LOGIN父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。 何十回も電話をかけたけど、返ってきたのは【手が離せない】という、そっけないメッセージだけだった。 手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。 そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。 写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。
View Moreそう思うと神様のいたずらも、たちが悪いな。「応急処置は?」「処置なんてする暇もなかったって。病院に着いた時にはもう息がなくて。原田先生の話だと、肋骨が全部折れてて心臓に突き刺さってたらしいわ」凛の声は、せいせいしたという響きを持っていた。「救急車の中で死んで、救急処置室にすら入れなかったんだって」そこまで聞いて、電話を切ると私は病室に戻った。父はまだ意識不明のままで、顔に血の気がなかった。私はベッドの横に座って、父の冷たい手を握った。竜也は死んだ。でも父は、まだ目を覚まさない。2週間後、斎場から電話があった。「横山さんのご遺体なんですが、引き取り手がいらっしゃらなくて。もしよろしければ――」「私はもう身内じゃありません」私は相手の言葉を遮った。「あちらのご両親に連絡してください」「横山さんのお父さんは、こんな息子なんていない、と……」電話の向こうで担当者が困っているのが分かったけど、私の心が動かされることはなかった。「でしたら、引き取り手不明のご遺体として処理してください」電話を切ると、私は父のカルテをめくり続けた。主治医の話では、植物状態から意識が戻る確率は、千分の一にも満たないそうだ。でも、私は諦めきれなかった。新婚の時に住んでいた家を売り、私はそのお金をすべて父の治療費に充てた。最新の設備、最善の看護、そして、一番いい薬。さらに私自身も毎朝、父に新聞を読み聞かせた。父が大好きだったスポーツ欄を読み、気にしていた海外のニュースを読んだ。看護師には、どうかしている、植物状態の人に話しかけても意味がない、と言われたが、私は気にしなかった。その日の午後は、とても日差しが暖かかった。私はいつものようにベッドのそばに座って、父に新聞を読んでいた。読み聞かせの途中で、突然父の指がぴくりと動いた。私は一瞬ぽかんとして、手から新聞が滑り落ちて、「お父さん?」と呼んだ。すると父のまぶたが、かすかに震えた。そして、すぐにモニターの数値も変動し始めた。私が慌ててナースコールを押すと、医者や看護師が駆け込んできた。「心拍数が上がっています、血圧も上昇中。瞳孔にも反応が――」ほどなくして父が、目を開けた。そして、私を見つめる父の目には、涙が浮かんでいた。
私は手を引っ込めて、ティッシュで拭いた。「子供?」竜也はぽかんとしていた。「あの日の救急処置室の前で言ったはずよ。あなたなんかに父親になる資格はないって」それを聞いて、竜也の顔から、さっと血の気が引いた。「まさか……子供を、おろしたのか?」私は答えず、カバンから書類を一枚取り出して、竜也の目の前に押しやった。「2年前、あなたは原田先生のオペで医療機器メーカーから賄賂を受け取り、質の悪い心臓ステントを使ったわね」その言葉に、竜也の手の震えが、さらにひどくなった。「患者さんは術後三ヶ月で亡くなった。あなたはカルテを改ざんして、責任を患者さん自身の合併症のせいにした」そう言いながら、私は書類を開き、あるページを指さした。「これは当時の医療機器メーカーの営業からの振込記録よ。1000万円が、三回に分けてあなたのお母さんの口座に振り込まれてる」そう言われ、竜也は椅子に崩れ落ちた。「どうして、君がこんなものを……」「3年間、あなたの良き妻を演じてきたのよ。私がただ家でぼーっとしているだけの女だと思ってた?」私は書類を閉じた。「論文の不正なんて、ほんの前菜。こっちがあなたを刑務所に送るためのメインの証拠よ」すると、竜也は突然ひざまずいて、私の足に両手でしがみついた。「絢香、頼む。俺が本当に悪かった」その瞬間、周りの人たちが、みんなこっちを見てきた。だが、私は動かずに、ただ竜也を見下ろした。「お父さんの心臓バイパス手術の日、覚えてる?」竜也は顔を上げた。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。「あなたが平野さんとディナーを楽しんでいる時、私は集中治療室の外で急変連絡書を見て泣いていたのよ」私の声は、とても静かだった。「お父さんが植物状態と判定された日のことは?」それを聞いて、竜也はさらに全身を震わせた。「平野さんが偽の離婚協議書と中絶同意書をお父さんに見せてショックを与えていた時、あなたは診察室で彼女と私の財産をどう分けるか相談していた」そう言って、私は立ち上がり、竜也を見下ろした。「竜也。あなたがお父さんにしたことは、一生かかっても償えないわ」すると、竜也は這うようにして、私のふくらはぎに抱きついた。「絢香、この通りだ。どうか、見逃してくれ」しかし、私は足
