Se connecterこれで終わったのだと思っていた。けれど蓮司は目を覚ましたあと、どうしても帰国しようとしなかった。どこで詩乃の住所を調べたのか、傷がある程度癒えると、蓮司は彼女の前に姿を現した。脇腹の傷は、明らかにまだ完治していなかった。そこに立つ姿には、どこか痛々しさすらある。詩乃は彼に会わなかった。数日放っておけば、そのうち諦めるだろうと思っていた。けれど彼女は、蓮司の執念を甘く見ていた。蓮司は人づてにジュエリーボックスを届けてきた。中に入っていたのは、カルティエのオートクチュールのネックレスだった。手書きのカードが一枚添えられていて、そこにはたった一行だけ、こう書かれていた。【ごめん。もう一度だけ、チャンスをください】詩乃はそのカードを三秒ほど見つめた。それからドアを開け、蓮司の目の前で、そのジュエリーボックスを床へ叩きつけた。箱が弾けるように開き、ネックレスが飛び出した。砕けたダイヤの欠片が床に散らばり、細かな音を立てて滑っていく。「蓮司、これ以上憎ませないで」蓮司は床に散らばった破片を見つめ、しばらく黙っていた。そして言った。「これが気に入らないんだな。別のものに替えてくる」詩乃は、あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失いそうになった。「そんなことをして何の意味があるの?私たちはもう離婚したのよ」「分かってる。でも……」「もうあなたを愛していないの」詩乃は彼の言葉を遮った。一語一語、はっきりと、迷いなく告げる。「あなたとはもう、何の関わりも持ちたくない。分からないの?今さら愛してるなんて言われても、軽く聞こえるだけよ」蓮司の喉仏が上下した。「構わない。お前が俺を愛していなくても……俺が愛していれば、それでいい」それを聞いて、詩乃は思わず笑い出しそうになった。「あなたが私を愛してる?よくそんなことが言えるわね。愛しているなら、どうして私を一人にしたの?愛しているなら、どうして一度も私の言葉を信じてくれなかったの?そんなものを、どうやって信じろと言うの?」蓮司は何も言わなかった。蓮司はその場で、まっすぐ膝をついた。どん、と鈍い音が響く。床に膝を強く打ちつけたせいで脇腹の傷に響いたのか、蓮司の顔色は一瞬でさらに青くなった。額には冷や汗が滲んでいる。それでも彼は、一言
安奈は、自分の手にあるナイフを見下ろし、全身を強張らせた。「私……私、そんな……」彼女は震えながら、何度も後ずさった。「蓮司くん、わざとじゃないの……そんなつもりじゃなかったの……」蓮司は、地面に座り込んでいる詩乃を見た。血は、蓮司の脇腹から絶え間なくあふれ出していた。顔からはすでに血の気が引き、額には細かな冷や汗が滲んでいる。それでも詩乃を見つめる目には、どこかほっとしたような、穏やかな優しさがあった。「怪我は……ないか?」彼はそう尋ねた。声はとてもかすかで、残った力をすべて振り絞っているようだった。詩乃はその場で固まった。目がわずかに見開かれ、彼のシャツに広がっていく血を見つめたまま、頭の中が真っ白になった。蓮司は彼女に向かって一歩踏み出した。だが膝から力が抜け、そのまま片膝を地面についた。「詩乃……」彼は手を伸ばし、彼女の顔に触れようとした。けれど、その指先は宙で止まった。彼は苦しげに笑い、手を落とした。「ごめん……」次の瞬間、彼の体は前のめりに傾き、重い音を立てて地面に崩れ落ちた。詩乃は、彼が倒れていくのを見た。瞳がかすかに揺れる。考えるより先に、体が動いていた。詩乃はしゃがみ込み、両手で蓮司の脇腹の傷口を押さえる。血が指の隙間からあふれ出した。温かく、ぬめりを帯びていて、どれだけ強く押さえても止まらなかった。「救急車を呼んで。警察にも」声は落ち着いていたが、いつもより明らかに早口だった。怜央はすでに電話をかけていた。彼も険しい顔をしている。足早に近づくと、上着を脱いで詩乃に差し出した。「これで押さえて」詩乃はそれを受け取り、傷口に強く押し当てた。手はわずかに震えていた。けれど顔には、ほとんど表情がなかった。目の前で人が血を流して倒れているのだ。平然としていられるはずがない。蓮司は地面に横たわり、意識が少しずつ薄れていっていた。それでも視線だけは詩乃に向けられ、唇がかすかに動いている。何かを言おうとしているようだった。詩乃は身をかがめて聞こうとはしなかった。それでも、蓮司の声はかすかに届いた。息も絶え絶えで、どこか安堵したような響きがあった。「前は……きっと、すごく痛かったんだろうな。今度は……俺が一度だけ、代わりに痛がるよ……」
