INICIAR SESIÓNまた、慌ただしい月曜日がやってきた。数人の学生が、だらしない足取りで教室の扉を押し開けた。だが教壇に立つにこりともしない顔を見たとたん、ひとりの女子学生の手からチョコレートの粒がこぼれ、床に散らばった。「すみません、十六夜教授。僕たち……寝坊しただけで」先頭の学生が、後ろめたそうに言い訳をする。十六夜薫の碧い瞳が、彼らを厳しく見据えていた。なんてことだ。今日は朝倉先生の日本思想史のはずだった。それが直前になって、この「東洋の鬼」の授業に変わったなんて、誰も教えてくれなかった。誰に対しても容赦のない教授を前に、学生たちは息をひそめた。前の学期の町田浩洋の末路を、みんな知っている。普段から態度の大きかったあの問題児は、学内で女装カフェを開いて勉強そっちのけになり、十六夜教授の授業でも居眠りと遅刻を繰り返した。もちろん、黙っている教授ではない。あっという間に退学勧告を突きつけ、店もたたませた。相手が日本屈指の資産家の息子だろうと、まるで意に介さなかったのだ。即刻、放校。学籍まで抹消され、国へ送り返された。「それぞれの席に戻りなさい。次はありません」薫は冷ややかに学生たちを一瞥した。だがその口調は、思っていたほど怒ってはいなかった。教室じゅうが、きょとんとした。遅刻した数人は命拾いしたとばかりに、小走りで席へ戻っていく。悪魔教授の逆鱗に二度と触れないよう、そろりそろりと。今日は槍でも降るのか。学生たちは顔を見合わせた。十六夜教授の授業に遅刻して、何のお咎めもないなんて、どう考えてもおかしい。それでも、私語をする度胸は誰にもない。後ろの席の学生たちは、こっそりスマホを取り出して、グループLINEでぼやき合うしかなかった。だが昼になって授業が終わっても、教授が今日に限って寛大だった理由は、結局わからずじまいだった。「では、今日はここまで。今週金曜の授業は、朝倉先生と入れ替えになりました。金曜は日本思想史です」最後にそう伝えて、薫は定刻ぴったりに授業を終えた。プロジェクターを切り、待ちかねたように講義ノートを閉じる。胸元の青いネクタイを引いて緩め、スマホを取り出した。恋人から届いたLINEを見て、思わず口元がほころぶ。『あとで大学まで迎えに行くよ~ 今夜もうちに泊まらない?』◇正午の空は、ほんのりと青みがかっていた。ノルウェーで一日のうち、
「……したい……私は、嵐と……」十六夜薫は、浴槽の中で震えていた。水は凍えるほど冷たいのに、薬のせいで、体は少しずつ言うことをきかなくなっていく。ああ……どうして……こんなことに。わずかに残った理性で、口にできない言葉を必死に噛み殺すことしかできなかった。「何がしたいの?」伊藤嵐は、ばたつく両脚を片手で押さえつけると、浴槽の縁越しに耳元へ顔を寄せて笑った。「薫は、ほんとに口が堅いね」その姿を眺めているうちに、さらに意地の悪い考えが胸をよぎった。この人は、自分のためにどこまで譲るのだろう。それを、確かめてみたかった。嵐は薫の肩に手を置いた。掌の下の体は、明らかに熱を帯びすぎている。それでも、手は止めなかった。薬が回ってくる。抗う力はみるみる弱まり、薫は浴槽にもたれて喘ぐことしかできない。ずぶ濡れの服が重く肌に貼りつき、どこにも逃げ場がなかった。「お願いです……やめてください……」力なく懇願しても、嵐はバスブラシを手に取り、耐えがたい辱めを続けた。身をよじって逃れようにも、両手を縛られていて動けない。「薫は、ずっとここにいたいって言ったよね?」嵐は一瞬だけ手を止めたが、引きはしなかった。この責め苦の中から、ほしい答えを何としても引き出そうとするかのように。薫の声が、ふいに砕けた。体の自由を奪われ、屈辱と薬の熱が絡み合って、今にも壊れてしまいそうだった。違う、こんなはずじゃない……。思い描いていたのは、こんなものじゃない。人を愛するとは、こういうことなのか。「嵐……私のこと……好きですか?」力なく水に身を預けて、すすり泣く。目はまだ覆われたままだ。顔をそむけ、暗闇に向かって、すがるように問いかけた。ふいに、二本の腕に抱きすくめられた。水が大きく揺れ、濡れた体が背中にぴたりと寄り添う。「好きだよ……」背後から、かすれた声がした。深い疲れと、ためらいのにじむ声だった。「たぶん……好き、なんだと思う……」この独占欲を、好きと呼んでいいのか。薫の言う「好き」とは、別のものなのではないか。嵐自身にも、確信は持てなかった。薫は呆然とした。胸の奥で大切に抱えてきた期待が、無残に引き裂かれていく。痛みが押し寄せて、息ができない。漏れた吐息は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。「そんなに好きじゃないのなら……どうして、
