LOGIN結婚して三年。桐生琴音(きりゅう ことね)は、EDに悩む夫とともに病院を巡り、少しでも良くなる方法を探し続けてきた。夫婦の営みがない生活にも文句ひとつ言わず、ただ彼を支え続けていた。 それなのに、桐生湊(きりゅう みなと)は悪びれるどころか、自分を担当する心理カウンセラーと不倫関係に陥った。 琴音に愛の言葉を囁く一方で、愛人と体を重ねる快楽に溺れている。 しかも彼はそれを浮気だとは微塵も思っておらず、ただ「治療の一環だ」と本気で信じ込んでいる。 さらには、琴音が自分から離れるはずがないと、疑いもしなかった。 だが彼は知らなかった。琴音がとうの昔に彼を騙して離婚協議書に署名させ、さらに彼と愛人を社会的に失墜させるための証拠を水面下で集めていることを。 調香を愛する琴音にとって、香水づくりは彼女の夢そのものだ。だが湊は、それを「本業そっちのけの道楽」だと見下している。 やがて、琴音は調香師として一躍脚光を浴び、メディアがこぞって取り上げるほどの存在となった。同時に、これまで隠されていたもうひとつの顔も明るみに出た。 ——これまで見下してきた妻こそ、自分が何度も協業を持ちかけながら一度も相手にされなかった謎の投資家だったのだと、湊はようやく知った。 激しい後悔に苛まれ、彼は琴音の前にひざまずいて懇願した。 「琴音、悪かった。もう一度だけ、チャンスをくれ」 琴音は冷たく笑った。「裏切ったときより、後悔してる今のほうが、ずっと見ものね」 それでも湊は諦めず、琴音のスタジオの隣の物件を買い取り、毎日手作りの朝食を持って現れるようになった。 「一年でも、二年でも、一生でも君を待つ!」 だが一流実業家の東雲玲司(しののめ れいじ)は、湊が持ってきた朝食をためらいなくゴミ箱へ放り込んだ。 彼は琴音の腰を引き寄せると、湊を鋭く睨みつけて言った。 「負け犬はすっこんでろ。俺の女を待つ資格なんて、お前にはない」 愛のない結婚で、見捨てられたも同然の日々を送ってきた琴音は、やがて誰よりも大切にされる女王へと変わっていく。傷だらけの結婚を終えたその先で、琴音は自分の夢を誰よりも信じ、その実現を支えてくれる男と出会う。 そこで琴音はついに理解した。 ――本当に愛してくれる人は、過去に戻ることを求めたりしない。
View More琴音が最も恐れていたことが、とうとう起きてしまった。「……最低」小さく吐き捨てると、急いで千鶴のもとへ向かった。そばまで行くと、千鶴は顔が真っ青なだけでなく、両手まで小刻みに震えていた。琴音はその手を握り、緊張した声で呼びかけた。「お義母さん……」若菜は、この場の後始末をするつもりなどないらしい。そもそも、自分が残ったところで何の役にも立たないと思ったのだろう。そのまま二階へ上がっていった。千鶴の手は氷のように冷たかった。まるで死人の手に触れているかのようで、琴音の胸が締めつけられた。千鶴が大きなショックを受けることは分かっていた。だからこそ、琴音はずっとこの事実を隠してきたのだ。知れば、千鶴が耐えられないのではないかと恐れていたから。千鶴が自分にどれほど申し訳なく思っているか、琴音はよく知っている。けれど、その罪悪感を湊自身は微塵も持っていない。千鶴は以前、こう言っていた。「もし、いつか湊が琴音を裏切るようなことがあれば、絶対に許さない」と。だからといって、琴音は千鶴に自分のために何かしてもらおうとは思っていなかった。ただ、湊の最低な行いのせいで、千鶴の身体にまで影響が出なければ、それでいい。「お義母さん、ソファに座りましょう」琴音は千鶴を支えながら、ゆっくりとソファまで連れていった。「……何か、聞いたんですか?」不安を抱えながら尋ねた。千鶴がどこから聞いていたのか、琴音には分からなかった。ソファに腰を下ろした千鶴の目に、みるみる涙が溜まっていく。