詩乃は、少し呆れたように怜央を見た。彼がなぜこんなことをしたのかは分かっていた。きっと、自分に過去と完全に決別させたかったのだろう。詩乃が何かを言うより先に、蓮司が大股でこちらへ歩いてきた。その足取りは速く、焦りすら滲んでいた。けれど詩乃の前まで来ると、彼は急に足を止めた。どう近づけばいいのか、分からなくなったようだった。「詩乃」掠れた声で、彼は言った。「ずっと探していた……どうして何も言わずに消えた?どうして、あのことを俺に話してくれなかったんだ?」彼は手を伸ばし、詩乃の肩に触れようとした。詩乃は一歩、後ろへ下がった。蓮司の手が宙で止まり、目の奥の光が一瞬で翳った。詩乃は彼を見た。表情は静かだった。「勝手に自分に酔わないで。私が何も話さなかったとでも思ってるの?私はちゃんと、全部伝えたわ。妊娠したときも伝えた。でも、あなたは返事をくれなかった。交通事故に遭ったときも電話した。でも、あなたは出なかった。中絶手術で大量出血したとき、医者も看護師も何度もあなたに電話をかけた。あのとき、あなたはどこで何をしていたの?私は全部伝えたのよ、蓮司。なのにあなたは何をしていた?安奈と一万日記念を祝っていたじゃない」そのときのことを思い出したのか、蓮司は喉を何かに塞がれたように、一言も発せなくなった。顔は青ざめ、目元は赤い。唇がかすかに震え、何かを説明しようとしていたが、彼にはもう、その資格がなかった。そのとき、地面に倒れていた安奈が立ち上がり、蓮司の前に飛び出した。彼女は彼の前に立ちはだかり、憎々しげに詩乃を睨みつける。「白川詩乃!何様のつもりなの!どうして蓮司くんを責める権利があるの?あなたの人生には男しかいないわけ?何でもかんでも話さなきゃいけないの?自分のことくらい、自分でできないの?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、蓮司が手を伸ばし、安奈を脇へ押しのけた。その動きには、はっきりとした苛立ちと怒りが滲んでいた。安奈は二歩ほどよろめき、信じられないという顔で振り返った。目元が一瞬で赤くなった。「蓮司くん!私は蓮司くんのためを思って言ってるのに!」けれど蓮司は彼女を見なかった。その視線はずっと詩乃に向けられたままだった。だが口を開いたとき、その声には限界まで押し殺
安奈は先に視線を逸らした。詩乃のそばにいる怜央をちらりと見てから、足早に近づき、声を落とした。「詩乃さん、少し話せますか?」詩乃が答えるより早く、安奈はもう脇の路地へ向かって歩き出していた。詩乃がついてくると、決めつけているようだった。怜央がわずかに眉を寄せ、詩乃を見た。詩乃は彼に小さく首を横に振り、席を立ってそのあとを追った。路地の中は静まり返っていた。両側に建つ建物に遮られて陽射しはほとんど届かず、地面には細い光の帯だけが落ちていた。安奈は振り返ると、前置きもなく切り出した。「詩乃さん、どうしてあの人と二人きりでいるんですか?」その口調には、詰め寄るような響きがあった。「蓮司くんを裏切ったんですか?」詩乃は何も言わず、ただ静かに彼女を見ていた。詩乃が答えないのを見て、安奈はさらに焦ったように言葉を重ねた。「それに、蓮司くんといったい何があったんですか?ここ数日、蓮司くん、別人みたいなんです。ずっとあなたを探してますよ。あなたはどうしてここにいるんですか?私が会いに行っても、会ってくれないどころか、家にも入れてくれなくなったんですよ」最後のほうには、声にかすかな恨めしさが滲んでいた。詩乃には分かった。安奈の長い言葉の中で、本当に言いたいことはただ一つ。蓮司が、彼女に会わなくなったということだけだった。「離婚したの」詩乃は淡々と言った。「あなたも知っているでしょう?」安奈の目の奥に、一瞬だけ嬉しそうな光がよぎった。ほんのかすかな変化だったが、詩乃は見逃さなかった。安奈はすぐにその感情を押し隠し、心配そうな顔を作って、わざとらしくため息をついた。「こんなこと、私が言うことじゃないのは分かってるんですけど……蓮司くん、詩乃さんには十分優しくしていたと思いますよ。本当に離婚なさったんですね。私はてっきり、蓮司くんを試しているだけなのかと思っていました。離婚の原因って、何だったんですか?まさか、私のせい……なんてことはありませんよね?」安奈は小さく笑った。「私と蓮司くんの関係は、詩乃さんもご存じですよね。小さい頃から一緒に育ってきたんです。少しくらい距離が近くても、普通じゃありませんか。私のことで蓮司くんと離婚なさったのだとしたら……少し、分をわきまえていないと思います」
