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思い出の中にだけ、いてほしい

思い出の中にだけ、いてほしい

By:  ココアCompleted
Language: Japanese
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父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。 何十回も電話をかけたけど、返ってきたのは【手が離せない】という、そっけないメッセージだけだった。 手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。 そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。 写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。

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Chapter 1

第1話

父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。

何十回も電話したのに、返ってきたのは【手が離せないんだ】というメッセージだけだった。

手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。

そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。

写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。

一方で、父の手術は終わったものの、その後24時間は集中治療室で様子を見なければならなかった。

それは、生と死を分ける、最後の関門であると言っても過言ではないだろう。

私はドアの外にある冷たい金属のベンチに座って、眩しい赤いランプをじっと見つめていた。周りは静まり返っていて、消毒液の匂いだけが漂っていた。

スマホの画面が、ついたり消えたりを繰り返している中、私は冷え切った指先を無意識にさすっていると、ふと竜也の、あの白くて綺麗な手が頭に浮かんできた。

その手は、かつて結婚式で私の手を握り、永遠を誓ってくれた手だ。

なのに今は、キャンドルの下で他の女のためにステーキを切っている。

フッと、私は軽く嘲笑いを漏らした。

なんだ。竜也の心の中では、私の父が死ぬか生きるかという瀬戸際よりも、あのキャンドルディナーのほうが大事だったんだ。

そう思っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。

竜也が、やっと来たのだ。

白衣姿の彼は、早足で集中治療室のドアの前まで来ると、心配そうに中を覗き込むふりをした。

その優しそうな顔には心配の色が浮かんでいて、まるで理想の婿のように見えた。

私は立ち上がらず、ベンチに座ったまま、彼の芝居を黙って見ていた。

様子がおかしいと気づいたのか、竜也はこちらを振り返り、私の肩に手を置こうと手を伸ばしてきた。

だが、私は、さっと身を引いてそれを避けた。

すると、竜也の伸ばした手は、行き場をなくして宙で止まった。

「絢香(あやか)、すまない」竜也はその場にしゃがみこみ、私の目線に合わせようとしながら言った。「学会が長引いてしまって。終わり次第、すぐに駆けつけたんだ」

そう言いながら、竜也の視線は泳いでいて、充血した私の目をまっすぐ見ようとしなかった。

集中治療室という場所で聞く、彼のくだらない言い訳は、ひどく耳障りだった。

私は何も言わず、ただスマホの画面を彼の目の前に突き出した。

平野睦月(ひらの むつき)のインスタの投稿。キャンドル、赤ワイン、そしてステーキを切り分けている、その手。

それを目にすると、竜也の顔色が一瞬で変わった。

「頭がおかしいんじゃないか?」竜也は声を抑えていたが、怒りを隠しきれていなかった。「お父さんはまだ中で頑張ってるんだぞ。なのに、ここでこんなくだらないことのために俺を問い詰めるのか?絢香、少しは物事の優先順位を考えたらどうだ?」

