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光を恐れず、影に怯まず

光を恐れず、影に怯まず

By:  生方花Completed
Language: Japanese
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卒業アルバムの集合写真を撮る日。 私、白石澪菜(しらいし みおな)は、彼氏である橘秀平(たちばな しゅうへい)の指にそっと自分の指を絡めようとした。 すると彼は私を軽く突き放し、冷たく言った。「お前は一番後ろに立ってろ。 一番かわいい子が真ん中にいたほうが写真映えするだろ。お前がそこにいたら邪魔になる。円香、代わりに来い」 顔から血の気が引いた私に、親友の相沢円香(あいざわ まどか)は笑いながら言った。 「澪菜、秀平も澪菜のためを思って言ってるんだよ。 澪菜は気が弱いから、真ん中に立っても落ち着かないでしょ。一番後ろのほうが澪菜らしいよ」 クラスメイトたちはそれぞれ位置を決め終え、カメラマンは待ちきれない様子で撮影を急かしていた。 私は何も言わず、一番後ろへ下がった。 譲ることに慣れすぎて、悔しささえも声にならなかった。 撮影が終わると、クラスの代表がグループチャットに写真を送ってきた。 写真の中の私は、前に立つ背の高い男子生徒に隠れ、顔すら写っていなかった。 円香はさっきまで私が立っていた場所で秀平と指を絡め合っている。 秀平はわずかに顔を傾け、優しいまなざしで円香だけを見つめている。 秀平の視線が私に三秒以上向けられたことなど、今まで一度もなかった。 三年間、私たちは周囲に隠れて付き合ってきた。 秀平はいつもこう言っていた。「毎日お前のことばかり見てたら周りにバレるだろ。それに、お前なんか見て何になる?」 私はペアリングを買い、彼に関係を公表したいと伝えた。 けれど秀平は指輪を引き出しに放り込み、こう言った。「お前は気が弱い。公表したら周りにあれこれ言われて耐えられないだろ。俺はお前を守ってるんだよ」 翌日、その指輪は円香の指にはめられていた。 少し離れた場所で、二人は寄り添いながら何枚も写真を撮っている。 陽の光を受けて輝くおそろいの指輪が目に入り、目の奥が熱くなった。 公表しないなら、それでもいい。これから先、もう公表する必要はない。