午後、家に帰り着いた十六夜薫は、誰もいない部屋で、ようやくすべての仮面を外した。濃い緑のスーツの上着をクリーニング用の籠に放りこみ、疲れきった体をベッドに投げ出す。嵐とのトーク画面を開いたまま、指先で額を強く押さえた。伊藤嵐の冷ややかな眼差しが、何度も頭によみがえる。冷たくて、突き放すようで、そして、どこか……嫌悪さえにじんでいた。「嵐……」掌に顔を埋める。押し殺した嗚咽は、悔恨のようでもあり、祈りのようでもあった。私が悪いんだ。嵐に心を奪われておきながら、悠先生とあんなに親しくして。どうして、こんなに愚かなのだろう。忠臣は二君に仕えず、貞女は両夫にまみえず。自分は男だが、とうに嵐を恋人だと思っていた。今日の悠とのやりとりを見た嵐は、きっと、誰にでも色目を使う尻軽だと思ったに違いない。恥を知れ、十六夜薫。死んでしまえ。十六夜家の先祖に顔向けできないどころか、嵐まで裏切ったのだ。悔やんでも、悔やみきれなかった。自分を罵りながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする。芽生えたばかりの恋は、こうしてあっけなく終わってしまったのだ。声を上げて泣いていたそのとき、澄んだ着信音が泣き声を遮った。画面に浮かんだのは、「嵐」の名前。息が急に苦しくなる。嵐だ。跳ね上がる鼓動を押さえつけ、画面の上で指が一瞬ためらう。震える指で応答をなぞったものの、先に口を開く勇気はなく、何を言えばいいのかもわからなかった。しばらく、どちらも黙っていた。気まずい沈黙が流れはじめた頃、受話口の向こうから、気のない声がゆるりと届いた。「薫~。今、時間ある?」その声が穏やかであればあるほど、血のついた棘のように胸に刺さる。薫は黙って涙を流し、ひどい鼻声で答えた。「……大丈夫です。嵐……何か、ご用ですか」「ああ……大したことじゃないんだけど……」嵐は少し間を置いた。その声からは、何の感情も読み取れない。「話したいことがあってね。今から、うちに来られる?」言葉を失った。胸がざわついて、居ても立ってもいられない。責められるのか。それとも、言い訳を聞いてくれるのか。あるいは……別れを告げられるのか。どれでもいい。今すぐ会いたい。「はい、一時間で着きます」ほとんど迷わず、即答した。相手の気が変わるのが怖かった。電話を切ると、すぐに浴室へ駆けこんで身なりを整え、慌ただしく
食堂の扉を押し開けたとたん、伊藤嵐の目に飛びこんできたのは、窓際で品のいい優男と昼食をとっている、彼のお菓子ちゃんの姿だった。ふん、こいつが朝倉悠か。書架越しに、無表情で二人を見やる。その眼差しは、研ぎ澄まされた氷の刃のように冷たかった。十六夜薫の経歴は、すべて調べ上げてある。当然、その糸をたどって、この友人のことも洗ってあった。朝倉悠、二十九歳。十六夜薫の大学の後輩で、二人そろってオスロ大学に招かれた。現在は人文学部で日本思想史を教える講師であり、ユネスコの委員も務めている。この若さで、これだけの肩書きか。確かに、そうそういる男ではない。嵐は、その癪に障る顔を見据えたまま、何食わぬ顔で指を握りこんだ。かつての学友で、志を同じくする仲間。道理で、あれほど話が弾むわけだ……。今朝、薫に電話をかけたとき、話し中だったのも……。あのとき、きっとこの悠先生と話していたのだろう。眼差しが鋭くなる。かつて伊藤彦の殺し屋をしていた頃、耳と目は徹底的に鍛え上げられた。松永晃に片目を奪われた今でも、テーブルのナイフ一本で、悠の心臓を正確に射抜くことができる。ただ、そんなことはしない。少なくとも、今はまだ。「南越財団が今回ノルウェーを選んだのは、東アジア文化交流センターを作るためだそうですね。私は賛成しかねますが、長い目で見れば、悪い話ではないのでしょう」薫は熱いコーヒーをひと口飲み、淡々とそう言った。まるで、自分には関わりのない公務の話でもしているかのようだ。「いい話だけど、厄介でもあるよね……」悠はサーモンをひと切れ切り分け、向かいの薫にちらりと目を上げた。ひどく困ったような口ぶりだった。「特にこの景気だと、プロジェクトをまとめるのは簡単じゃない。午前中にメールが来て、財団の総帥が来週こっちに着くって。うちの学部が受け入れ側だから、これからは嫌でも向こうと一緒に仕事をすることになる……」嵐はブラックコーヒーを頼み、二人の会話に黙って耳を傾けていた。南越財団……。眉がわずかに寄る。思い出したくもない過去が、胸の底でうごめいた。もともと今日ここへ来たのは、薫と偶然を装って出くわすためだった。日々の行動はすっかり把握している。週末になると、薫はいつもひとりでここへ昼食をとりに来るのだ。ところが今日に限って、悠まで一緒にいた。しかも二人は親しげに、自
