みまで秒単位で管理するあの男に規則を破らせることができるのか、突き止めずにはいられなかった。

黒塗りの公用車が官舎の入り口で急停車する。南は息を殺してその光景を見つめた。

街灯の下、一人の儚げな女性が子供を抱いて不安そうに辺りを見回していた。

地味な木綿のワンピースを着た華奢な体が、夜風に吹かれて震えている。

剛は素早く車を降りると、自分のジャケットを脱いで女性の肩にかけた。その動作は優しく、慣れたものだった。

女性は涙目で、小さくすすり泣いていた。

「剛さん、翔太の熱が高くて、私どうしていいか分からなくて」

剛は自然な動作で子供を受け取り、大きな掌でしっかりと支えると、もう片方の手で女性の肩を抱いた。

「大丈夫だ、俺がいる」

その声は、南が一度も聞いたことのない優しさを含んでいた。

さらに南の胸を締め付けたのは、彼が額を子供の額に当てて熱を測る姿だった。まるで本当の父親のような親密さだった。

南は先月のことを思い出した――四十度の高熱を出した自分が、病院へ連れて行ってほしいと剛に懇願した時のことを。

彼は冷たい顔で彼女の手を振り払い、書斎へと戻っていった。

「その程度の病気で大袈裟な。隊長の妻として恥ずかしい」

無理をして外出した彼女は道端で倒れ、親切な隣人が救急車を呼んでくれたのだった。

南は血の味がするほど唇を噛み締め、ようやく我に返った。

彼女は亡霊のように後をつけ、病院の救急外来の曲がり角に身を隠した。

剛が自分の地位を利用し、院長に直接連絡を取り、子供のために優先的に診察を受けさせる様子を見ていた。

医師でさえ諌めるほどだった。「北村隊長、落ち着いてください。ただの発熱ですから大丈夫です」

その時、二人の看護師が医療カートを押しながら通り過ぎ、小声で話すのが聞こえた。

「北村隊長、水島恵美(みずしま えみ)親子のことになると必死よね。前も彼女が捻挫した時、お姫様抱っこで連れてきたし。知らない人が見たら親子三人だと思うわ」

「特権を使うのを一番嫌う人じゃなかったの?たかが発熱でこんな大騒ぎして」

「それだけじゃないわよ。あの子が星が好きだからって、プラネタリウムを貸し切りにしたこともあるんだから」

南は全身が冷え切り、手足の感覚がなくなり、心臓を生きたままえぐり取られたような痛みに襲われた。

これが、剛の言っていた「上から世話を頼まれた殉職した仲間の未亡人」なのか。

ここ数年、上から支給されたばかりの栄養補助食品がすぐに水島家へ運ばれ、毎月の手当の半分が水島恵美の懐に入り、彼が命より大切にしている勲章さえあの水島翔太(みずしま しょうた)のおもちゃになっていた。

ただの任務だと思っていた。今夜、彼が本当に誰かを大切にする時の姿を目の当たりにするまでは。

南が中絶手術を受けた時、医師から家族の付き添いを求められ、彼女は迷った末に彼に電話した。

繋がった電話口の彼は不機嫌そうだった。

「そんな些細なことで俺に休暇を取れと?自分でなんとかしろ」

結局、彼女は一人で手術台に横たわり、隣の分娩室から聞こえる産声を聴きながら、枕を涙で濡らしたのだ。

それなのに今、剛は甲斐甲斐しく世話を焼き、子供が咳をするたびに緊張した面持ちで覗き込んでいる。

額には汗が滲み、シャツのボタンは開いたままで、あれほど気にしていた身だしなみさえ構っていない。

自分の前では常に冷静沈着な男が、これほど取り乱している姿を見て、南はふいに低く笑い声を漏らした。

彼は優しくなれないわけでも、例外を作れないわけでもなかった。ただ、その対象が自分ではなかっただけだ。

魂が抜けたように病院を出て、夜風を浴びると頬が冷たいことに気づいた。拭うと、顔中が涙で濡れていた。

南は涙を拭き、電話ボックスに入ると、北村家の番号を回した。

電話に出たのは義母、北村恵子(きたむら けいこ)で、いつものようによそよそしい声だった。

「こんな時間に何の用?」

「お義母さん」

南の声は不気味なほど落ち着いていた。

「私、剛と離婚します」
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