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Chapter 1

第1話

専用に設定していた通知音が二度鳴った。

円香がSNSを更新したらしい。

開いてみると、九枚の写真が投稿されていた。添えられていたのは、「卒業おめでとう。私たちのツーショット写真も、もう百三十二枚になってたね」という言葉だった。

秀平が円香の卒業式用の服の襟元を整えている姿。

少し身をかがめ、円香の話に耳を傾ける姿。

円香の額を指先で軽く弾き、笑みを浮かべる姿。

私は改めて、自分のスマホのアルバムを開いた。

私と秀平は十四年来の幼なじみで、三年間、周囲に隠れて付き合っていた。それなのに、私たちにはまともなツーショット写真が一枚もない。

その事実に、喉の奥がきゅっと詰まった。

鉄棒にもたれながら水を飲む秀平の横で、円香はハンカチを手に、秀平の顎に浮かんだ汗を拭っている。

私は二人から少し離れたところで足を止めた。

秀平はゆっくりと顔を上げ、私を一瞥すると、声をかけてきた。「どうした?なんか元気ないな」

「……一緒に写真、撮ろう」

せめて、この十四年間を締めくくる記念にしたかった。

しかし、秀平は鼻で笑った。「仲がいいほど写真は少ないもんなんだよ。そのくらい分かんない?」

円香も笑って言った。「そうだよ、澪菜。秀平の言うとおり。本当に仲がいいなら、写真で証明する必要なんてないよ」

秀平はいつものように髪をかき上げた。その指にはめられた指輪が、また眩く光っている。

「それに、お前ってカメラ向けられるとすぐ逃げるだろ。ガチガチに固まるし。

撮ったって無駄だ」

私の顔色が悪いことに気づいたのか、円香は私の肩を抱き寄せ、場を取り繕うように笑った。

「澪菜、考えすぎだよ。秀平も澪菜のこと心配してるだけ。写真映りが悪かったら、澪菜が落ち込むんじゃないかって」

私はゆっくりとうつむき、スマホの画面を消した。

「……分かった」

もう、撮らない。

この十四年間も、思い出として残す必要はない。

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第1話
専用に設定していた通知音が二度鳴った。円香がSNSを更新したらしい。開いてみると、九枚の写真が投稿されていた。添えられていたのは、「卒業おめでとう。私たちのツーショット写真も、もう百三十二枚になってたね」という言葉だった。秀平が円香の卒業式用の服の襟元を整えている姿。少し身をかがめ、円香の話に耳を傾ける姿。円香の額を指先で軽く弾き、笑みを浮かべる姿。私は改めて、自分のスマホのアルバムを開いた。私と秀平は十四年来の幼なじみで、三年間、周囲に隠れて付き合っていた。それなのに、私たちにはまともなツーショット写真が一枚もない。その事実に、喉の奥がきゅっと詰まった。鉄棒にもたれながら水を飲む秀平の横で、円香はハンカチを手に、秀平の顎に浮かんだ汗を拭っている。私は二人から少し離れたところで足を止めた。秀平はゆっくりと顔を上げ、私を一瞥すると、声をかけてきた。「どうした?なんか元気ないな」「……一緒に写真、撮ろう」せめて、この十四年間を締めくくる記念にしたかった。しかし、秀平は鼻で笑った。「仲がいいほど写真は少ないもんなんだよ。そのくらい分かんない?」円香も笑って言った。「そうだよ、澪菜。秀平の言うとおり。本当に仲がいいなら、写真で証明する必要なんてないよ」秀平はいつものように髪をかき上げた。その指にはめられた指輪が、また眩く光っている。「それに、お前ってカメラ向けられるとすぐ逃げるだろ。ガチガチに固まるし。撮ったって無駄だ」私の顔色が悪いことに気づいたのか、円香は私の肩を抱き寄せ、場を取り繕うように笑った。「澪菜、考えすぎだよ。秀平も澪菜のこと心配してるだけ。写真映りが悪かったら、澪菜が落ち込むんじゃないかって」私はゆっくりとうつむき、スマホの画面を消した。「……分かった」もう、撮らない。この十四年間も、思い出として残す必要はない。
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第2話