そう言いながら、彼は立ち上がり、私を見下ろした。

これは竜也がよく使う手段だ。怒りで動揺を隠し、相手を責めることで話をそらす。

それを聞いて、私は顔を上げた。声は大きくなかったが、一言一言はっきりと彼に告げた。

「学会は都心で、このレストランは郊外。間には夕方のラッシュでいつも渋滞する大橋があるわ。竜也、あなたは飛べるわけ?」

すると、竜也は一瞬ぽかんとしたあと、「ここは病院だぞ!」彼の声が急に大きくなった。

「少しは俺の立場も考えてくれ!君がそんなに神経質で疑り深いんじゃ、この先うまくやっていけるわけがないだろう?」

だが、逆ギレして喚きたてる竜也を見て、私はただうんざりしていた。

私の父はまだ集中治療室で治療中だっていうのに、ドアを隔て、外にいるこの男は自分の立場ばかり気にしているのだ。

「静かにして。ここは集中治療室よ。騒いでみっともない真似しないでくれる?」

すると、竜也は私の態度に苛立ったのか、冷たく鼻を鳴らした。

「そんなに俺を信用できないなら、しばらく別居しよう!お互い、頭を冷やす時間が必要だ!」

そう言う竜也の目には、一瞬、得意げな色がよぎった。

今の私は孤立無援であると踏んで、彼は私が泣き崩れて縋ると確信していたのだった。

それが彼の最後の切り札であり、最も得意とする揺さぶりの手口だった。

だが、私は顔を上げて、まっすぐ竜也を見つめた。

「いいわ。でもその話は、お父さんが集中治療室から出て、無事に退院してからにしよう」
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第1話
父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。何十回も電話したのに、返ってきたのは【手が離せないんだ】というメッセージだけだった。手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。一方で、父の手術は終わったものの、その後24時間は集中治療室で様子を見なければならなかった。それは、生と死を分ける、最後の関門であると言っても過言ではないだろう。私はドアの外にある冷たい金属のベンチに座って、眩しい赤いランプをじっと見つめていた。周りは静まり返っていて、消毒液の匂いだけが漂っていた。スマホの画面が、ついたり消えたりを繰り返している中、私は冷え切った指先を無意識にさすっていると、ふと竜也の、あの白くて綺麗な手が頭に浮かんできた。その手は、かつて結婚式で私の手を握り、永遠を誓ってくれた手だ。なのに今は、キャンドルの下で他の女のためにステーキを切っている。フッと、私は軽く嘲笑いを漏らした。なんだ。竜也の心の中では、私の父が死ぬか生きるかという瀬戸際よりも、あのキャンドルディナーのほうが大事だったんだ。そう思っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。竜也が、やっと来たのだ。白衣姿の彼は、早足で集中治療室のドアの前まで来ると、心配そうに中を覗き込むふりをした。その優しそうな顔には心配の色が浮かんでいて、まるで理想の婿のように見えた。私は立ち上がらず、ベンチに座ったまま、彼の芝居を黙って見ていた。様子がおかしいと気づいたのか、竜也はこちらを振り返り、私の肩に手を置こうと手を伸ばしてきた。だが、私は、さっと身を引いてそれを避けた。すると、竜也の伸ばした手は、行き場をなくして宙で止まった。「絢香(あやか)、すまない」竜也はその場にしゃがみこみ、私の目線に合わせようとしながら言った。「学会が長引いてしまって。終わり次第、すぐに駆けつけたんだ」そう言いながら
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第2話
