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第2話

Auteur: 冬霧の島
経過観察のため入院し、数値が安定したのを確認してから、詩乃は退院した。

家に戻ると、珍しくリビングの明かりがついていた。

ドアを開けると、蓮司がソファに座り、仕事の書類に目を通していた。スーツの上着は肘掛けに無造作に掛けられていて、帰ってきてまだ間もないようだった。

物音に気づいた彼はちらりと目を上げ、書類を脇に置いた。

「安奈が、お前が病院に行ったって言ってた。何しに行ったんだ?」

「中絶してきたの」

彼女がそう言いかけたとき、蓮司のスマホが鳴った。画面に表示された名前は安奈。甲高く弾むような着信音が、彼女の声を完全にかき消した。

蓮司は着信を見るなり、目に見えて口元を緩めた。

電話を切ってから、ようやく詩乃に視線を戻し、何気ない調子で尋ねた。

「さっき、何て言った?」

詩乃は彼の落ち着き払った顔を見つめ、ふいに、もう何も言う気が失せた。

安奈は確かに、彼に伝えはするのだろう。

ただし、それが正確に伝わるかどうかは、また別の話だ。

彼女は小さく息をついた。

「何でもない」

寝室へ向かおうと背を向けると、蓮司がふいに立ち上がり、後ろからついてきた。そして、力の抜けた腕で彼女の腰をゆるく抱き、顎を肩に乗せた。

「どうした?」

詩乃は一瞬、動きを止めた。

「何のこと?」

「俺が病院に付き添わなかったから、機嫌を損ねてるのか?」

蓮司の口調は軽かった。まるで、駄々をこねる子どもをなだめているかのようだった。

「今日は少し特別だったんだ。俺と安奈が出会って一万日目でな。あの子はそういう記念日を大事にするタイプだから、一日早くても遅くても駄目なんだ。抜けられなかった」

詩乃はそこでようやく、彼があのメッセージのことを言っているのだと気づいた。

彼はおそらく、彼女がただの検査を受けに行っただけだと思っている。そして離婚を切り出したのも、自分が安奈に付き添い、彼女の通院に付き添わなかったせいだと思っているのだろう。

「あなたに当てつけているわけじゃないの。あとで協議書を作って……」

「最近は仕事が忙しいんだ。安奈みたいな若い子の真似をして、いちいち拗ねるな」

蓮司は彼女の言葉を遮り、少し冷えた声で言った。

彼はソファへ戻って書類を片づけながら、顔も上げずに言った。

「今夜も会社に戻らなきゃならない。それでも、わざわざ時間を作って帰ってきたんだ。お前ももういい年だろ。たまに拗ねるくらいならなだめてやるが、あまり調子に乗るな」

彼は玄関に置いてあった車のキーを手に取った。

ドアが開き、閉まり、彼はそのまま出ていった。

詩乃は笑った。

彼の中では、彼女の感情はすべて「拗ねている」の一言で片づけられるらしい。

離婚を告げたあのメッセージでさえ、彼はまともに受け止めていなかった。彼女が何を求めているのか、向き合おうとしたことも一度もなかった。

彼女は寝室へ戻った。

弁護士は非常に仕事が早く、彼女の要望を聞いてからほどなくして、双方に偏りのない内容の離婚協議書を送ってきた。

詩乃は一通り目を通してから、電子ファイルを蓮司に送信した。

送信して一分も経たないうちに、安奈から返信が来た。

【詩乃さん、蓮司くんの気を引きたいからって、こんなことしちゃ駄目ですよ。彼、こういう試し行為がすごく嫌いなんです!】

【前に私、ゲームに負けて、男友達に恋人のふりをしてもらったことがあるんです。一番仲のいい男の人がどんな反応をするか、試したくて。蓮司くん、それを見てものすごく怒って。あとで試しただけだって説明してからも、私が一生懸命謝って、やっと許してもらえたんですよ。だから、こういうのはやめたほうがいいです】

