【あなたの居るべき場所はここではない。この囚われの世界から逃れ、本当に求められている場所へ来るのです。】
朦朧とする意識の中、優しい声で男が私に囁きかけてくる。声がする方へ手を伸ばそうとすると目が覚めた。
「夢か……。でも優しい声だったな」
私は、横目で隣に眠る夫・幸助の顔を見た。整った顔立ちで目を閉じている幸助からは、結婚にしてから一度たりともあんなにやさしい声は聞いたことはない。優しい声どころか、私たちは形だけの夫婦でそこに愛は存在しなかった。
夫の成功こそが女の幸せーーー
武力で国を統制していた時代、祖先はある藩の党首だった。党首として武力はもちろんのこと、多くの女性を寵愛し子孫繁栄に努めたそうだ。
武士の末裔として生まれた私は、小さい頃から『将来、夫になった人に忠誠心を持ち従うこと』を家訓として祖父母や両親に言い聞かされてきた。結婚相手の成功と子孫繁栄、そのために影ながら支えること、旦那様にこの身を捧げることが女の役目だと信じて疑わなかった。
武力の時代が終わりを迎えてから数十年。
私、高岡葵は16歳の時にこの地域では資産家と名高い佐々木の家へと嫁いだ。
佐々木家は江戸時代より薬種問屋として医師に薬を売る商売をしていた。時代が移り変わり、問屋だけではなく、自分の息子たちを医師に育て上げ病院というものを作った。
昔から親交のある佐々木家と高岡家は親同士が決めた政略結婚である。
夫である佐々木幸助は、寡黙で何を考えているのか分からない人だった。結婚式当日まで私たちは顔すら合わせることもなく、初めて顔を合わせた日に、結納・顔合わせ・入籍と婚姻の儀を一気に行いその夜から一緒に住むことになった。
今日初めて顔を合わせた相手と生活を共にする。部屋には綺麗に整えられた寝具とかすかな灯りが障子に私たちの影を映している。
その時、私は幸助さんの元へ嫁いだのだと改めて実感した。
(し、子孫繁栄って……。頭では分かっているけれど、私も子どもを授かるためにそうなるということ????)
若干の不安と戸惑いを感じ、手が微かに震えている。
バサッー
分厚い布団を手に取り、先に中に入る幸助さんを見つめ緊張の面持ちで腰を下ろし次の言葉を待った。しかし、その言葉は私の予想外のものだった。
「今日は疲れているでしょうから、そのままお休みください。」
そう言って私に背中を向けて眠る幸助さん。幸助さんなりの配慮だと感じ、その日は休ませてもらうことにした。そして、そんな優しく気配りしてくれる幸助さんのもとへ嫁いだのだからこの身と人生を捧げようと強く決意をした。
しかし、翌日も、その翌日も幸助さんが私に触れてくることはない。
最初の頃は、まだ社会や男女の恋も知らない生娘な私のことを思い心の準備ができるまで待ってくれているのだと思っていたが、こうも何もないと不安になる。準備ができたことを伝えるべきなのだろうか。そんな悩みを抱えていた。
そして、嫁いでしばらくしたある日、私は意を決して寝る前の幸助さんに言葉を掛けた。
「私は幸助さんのために嫁いできました。覚悟は出来ております」
そう伝えると幸助さんは、ピクリともせずに無表情のままだった。そして、彼の本当の気持ちを知ることとなる。
愛されなかった武士の娘が寵愛の国へ転身~王子たちの溺愛が止まらない~ 尽くす側から尽くされる側へ、そして転生は偶然ではなかった? 毎日22:22に更新中!気に入って頂けたら本棚登録してもらえると嬉しいです。
葵side「リリアーナ王女とアゼルが?いつの間に……。」サラリオ様も私も、その衝撃的な話を聞いて、言葉を失った。私たちの婚姻の儀に参加してくれたリリアーナ王女がルーウェン王国へ帰還する日、王宮の正面玄関前で、多くの貴族や王族が見送りをする厳粛な場所で、アゼルとリリアーナ王女は、誰もがしっかりと目に焼き付けるように、白昼堂々と熱いキスを交わしたのだった。「アゼル……どういうことだ。リリアーナ王女を警戒して見張っていたんじゃないのか?」サラリオ様は、すぐにアゼルを執務室に呼び出し、驚きと呆れの混じった声で問いかけた。「ああ、警戒していた。だけど、この三日間一緒に過ごして分かったんだ。王女は俺に似ている。彼女は、王家として生まれたことに誇りを持ち、国を背負う自覚もしている。彼女は、危険な人物でも何でもない。」アゼルは、椅子に座ることもせず、机に両手をつくと身体を乗りだして、興奮した様子でサラリオ様に訴えかけるように話をしていた。「……それに、俺は、リリアーナ王女と国を統治すると決めたんだ。」「何を言っているんだ
夜会が終わり、それぞれが部屋に戻ってから、重厚なドレスときつく締めあげた下着を脱いで、私はようやくホッと息を吐いた。「葵、大丈夫か?疲れていないか?」夜着に着替えたサラリオ様が心配そうな顔で尋ねてくる。「はい、大丈夫です。疲れてはいませんが緊張しました。でも、とても幸せで、楽しかったです。」「私もだ。葵と晴れて夫婦になれて嬉しいよ。」サラリオ様は私のところへきて、優しく抱きしめてくれた。ふわっと毛布を掛けられたような温かさに包まれながら、サラリオ様の胸の中でゆっくりと瞳を閉じる。サラリオ様の熱や力強い鼓動で私の緊張の疲れも解きほぐし、深い安堵へと導いていく。サラリオ様は私の肩に両手を置くと、真っ直ぐに私を見て真剣な表情で口を開いた。「私は、一生をかけて葵を幸せにする。この先、大変なこともあるかもしれないが、私の隣で王妃として、私についてきてくれないか?」「――――もちろんです。サラリオ様の側でお役に立てることが、今の私の最大の幸せです。添い遂げさせてください。」私がサラリオ様の顔を見て微笑むと、サラリオ様は力強く抱きしめて熱い口づけをした。お互いの瞳を合わせながら舌と舌を絡めて、愛おしさと情熱を交差する。サラリオ様の碧い瞳と私の黒い瞳が至近距離で交わり、お互いの存在を