そして少し間をあけて、私は続けた。「それより今すぐ、ここから出て行って。あなたの顔なんか見たくない」そう言われ、竜也は呆然とした顔で、その場に立ち尽くしていた。口をパクパクさせたけど、声は出なかったようだ。結局、竜也はそのまま背を向けて去っていき、白衣の裾が廊下の奥に消えて、足音もだんだん遠くなっていくのだった。それを見届け、私はまた手術室のランプに視線を戻したあと、もう一度、睦月のインスタを開いた。すると、写真には手がくっきりと写っていて、その薬指には私が贈った指輪がはめられていたのが目に入った。私はスマホを置いて、この冷たい廊下で、自分にこう言い聞かせた。この瞬間から、頼れるのはもう自分自身だけなんだ。父が一般病棟に移った次の日、竜也が急に有給休暇を取った。彼は父のベッドに付きっきりで、いつもメスを握ってきたその手も、この時だけは信じられないくらい優しさを込めて父の体を拭いてあげたり、りんごを剥いてあげたりしていたのだった。そこへ薬を替えに来た看護師が、私たちを見てうらやましそうに言った。「奥さん、旦那さんは本当に優しいですね」それを聞いて、私は口の端を少しだけ上げたが、何も答えなかった。父が目を覚ますと、竜也はすぐにその手を握って、目を赤くしながら言った。「お父さん、申し訳なかった。あの日は忙しくて駆けつけられなくて……絢香がまだ怒っていて、口もきいてくれないんだ」そして、竜也は一旦言葉を止めたあと、さらに声を詰まらせながら続けた。「でも、俺には絢香が必要なんだ。お父さんも」すると、父は弱々しく私の方を向いて、責めるような目で言った。「絢香、竜也は人の命を救う大事な仕事をしてるんだ。わがままを言うもんじゃない。夫婦喧嘩もほどほどにしておけ」父の憔悴しきった顔を見ると、私は一瞬声を詰まらせた。「分かったわ、お父さん」すると、竜也の目に、してやったりという光が浮かんだのが見えたので、私はとっさに顔をそむけた。それから、父が眠ると、竜也が近寄ってきて私の手を握ろうとした。私は身をかわして避けた。「私たちのいざこざで、お父さんに迷惑をかけるのはやめて。演技が上手なのは分かったけど、私にはもう通用しないから」すると、竜也の伸ばした手は空中で固まり、気まずそうな顔になった。一方で、私は立ち
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第3話
お腹の子は、私と竜也が別れないようにと、神がくれた思し召しってこと?それとも、この壊れかけた関係に、最後にもう一度だけ修復のチャンスをくれているのかな?一方、竜也は傍でりんごを剥いていた。刃が皮を滑る、かすかな音を聞きながら、私は目を閉じた。キャンドルライトの下で睦月のためにステーキを切ったその手が、今度は病室で私の父のためにりんごを剥いている。竜也のどの顔が、本当の彼なんだろう?それとも、竜也には真心なんてなくて、全部演技なんだろうか?そう思っているとスマホが一度、震えた。開いてみると、睦月からの新しい投稿だった。写真の中の彼女は白衣を着て、手術室のドアの前に立っていた。添えられた文章はこうだ。【横山先生の元でたくさんのことを学ばせてます。感謝します】コメント欄には【横山先生って誰?】という質問があった。睦月は返信していた。【うちの病院で一番腕の立つ心臓外科のエースで、すっごく優しい人よ】私はその写真をじっと見つめ、写真の中で無邪気に笑う睦月の顔がやけに目につくように思えたのだ。すると、竜也も顔を寄せてきた。「何を見てるんだ?」私はとっさに画面を消して、スマホを太ももの上に伏せた。「別に」竜也はリンゴを剥き終えると、小さく切り分けて爪楊枝を刺した。「お父さんが目を覚ましたら、食べさせてあげて」だけど、私はそのリンゴの皿を見ていると、急に吐き気がこみ上げてきた。つわりじゃない。心の底から湧き上がってくるような、嫌悪感だった。一晩中悩んだ末、私はお腹の子を産むことに決めた。入院手続きをする時、私は竜也に、疲れているから少し休養が必要なだけだと言い訳をして伝えた。父にはプロの介護士を二人雇い、さらに親友で弁護士の村上凛(むらかみ りん)にも来てもらうことにした。凛は気が強いから、竜也はいつも彼女には頭が上がらないのだから、凛がいてくれれば、竜也も父の病室でこれ以上お芝居を続けられないだろう。産婦人科の個室はとても静かだった。私はベッドに横になり、下腹部に手を当てて目を閉じて休んでいた。突然、ドアが開けられた。目を開けると、ドアのところに睦月が立っていた。彼女はピンクのワンピースに着替えて、ばっちりメイクをしているのだった。そして、ぽかんとした私の顔を見て、睦月は笑った。そ