円香の提案で、最後にもう一度キャンパスを歩くことになった。円香は秀平の隣を歩き、肩が触れそうになるたび、わざと秀平の腕に触れていた。私は二人の三歩ほど後ろを、影のようについて歩いた。バスケットコートの前を通りかかると、円香が観客席を指さして笑った。「秀平、二年生のときの決勝戦、覚えてる?ブザービーターでスリーポイントシュートを決めたとき、私、興奮して洸太の頭にジュースをこぼしちゃったんだよね」秀平も笑った。「忘れるわけないだろ。あのあと、あいつがクリーニング代を請求してきて、結局、俺が払ったんだから」二人にしか分からない思い出話に、私は入り込めなかった。二年生のあの年、私も試合を見に行き、秀平に飲み物を渡そうとしたことがあった。けれど、秀平ははっきりと断った。「お前、自分でも分かってるだろ。俺の友達の輪には馴染めないじゃん。知らない奴と話すだけで緊張するし。だから無理に紹介しようとは思わない。余計なプレッシャーになるだろ」秀平は私の存在を、誰にも知られない場所へ閉じ込めた。その一方で、円香を自分の友達のグループへ紹介した。講堂の前を通ると、卒業パーティーのステージがちょうど解体されていた。円香は懐かしそうにため息をついた。「学園祭のダンスパーティー、懐かしいね。秀平、あのときダンスが下手すぎて、私の足を三回も踏んだよね」秀平は苦笑しながら言い返した。「違う。二回だ」指先の温もりが、少しずつ消えていく。学園祭のダンスパーティーの日。私は借りたドレスを着て、舞台裏で一晩中、秀平を待っていた。あとから来た秀平はこう言った。「脱げよ。お前は猫背だからこういう服は似合わない。笑われるだけだ。そんな格好で歩いて、人に見られたらお前のほうがつらいだろ」私が秀平と一緒に過ごしたかった大学生活。それらはすべて円香の青春を彩るものになった。靴ひもがほどけ、私はしゃがんで結び直した。顔を上げると、二人はもうはるか先を歩いていた。手についた砂ぼこりを払うと、私はそのまま寮へ戻った。卒業を迎え、荷物をまとめなければならなかった。四年間で増えた荷物は想像以上に多かったが、ようやく大きな袋三つにまとめ終えた。キャリーケースは車輪が壊れていて、手のひらが赤くなるほど力を込めても持ち上げられなかった。
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第3話
結局、私は誰にも頼らずに荷物を運ぶことにした。大きな袋を三つ。三回に分けて、一つずつ階段を下ろし、また一つずつ校門前の宅配便受付まで運んだ。指には持ち手が食い込み、紫色の痣ができていた。海凪行きの送り状を書き終えると、重くなった腕を軽く振り、そのまま今夜の卒業記念の打ち上げが開かれるカラオケ店へ向かった。個室に入ると、秀平はソファの真ん中に座っていた。円香がぴったりと隣に寄り添っている。みかんを一房むき、自然な仕草で秀平の口元へ差し出すと、秀平は少し顔を傾け、そのまま口に含んだ。口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。私はソファの端に腰を下ろした。荷物の持ち手で擦れた手のひらの痣はまだ痛み、生理中の下腹部にも鈍い痛みがあった。「澪菜、遅刻したんだから罰ゲームだぞ」幹事役の学生が私に気づき、冷えたビールを一本、目の前に置いて言った。「ルール分かってるよな?一気飲み」私は慌てて首を振った。「飲めないの」個室の空気が一瞬静まり返った。秀平は眉をひそめ、ビールへ手を伸ばした。「こいつ酒飲めないから。俺が代わりに飲む」一瞬だけ、胸の奥が温かくなった。一年生の歓迎会でも、秀平は同じように私の前へ立ってくれた。「俺の澪菜は、誰にも気を遣う必要なんてない」あの言葉を、今でも覚えている。すると円香が秀平の手首をそっと押さえて言った。「秀平、それはさすがにひいきじゃない?」そう言って私のほうを振り向き、明るく笑った。「澪菜、今日は卒業記念の打ち上げなんだから、みんな同じルールでしょ?一人だけ特別扱いしたら白けちゃうよ」竹林洸太(たけばやし こうた)も、すぐに囃し立てた。「そうだぞ。秀平、なんでそんなに澪菜をかばうんだよ。知らない奴が見たら、付き合ってるって思うぞ」秀平は円香をちらりと見てから、周りを見渡した。皆から向けられる視線に、彼はゆっくりと手を引っ込めた。「まあ、そうだな。遊ぶならルールは守らないと。澪菜、少しくらい飲んでも死なないって。みんなの雰囲気を壊すなよ」胃の中がひっくり返るようだった。私はバッグからアレルギーの薬を取り出した。ビールを一口飲んでは薬を一錠。それを繰り返し、気づけば瓶は空になっていた。秀平は眉をひそめた。一瞬、何か言いたげに唇が動いた気がした。