一か月後。詩乃が、あの出来事を思い出すことは少なくなっていた。悪夢にうなされるのも、毎晩から時折に変わり、目を覚ましたときに全身が冷や汗で濡れていることもなくなった。一晩ぐっすり眠れるようになった。朝、悪夢ではなく陽射しに起こされる日も増えていった。この一か月、怜央は詩乃にこれ以上ないほどよくしてくれた。彼女が何気なく、この国のコーヒーは苦すぎると言えば、翌日には家に国内でも名の知れたバリスタが呼ばれていた。鍋が食べたいけれど近くに店がないと言えば、次の日には近所に鍋の店が開いた。ある日、ベランダから階下の花屋を何度か眺めていただけで、夕方に戻ると部屋には白いトルコキキョウの花束が飾られていた。怜央はわざとらしく恩を着せることもなければ、自分からその話を持ち出すこともなかった。まるで、すべてが当然のことのように。けれど詩乃は、ずっと待っていた。彼がいつ、自分の要求を口にするのかを。男が何の理由もなく、ここまで女に尽くすはずがない。彼女は、あの賭けを覚えていた。半年前のことだった。怜央は詩乃の前に現れ、ひどく馬鹿げた賭けを持ちかけた。半年以内に蓮司が改心したら、怜央はもう詩乃の前に現れない。二度と関わらず、そのまま姿を消す。もしそうならなかったら、詩乃は怜央についていき、彼の手配に従う。衣食住は彼が保証する。期限はない。そのときの詩乃は、ただ戸惑うばかりだった。蓮司の宿敵である男が、なぜそんなことをするのか分からなかった。蓮司の妻がどれほど惨めに暮らしているのかを見て、彼を笑いものにするためではないかと疑ったことさえある。けれどその半年、怜央はほとんど姿を見せなかった。連絡もない。現れることもない。存在感すらなかった。まるで最初からいなかったかのように静かだった。ときどき詩乃は、あれは自分が見た夢だったのではないかとさえ思った。だが結果として、怜央は勝った。しかも、完膚なきまでに。半年のあいだ、蓮司が改心することは一度もなかった。彼女に歩み寄り、機嫌を取ろうとしたこともない。それどころか、彼女が妊娠したことも、交通事故に遭ったことも、中絶したことも、何ひとつ知らなかった。詩乃が連れ出された日、怜央は自ら迎えに来た。黒い車が路肩に停まり、彼女の姿を見た
異国の地。窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。海の匂いを含んだ風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。詩乃は悪夢から目を覚ました。背中には、冷たい汗がびっしょりと滲んでいた。また、あの夢だった。彼女は布団の中で体を丸め、膝を抱えたまま、乱れた鼓動が少しずつ落ち着いていくのを待った。そのとき、温かな手が背中に触れた。軽く、ゆっくりと、何度も背中を撫でる。まるで、怯えた小動物を宥めるように。「もう大丈夫。大丈夫だ」低い声が、暗闇の中に響いた。少し掠れていて、それでも不思議と心が落ち着く声だった。詩乃は顔を横へ向けた。窓の外から差し込む月明かりの中、ベッドのそばに座る人影が見える。黒瀬怜央(くろせ れお)。蓮司の宿敵だった男。彼は濃い色の部屋着を着て、ベッド脇の椅子にもたれるように座っていた。手元には開いたままの本が置かれている。もうずいぶん長いあいだ、そこにいたようだった。詩乃は一瞬、ぼんやりした。声には、まだ寝起きの掠れが残っている。「どうして……ここにいるの?」怜央は彼女の背中に置いた手を離さなかった。声は淡々としていた。「佐藤さんが最近、夜中に起きるたびに君の泣き声を聞くと言っていた。眠れていないようだから、故郷に伝わるまじないを試してみたらどうかと。誰かがそばで夢を見張っていれば、悪夢は寄りつかないらしい」詩乃は彼を見た。喉の奥がきゅっと熱くなったが、涙はどうにか堪えた。怜央も、それ以上は何も言わなかった。ただ、手のひらで彼女の背中をゆっくりと撫で続けている。長い時間が過ぎ、詩乃の呼吸はようやく少しずつ落ち着いていった。離れたからといって、すぐにすべてを手放せるわけではない。五年以上の想いだった。彼女は確かに、本気で愛していた。けれど、その気持ちをひとつずつ思い返すたびに、胸が裂けそうなほど痛んだ。詩乃はスマホを手に取った。ブロックリストから蓮司の名前を開き、彼とのトーク履歴を一つひとつ遡っていく。最初の頃のメッセージは、どれも彼女が恐る恐る送ったものだった。【蓮司、今日は寒くなったから、秘書に上着を届けてもらったわ】【うん】【いつ帰ってくる?ご飯、作ってあるの】【分からない。待たなくていい】【分かった。仕事、