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第4話
どうやらさっき、激しく動きすぎたみたい。ナースコールで医者を呼ぶと、診察した医者は、険しい顔で、すぐに流産を防ぐ薬の点滴を手配した。手の甲に針が刺さる瞬間、私はぐっと歯を食いしばった。そして、冷や汗で病衣がぐっしょりと濡れてしまった。布団の中で体を丸めて、点滴の液がゆっくりと落ちるのを、ただじっと見つめていると、一秒一秒が、一年みたいに長く感じられた。お腹の子を失うのが、怖かった。それから、30分ほど経って点滴が半分くらい進むと、下腹部の重い痛みも少し和らいできた。その時、病室のドアが乱暴に開けられた。竜也が、二人の警察を連れて飛び込んできたのだ。「お巡りさん、この人です!」竜也は私を指さして、悲痛な顔で叫んだ。「睦月が救急で診断書をもらってきたんだ。全身打撲だそうだ」そう言いながら、竜也の目は、失望の色でいっぱいだった。「絢香、どうしてこんな乱暴なことをするんだ?睦月は俺の教え子なんだぞ!」竜也の声は震えていた。「本当に、がっかりしたよ!」私はベッドの上で体を起こしたまま、このバカげた茶番をただ見ていた。警察はベッドのそばまで来ると、私の手の甲の点滴針に気づいた。そして、ベッドのヘッドボードにかけられた「ハイリスク妊娠」と書かれた札にも気づいたようだ。「お巡りさん」私は布団をめくって点滴のチューブを見せた。「今、切迫流産で、安静にしていないといけないんです」そう言って、私は竜也を見た。「さっきはあの人が突然襲い掛かってきたんです。私は、自分の身を守っただけです」そして私は、少し間を置いてから続けた。「だから、もし体が動くなら、そこの男も一緒に蹴り飛ばしてやりたかったくらいですよ」それを聞いて、竜也は、全身が凍り付いたように固まった。「安静に?」彼は私をじっと見つめ、唇は血の気を失っていた。事情を確認した警察は、竜也を軽蔑したような目で見た。「奥さんの体調が戻ってから、警察署で事情を聞かせてもらうことにします」警察が帰った後、病室は恐ろしいほど静かになった。竜也はベッドに近づくと、私の手を握ろうと手を伸ばしてきた。「絢香、妊娠してたのか?なんで、俺に言わなかったんだ?」そう言う彼の声は、さっきと打って変わり急に優しくなった。「やっと俺たちにも子供が
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第5話
廊下は長くて、私は必死に走った。下腹部が引き裂かれるように痛むのを堪えて。一歩進むたびに、まるでナイフの上を歩いているみたいだった。そして、父の病室に着く前に、モニターのけたたましいアラーム音が聞こえてきた。私は一瞬、心臓が止まるかと思った。病室に飛び込んだ瞬間、ベッドのそばに睦月が立っているのが見えた。彼女はちょうど二枚の紙を手にして、父に何かを話しかけているようだった。「あなたの娘さんは捨てられたのよ」それは吐き気がするほど甘ったるい声だった。「横山先生はね、彼女は自分にふさわしくないって。だから、彼女のお腹の子もいらないから、明日にも堕ろすようにさせるって」そう言って、睦月はその二枚の紙を、父の目の前に突きつけた。一枚は離婚協議書、そしてもう一枚は中絶手術の同意書だった。すると、父の顔は、みるみるうちに青紫色に変わっていった。父は口を開けて何かを言おうとしていたけど、声を出すことができなかった。シーツを強く握りしめた指は、青筋が浮き出ていた。喉の奥からも「ヒュー、ヒュー」という苦しそうな音が漏れた。「お父さん!」私は駆け寄った。すると、睦月は振り返って私を見ると、一瞬だけ慌てた表情を見せた。でも、それもほんの一瞬のことだった。睦月はすぐにいつものくったくのないような顔に戻り、わざとらしく目を赤くした。すると、父は白目をむき、枕にぐったりと倒れ込んだ。それと同時に、モニターのアラーム音が、耳をつんざくように鳴り響いた。駆け込んできた医師や看護師たちに、私は退室させられた。「ご家族は外へ!」こうして救急処置室のドアが私の目の前で再び閉められた。