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第4話
個室を出ると、スマホが震えた。秀平からのメッセージだった。【ゲームなんだから本気にするな。先に帰ってて】私はスマホをポケットへしまい、路肩に停めてあったシェアサイクルを借りた。翌日の昼。私は蒸し暑い着ぐるみを着て、チラシを配っていた。その時、スマホが立て続けに三回震えた。私は重たい着ぐるみの頭を脱いだ。流れ落ちた汗が目にしみる。画面を開くと、銀行から三件の引き落とし通知が届いていた。合計百七十二万円の引き落とし。この口座のカードは以前、私が秀平のスマホに登録したものだった。当時、秀平は家族と喧嘩して仕送りを止められていた。だから私は、自分のカードを秀平に半ば無理やり渡した。「これ、私の生活費、全部入ってるから」そう言って、自分の全財産を預けた。その後、秀平は家族と仲直りした。それなのに、カードは一度も返ってこなかった。あのお金は、休みなくアルバイトを掛け持ちし、胃炎になるまで働いて、ようやく貯めたお金だった。そして、海凪大学へ進学するための準備金でもあった。全身から力が抜け、私は壁にもたれかかった。震える手で連絡先を開こうとしたが、うまく画面を操作できない。何度も深呼吸をして、ようやく秀平に電話をかけた。電話口からは、空港のアナウンスが聞こえてきた。「ほら、やっぱり連絡してきた。お前、一日も我慢できなかったな」秀平の声は、どこか勝ち誇ったように弾んでいた。「今回は大目に見てやる。でも、次からそんな駆け引きはやめろよ」私は深く息を吸い込み、声を絞り出した。「どうして私のカードで百七十二万円も使ったの?」「ああ、それ?二人分の旅行を予約した」「二人分の旅行?」「そう。昨日、『真実か挑戦か』の挑戦で負けただろ?やるなら最後までやらないと。円香を海外旅行に連れて行くことにした。卒業旅行も兼ねてな」自分でも分かるほど、声が震えていた。「あれは私のお金だよ!」電話の向こうで、一瞬沈黙が流れた。次の瞬間、小さく鼻で笑う声が聞こえた。「たかが百万ちょっとだろ?そんなに大騒ぎすることか?俺にあんな態度を取ったこと、まだ許してないからな。この金は、いい勉強代だったと思え」その時、電話の向こうから円香の声が聞こえた。「秀平、搭乗始まるよ!」「ああ、今行く」秀平はそう返事
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第5話
海凪大学に来て、一週間が過ぎた。私は図書館の窓際の席で、指導教員から送られてきた病理学論文を机に広げ、付箋を貼りながら要点を拾っていた。その時、スマホが震えた。画面を見ると、連絡先に登録していない天璃市の番号が表示されていた。秀平からの着信だった。電話に出るなり、怒鳴るような声が飛んできた。「澪菜、お前、いい加減にしろよ?今日、人事から新入社員の名簿が届いたけど、お前の名前がどこにもなかった。わざわざお前の席を俺の部屋の前に移して、お前が一番苦手な朝礼まで免除してやったのに。失踪ごっこでもしてんのか?」私は蛍光ペンを持つ手を止めず、論文の一文にまっすぐ黄色い線を引いた。「秀平。私はあなたの会社で働くつもりはないわ」電話の向こうは二秒ほど静まり返った。そのあと、小さく鼻で笑う声が聞こえてきた。「たかが二か月、『真実か挑戦か』のゲームをやっただけだろ。俺と円香は付き合ってない。ゲームはもう終わった。円香も一昨日、俺の家を出た。円香はちゃんと分をわきまえてる。だから、もう関係は終わった」私は彼の言葉を最後まで聞かずに遮った。「私の要求は一つだけ。あの百七十二万円を返して」秀平は苛立ったように舌打ちした。「澪菜、お前、本当に頭おかしくなったのか?俺の秘書にしてやるって言ってるんだぞ。月十六万も出す。