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第2話

Author: 星野栄美(ほしの えみ)
琴音は呆れてものも言えなかった。

ずいぶん前から、若菜の娘には同年代の子どもらしい無邪気さがないことに気づいていた。

栞菜は湊の機嫌を取るのがとてもうまい。その一方で、琴音に対する態度はまるで違っていた。

まだ二人の不倫に気づいていなかった頃は、琴音もそれほど深く考えてはいなかった。

だが今になって思えば、この子の振る舞いはすべて、母親に言い含められたものなのだろう。

五歳の娘にこんな「おもちゃ」を持たせて自分を陥れようとするくらいだ。若菜には、きっと何か企みがある。

それが何なのかは、今の琴音にはまだ分からなかった。

琴音は平然と嘘をつく栞菜を冷ややかに見つめ、問いかけた。「栞菜ちゃん、本当にそれ、私の部屋から持ってきたの?」

「うん。琴音おばさんの枕の下にあったよ」

栞菜は瞬きひとつせず、しれっと嘘をついた。

「それは私のものじゃないわ。どこから出てきたものなのかは、温井先生に聞いたほうがいいんじゃないかしら」

琴音は鋭い視線を若菜に向けた。

若菜は慌てて娘を背中にかばった。「子どもは嘘なんてつきませんよ。琴音さんも、そんなに必死に否定しなくても……湊さんの事情は私たちも分かっていますし、そういう欲求があるのは普通のことですから」

「私には欲求があって、温井先生にはないんですか?私の夫はできない。先生には夫がいない。それなのに、どうして私のものだと決めつけられるんです?」

「私は必要ありませんから……」若菜の睫毛がわずかに揺れた。

「どうして必要ないんです?誰かにたっぷり満たしてもらってるから?」琴音は一歩も引かず、畳みかけるように問い詰めた。

ついに湊が苛立った声を上げた。後ろめたさに耐えられなくなったのだろう。「もういい。今は君の話をしてるんだ。なんで温井先生まで巻き込むんだよ?」

漆黒の瞳に苛立ちが滲んでいる。「君は暇すぎるから、そんなことばかり考えるんだ。温井先生は専門性を高めるために努力してる。君とは違うんだよ」

そう言うと、湊は栞菜の手を取った。

まるで本当の家族のように連れ立って去っていく三人の後ろ姿を、琴音は黙って見つめた。

視界が滲み、琴音の脳裏に、初めて湊と出会った日の光景が蘇った。

騒がしい大学の食堂。大勢の学生が行き交う中、湊は片手を無造作にズボンのポケットへ入れ、友人たちと話していた。真っ白なシャツから、くっきりとした鎖骨が覗いている。

時折真剣な表情を見せたかと思えば、ふっと笑う。雑然として、お世辞にも美しいとは言えない場所なのに、彼だけが周囲から切り離されたように輝いて見えた。

琴音は一目で恋に落ちた。

当時の湊は、多くの女子学生の憧れの的だった。

けれど最後に彼の心を射止めたのは、琴音だった。

二人には、確かに幸せな時間があった。

学生時代から結婚するまで、六年もの歳月をかけて彼と歩いてきた。それなのに、ウェディングドレスを着てから赤の他人になるまでは、彼が背を向けるまで、ほんの一瞬だった。

目頭の熱さを堪えるように目を閉じ、琴音は寂しげに笑った。

青春時代にろくでもない男を好きになることくらい、誰にだってある。

後悔することなんて、何もない。

あの頃は顔に惹かれて恋をした。なら、その代償も自分で受け入れるだけだ。

……

夜。

シャワーを浴びた琴音は、洗面台の前に立って髪を乾かしていた。

そこへ背の高い人影が入ってきて、琴音の手からドライヤーを受け取った。

琴音は鏡越しに湊を見つめた。髪を乾かす手つきは、今も昔と変わらずやさしい。けれど、その顔はもう、琴音が記憶の中で愛したあの面影とは違っていた。

髪を乾かし終えた湊は、琴音の首元に顔を寄せ、後ろから腰に腕を回した。

鏡の中で、二人の視線が重なる。

「悪かった。今日は言い方がきつかったよ。温井先生の言うとおりだ。家で自分で処理してくれるなら、外でほかの男を探されるよりずっといい」

琴音は笑いそうになった。

でも、もう説明する気にもなれない。

「それでも意外だったよ。琴音があんなものを使うなんて……」

湊の端整な顔には、理解できないという困惑と、居心地の悪さ、そして苛立ちが浮かんでいた。

「君は厳しい家で育ったお嬢様だろ?おじいさんからずっと、慎み深く、節度をわきまえろって教えられてきたんじゃなかったのか?もう忘れたのか?」

厳格な家風の中で育ったからこそ、二人は結婚するまで一線を越えなかった。

琴音は口元にわずかな笑みを浮かべた。

それだけは、湊の言うとおりだった。

時代はとっくに変わっているというのに、琴音の祖父だけはいまだに大昔の価値観の中で生きているような人だった。

たとえ孫娘が夫に裏切られたと知っても、きっと歯を食いしばって耐えろと言うだろう。

嫁いだ以上、何があっても婚家に尽くせ。離婚だけは許さない、と言うだろう。

だからこそ、湊と完全に縁を切るために、すべてが終わるまで騒ぎを起こすわけにはいかない。そうしなければ、あちこちから邪魔が入る。

琴音は胸の内を悟られないよう感情を押し隠し、淡々と微笑んだ。「湊、人は変わるものよ。あなたも昔は私を愛していたのに、今じゃ他人のために私を蔑ろにできるでしょう?」

