FAZER LOGIN「俺のこと、信じてくれる?」 優しい声、完璧な微笑み、すべてを見透かす青い瞳。 誰もが信頼する若き医師・嵐。その正体は、血塗られた過去から逃れ、他人の人生を奪って生きる男だった。 彼が惹かれたのは、純真で恋に不器用な国文学者・十六夜薫。 偽りの身分、実の弟との因縁、かつて愛した男の裏切り。 秘密を抱えた嵐は、薫を甘く翻弄しながら、初めて誰かを手放したくないと願う。 愛を知らない男が抱いた想いは、真実の恋か。それとも、残酷な嘘なのか。
Ver maisオスロの極夜は、今年は遅れてやってきた。年内最後の太陽が地平線に沈み、名残の光が、海のように青い男の瞳に映りこむ。
北半球は間もなく、三か月に及ぶ長い夜に入る。昼のない日々は、普通の人間にはこたえる。だが彼にとって、闇こそが唯一の保護色だった。 「伊藤嵐。この名前は、拾いものだ。今日はこの街に来た最初の日。さて……何を話そうか。そうだな、どうしてここに来たのか、だっけ? ここの気候が気に入ったからさ。子供の頃からずっと南で暮らしていたけど……ふっ、あいつも想像しなかっただろうね。一度血に染まった手は、そう簡単には温まらないんだよ。やってしまったことが山ほどある。なら、最後まで貫くしかない。だから俺は、夜の明けない場所へ行く。当然だろう?」 窓の外から最後の陽光が消え、男の輪郭も薄闇に溶けた。目の前のビデオカメラを見つめ、気まぐれに「日記」を撮っている。もともと生活を記録する習慣などない。殺しや放火を生業にする人間にとって、わずかな痕跡を残すことさえ命取りになる。 だが、今日は違う。人生をやり直す、記念すべき日なのだ。過去と完全に決別するため、片目と片脚を差し出してまで地獄を抜け出し、遠いこの国へたどり着いた。 忘れてしまえ。憎しみも恨みも、血の赤も闇の黒も。他人のために命をすり減らすのは、もうたくさんだった。明日をも知れず、刃と炎に追われる暮らしにも、心底うんざりしていた。 そうだ。逆らうと決めたあの瞬間から、その言葉が何度も頭の中を巡っていた。たとえ死ぬことになっても、二度とあの男の言いなりにはならない。 滑稽な話だ。 あの男を思い出すと、整った顔に憤りが浮かんだ。 最後に会ってから、どれほど経っただろう。七年か、十年か。 逃亡を始めてから、一度も会っていない。顔さえ、もうはっきりとは思い出せない。 それなのに、あいつを思うたび湧き上がる恨みだけは、少しも薄れていなかった。 その男は異母弟であり、かつての恋人でもあった。すべてを捧げた果てに返ってきたのは、一枚の指名手配書だけ。遠い昔の彼は、真心を尽くし続ければ、ほんのわずかな温もりくらいは返してもらえると、無邪気に信じていた。 だが、間違っていた。愚かだった。 あの男にとって、彼は利用するための道具でしかなかった。役に立つうちは、永遠の愛だろうと何だろうと、いくらでも口にできたのだ。命を削って差し出した真心も、相手の目にはくしゃくしゃに丸めたごみと変わらない。あいつにとって彼は、よく躾けられた犬だった。 犬は、主人と肩を並べる資格を持たない。犬は畜生で、道具で、いつか悪事が露見したときには、身代わりに差し出される生贄だ。 まったく……口にするのも憚られる過去だな。 苦笑して首を振り、立ち上がって、まだ回っていたカメラを止めた。 ともあれ、今は身軽だ。新しい名前も、新しい身分もある。ずっと憧れていた、平凡で穏やかな暮らしを手に入れればいい。 机の上のパスポートを手に取って眺める。すべては「伊藤嵐」のおかげだった。本物の伊藤嵐はとうに死んでいる。片脚と片目を差し出す代わりに、ダークウェブの人身売買業者、松永晃が、この新しい自分を作り上げてくれたのだ。 「いいね。気に入った」 満足げにパスポートをケースにしまい、鏡の前に立って、部屋の照明をすべて点ける。巨大なクリスタルのシャンデリアが一斉に輝き、きらめきが彼の上に降り注いだ。 洗練され、裕福で、物腰は穏やか。日系の医師、伊藤嵐は、医学界に名を知られた専門家だった。莫大な資産と、数えきれないほどの医学的業績を持っている。身体の障害さえ除けば、生まれながらに恵まれた側の人間そのものだ。 まったく、素晴らしい。かつては夢見ることさえできなかった人生だ。どぶから這い出した蛇が、いまや他人の巣を丸ごと乗っ取った。小首を傾げ、見慣れているのにどこか見知らぬ鏡の中の自分を眺める。唇の端に、悪意に満ちた笑みが浮かんだ。 「残念だったね、伊藤先生。わざわざ海になんか出なければよかったのに」夜は更けていたが、ベールムの通りにはまだ白い街灯がともっていた。伊藤嵐の家は入り江の近くにある。昔ながらの資産家が集まる住宅地から離れた、景色のいい静かなこの場所を、わざわざ選んだのだ。