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第45話

Author: こいのはな
あのときはあったのかもしれない。

高校の頃、知佳は密かに彼に恋をしていた。でも、話しかけて問題を尋ねる勇気なんて、絶対になかった。もし声をかけたとしても、それは特別な状況で、やむを得ない時だけだったはずだ。

彼はそれを面白い話だと思っているようだった。「覚えてるか?どんな状況で君が俺に聞いてきたのか。君、あの頃あまり喋らなかっただろ。すごく静かだった」

「覚えてない……」彼女には、そんなもの懐かしむ気分には到底なれなかった。

二人の結婚がこんな状態になっているのに、今さら昔の青春を振り返って何になるというのか。

森川拓海、あなたの趣味は本当にノスタルジーなの?結衣ひとりじゃ、思い出に浸るのが足りないわけ?

「俺が教えてやろうか?」彼は英語の本をめくりながら言った。「教科書なんて久しく見てないけど、君に教えるくらいならできる」

彼は本を軽くひらひらと振った。

そのとき、知佳は気づいた。彼の左手の薬指――そこにあったはずの銀の指輪が、もうなかった。

それでいて、今から自分に英語を教えるって?

笑わせないで。

「いらないわ。どうせ勉強したって使わないし、暇つぶしにやってるだけ。ドラマを原語で分かればそれで十分」知佳はそう言って、彼の手を押しのけようとした。

「そうか。君はあまり家から出ないしな……」拓海はそう言うと、本を脇に投げ出した。そして気づいた。今の二人の体勢、どう見てもおかしい。

知佳は必死に彼を押している。

拓海は眉をひそめ、そのまま彼女の手を掴んだ。

「何するの?もう遅いの、寝たいの!」知佳は力を込めて身をよじった。

だが拓海は片手で彼女の手を押さえ、もう片方の手で寝間着の中から指輪を取り出し、強引に彼女の指にはめた。

それは、車の中で知佳が外した翡翠の結婚指輪だった。

彼の表情は、喜んでいるのか怒っているのか分からない。ただ、決して嬉しそうではなかった。「勘違いするな。俺と結衣は、君が思ってるような関係じゃない。何度も言っただろ。誰も森川夫人の座を奪うことはできない。それより、あのダンスの男の方だ。俺が君を抱くと嫌がるくせに、あいつに抱えられて跳んだり回ったりするのは平気なのか?」

「あなたの汚い想像で、私たちのことを語らないで!」知佳は思わず言い返した。

「私たち?誰と『私たち』だ?あいつと?」

拓海の顔には明らかな
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