百七十二万なんて、数か月働けばすぐ取り返せるだろ。お前は俺のところじゃなきゃ無理だろ。外じゃ面接でまともに話すこともできないだろうし。そんなお前を雇う会社がどこにある?」私はスマホの録音機能を開いた。「つまり、私のカードを使ったことは認めるのね?」私の態度に、秀平は腹を立てた。「そうだよ!俺が使った!それがどうした?自分の彼女の金を使うのに、いちいち報告しなきゃいけないのか?さっさと戻ってこい。給料は倍にしてやる」その時、電話の向こうから円香の声が聞こえてきた。「秀平、車に書類を忘れちゃったみたい。探してくれる?」一昨日には家を出たんじゃなかったの?嘘を取り繕うことさえ、もう面倒になったらしい。秀平は受話口を押さえ、小声で答えた。「助手席の収納ボックスにある。自分で取って」そう言って受話口から手を離すと、さっきよりも苛立った声で言った。「聞こえただろ?さ
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第6話
秀平はスマホを机に叩きつけた。画面には、通話終了の表示が残っている。苛立たしげにネクタイを緩めた。俺に逆らうつもりか?その時、円香がコーヒーを手に部屋へ入ってきた。ワインレッドのタイトなワンピースが、美しい体のラインを際立たせている。秀平はコーヒーを受け取り、その隙のないメイクに目を留めた。やっぱり、連れて歩くならこういう女だ。友達の前でも顔が立つ。「秀平、澪菜、まだ拗ねてるの?」「放っとけ。家賃も払えなくなれば、そのうち泣きついてくる」秀平は煙草に火をつけた。煙がゆっくりと立ち上る。十四年も一緒にいた。もう、とっくに飽きていた。澪菜はいつも色あせた木綿のワンピースばかり着ていた。どこか古臭くて、垢抜けない。猫背で、知らない人と目を合わせることさえできない。大学二年の時、一度だけ澪菜を高級フレンチへ連れて行ったことがあった。澪菜はステーキを切るたび、ナイフとフォークを皿に当てて耳障りな音を立てていた。隣のテーブルの客まで、こちらを見ていて、本当に恥ずかしかった。だから、ナイフとフォークを皿へ放り出して言った。「飯を食うだけで、なんでこんなに恥をかかされないといけないんだよ」それ以来、澪菜を人前に連れて行くことは二度となかった。その点、円香は違う。華やかで、明るい。社交の場でも自然に立ち回れる。円香と一緒なら、友達の前でも顔が立つ。その時、大学時代のクラスのグループチャットに動画が投稿された。洸太からだった。【やばいって、秀平!澪菜、海凪大学の大学院に進学してた!しかも新入生歓迎会でスピーチしてる!】秀平は背筋を伸ばし、動画を開いた。画面には、白衣をきちんと着こなし、髪をすっきりと後ろでまとめた澪菜が映っていた。背筋をまっすぐ伸ばし、何百人もの前でスピーチをしている。おどおどした様子も、人前で言葉に詰まる姿もない。秀平は目を見開いた。裏切られたという思いと、失うことへの恐怖が一瞬にして全身を貫いた。この二か月、自分の知らないところで、澪菜は俺のもとを去る準備をしていたのか。泣きながら俺を待ってると思っていたのに……円香は動画をのぞき込み、少し表情を曇らせた。「澪菜もひどいよね。こんな大事なことまで秀平に隠してるなんて。きっと、わざと秀平を怒ら
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第7話
翌日の午前十時。私は実験を終え、実験室の扉を開けた。すると、隅の椅子に座る秀平の姿が目に入った。「百八十万は届いた?余分に振り込んだ八万円で少しはまともな服でも買え」私は足を止めた。「振り込みは確認したわ。百七十二万は返してもらったから、八万円は送り返した。ゴミは受け取らない主義なの」秀平は奥歯を強く噛み締め、怒りで充血した目をぎらつかせていた。これまで従順だった私が、こんな態度を取るとは思ってもいなかったのだろう。「澪菜、ずいぶん強気になったな。俺に黙って海凪大学へ出願して、そのまま何も言わずに消えたし」彼は私の目の前まで迫ると、その大きな影で私を覆った。「大学院に受かったくらいで何だ?俺から離れたところで、お前がやっていけると思ってるのか?お前は人とまともに話すこともできないだろ。