「録音してたのか?」睦月は鼻で笑った。「こっちも馬鹿じゃないですから」それから、二人はもみ合いになり、机の上の書類が床に散らばった。すると、ドアの外で誰かが声を上げた次の瞬間、画面が揺れて映像は途切れた。私は暗くなった画面を見つめ、思わず声を出して笑った。とんだ仲間割れね、見ていてせいせいするわ。夜10時、私のスマホが鳴った。竜也からだった。だが、私は出なかった。あまりにもしつこく、十数回もかけてきたので、私は電源を切った。翌朝、凛からメッセージが届いた。【昨日の夜竜也が家に帰ったあと、やっと鍵が交換されているのに気が付いたみたいよ】【彼の親からも電話で一時間も説教されたんだって】【横山家の恥さらしだって。もう実家には帰ってくるなって言われたらしいわ】しかし、そのメッセージを読んでも、私の心は少しも揺らぐことはなかった。鍵の交換は、凛に頼んでおいたことだ。横山家の人たちの反応も、予想通りだった。彼らはそもそも世間体しか気にしない、人の気持ちなんてどうでもいいと思っているような連中だから。そして、昼過ぎ、私は荷物をまとめて家に帰る準備をした。父はまだ意識が戻らないけど、容体は安定しているようだったから、私は腕利きの介護士を雇って、24時間態勢で看てもらうようにしたのだ。そして私立病院の入り口まで来ると、竜也が階段にうずくまっていた。しわくちゃのシャツを着て、髪はボサボサ。髭も剃っていないみたい。私の姿を見ると、竜也は立ち上がった。「絢香」彼の声はかすれていた。私は足を止めて、彼を見た。「俺が悪かった」竜也はそう言って近づいてきた。「本当に、俺が間違ってた」「家に帰ってやり直そう。睦月とはもう会わない。俺には君と子供だけがいればいい」そう言って、竜也は私の手を掴もうとした。私は一歩、後ろに下がった。「家に帰る?」私は笑った。「竜也、どの顔下げてそんなことが言えるわけ?」そう言われ、竜也がぽかんとしているのを見て、私はカバンから書類の束を取り出すと、彼の足元に投げつけた。「離婚協議書よ。サインして。財産は一切渡さないわ」竜也はそれを拾い上げたけど、その手は震えていた。「絢香、子供はどうなるんだ?」「子供は私が引き取
ついにカーソルは「送信」ボタンの上で止まった、その時、スマホが突然鳴ったのだ。竜也からだった。「絢香、明日お父さんのお見舞いに行こうと思うんだ。何か持っていってほしいものはあるかい?」その声は優しくて、どこか私の機嫌をうかがうような響きがあった。だが、私は画面に並んだ証拠を見つめ、鼻で笑った。「別にないわ」そして、電話を切ると、コーヒーを一口飲んだ。冷たい液体が喉を通り、胃の中まで冷えていき、ついに、私は送信ボタンを押した。メールが送信されたことを知らせる通知音が鳴るのを聞いて、私は椅子の背もたれに体を預け、そっと目を閉じた。復讐の始まりだ。……告発メールを送った次の日、私は病院に行かなかった。父がいる私立病院の部屋でモニターの数字を眺めている間、スマホはずっと震え続けていた。凛からのメッセージが次々とポップアップで表示される。【ネットで大騒ぎになってる】【病院がマスコミで大変なことになってる】【竜也はもう終わりね】だが、私は返信しなかった。ただスマホの電源を切って、父のベッドのそばで一晩中座っていた。そして、夜が明ける頃、凛から電話がかかってきた。「絢香、病院は大騒ぎよ。見に行ってみない?」「行かない」「残念ね、すごい見ものなのに」私は立ち上がり、父の蒼白な顔を一瞥した。「私の代わりに録画しておいて」電話を切ると、ちょうど介護士が朝食を運んできた。でも私は二口食べただけで、胃がむかむかしてきた。つわりだった。そう感じて私は壁に手をつきながらトイレに行き、激しく嘔吐した。そして顔を上げると、鏡に映った自分の顔は真っ青で、目の下には深いクマができているのが目に入った。私は口元を拭って、笑った。竜也、あなたにもこんな日が来るのね。昼頃、凛が動画を送ってきた。病院のロビーは人でごった返していた。マスコミがドアにカメラを向ける中、患者の家族は横断幕を掲げていて、警備員も彼らを止められないでいたのだった。そして、カメラの向きが変わると、そこに竜也が現れた。彼は白衣を着たまま、青ざめた顔で人だかりに囲まれていたのだった。「横山先生、論文の捏造は本当ですか?」「実習生の平野さんとはどういうご関係ですか?」「横山先生が執刀した患者の死亡率は