喉に何かがつかえたように、口を開こうとしても声が出ない様子だ。「お義母さん、そんなに気を落とさないでください。私は大丈夫ですから……」その姿が痛々しくて、琴音は優しく慰めた。「こ、琴音……あの人、どういう意味なの?湊は……温井先生と浮気してるの?あの人が言ってたこと、本当なの?湊は、あの人とは……できるの?」千鶴は全身を震わせながら、途切れ途切れに問いかけた。その頬を、涙が次々と伝っていく。琴音の胸が重く沈んだ。自分自身はもう、湊に裏切られたという事実を受け入れている。過去に囚われてもいない。自分が思っていた以上に、琴音は強かった。けれど、千鶴がこの事実を乗り越えられるかどうか、それだけが心配だった。千鶴は倫理観のしっかりした
琴音は皮肉げに口元を歪めると、あっさり承諾した。「いいわよ。別に構わないわ」バッグ一つどころか、湊からもらったものを全部持っていってくれても構わない。ちょうど自分で処分するのも面倒だと思っていたところだ。人を愛さなくなれば……その人から贈られたものなど、琴音にとってはただのゴミでしかない。ところが若菜は、すっかり得意げだった。「湊さん、それはよくないんじゃないですか?琴音さんに贈ったバッグなら、もう琴音さんのものでしょう?それを私に譲れなんて……私もバッグは持ってますし、やっぱりいいです。要りません」「気にしなくていいですよ。あれは世界で三つしかない限定品で、かなり高価なものです。琴音は重要な場に出ることもほとんどないですし、持っていてももったいない。温井先生なら、持っていてもその立場にふさわしいと思います」「そうですよ、温井先生。遠慮しないでください。あのバッグ、先生にすごくお似合いだと思います。あとで持ってきますね」ゴミにはゴミがお似合いだわ。琴音は朝食を食べるつもりだったが、すっかり食欲をなくしてしまった。若菜の身体から、嗅ぎ慣れた香水の香りがしたからだ。それは琴音自身が調香した香水だった。それが意味することは、一つしかない。昨夜、実の娘が階段から転げ落ちて入院していたというのに、二人は病院にいながら、わずかな合間にも身体を重ねていたのだ。本当にお盛んなこと。胃の奥から吐き気が込み上げ、琴音は踵を返して二階へ向かった。再び階下へ下りてきたとき、その手には例の限定バッグがあった。湊はすでに出かけたらしい。栞菜の姿もリビングにはなく、若菜だけがソファに優雅に腰掛け、熱いコーヒーを手にしていた。その姿は傲慢なほど堂々としていて、まるでこの家の女主人になったかのようだった。琴音は若菜の前まで行くと、バッグをそのまま放り投げた。まるでゴミでも捨てるように。そのまま立ち去ろうとした瞬間、背後から挑発するような若菜の声が飛んできた。「悔しいでしょう?」琴音の足が止まった。若菜は限定バッグを手に、見せつけるように琴音の前まで歩いてくる。「ふふ、本当に素敵なバッグ。でも湊さんが一言言っただけで、もう私のものになっちゃいました。今頃、焦ってるんじゃないですか?」「私が何を焦るんですか?」
湊は驚いたように琴音を見ると、声を荒らげた。「琴音、何を言ってるんだ?」琴音は若菜の仮面を一枚ずつ剥がすように、鋭い言葉を重ねた。「本人に聞けばいいじゃない。本当にZと知り合いなのかって。もし本当に知り合いなら、一人を紹介するだけでここまで難航する?何度も理由をつけて先延ばしにしてる時点で、どう考えても騙してるでしょ」「琴音さん、言い方がひどすぎませんか?私が湊さんを騙して何になるんです?本当に意味が分かりません!」若菜は強気に言い返したものの、その目には一瞬、隠しきれない動揺が走った。「じゃあ、騙してないって言うなら、今ここでZに電話してみてください。私と湊の前で、あなたたちが本当に知り合いだって証明してください」若菜は、爪が掌に食い込むほど強く拳を握りしめた。