そのうち誰かにいいように利用されるのがオチだ」私は怒りでわずかに歪んだ秀平の顔を見つめた。「秀平。私はちゃんとやってる。あなたがいない今のほうが、この十四年間よりずっと幸せ」秀平は一瞬黙り込み、すぐに鼻で笑った。「幸せ?意地張るなよ。円香はもう俺の家を出た。あの二か月間のゲームも終わったんだぞ」秀平は私の手首をつかもうとしたが、私は身をかわし、その手を避けた。「ゲーム?私にくれたネックレスを円香に渡したのも?卒業写真で円香を真ん中に立たせて、私を一番後ろへ追いやったのも?」秀平の手が宙で止まった。その顔から血の気が引いていった。まさか私が、そんな昔のことまで持ち出すとは思っていなかったのだろう。「それは、お前が写真映えしないからだろ!真ん中に立ったら、みんなが気まずくなる!」秀平は声を張り上げた。その大きな声で、動揺をごまかそうとしているようだった。「ネックレスだって、円香が欲しいって言っただけだ。ただの銀のネックレスだろ。ダイヤのを買ってやるから。な?」私は首を横に振った。「いらない」秀平は高級ブランドの紙袋を私に押しつけた。「新作だ。二百四十万円した。これで満足だろ?」付き合っていた三年間、秀平は私の誕生日に二百円のケーキ一つさえ買ってくれたことがなかった。「形だけの祝いなんて意味がない。本当に好きなら、そんなものはいらない」そう言っていた。
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第8話
秀平は天璃市へ帰らず、頑なに海凪大学の近くにある五つ星ホテルへ泊まり続けていた。ここで待ち続けていれば、そのうち私が折れるとでも思っているのだろう。三日後の夕方。私は分厚い本を何冊も抱え、同じ研究グループの先輩である高瀬直樹(たかせ なおき)と一緒に図書館を出た。先輩は海凪大学出身の明るい人で、研究について話す口調にはわずかな訛りが残っていた。「澪菜、この前君が提案したデータモデル、本当に見事だったよ。今日のミーティングでも、先生が『今年一番才能のある学生だ』って褒めてた」私は思わず口元を緩めた。心から笑えたのは、久しぶりだった。「ありがとうございます。先輩のご指導のおかげです」「澪菜!」突然、低く重たい声が私たちの会話を遮った。振り向くと、階段の下に秀平が立っていた。険しい目で、私と先輩を見つめている。彼は私の笑顔を見ていた。心から楽しそうに笑う、その顔を。「そいつ、誰だ?」秀平は私たちの前まで歩いてきた。その目には、隠そうともしない敵意が宿っていた。先輩は少し戸惑ったように私を見た。「澪菜、この方は?」「知りません。知らない人です」秀平の表情が固まった。次の瞬間、彼は私の腕を乱暴につかんだ。「誰が知らない人だ?」「離して」先輩はすぐに一歩前へ出て、私をかばうように立った。「手を離してください。これ以上乱暴するなら、警備員を呼びます」秀平は先輩には目もくれず、私だけを見据えた。「澪菜、お前、新しい男ができたからそんな態度が取れるようになったのか?こいつ、お前が昔どんなだったか知ってるのか?自信もなくて、人の後ばかりついて回るような奴だったんだぞ」そんな言葉を浴びせられても、私の心は少しも揺れなかった。「秀平。どうして私があんなふうになってたのか、本当に分からないの?」秀平は一瞬言葉を失い、私の腕をつかむ力をわずかに緩ませた。私はまっすぐ秀平を見つめた。「十四歳の時、私はスピーチコンテストで優勝した。でもあなたは私に向かって、『お前、ピエロみたいだったぞ。動きが大げさで見苦しかった。だからもう二度と人前に立つな』って言ったのよ。十六歳の時、新しく買った花柄のワンピースを着た。でもあなたは、『脚がまっすぐじゃないから似合わない
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第9話