私はドアの前に立ち尽くし、全身を震わせていた。下腹部の鈍い痛みと、胸をえぐられるような痛みが、一緒になって私を襲い、目の前がかすんで、何も見えなくなってしまった。一方で睦月が、その隙にこっそり逃げ出そうとしていたようだったので、私は、彼女の手首を強く掴んだ。「父に何を言ったの!」睦月はもがきながら言った。「絢香さん、私は何も言っていません。ただお見舞いに来ただけです」「嘘つき!」こうしてもみ合っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。走ってきたのは竜也だった。彼はこのめちゃくちゃな
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第6話
集中治療室の外の廊下で、竜也は私がビリビリに破いたDNAR(蘇生措置を行わない)確認書を見て、少し意外そうな顔をした。「絢香、気持ちはわかる。でも現実を受け入れないと」竜也はため息をついた。「医学的な原則には抗えないんだよ」だが、私はしゃがみ込んで、破いた紙切れを一枚一枚拾い、ポケットにしまった。「まだ心臓は動いている」「だけど……」「心臓が動いている限り、私は諦めない」私は立ち上がってナースステーションへ向かった。10分後、特別療養設備がある私立病院への転院手続きを終えた。竜也が追いかけてきた。「あそこが1日いくらかかるか知ってるのか?生命維持装置なんて、お金をドブに捨てるようなもんだぞ!」「あなたには関係ないでしょ?」そう言われ、竜也はぽかんとした。私は振り返らずに集中治療室へ入り、転院の同意書にサインした。凛が病院に駆けつけたとき、私は父のカルテを整理していた。「絢香、落ち着いて」凛は私の手を握った。「受け入れたくないのは分かるけど、お医者さんは……」「私は冷静よ」私は凛の言葉を遮った。「最高の弁護士を探して。平野さんを傷害罪で訴えたいの」凛は数秒間私を見つめてから、頷いた。「わかった」父が搬送車に乗せられるとき、竜也は入口に立って、何か言いたそうにしていた。睦月は竜也の後ろに隠れていた。顔はまだ腫れていて、怯えた目をしていた。そして、搬送車が出発する直前、私は窓越しに、竜也が睦月の肩を抱くのが見えた。彼はほっとしたようだった。私の行動を、ただの最後の悪あがきだと思ったんだろう。私はカーテンを閉め、背もたれに寄りかかって目を閉じた。父が転院した次の日、私は私立病院から家に戻った。がらんとした家には、竜也の姿はなかった。彼は病院の近くのマンションに引っ越していた。私はまっすぐ書斎に向かった。そのパソコンは3年も起動していなかったが、パスワードは、私たちの結婚記念日のままだ。画面が明るくなると、デスクトップの壁紙が私たちの結婚式の写真のままだったのが目に入った。写真の中の私は、本当に馬鹿みたいに笑っているのだった。壁紙を削除し、私はとあるフォルダを開いた。そこには竜也の論文、データ、実験記録のすべてが入っているのだ。昔、竜也が昇進したいからと資料整理
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第7話
ついにカーソルは「送信」ボタンの上で止まった、その時、スマホが突然鳴ったのだ。竜也からだった。「絢香、明日お父さんのお見舞いに行こうと思うんだ。何か持っていってほしいものはあるかい?」その声は優しくて、どこか私の機嫌をうかがうような響きがあった。だが、私は画面に並んだ証拠を見つめ、鼻で笑った。「別にないわ」そして、電話を切ると、コーヒーを一口飲んだ。冷たい液体が喉を通り、胃の中まで冷えていき、ついに、私は送信ボタンを押した。メールが送信されたことを知らせる通知音が鳴るのを聞いて、私は椅子の背もたれに体を預け、そっと目を閉じた。復讐の始まりだ。……告発メールを送った次の日、私は病院に行かなかった。父がいる私立病院の部屋でモニターの数字を眺めている間、スマホはずっと震え続けていた。凛からのメッセージが次々とポップアップで表示される。【ネットで大騒ぎになってる】【病院がマスコミで大変なことになってる】【竜也はもう終わりね】だが、私は返信しなかった。