湊は息を詰まらせると、琴音を腕の中へ引き寄せた。

「君への気持ちは何も変わってない。ただ、君に逆らわれるのが嫌なんだ。俺は、素直で従順な君が好きなんだよ」

そう言って、湊はやさしく琴音の後頭部を撫でる。「温井先生はずっと真剣に俺を治療してくれてる。今夜……試してみよう」

……

シャワーを終えた湊が寝室へ戻ると、琴音はすでにベッドに横たわり、彼に冷たい背中を向けていた。

湊は布団をめくってベッドに入り、琴音のほうへ身体を寄せた。

その手が腰に触れた瞬間、琴音はすぐに払いのけた。「今夜はそんな気分じゃない」

背後で湊の身体が強張った。

しばしの沈黙が流れ、部屋の空気まで凍りついたようだった。

やがて、責めるような声が琴音の耳に届いた。「君がそんなんだから、俺の病気はいつまで経っても治らないんだ」

琴音は一瞬固まり、すぐに身体を起こした。「私に何の関係があるの?」

「ほかの女ならもっと色気があって、男を喜ばせる方法だって知ってる。拒みたくても拒めないくらい、その気にさせるんだ。それなのに君は、俺を喜ばせようとしたことなんて一度もない。ベッドに入っても、死んだみたいに寝てるだけだろ」

そんな厚顔無恥なことを、湊はさも当然のように言ってのけた。

琴音の爪が掌に食い込む。

見えない手で心臓を鷲掴みにされたようだった。脈打つたびに、鈍い刃で少しずつ切り刻まれていく。

「……ほかの女って、誰?」琴音は突然、笑みを浮かべて問いかけた。

いつもと違うその反応に、湊はなぜか胸騒ぎを覚えた。

後ろめたそうに視線を逸らし、布団を引き上げる。「もう寝る」

部屋は暗闇に包まれた。

それからずいぶん経った頃、湊が枕元に置いていたスマートフォンが立て続けに数回震えた。

湊は手探りでスマートフォンを取ったが、すぐには画面を開かなかった。

まず琴音の顔を画面の明かりで照らし、眠っていることを確かめてからロックを解除する。

画面には、セクシーなナイトウェアを身につけた女の写真が次々と映し出された。

角度も、ポーズも、それぞれ違う。

湊の呼吸が次第に荒くなっていく。

そのすべてを、眠っていると思われていた琴音は見ていた。

仕事着を脱いだ若菜が、どれほど男を惑わせる艶めかしい姿になるのかも。

やがて湊は布団をめくり、音を立てないようベッドから降りた。

まだ二歩も進まないうちに――

「どこへ行くの?」

静かな部屋に、琴音の探るような声が響いた。

同時にセンサーライトが灯る。

湊は動揺を押し隠し、何でもないように答えた。「悪い夢を見たんだ。気分が落ち着かないから、温井先生に少しカウンセリングしてもらってくる」

琴音はもう、その嘘を暴く気にもなれなかった。

この結婚によって味わわされた屈辱は、自分のやり方ですべて返してやる。

「そうだ。思い出したんだけど、店舗用の物件を二つ買いたいの。ここにサインしてくれる?」

琴音は引き出しから二通の書類を取り出し、湊へ差し出した。

湊は訝しげな顔をしながら適当に一枚めくる。確かに不動産関係の契約書だった。

「明日でいいだろ。こんな夜中に急ぐことでもない」

「明日は朝早くから会社でしょう?忘れられたら困るから」

そのとき、湊の手の中でスマートフォンが再び震え始めた。

すっかり気もそぞろになった湊は、琴音から渡されたペンを受け取ると、ろくに確認もしないままさらさらと自分の名前を書き込んだ。

やがて、その姿は扉の向こうへ消えていった。

琴音は書類の間から一通の離婚協議書を抜き取った。唇に、嘲るような笑みがゆっくりと広がっていく。

琴音は別に急いでなどいない。急いでいるのは、湊のほうだ。

仕事では常に慎重で抜け目のない男も、欲に支配されれば、下半身でしか物を考えられない愚かな男に成り下がる。

二通の書類をしまうと、琴音は落ち着いた様子でスマートフォンを開き、書斎に仕掛けておいた監視カメラへ接続した。

湊はまさか、琴音が自分の書斎にこんな仕掛けをしているとは思いもしないだろう。

琴音だって、夫が自分の心理カウンセラーと関係を持つなど、夢にも思っていなかったのだから。

見せてもらおうじゃない。業界でも名の知れた心理カウンセラー・温井若菜が、一体どうやってその「専門性」を磨き、EDに苦しんでいた男を、自分のためだけに奮い立たせているのか。

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