仮面の男クロウ

帰り道、リリムが総一の袖を引いた。

「ねえ、さっきの力……」

「ああ、あの黒い炎のことか？」

「あれ、普通の契約魔力じゃない。もっと深い、根源的な力よ」

「根源的って？」

「人間の持つ『原初の感情』から生まれる力。愛とか、怒りとか、そういう根本的な感情エネルギー」

「よく分からないな」

「つまり、あんたの中にある『大切な人を守りたい』っていう気持ちが、直接的に力になったのよ」

総一は立ち止まる。

「大切な人って……」

リリムは頬を赤らめながら俯く。

「わ、わたしのことじゃないわよ！ きっと他に大切な人がいるんでしょ！」

「いや、たぶんお前のことだと思うけど」

「え？」

「だって、お前が消えるって想像したら、すごく怖くなったから」

リリムの顔がさらに赤くなる。

「そ、そんなこと言わないでよ……恥ずかしい」

「事実だから仕方ないだろ」

二人のやり取りを見ていたカイが呟く。

「お前ら、もう付き合えよ」

「付き合うって！」

「だってどう見ても恋人同士じゃん」

総一とリリムは同時に赤面した。

「違うわよ！ わたしたちは契約関係で……」

「契約関係以上の関係だろ、どう見ても」

「そ、そんなことないもん！」

リリムは恥ずかしそうに総一の後ろに隠れる。

総一も恥ずかしそうに頬を掻く。

「まあ……そういう話は後にしよう」

「そうね。今は真理ちゃんのことを考えましょう」

でも、二人の間には確かに特別な絆があった。それは契約を超えた、もっと深いつながり。

家に帰ると、ヴェルダが待っていた。

「お帰りなさい。今日の事件、聞きました」

「もう知ってるのか」

「天界と地獄の情報網は侮れませんからね。感情剥奪型の契約……厄介ですね」

「元に戻す方法はないのか？」

ヴェルダは少し考える。

「理論上は可能です。でも、非常に高度な魔術が必要になります」

「どんな？」

「『感情復元術』。失った感情を、記憶から再構築する術式です」

「それって、リリムにできるのか？」

リリムは首を振る。

「わたしのレベルじゃ無理。少なくともA級悪魔か、上位天使じゃないと」

「上位天使……セラフィーネか？」

「彼女なら可能かもしれません」

ヴェルダが頷く。

「でも、天界の規則上、人間の感情に直接介入するのは禁止されています」

「じゃあ、どうすれば……」

その時、窓の外から光が差し込んだ。セラフィーネが現れる。

「呼ばれた気がしたのだけれど」

「セラフィーネ！」

「事情は把握しているわ。感情剥奪の被害者がいるのでしょう？」

「助けてくれるのか？」

セラフィーネは少し迷うような表情を見せる。

「規則上は難しいけれど……方法がないわけではない」

「どんな方法？」

「『感情の共有』よ」

「共有？」

「被害者と深いつながりのある人の感情を、魔術的に共有させる。そうすれば、少しずつ感情を取り戻せるかもしれない」

「深いつながりのある人……美月ちゃんか」

「そう。でも、リスクもある」

「リスク？」

「感情を共有するということは、お互いの心の奥底まで見えてしまうということ。隠していた感情や記憶も、すべて共有される」

重い沈黙が部屋を包む。

「でも、やってみる価値はあるわね」

リリムが言う。

「明日、美月ちゃんに相談してみましょう」

「そうだな」

その夜、総一は一人で外を歩いていた。考えをまとめたかったのだ。

最近、立て続けに起こる契約事件。そして、仮面の男の存在。すべて偶然とは思えない。何か大きな目的があるはずだ。

「悩んでいるようだね」

声に振り返ると、仮面の男が立っていた。

「お前……」

「心配するな。今夜は戦いに来たのではない」

「じゃあ何の用だ」

男は街灯の下で、ゆっくりと仮面を外した。

現れたのは、意外にも若い男性の顔だった。整った顔立ちだが、その目には深い虚無感が宿っている。

「私の名前は、クロウ。かつては君と同じ、契約者だった」

「契約者だった？」

「そう。私も昔は、悪魔と契約を結んでいた。愛する人を救うために」

クロウの表情が曇る。

「でも、契約では救えなかった。それどころか、彼女を失ってしまった」

「それで契約を憎むようになったのか」

「憎む？ いや、違う。私は契約の本質を理解したのだ」

「本質？」

「契約とは、人間の弱さにつけ込む詐欺だということを。希望を与えるふりをして、実際は絶望しか残さない」

クロウが一歩近づく。

「君もそのうち分かる。その悪魔は、必ず君を裏切る」

「リリムは違う」

「皆そう思うのだ。でも結局は、契約の代償として大切なものを失う」

「俺は絶対にリリムを信じる」

クロウは苦笑する。

「そう言っていた人間を、私は数え切れないほど見てきた。皆、最後は後悔する」

「俺は後悔しない」

「なぜそう言い切れる？」

総一は迷わず答える。

「リリムは俺のことを想ってくれてるから。それに、俺もリリムを……」

言葉に詰まる。自分の気持ちを言葉にするのは、まだ恥ずかしかった。

クロウは興味深そうに総一を見る。

「愛している、と言いたいのか？」

「それは……」

「愛か。私も昔はそう思っていた」

クロウは再び仮面を着ける。

「だが愛もまた、契約の罠だ。君はやがて理解するだろう」

そう言って、クロウは影に消えた。

総一は一人残され、夜空を見上げる。星が綺麗に輝いている。リリムと初めて出会った夜も、こんな星空だったかもしれない。

家に帰ると、リリムが心配そうに待っていた。

「どこに行ってたのよ。心配したじゃない」

「ちょっと散歩してただけだ」

「嘘。何かあったでしょ？」

総一はクロウとの出会いを話すべきか迷ったが、結局黙っておくことにした。リリムを不安にさせたくなかった。

「本当に何でもないよ」

「……そう」

リリムは納得していない様子だったが、それ以上追求しなかった。

深夜の静寂の中、二人はそれぞれの想いを胸に眠りについた。クロウの言葉が心に引っかかりながらも、総一は信じることを選んだ。リリムへの想いが、すべての不安を押し流していく。

明日もまた、新しい戦いが待っているだろう。しかし今夜は、穏やかな時間が二人を包んでいた。