感情を取り戻す術式

翌朝、総一は桜井美月に電話をかけた。

「もしもし、桜井さん？ 昨日の件なんですが……」

「はい！ 何か分かったことがあるんですか？」

「感情を戻す方法があるかもしれません。ただし、あなたの協力が必要になります」

電話の向こうで、美月の息を呑む音が聞こえた。

「私の……協力？」

「はい。詳しくは直接説明したいので、放課後、真理さんのお見舞いがてら病院で会えませんか？」

「分かりました！ 絶対に行きます！」

電話を切ると、リリムが心配そうに見ている。

「本当に大丈夫なの？ 感情共有術なんて、わたしもやったことないわよ」

「でも、他に方法はないだろ」

「そうだけど……リスクが大きすぎる」

総一は制服のボタンを留めながら答える。

「リスクがあっても、やらなきゃいけないことってあるんじゃないか」

「……そうね」

リリムも制服に着替え始める。

「でも絶対に無理はしないで。何かあったら、すぐに術式を中断するから」

「分かった」

二人で学校に向かう道中、カイが合流してきた。

「よう。今日も事件の続きか？」

「ああ。お前も手伝ってくれるか？」

「もちろん。俺も気になってるしな、あの仮面野郎のこと」

学校では、山田真理の件がちょっとした話題になっていた。

「原因不明の感情麻痺だって」

「怖いよね、急にそんなことになるなんて」

「ストレス社会の弊害かな」

クラスメイトたちは様々な憶測を語り合っているが、誰も真実を知らない。知っているのは、総一たちだけだった。

「やっぱり隠蔽されてるのね」

リリムが小声で言う。

「当然だろう。本当のことを知ったら、みんなパニックになる」

「でも、このままじゃ被害者は増える一方よ」

「だからこそ、俺たちが何とかしないといけない」

放課後、三人は病院に向かった。美月は既に病室で待っていた。

山田真理は相変わらず無表情で、ベッドに横たわっている。生きているが、まるで魂が抜けたような状態だった。

「真理ちゃん……」

美月の目に涙が浮かぶ。

「美月さん、説明しますね」

セラフィーネが病室に現れる。

「感情共有術について、詳しく教えてください」

「簡単に言うと、あなたの感情を真理さんに分け与える術式です」

セラフィーネは手に光る魔法陣を浮かべながら説明する。

「あなたと真理さんの間に魔術的なリンクを張り、感情エネルギーを共有します」

「危険はないんですか？」

「ゼロとは言えません。最悪の場合、あなたの感情も希薄になる可能性があります」

美月の顔が青ざめる。

「でも、真理さんを救える可能性が高いのも事実です」

「……やります」

美月は迷わず答えた。

「真理ちゃんのためなら、何でもします」

「分かりました。では準備を始めましょう」

セラフィーネが病室に結界を張る。外からは見えないよう、光学迷彩も展開した。

「美月さん、真理さんの手を握ってください」

美月は震える手で、真理の手を握る。

「リリム、補助をお願いします」

「分かったわ」

リリムも魔法陣を展開し、セラフィーネの術式をサポートする。

「総一、何かあったらすぐに止めて」

「ああ」

準備が整うと、セラフィーネが呪文を唱え始めた。古い天使語で紡がれる、神聖な響きの言葉。

病室に柔らかい光が満ち、美月と真理を包み込む。

「感情共有術、発動」

その瞬間、美月の体がビクンと震えた。

「うあっ……！」

「美月さん！」

「大丈夫です……続けて……」

美月の目から涙が流れ始める。同時に、真理の表情にもわずかな変化が現れた。

「効果が出てる……」

リリムが呟く。

美月の中にある真理への想い、友情、心配、愛情……それらすべてが魔術的に真理に流れ込んでいく。

真理の頬に、一筋の涙が流れた。

「真理ちゃん……」

美月も泣いている。

二人の感情が共鳴し、失われていた真理の心に小さな灯りが宿る。