「リリアーナ王女、ありがとうございます」サラリオ様は、リリアーナ王女が私に近付いてきたことに気がつくと、すぐにこちらへ来てくれた。そして、牽制として私の肩に手を添えている。その一瞬の張り詰めた空気は、私たちがただの恋愛で結ばれたのではなく、国益という重い鎖で繋がれている王族であることを改めて思い知らされた。「お二人のご結婚と今後のご健勝を祈っていますわ、それでは。」王女はその一言だけ言うと、深く一礼して去って行った。サラリオ様も緊張していたようで、小さく息を吐いたが、ひとまず取り越し苦労だったようだ。しかし、王女の目が微かに潤み湿っているのを私は見逃さなかった。(リリアーナ王女は、何を思っての涙なのだろう?王女の瞳は怒りや悔しさではなくて、寂しそうに見えたけれど。)その緊張をアゼルも察していたようで、周りに聞こえないようにそっと近付いてきた。「兄さん、葵、リリアーナ王女のことは俺が見ている。だから、二人は気にするな。今日は祝福の空気を乱させるな。」婚姻を強く迫ってきたリリアーナ王女が、この場で何か外交的な動きや騒ぎを起こさないかと、アゼルも注意していたようで、サラリオ様も小さく頷いてアゼルに任せていた。そんなアゼルと秘めた感情を持ち合わせたリリアーナ王女が、この婚姻の
時は、サラリオと葵が婚姻の儀をした時まで遡る――――――ここから語られるのは、二人が国王と王妃になるまでの物語だ。葵side「あなたたちは互いを愛し、信じて生涯を共にすると誓いますか?」私たちは、大勢の人に祝福されながら人生最高の日を過ごしていた。純白のウェディングドレスは、この数年間の努力と葛藤の重みそのもののように感じられた。私はこの日を無事に迎えられたことに安堵と感動をして、終始涙が止まらなかった。隣にいるサラリオ様の力強い誓いを聞きながら、異国で孤独に勉強漬けの日々を送った記憶が蘇り、込み上げるものを抑えきれなかった。「葵様、葵様とサラリオ様のお幸せを願っていましたが、本当にこの日が来るなんて……私はとても嬉しくて、嬉しくて……」すぐ側に控えていた侍女のメルも、私と同じように目を潤ませていた。「メルーーー!メルのおかげだよ、ありがとう。私がここに来た時から、メルがずっと側にいてくれたから頑張れたの。ありがとうね。」「葵様……」メルの涙に私ももらい泣きして、思いっきり抱き着いて感動に浸っていた。二人とも涙は止めどなく流れ、鼻をすする音だけで深い会話をし
「私のことは、もう、気にしないでください。――――私は、あなたのことを思うと胸が温かくなって、それでいて切なくて苦しい。」エレナは、目に一杯の涙を溜めて、あの詩集の最初の一節を嗚咽交じりの声で口にした。その声は、僕の心を強く打ち抜いた。エレナと会えなくなってから、あの詩集を何度も何度も読み、僕は全てを覚えていた。そして、葵の告白と、エレナの逃げた姿から、この切なさこそが「愛」なのだと確信した。「あなたを知って私は恋を知った。」僕が、詩の次の節を口にすると、エレナは驚愕して、足を止めて僕の方を見て振り向いた。涙で濡れた瞳が、僕を射抜く。そのまま、最後の節まで続けた。「好き、大好き、愛している。だけど叶わぬ恋だということも分かっている。だからせめて夢であなたに会いたい。そう思いながら今日も私は瞳を閉じる――――」「本、読んでくださったんですか?」エレナの瞳から、一筋の涙が溢れた。「ああ、エレナに会えなくなってから何度も。すっかり覚えてしまったよ。そして、わかったんだ。エレナ、ルル王女と僕は、エレナが想うような仲ではない。本が好きで、つい話し出すと止まらなくなるんだけれど、お互い気になっているのは、本の中身だ。そして、僕が、あの詩集を読んで思うのは、エレナ、君だ。」「キリア
二か月後、ルシアン兄さんの家族と一緒に、ルル王女がバギーニャ王国を訪れた。ルシアン兄さんは、サラリオ兄さんたちと、最近の外交問題について真剣に話し合っている。自然と僕がルル王女をエスコートすることになり、庭園でお茶を飲みながら、最近読んだ本の話をしていた。「キリアン様から頂いた本、とても面白かったです。特に終盤は、今までの伏線が一気に回収されて爽快でした。」「僕も終盤が特に好きなんです。謎ばかりなんですが、しっかりと最後で丁寧に真実と誤解の裏側が書かれていていいですよね。あの続きが確か、ここから少し離れた王立の図書館にあるのですが、良かったら行きませんか?」「まあ、嬉しい。是非ともお願い致します。」ルル王女と馬車に乗り、図書館を目指していると、街の通りの向こうに見覚えのある横顔に気がついた。「エレナ?」「キリアン様!!」エレナは驚いて、僕とルル王女が一緒にいる姿を見て、一瞬で顔色を失い、逃げるように走り出してしまった。「ここで停めてくれ!ルル王女、本当にすみません。エレナは僕の大切な知人で、急いで話をしなければなりません。少しお待ちいただけますか?」僕はルル王女に深く頭を下げ