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第3話

Author: 流星群を抜け出したら
新居に戻った俺は、ただ淡々と荷造りを始めた。

この部屋は、永梨と一緒に選んだ大切な場所だった。

仕事から帰れば玄関の明かりが灯っていて、キッチンには温かい手料理が用意されている。ベランダで俺の好きな椿を育てよう――そう彼女は語り、俺はそれを想像するだけで胸が温かくなった。

だが今になって見渡せば、この家の至る所に、洋司の痕跡が残されている。

冷蔵庫には、彼の好きな白桃の炭酸水がぎっしり詰まっている。

ソファには、彼が置いていった上着。

クローゼットに掛けられた、洋司が受付を務めるためのスーツは、あろうことか、新郎である俺の衣装よりも明らかに凝ったデザインだった。

ウォークインクローゼットの中でその2着を見比べると、胸の奥に言葉にならない苦みが広がっていく。

なるほど、そういうことか。

式はまだ始まってもいないというのに、永梨の心の中で俺が占めるべき場所は、すでに洋司によって塗りつぶされていたのだ。

涙は出なかった。

俺はただ黙々と、身分証とパスポート、着慣れた数着の服をスーツケースに押し込んでいく。

荷造りの最中、玄関の鍵が回る音が響いた。

永梨が帰ってきた。

手にはジュエリーブランドの小さな紙袋。その口調には、どこか俺の機嫌を取ろうとする響きが混じっていた。

「ねえ、もう怒らないでよ。

お店の前を通ったらこのカフスが目に入って。前に黒曜石が好きって言ってたの、覚えてたから」

永梨が開けた箱の中には、黒曜石のカフスボタンが1組収まっていた。

確かに、俺は黒曜石が好きだ。

以前ショーウィンドウの前で足を止め、値段を見て、結局買うのを諦めたことがある。

その時、永梨は俺の手を握って、笑いながらこう言った。

「結婚したら、もっといいの買ってあげる」

そして今、彼女は本当に買ってきた。だが、買ってきたのはカフスボタンだった。

そもそも俺は、カフスが必要なフレンチカフスのシャツなど、ただの一度も着たことがない。

それを好んで着るのは、洋司の方だ。

永梨がそっと俺を抱きしめてくる。

「さっきのことは、もう水に流してくれない?」

俺が沈黙したままカフスボタンを見下ろしていると、ジュエリーブランドの紙袋からひらりと1枚のレシートが滑り落ちた。

印字された金額に、思わず目を疑う。

ネクタイ1本の値段が、このカフスの10倍以上もするのだ。

そのハイブランドには見覚えがある。

つい30分前、洋司がSNSに投稿していた写真に写っていたものと同じだ。

写真の中で、彼はそのネクタイを締めて屈託なく笑っていた。

添えられたコメントは【誰かさんからのプレゼント。来週は、誰よりもかっこいい受付係になります】

レシートを見つめる俺の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。

それを見た永梨の、辛抱強く取り繕っていた表情が、わずかに曇った。

「どうしてまた泣くの?

泰介、あなたがそうやって泣くたびに、私、本当に疲れる」

その言葉を聞いた瞬間、俺は呆然とした。

昔、俺が涙を見せると、永梨はいつも慌てふためいていた。

不器用な手つきで涙を拭い、何度も何度も優しく慰めてくれたものだ。

「泰介、泣かないで。

あなたが泣くと、私まで胸が苦しくなる」

以前、悪夢を見て、夜中に泣きながら目を覚ましたことがある。

そのとき彼女は、わざわざ車を出して少し離れたコンビニまで行き、温かいおでんを買ってきてくれた。

「うちの泰介は、小さい頃、誰にも優しくしてもらえなかったんだもんね。

だからこれからは、泣くたびに、私が慰めてあげる」

あの頃の永梨は、確かに俺の涙に寄り添ってくれていた。

それなのに今、返ってきたのは、たった一言。

私、本当に疲れる。

そうか。

涙がもう彼女の心まで届かないのなら、これ以上見せずにしまっておくべきなのだ。

俺は手の甲で涙を拭い、静かに言った。

「大丈夫」

永梨はほっとしたように表情を緩め、歩み寄ってキスしようと顔を近づけてくる。

だが俺は無意識のうちに、顔をそらしていた。

永梨の表情が、とうとう冷たくこわばり、苛立たしげに髪をかき上げた。

「もういいわ。

頭冷やしてきて」

吐き捨てるように言うと、彼女は背を向けて書斎へと消えていった。

その夜、部屋の灯りを消そうとした時、ベッド脇に置かれたタブレットの画面がふっと点灯した。

永梨のLINEアカウントがログインしたままになっていたのだ。

ただ画面を消してやろうと手を伸ばしただけだった。

けれど、不意に飛び込んできたトーク画面の「洋司」という文字が、目に痛いほど突き刺さる。

洋司【機嫌直った?】

永梨【ダメだったわ。

あの人、最近どんどん機嫌を直させるのが難しくなってる】

洋司が笑顔のスタンプを送る。

【じゃあ今夜、ちゃんと埋め合わせはしたのか?】

数秒の間があって、永梨が返信する。

【やめてよ。拒まれたわ。

まあいいけどね。7年も経つと、あの人の身体には、正直もう何も感じないし。

むしろ押しのけてくれて助かった。じゃなきゃ無理して相手しなきゃいけないところだった】

俺は、その無慈悲な数行の文字をただじっと見つめた。

目の奥が焼けるように痛むのに、涙はもう1滴もこぼれなかった。

そうか。

永梨にとって、俺と触れ合うことさえ、無理をして応じなければならない行為になっていたのか。

俺はタブレットを閉じ、黒曜石のカフスボタンを、元のジュエリーブランドの紙袋に戻した。

そして、外した婚約指輪とともに玄関の収納棚の上にそっと並べた。

まるで、ようやく覚めた長い夢の名残を返すように。

ちょうどその時、スマホの画面に航空券の購入完了通知が光った。

翌日午前3時発の、アイスランド行きの便だった。

これから先、俺が世界のどの街へ飛んでいこうとも、もう二度と、永梨のそばに降り立つことだけはないだろう。

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