「私……美月ちゃん？」

真理が小さな声で呟いた。

「真理ちゃん！ 気がついた？」

「なんで……泣いてるの？」

「心配してたのよ！ すごく心配してた！」

「心配……」

真理は自分の頬に触れる。

「私、泣いてる……なんで？」

「きっと嬉しいからよ」

「嬉しい……そうか、これが嬉しいって感情なんだね」

真理の表情に、少しずつ感情が戻ってくる。まだ完全ではないが、確実に回復している。

「成功ね」

セラフィーネが安堵の息をつく。

「でも、まだ完全じゃない。時間をかけて、少しずつ感情を取り戻していく必要があります」

「どのくらいかかりますか？」

「個人差がありますが、数週間から数ヶ月……」

「そんなに……」

美月の顔が曇る。

「でも希望はあります。今回の術式で、感情の核は復活しました。後は自然治癒力に任せれば大丈夫です」

「本当ですか？」

「ええ。真理さんの心は強い人です。きっと元通りになります」

真理がゆっくりと起き上がる。

「美月ちゃん、ありがとう。なんだか分からないけど、とても温かい気持ちがする」

「良かった……本当に良かった……」

美月は泣きながら真理を抱きしめた。

病室を出ると、総一は安堵のため息をついた。

「とりあえず、一件落着か」

「そうね。でも根本的な解決にはなってない」

リリムが厳しい表情で言う。

「クロウがまだいる限り、また同じような被害者が出るわ」

「あいつを止めないといけないな」

その時、病院の廊下に黒い影が現れた。クロウだった。

「感動的な光景だったよ」

「お前……」

「心配するな。今日は戦いに来たのではない」

クロウはゆっくりと歩いてくる。

「感情共有術か。天界の秘術をよく知っているな、セラフィーネ」

「あなたこそ、よく侵入できましたね。この病院には結界が張ってあるはずですが」

「結界程度、我々には意味がない」

クロウが仮面を外す。

「君たちに警告しに来たのだ」

「警告？」

「私の目的は、契約システムの完全な破壊。そのためには、より多くの人間に契約の真実を知らしめる必要がある」

「真実って何よ」

リリムが前に出る。

「契約とは詐欺だということ。希望を与えるふりをして、実際は絶望しか残さないということ」

「それは違う！ 契約には確かに意味がある！」

「意味？ ではなぜ君は契約違反をしたのだ？」

リリムの表情が曇る。

「それは……」

「答えられないのだろう？ なぜなら、君も契約システムの矛盾に気づいているからだ」

「黙れ！」

総一が叫ぶ。

「リリムの契約違反には、ちゃんとした理由があったはずだ」

「理由？ 聞かせてもらおうか」

クロウが興味深そうに総一を見る。

総一はリリムを見つめる。彼女は俯いたまま、何も言わない。

「リリム……」

「……言えない」

小さな声で呟く。

「まだ、言えないの」

クロウが薄く笑う。

「そら見ろ。契約者である君にすら真実を語れない。これが契約の実態だ」

「そんなことない！ リリムには言えない事情があるんだ！」

「事情？ それとも、言えば君が彼女を嫌いになるからか？」

総一の言葉に詰まる。

「図星のようだな。彼女は君を騙している」

「騙してない！」

リリムが顔を上げる。

「わたしは総一を騙したりしてない！」

「では真実を話せ。なぜ契約違反をした？」

「それは……」

リリムは再び俯く。

クロウはため息をつく。

「やはり話せないか。では私が教えよう」

「やめて……」

リリムの声が震える。

夕日が病院の窓を照らし、廊下に長い影を作っている。真実が明かされようとする瞬間、時間がゆっくりと流れていた。クロウの口から語られる言葉は、きっと今までの関係を大きく変えてしまうだろう。

でも総一は覚悟を決めていた。どんな真実であろうと、リリムを信じ続ける。それが自分にできる、唯一で最大の愛の証明なのだから。