ダイクマン図書館は、オスロのオペラハウスの隣に建っている。十六夜薫は、この斬新な建物が好きだった。不規則な幾何学模様を描く屋根も、色とりどりの線を組み合わせた装飾も、目にするたびにはっとさせられる。規則正しく生きる男だが、美意識だけは、常人には理解しがたいほど先を行っていた。いま、薫はその小さな食堂の窓際に座っていた。真っ暗な通りに、白い街灯がいくつか灯っている。北欧は何もかも申し分ない。ただ、極夜に入ると三か月あまり、太陽を見ることができない。昔ここに住んでいた人々は、この長く暗い日々を、いったいどうやってやり過ごしたのだろう。とりとめもなく考える。朝倉悠とノルウェーに来て、もう半年になる。英語は通じる。それでも時おり、世間から切り離されているような気がした。そんな息の詰まる暮らしに、嵐が現れたのだ。まったく、笑ってしまう。いい歳をして、知り合ったばかりの男に、ここまで振り回されるとは。魔物にでも魅入られたのだろうか。はじめは確かに、医師としての思いやりと、その人柄に敬意を抱いただけだった。それがまさか、こんなふうに、どんどん手に負えない方向へ転がっていくなんて……。テーブルの隅の水滴を見つめたまま、心はどこか遠くをさまよっていた。湯気の立つコーヒーを両手で包んでいるのに、ひと口も飲んでいない。「薫! 待たせたね」聞き慣れた声に、ぼんやりしていた意識が引き戻された。顔を上げると、悠がこちらへ歩いてくる。手には紙袋を提げていた。「ごめん、途中でちょっと手間取っちゃって」悠は袋をテーブルに置き、茶色のジャケットを脱いだ。下は白地に灰色のチェックのセーターだ。にこりと笑う。「うちの下に新しいベーカリーができてね。マカロンがなかなか美味しいから、少し買ってきたよ」薫は袋に目を落とした。色とりどりの菓子が、小さな箱にきれいに並んでいる。眺めているだけで、少し肩の力が抜けた。「ありがとうございます、悠先生。わざわざすみません」口元が、ようやくわずかにゆるむ。この二日間、びくびくと思い悩むか、自分を責めて後悔するかのどちらかで、心も体もすり減りきっていたのだ。悠は腰を下ろすと、何気なくメニューを薫の前に押しやった。「新しい料理がいくつか出たって、学生が言ってたんだ。僕たちも試してみる?」メニューを開き、慌ただしく目を走らせる。ふと、あの
住所を送り、言われたとおりに待った。だが夜が更けても、玄関のチャイムは一度も鳴らなかった。いつのまにか眠りに落ちていた。浅く、濁った眠りだった。十六夜薫は、いくつもの夢を見た。薄暗い林の中、ひとり、一面の血だまりに立っていた。どこかで誰かが呼んでいる。声のするほうへ歩いていくと、白骨の山の中に、刃物を手にした伊藤嵐がいた。こちらを見て、狂ったように笑っている。逃げようとした。だが無数の亡者の千切れた手足が、足首にしがみついて離れない。青い瞳が、愛おしげにこちらを見つめる。それなのに、殺意は蔓草のように這い広がっていく。「逃げられないよ」煙が立ちこめ、すべてがまたあやしく霞んでいく。嵐の顔がすぐ目の前にあった。熱を帯びて、しっとりと潤んだ眼差し。まるで、こう囁いているようだった。「ちょうだい……薫……」魅入られたように、青白い手がゆっくりと胸をすべっていくのを許した。応えたくなどない。なのに、体が勝手に寄り添っていく。そんな自分を蔑みながら、それでもいっそう深く沈んでいくのを止められない。二人は裸で抱き合っていた。肌の感触はあまりに生々しく、愛しさもまた、あまりに本物だった。いいのだろうか。この人に、許してしまっていいのだろうか。夢の中の嵐は、なりふり構わず口づけを求めた。首筋から下腹へ、唇と歯が肌をなぞっていく。体の芯が熱くなる。けれどその熱は、すぐに冷たい恐怖と羞恥に塗りつぶされた。嵐のぬくもりにすがりたい。なのに頭の中に響くのは、聞き慣れた叱責の声だった。ああ、祖父の声だ。しわがれた、厳しい声。「薫。お前は十六夜家の跡を継ぐ者だ。恥を知れ。家名を汚すな。片時も忘れてはならん!」「薫。男として世を渡るなら、己を省み、己を律し、己を重んじよ!」もがいた。苦しみながら、嵐を抱く腕をほどこうとした。だが、どうしてもできない。強く抱けば抱くほど、相手の体の熱が確かに上がっていくのが伝わってくる。拒もうと口を開いても、喉は焼けた鉄を押し当てられたようで、砕けた喘ぎしか出てこなかった。幼い頃から、古い家のしきたりの中で育った。書を読み、作法を習う。家の掟は一つ残らず骨身に刻みこまれている。竹の物差しを手に自分を諭した祖父の姿を、覚えている。古い家訓の数々を、覚えている。少年の頃、友人の手を握ったというだけで、罰として板の間に正座させられた屈