「前にも言いましたよね。彼女は今、外部との連絡を断って静養中です」「でも、本人と話して予定を早めてもらえるか聞いてみるって言ってましたよね?」琴音は間髪を入れずに追及した。「会うこともできない。電話も繋がらない。それでどうやって話すんですか?テレパシーでも送るつもりですか?」琴音に一歩一歩追い詰められ、若菜はついに逃げ場を失った。こうなれば、賭けに出るしかない。「私には私なりの連絡方法があるんです。遅くても三日以内には、Zと湊を会わせてみせますから!」「本当ですか?」湊の目が、ぱっと輝いた。彼がここまでZとの提携を急いでいるのには、理由がある。Zは、金融業界で極めて評判のいい大口投資家だ。株式市場には、大きな資金を動かす投資家などいくらでもいる。だが、その大半は何よりも「利益」を優先し、冷徹で、自分の利益のためなら容赦がない。もっとも、それも金融の世界で生き残るための原則と言えば、それまでだ。しかし、Zは違った。義理を重んじ、大局を見る。個人投資家を食い物にすることもなければ、意図的に相場を崩すような真似もしない。噂によれば、彼女が投資を始めた頃の元手は、決して多額ではなかったという。それでも卓越した相場観と売買の才覚だけで資産を増やし、ついには市場で無視できないほどの巨大な影響力を持つまでになった。そして、彼女を「Z」という伝説的な存在へと押し上げたのが、あるエネルギー企業の株をめぐる一戦だった。当時、その銘柄には民営化や交通インフラ関連
しばらく走ったところで、玲司はようやく思い出したように尋ねた。「家はどこだ?」「香月苑」それきり、二人の間に会話はなくなった。普段なら座るはずのない後部座席で、航平は全身を強張らせていた。最初のうちは息をするのも憚られるほど緊張していたが、目的地が近づくにつれ、ようやく肩の力が抜けていった。俺もずいぶん偉くなったもんだ。社長が恋愛脳になると、部下の俺まで恩恵にあずかれるとは。やがて車は香月苑の前で停まった。琴音は車を降りる前、後部座席に向かって丁寧に頭を下げた。「東雲社長、ありがとうございました」ようやく自分が「東雲社長」という設定になっていたことを思い出した航平は、引きつった笑みで手を振った。「いえいえ、どういたしまして」琴音は玲司から借りていた上着を脱ぎ、そっと差し出した。「あなたも、ありがとう」そう告げると、華奢な後ろ姿が一戸建ての邸宅へと向かっていく。玲司の視線は、その姿をじっと追い続けていた。航平は玲司を見たあと、遠ざかっていく琴音へ目を向けた。「ゴホン……」わざとらしい咳払いに、玲司はようやく琴音から視線を外した。どこか苛立ちを押し殺すような空気を纏いながら、後部座席へ戻る。航平は何度も言葉を呑み込んだ。だが結局、耐えきれずにまた諭すような口調で言った。「社長、桐生さんには家庭があるんですよ……」「何を心配してる?俺が彼女の家庭を壊すとでも?」「いや、社長が深みにハマるんじゃないかと心配してるんですよ。『恋した相手は人妻でした』なんて、世間に知られたら外聞が悪すぎるでしょう……」玲司の暗い瞳に、不穏な色が渦巻いた。「お前の口からは、ろくな言葉が出てこないな。薄着のドレス姿で、怪我までしてる女が夜道を一人で歩いてたんだぞ。そのうえ雨まで降ってる。普通なら見て見ぬふりなんてできないだろ」航平は言葉を失った。はいはい。どうせ俺だけ人でなしですよ。……帰宅した琴音は熱いシャワーを浴びると、そのままベッドに入った。頭がぼんやりして、少し風邪を引いたようなだるさがあった。その夜は、ひどく寝苦しかった。凍えるような寒さに襲われたかと思えば、次の瞬間には燃えるように身体が熱くなる。一晩中、寒さと熱に苛まれ続けた。朝六時に目を覚ました頃には、ようやく少し楽になり、体