嵐は昔から、隣人というものが好きではなかった。挨拶を交わし、庭の手入れを褒め合い、窓の明かりで互いの暮らしをうかがう。そういう目は、いつか必ず、見なくていいものまで見てしまう。だから、誰の視線も届かない場所に住むことにした。夜更けに何が運びこまれようと、誰ひとり気づかない場所に。車が杏の林をぐるりと回りこむ。緑の木立の奥に建つ白い邸宅が、彼の家だ。眠りこんだ十六夜薫を抱いて中に入ると、AIが起動し、常夜灯がゆっくりと明るくなった。暖炉にひとりでに火が灯る。暖炉のガラス越しの炎が、重なり合う二人の影を照らし、どこか親密で艶めいた気配を添えた。「薫、家に着いたよ」酔った教授をベッドにそっと横たえ、身をかがめて、少し乱れた上着を脱がせてやる。冷たい指輪が火照った肌に触れ、薫はその冷たさに身を縮め、ぼんやりと寝言を漏らした。「嵐……嵐……」くぐもった声で、医師の名を呼ぶ。意識はまだ酔いの底に沈んでいて、自分がどこにいるのかさえわかっていない。嵐は少し驚いた。あの一杯が、ここまで効くとは。それに――夢の中でまで、自分の名を呼ぶのか。おかしなものだ、と思う。これまで嵐の名を最後に口にした人間は、たいてい恐怖に顔を歪めていた。命乞いか、呪いの言葉か。いずれにしても、こんなふうに、迷子の子どもが親を探すような声で呼ばれたことは一度もない。胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。嵐はそれを、夜更けの気の迷いだと片づけた。あまりに無防備なその姿を見ているうちに、腹の底で燻っていた悪意が、少しずつ理性を押しのけていった。身を乗り出し、灯りの下で、その顔をつぶさに眺める。ふうん。たしかに、めったにお目にかかれない美人だ。嵐は機嫌よく、義眼を外した。義眼を外すのは、ひとりきりのときか、相手がもう何も見えないときだけだ。眼窩に残る暗い空洞を知る者は、この街にひとりもいない。人前の伊藤嵐は、穏やかで腕のいい医師だ。柔らかな物腰も、患者を気遣う言葉も、ガラス玉の瞳と同じく、よくできた作り物にすぎない。素顔をさらしても構わない相手の前でだけ、嵐はようやく息がつける。綺麗な顔の分だけ、事
十六夜薫は、おそるおそるグラスを受け取った。指先が触れ合った瞬間、そのかすかな温もりが、長いあいだ眠っていたときめきに火をつけたようだった。恥ずかしそうにうつむき、グラスの中の桃色の液体を見つめる。唇を噛み、ためらいながら顔を近づけ、もう一度そっと口に含んだ。今度は慎重に、酒が舌の上で花ひらくのを待つ。ん……レモングラスの酸味と渋み……。ゆっくり味わってみる。ほかにも何か香りがあるような……杏と、洋梨……?酔いが深まっていく。舌先がうっすら甘い痺れに包まれ、言いようのない火照りがこもって、肌にじんわりと汗が滲んだ。「どう? 少しは慣れてきた?」伊藤嵐は眉を上げ、薫が一杯をゆっくりと飲み干すのを見守っていた。銀の指輪をはめた指先が、楽しげにグラスの縁をくるりとなぞる。薫が目を上げると、笑みを含んだ青い瞳とまともにぶつかった。相手はきちんと距離を保っている。それなのに、その視線は目に見えない網のように、彼をしっかりと絡めとって離さない。「ま……まあ……大丈夫、です」心臓が早鐘を打つ。体はどんどん熱くなり、声まで震えてくる。一杯飲み終えて、少し酒が回ってしまった。なぜか下腹のあたりが妙に熱い。そこに散らない熱の塊が溜まっているようで、張りつめて、むず痒い。嵐は笑って、ゆっくりと身を寄せた。ほんの少し前に傾いた絶妙な角度で、Vネックの襟元から色気のある鎖骨がのぞく。「ほらね。ゆっくりやれば、味の奥行きも深みもわかってくる……まるで……」「心をこめればこめるほど、味わいが見えてくるものがある。あなたみたいにね。俺の可愛いお菓子ちゃん」青年の声は掠れるほど低かった。戯れでもあり、誘惑でもあった。薫ははっと顔を上げた。だが、現実と幻の区別がつかない。今のは、酒のせいで聞こえた幻聴だろうか。うろたえた顔で、睫毛をかすかに震わせる。何か言いかけたそのとき、不意の仕草に口を塞がれた。長い指が、何気ないふうに唇を撫でたのだ。軽薄なのに、拒むことを許さないほど的確な仕草だった。「薫……」目の前の男は、とろけるように優しい顔をしていた。青い瞳の奥には底の見えない海が広がっていて、一目見ただけで、海の底に潜む欲望に深淵へと引きずりこまれそうになる。「それじゃだめだよ。お酒を飲むときは、味ばかり気にしてないで。楽しむことを覚えなきゃ」そう言うと、自分のグラス