詩乃は返事をしなかった。

しばらくして、安奈がファイルを送ってきた。開いてみると、蓮司の力強い署名がそこに記されていた。

続けて音声メッセージが届いた。安奈の声は明るく、何も知らないふりをした無邪気さを帯びていた。

「詩乃さん、蓮司くんって私のこと、けっこう信用してるんです。よく見ないで署名しちゃいましたけど、これが何なのか、私から教えてあげましょうか?」

詩乃はその署名を長いこと見つめていた。

予想どおりだった。安奈は口では離婚しないほうがいいと忠告していても、行動はずいぶん正直だった。

詩乃はわずかに口元を歪め、署名済みのファイルを弁護士へ送った。

そのとき、下腹部の痛みがまた波のように押し寄せてきた。

もう何かを考える気力もなく、彼女は体を丸めて目を閉じ、ほどなく深い眠りに落ちた。

深夜、電話の音で目が覚めた。

出た途端、向こうから切迫した声が飛び込んできた。

「詩乃さん、早く来てください!大変なんです!」

詩乃は反射的に起き上がり、下腹部の痛みをこらえながら上着を羽織ると、送られてきた位置情報を頼りに駆けつけた。

場所は会員制のラウンジだった。個室の扉は半分開いていて、中からはグラスの触れ合う音と笑い声が入り混じって聞こえていた。

詩乃が入った瞬間、誰かがはやし立てる声が聞こえた。

「次は安奈の番だぞ!ここにいる誰も知らない秘密、何かあるか?」

安奈は頬を赤く染め、酔いで潤んだ目で蓮司をちらりと見て、笑った。

「もちろんあるよ。私、蓮司くんと寝たことあるもの」

空気が凍りついた。

その場にいた全員の視線が、寝間着にサンダル姿で駆けつけた詩乃へ向いた。彼女の顔は青ざめていた。

その瞬間、詩乃は理解した。

あの電話は、安奈がわざとかけてきたものだったのだ。

この一言を、自分に聞かせるために。

安奈は彼女を見るなり目を輝かせ、ふらふらと立ち上がって歩み寄り、その手をつかんだ。

「詩乃さん、来てくれたんですね。蓮司くんを何とかしてくださいよ。ひどいんです。私がもう疲れたって言ってるのに、毎回なかなか満足してくれなくて。詩乃さんはベッドで、どうやって蓮司くんの相手をしてるんですか?」

個室の中は、水を打ったように静まり返った。

やがて、同情と気まずさの入り混じった視線が、一斉に詩乃へ注がれた。

詩乃の耳の奥で、キン、と音が鳴った。

次の瞬間、彼女は手を振り上げ、安奈の頬を思いきり叩いた。

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  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第9話

    異国の地。窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。海の匂いを含んだ風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。詩乃は悪夢から目を覚ました。背中には、冷たい汗がびっしょりと滲んでいた。また、あの夢だった。彼女は布団の中で体を丸め、膝を抱えたまま、乱れた鼓動が少しずつ落ち着いていくのを待った。そのとき、温かな手が背中に触れた。軽く、ゆっくりと、何度も背中を撫でる。まるで、怯えた小動物を宥めるように。「もう大丈夫。大丈夫だ」低い声が、暗闇の中に響いた。少し掠れていて、それでも不思議と心が落ち着く声だった。詩乃は顔を横へ向けた。窓の外から差し込む月明かりの中、ベッドのそばに座る人影が見える。黒瀬怜央(くろせ れお)。蓮司の宿敵だった男。彼は濃い色の部屋着を着て、ベッド脇の椅子にもたれるように座っていた。手元には開いたままの本が置かれている。もうずいぶん長いあいだ、そこにいたようだった。詩乃は一瞬、ぼんやりした。声には、まだ寝起きの掠れが残っている。「どうして……ここにいるの?」怜央は彼女の背中に置いた手を離さなかった。声は淡々としていた。「佐藤さんが最近、夜中に起きるたびに君の泣き声を聞くと言っていた。眠れていないようだから、故郷に伝わるまじないを試してみたらどうかと。誰かがそばで夢を見張っていれば、悪夢は寄りつかないらしい」詩乃は彼を見た。喉の奥がきゅっと熱くなったが、涙はどうにか堪えた。怜央も、それ以上は何も言わなかった。ただ、手のひらで彼女の背中をゆっくりと撫で続けている。長い時間が過ぎ、詩乃の呼吸はようやく少しずつ落ち着いていった。離れたからといって、すぐにすべてを手放せるわけではない。五年以上の想いだった。彼女は確かに、本気で愛していた。けれど、その気持ちをひとつずつ思い返すたびに、胸が裂けそうなほど痛んだ。詩乃はスマホを手に取った。ブロックリストから蓮司の名前を開き、彼とのトーク履歴を一つひとつ遡っていく。最初の頃のメッセージは、どれも彼女が恐る恐る送ったものだった。【蓮司、今日は寒くなったから、秘書に上着を届けてもらったわ】【うん】【いつ帰ってくる?ご飯、作ってあるの】【分からない。待たなくていい】【分かった。仕事、

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