秀平が家へ戻ると、母親の橘美智子(たちばな みちこ)がキッチンから果物を載せた皿を持って出てきた。美智子は秀平の後ろに目を向け、小さく首をかしげた。「今日は一人なの?もう半年以上、澪菜ちゃんの顔を見てないわ。今日は一緒にご飯を食べに来ると思ってたのに」秀平は靴を脱ぐ手を止めた。そして、何気なく靴箱の一番下へ目を向けた。そこには、ピンク色のうさぎのスリッパが置かれていた。それは澪菜がここへ来るたびに履いていた専用のスリッパだった。以前は毎週末になると、澪菜は決まってここへ来て、美智子と花を生け、お茶を飲んでいた。今では、そのスリッパにも薄く埃が積もっていた。「最近、あいつ忙しいみたいだから」秀平はネクタイを緩めながら、ぶっきらぼうに答えた。美智子は呆れたように秀平を見た。「忙しくたって、ご飯くらい食べるでしょう。また澪菜ちゃんを泣かせたんじゃないの?言っとくけど、私が認めるお嫁さんは澪菜ちゃんだけだからね。他の子なんて絶対だめよ」秀平は何も答えなかった。ソファへ腰を下ろし、深く体を預けた。静かなリビングには、エアコンの運転音だけがかすかに響いていた。ぼんやりと果物の皿を眺めているうちに、不意に十四歳の頃の澪菜の姿が脳裏によみがえった。あの頃の澪菜は、今と違って明るい少女だった。十四歳の初夏。真っ白な制服のシャツを着て、高い位置で髪を結んだ澪菜は、スピーチコンテストで優勝したトロフィーを抱え、壇上で誰よりも明るく笑っていた。会場の男子生徒たちはみんな澪菜の姿に目を奪われ、舞台裏まで連絡先を聞きに来る者までいた。客席の隅からその光景を見ていた秀平は、手にしていたペットボトルを握り潰した。胸の奥を締めつけたのは、言葉にできない嫉妬と焦りだった。自分のものを奪われるような気がして、あれほど多くの視線が澪菜に向けられることに耐えられなかった。だから、舞台裏へ嬉しそうに駆け寄ってきた澪菜を前にしても、秀平は笑わなかった。握り潰したペットボトルをゴミ箱へ放り込み、冷たく言い放った。「壇上のお前、ピエロみたいだったぞ。動きも大げさすぎる。こっちが恥ずかしくなった」あの瞬間、澪菜の笑顔は凍りついた。あれが、秀平が初めて澪菜を否定した日だった。それから秀平は、澪菜のすべ
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第10話
三日後、分厚い解剖学の本を何冊も抱えて校舎を出た私のもとへ、秀平が歩み寄ってきた。秀平はポケットからベルベットのジュエリーケースを取り出した。ケースを開くと、中にはシンプルな銀色の星型のネックレスが入っていた。大学一年の時に秀平が私に贈ってくれたものと、まったく同じだった。「店に頼んで、もう一度作ってもらった」秀平はどこか得意げだった。「円香に渡したやつは取り返さなかった。そのまま捨てた。これは新品だ。これを身につけるのは、お前だけでいい」私はジュエリーケースを受け取ると、そのまま近くのゴミ箱へ放り込んだ。秀平はその場で表情を強張らせた。私は手についた埃を軽く払いながら言った。「もう、いらない。秀平がくれるものは、私にとって全部ゴミだから」そのとき、クラスのグループチャットで円香が秀平をメンションした。【@秀平 今日の仕事帰り、迎えに来てくれる?秀平の好きなたこ焼き買ったよ♡】グループチャットは一気に騒がしくなった。【おいおい、ラブラブすぎるだろ!】【円香、秀平の会社に入ったんだよな?毎日会えて最高じゃん】【いつ結婚するんだよ!】秀平は流れていくメッセージを見つめていた。額には青筋が浮かんでいる。彼は一度だけ私に視線を向けると、唇を強く噛み締めながら素早く文字を打ち込んだ。【勝手なこと言うな。俺と円香は何の関係もない】その一言で、グループチャットが一瞬静まり返った。しかし、円香はボイスメッセージを送信した。少し甘えたような、拗ねた声だった。【秀平、昨日はあのワンピース似合うって言ってくれたのに。今日は知らないふりするの?】その一言で、グループチャットはさらにざわついた。秀平は険しい表情を浮かべていた。【最後にもう一度だけ言う。俺と円香は何の関係もない。俺の彼女は、澪菜だけだ。俺たちは三年前から付き合っていた。今まで公表しなかったのは、澪菜を守るためだった。これ以上、俺と他の女を勝手に結びつけるな】円香も、まさか秀平がみんなの前でそこまで言うとは思っていなかったのだろう。すぐにメッセージを送ってきた。【秀平、アカウント乗っ取られたの?私たち、昨日だって……】秀平はそのまま会社の人事部に電話をかけた。「今すぐ円香の解雇手続きを進めて
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