ただスマホの電源を切って、父のベッドのそばで一晩中座っていた。そして、夜が明ける頃、凛から電話がかかってきた。「絢香、病院は大騒ぎよ。見に行ってみない?」「行かない」「残念ね、すごい見ものなのに」私は立ち上がり、父の蒼白な顔を一瞥した。「私の代わりに録画しておいて」電話を切ると、ちょうど介護士が朝食を運んできた。でも私は二口食べただけで、胃がむかむかしてきた。つわりだった。そう感じて私は壁に手をつきながらトイレに行き、激しく嘔吐した。そして顔を上げると、鏡に映った自分の顔は真っ青で、目の下には深いクマができているのが目に入った。私は口元を拭って、笑った。竜也、あなたにもこんな日が来るのね。昼頃、凛が動画を送ってきた。病院のロビーは人でごった返していた。マスコミがドアにカメラを向ける中、患者の家族は横断幕を掲げていて、警備員も彼らを止められないでいたのだった。そして、カメラの向きが変わると、そこに竜也が現れた。彼は白衣を着たまま、青ざめた顔で人だかりに囲まれていたのだった。「横山先生、論文の捏造は本当ですか?」「実習生の平野さんとはどういうご関係ですか?」「横山先生が執刀した患者の死亡率は
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第8話
「録音してたのか?」睦月は鼻で笑った。「こっちも馬鹿じゃないですから」それから、二人はもみ合いになり、机の上の書類が床に散らばった。すると、ドアの外で誰かが声を上げた次の瞬間、画面が揺れて映像は途切れた。私は暗くなった画面を見つめ、思わず声を出して笑った。とんだ仲間割れね、見ていてせいせいするわ。夜10時、私のスマホが鳴った。竜也からだった。だが、私は出なかった。あまりにもしつこく、十数回もかけてきたので、私は電源を切った。翌朝、凛からメッセージが届いた。【昨日の夜竜也が家に帰ったあと、やっと鍵が交換されているのに気が付いたみたいよ】【彼の親からも電話で一時間も説教されたんだって】【横山家の恥さらしだって。もう実家には帰ってくるなって言われたらしいわ】しかし、そのメッセージを読んでも、私の心は少しも揺らぐことはなかった。鍵の交換は、凛に頼んでおいたことだ。横山家の人たちの反応も、予想通りだった。彼らはそもそも世間体しか気にしない、人の気持ちなんてどうでもいいと思っているような連中だから。そして、昼過ぎ、私は荷物をまとめて家に帰る準備をした。父はまだ意識が戻らないけど、容体は安定しているようだったから、私は腕利きの介護士を雇って、24時間態勢で看てもらうようにしたのだ。そして私立病院の入り口まで来ると、竜也が階段にうずくまっていた。しわくちゃのシャツを着て、髪はボサボサ。髭も剃っていないみたい。私の姿を見ると、竜也は立ち上がった。「絢香」彼の声はかすれていた。私は足を止めて、彼を見た。「俺が悪かった」竜也はそう言って近づいてきた。「本当に、俺が間違ってた」「家に帰ってやり直そう。睦月とはもう会わない。俺には君と子供だけがいればいい」そう言って、竜也は私の手を掴もうとした。私は一歩、後ろに下がった。「家に帰る?」私は笑った。「竜也、どの顔下げてそんなことが言えるわけ?」そう言われ、竜也がぽかんとしているのを見て、私はカバンから書類の束を取り出すと、彼の足元に投げつけた。「離婚協議書よ。サインして。財産は一切渡さないわ」竜也はそれを拾い上げたけど、その手は震えていた。「絢香、子供はどうなるんだ?」「子供は私が引き取
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第9話