古い建物を出てから、伊藤嵐はようやく、そこがアーケシュフース城の前棟だと知った。交流会は、芝生の公園の南にある自然会館で開かれていたのだ。綾瀬学から渡された案内図は、住所を取り違えて印刷されていたらしい。「十六夜教授、一杯どうですか?」駐車場まで来ると、嵐はさっきの誘いをもう一度口にした。十六夜薫は一瞬ぽかんとした。相手が車の鍵を取り出すのを見て我に返り、慌てて何度もうなずく。「ええ、ぜひ! あの……では、私の家の近くの喫茶店はどうでしょう?」喫茶店? こんな夜更けに喫茶店へ行く大人がどこにいる?嵐が黙っているので、薫ははっとした。こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなる。まして相手は多忙な医師だ。慌てて謝った。「す、すみません! 配慮が足りませんでした。では……図書館はどうでしょう。家の近くにもありまして、話ができる小さな食堂が併設されているんです」嵐は可笑しくなった。この人は本当に何も知らないのか? 図書館? 小さな食堂? 俺を未成年の高校生か何かだと思ってるのか。「十六夜教授、俺が言いたいのはね、大人が行くべき場所へ行きませんか、ということです。たとえばバーとか」「大人が行くべき場所」という一言に、薫は喉を詰まらせた。顔がみるみる赤くなり、耳の付け根まで淡い桃色に染まる。もごもごと口を開いた。「バ、バー……それは、いいんですが、ただ……」「ただ、何です?」口調は優しいが、眉のあたりにはからかいの色が浮かんでいる。車のドアにもたれて腕を組み、少し首を傾げて、面白い美術品でも眺めるように相手を見ていた。「ただ、私はそういう場所にほとんど行かないもので……」薫は小声でつぶやいた。叱られた生徒のようだった。「じゃあ、今日は特別ということで」嵐は車のドアを開け、どうぞ、と手で示した。低く艶のある声に、かすかな誘いの色が滲む。「乗って。いい店を知ってるんだ」道中、車内に響くのはナビの案内音とエンジンの低い唸りだけだった。薫はこっそり、隣でハンドルを握る嵐を盗み見た。指の節がくっきりとした、線のなめらかな手だ。なぜか、ひどく安心させられる手だった。「伊藤先生は、以前からよくバーに行かれるんですか」沈黙に耐えかねて、とりあえず思いついた話題を口にする。「たまにね」嵐は気のない調子で答えた。唇の端に、かすかな笑みが浮かぶ。「十六
研究会が終わったときには、もう午後六時だった。雪はいっそう激しくなり、空には一筋の光も見えない。街のあちこちで人工太陽灯が灯っている。偽りの日差しにはひとかけらの温もりもなく、人々は三々五々、暖かな屋内へと急いでいく。伊藤嵐は書類鞄をまとめ、名簿に載っていた地図を頼りに会場を探した。「ここのはずだけど」独り言を言いながら見上げたのは、ランドマークのイプセン像だ。地図によれば、目的地は国立劇場のすぐ隣にある。車を停めて濡れた芝生を横切ると、ナビは中世風の赤レンガの建物が並ぶ一角へと彼を導いた。数百年の歴史がある建物で、奥へ進むほど、古い松材の匂いが鼻をくすぐる。まあ、悪くはない。好きとまでは言えないが、嫌いでもなかった。ただ、古い建築を保護するための市の方針なのか、この棟には電気が通っていない。両側の壁には改良型の灯油ランプがともされ、廊下を隙間風が吹き抜けるたびに灯心が揺れて、影がどこまでも長く伸びた。こんな場所で交流会を開いて、本当に人が来るのか?警戒しながら周囲を見回す。ここは、ホラー映画でも撮るほうがよほど似合いそうだ。「どなたかいらっしゃいますか?」回廊に向かって、ノルウェー語で声を張る。不気味な静寂。声は幽霊のように壁を抜け、廊下で何度もこだました。だが応じる者はない。この建物にいるのは、どうやら自分ひとりだけらしい。まあいい。あの綾瀬学とかいう留学生に、からかわれたんだろう。騙されたと気づいて腹が立ったが、それ以上に自分が可笑しかった。これでも場数は踏んできたはずなのに、真偽もわからない写真一枚に釣られて、のこのこやって来るとは。どれほど抜け目のない政治家でも色仕掛けには弱い、というのは本当らしい。ビデオ通話で裸になり、金をむしり取られる間抜けな男たちのニュースを見るたび、鼻で笑っていたものだ。それが今、自分も同じ罠にはまっている。結局のところ、詐欺に遭わずにいる人間は、利口なわけではない。自分のためにあつらえられた罠に、まだ出くわしていないだけなのだ。あの十六夜薫という男は、あまりにも好みだった。色っぽい三つの黒子に、まんまと釣り上げられたのだ。学生のいたずらで済んだのは幸いだった。のぼせ上がって金を貢ぐ羽目にならずにすんだのだから。もっとも、仮に金を騙し取られていたとしても、その詐欺師は地の果てまで逃げたところで、
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