桐生琴音(きりゅう ことね)は書斎の前に立ち尽くし、室内から漏れてくる夫・桐生湊(きりゅうみなと)の苦しげな呻き声を聞いていた。しばらくして、書斎の扉が開き、湊が頬を赤らめたまま出てきた。琴音は、掌に食い込みそうなほど握りしめていた拳をゆっくりと開き、気持ちを落ち着かせて彼に近づいた。「治療、終わった?」湊は手を伸ばし、琴音の長い髪をやさしく撫でた。「ああ」「どうだった?」「いつもと同じだよ。温井先生に過去のことを思い出すように導かれると、どうしても怖くなる。でも、治療中はつらくても、終わったらすごく楽になるんだ」確かに、彼の顔には全てから解放されたような安堵が浮かんでいた。「琴音さん、湊さんのうめき声を聞いて、さぞご心配なさったでしょう?」湊の担当カウンセラー・温井若菜(ぬくい わかな)はそう言いながら書斎から出てきた。潤んだ目を細めて微笑むその姿は、妙に色っぽい。琴音は薄く笑って答えた。「まさか。温井先生は業界でも有名な心理カウンセラーですからね。夫の治療にここまで熱心に付き合っているんですもの、安心していますわ」「湊さんがきちんと協力してくださるから、治療も順調に進むのです」若菜は湊をちらりと見やり、意味深な笑みを浮かべた。湊は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐに目を逸らした。「汗をかいたから、シャワーを浴びてくる」「私も栞菜の様子を見てきますね」二人の姿が視界から消えると、琴音は冷めた目で書斎に入り、まっすぐ奥の休憩室へ向かった。部屋の隅のゴミ箱へ目をやると、琴音はためらいなくそれを逆さにした。丸められた紙くずが床に散らばる中、使用済みのコンドームがひとつ、生々しく目に飛び込んできた。その裏切りの証拠をじっと見つめ、琴音は自嘲気味に笑った。笑っているうちに、目頭が熱くなった。浮気されたこと自体が皮肉なのではない。本当に皮肉なのは、妻とはできないことを、彼がほかの女とは平然とできることだ。三年前、二人は海外のリゾート地で結婚式を挙げた。新婚初夜、湊は「ホテルじゃ味気ない」と言って、無理に車を出して山頂のコテージに向かおうとした。ところが、湊は車の中で琴音を抱こうとした。琴音に断られ、湊は機嫌を損ねた。腹いせに車を飛ばした結果、山道でスリップし、衝撃で腰椎を痛めた。
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