私は手を引っ込めて、ティッシュで拭いた。「子供?」竜也はぽかんとしていた。「あの日の救急処置室の前で言ったはずよ。あなたなんかに父親になる資格はないって」それを聞いて、竜也の顔から、さっと血の気が引いた。「まさか……子供を、おろしたのか?」私は答えず、カバンから書類を一枚取り出して、竜也の目の前に押しやった。「2年前、あなたは原田先生のオペで医療機器メーカーから賄賂を受け取り、質の悪い心臓ステントを使ったわね」その言葉に、竜也の手の震えが、さらにひどくなった。「患者さんは術後三ヶ月で亡くなった。あなたはカルテを改ざんして、責任を患者さん自身の合併症のせいにした」そう言いながら、私は書類を開き、あるページを指さした。「これは当時の医療機器メーカーの営業からの振込記録よ。1000万円が、三回に分けてあなたのお母さんの口座に振り込まれてる」そう言われ、竜也は椅子に崩れ落ちた。「どうして、君がこんなものを……」「3年間、あなたの良き妻を演じてきたのよ。私がただ家でぼーっとしているだけの女だと思ってた?」私は書類を閉じた。「論文の不正なんて、ほんの前菜。こっちがあなたを刑務所に送るためのメインの証拠よ」すると、竜也は突然ひざまずいて、私の足に両手でしがみついた。「絢香、頼む。俺が本当に悪かった」その瞬間、周りの人たちが、みんなこっちを見てきた。だが、私は動かずに、ただ竜也を見下ろした。「お父さんの心臓バイパス手術の日、覚えてる?」竜也は顔を上げた。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。「あなたが平野さんとディナーを楽しんでいる時、私は集中治療室の外で急変連絡書を見て泣いていたのよ」私の声は、とても静かだった。「お父さんが植物状態と判定された日のことは?」それを聞いて、竜也はさらに全身を震わせた。「平野さんが偽の離婚協議書と中絶同意書をお父さんに見せてショックを与えていた時、あなたは診察室で彼女と私の財産をどう分けるか相談していた」そう言って、私は立ち上がり、竜也を見下ろした。「竜也。あなたがお父さんにしたことは、一生かかっても償えないわ」すると、竜也は這うようにして、私のふくらはぎに抱きついた。「絢香、この通りだ。どうか、見逃してくれ」しかし、私は足
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第10話
そう思うと神様のいたずらも、たちが悪いな。「応急処置は?」「処置なんてする暇もなかったって。病院に着いた時にはもう息がなくて。原田先生の話だと、肋骨が全部折れてて心臓に突き刺さってたらしいわ」凛の声は、せいせいしたという響きを持っていた。「救急車の中で死んで、救急処置室にすら入れなかったんだって」そこまで聞いて、電話を切ると私は病室に戻った。父はまだ意識不明のままで、顔に血の気がなかった。私はベッドの横に座って、父の冷たい手を握った。竜也は死んだ。でも父は、まだ目を覚まさない。2週間後、斎場から電話があった。「横山さんのご遺体なんですが、引き取り手がいらっしゃらなくて。もしよろしければ――」「私はもう身内じゃありません」私は相手の言葉を遮った。「あちらのご両親に連絡してください」「横山さんのお父さんは、こんな息子なんていない、と……」電話の向こうで担当者が困っているのが分かったけど、私の心が動かされることはなかった。「でしたら、引き取り手不明のご遺体として処理してください」電話を切ると、私は父のカルテをめくり続けた。主治医の話では、植物状態から意識が戻る確率は、千分の一にも満たないそうだ。でも、私は諦めきれなかった。新婚の時に住んでいた家を売り、私はそのお金をすべて父の治療費に充てた。最新の設備、最善の看護、そして、一番いい薬。さらに私自身も毎朝、父に新聞を読み聞かせた。父が大好きだったスポーツ欄を読み、気にしていた海外のニュースを読んだ。看護師には、どうかしている、植物状態の人に話しかけても意味がない、と言われたが、私は気にしなかった。その日の午後は、とても日差しが暖かかった。私はいつものようにベッドのそばに座って、父に新聞を読んでいた。読み聞かせの途中で、突然父の指がぴくりと動いた。私は一瞬ぽかんとして、手から新聞が滑り落ちて、「お父さん?」と呼んだ。すると父のまぶたが、かすかに震えた。そして、すぐにモニターの数値も変動し始めた。私が慌ててナースコールを押すと、医者や看護師が駆け込んできた。「心拍数が上がっています、血圧も上昇中。瞳孔にも反応が――」ほどなくして父が、目を開けた。そして、私を見つめる父の目には、涙が浮かんでいた。
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