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第5話

Penulis: 笠一つ
知枝の動きがわずかに止まり、手にしていたシートベルトを健司が受け取った。

「家に帰ったら、お前にサプライズを用意してあるんだ」

健司の声には期待と柔らかな笑みが混じっており、知枝の異変にはまったく気づいていない。

「沢原さんは待たなくていいの?あなたがわざわざ連れてきたんじゃなかったの?」

知枝はふいにそう口にした。少し棘のある、皮肉めいた言い方だ。

健司は一瞬きょとんとしたが、思わず答えた。「母さんが運転手を手配するだろう」

「そう」

知枝は軽く頷き、身をかがめて助手席の隙間に落ちていたリップを拾い上げた。

クリスチャン・ルブタンの「クイーンセプター001G」。圧倒的な存在感を放つ正紅色。蛍の、あの八方美人で完璧なキャリアウーマンらしい色合いだ。

「これ、彼女の忘れ物でしょ?ちゃんと返してあげてね」

そう言った瞬間、知枝は彼の瞳の奥に一瞬だけ走った動揺を見逃さなかった。

けれど、健司はすぐに冷静さを取り戻し、軽く笑って自然な仕草でリップを受け取った。

「彼女は悪い子じゃないんだけど、ちょっと抜けてるんだ。たぶん、午後に俺の車で化粧直ししてたときに落としたんだろ」

そう言いながら、彼はリップを前座席の小物入れに放り込み、軽く言葉を添えた。「今度チャンスがあったときに返しておくよ」

「彼女はいつも助手席に座ってるの?」

知枝がさらりと尋ねると、健司は根拠のない苛立ちを覚えた。

「お前は本当に彼女が気に入らないんだな。俺の助手席に座ることにまで文句を言うのか?

うちの会社と彼女の会社は取引関係にある。打ち合わせのために車に乗せるのは当然だろ。後部座席に乗せたら、まるで俺が運転手みたいじゃないか?

少しでも職場での経験があれば、そんな些細なことは気にしないはずだ」

最後の一言は、まるで「お前はただの専業主婦だ」と叱責しているかのようだ。それに対して、彼の蛍こそが物分かりの良いキャリアウーマンである。

彼は忘れている。かつて彼が津雲家の若者たちの中で頭角を現し、社長代理の座に就けたのは、知枝が寝る間も惜しんで、病気になっても休まずに作り上げた機械学習モデルのおかげであるということを。

彼女は命を削ってまで彼を支えた。それなのに、今の彼の目には軽蔑と偏見しか映っていない。

知枝は、思わず鼻で笑った。

「何がおかしい?」と、健司は「訳が分からない」と感じた。

「別に」

知枝は視線を逸らした。

健司はしばらく運転をせず、狭い車内に張り詰めた空気が、見えない糸のように二人の喉を締めつけた。重苦しい沈黙が続いた。

彼は尋ねず、彼女は語らない。

――今日の知枝は、どこかおかしい。

健司は内心でわずかに不安を覚えたが、思い出したように「家にサプライズがある」と考え直し、問い詰めるのをやめた。

彼女はいつも理解があり、決して些細なことで怒ったりしない。

そう信じて、車のエンジンをかけた。

黒い車体がゆっくりと津雲家の別荘を離れ、闇の中へと消えていった。

その光景を縁側から一人で眺めている安雄は、何気なくカップを手に取った。

向かい側では三郎が囲碁の盤面に目を落とし、苦々しい表情で眉をひそめている。

「お前、海外で暮らしていたのに腕が鈍ってないじゃないか」

「父さんこそ、まったく上達してないね」

遠慮のない一言に、三郎は怒ることなく、むしろ声を上げて笑った。

「そうだな、まったく上手になってない。だが、やはり俺は思う。鉄舟を継ぐのに一番ふさわしいのはお前だと。健司はまだ若すぎる」

三郎は深いため息をつき、ちらりと安雄の足元に視線を落とした。「惜しいな……」

安雄は穏やかに微笑んだ。「もしかすると、これも運命の導きかもしれない」

三郎には、その回りくどい言葉の意味が理解できなかった。ただ、胸の奥に残るのは、名残惜しさと悔しさだ。

――この息子こそ、自分の誇りだったのに。

碁は静かに進むうちに、黒石と白石が次々と盤上に置かれてゆく。

「今度はどれくらい滞在するつもりだ?」

安雄の返答を待たずに、三郎が続けた。「遠農テクノロジーが本社を国内に移すらしいじゃないか。あそこは自動化技術のトップクラスだ。もしそれが本当なら、国内の重工業にとって大きな挑戦になるだろう。

お前が提唱した産業自動化改革、あの時もし事故がなければ、俺は全力で……」

「父さん」

安雄はその言葉を遮った。黒石が盤上に落ちた。

「父さんの負けだ」

三郎はその言葉を聞いて、一瞬手を止めた。

――まるで「あの時信じてくれなかったせいで、鉄舟が今の窮地に陥った」とでも言いたげに聞こえた。

だが次の瞬間、安雄は淡々と告げて、三郎の考えを現実に引き戻した。

「今回は海外に戻らない。健司の補佐をしてほしいと言った件、わかった」

「おお……!本当か!」三郎の顔が明るくなった。「よし!よし!」

……

一方その頃、車内は沈黙に包まれているまま。

知枝は片肘をつき、つまらなさそうにスマホをいじっている。

画面には、見知らぬ番号からのメッセージが次々と表示される。

【今日のあなたは、いつもと違っていたね。私のせいだけじゃないよね?】

【昨日の配信、全部見たよ。あなた、私が贈ったプレゼントもう開けたでしょ?】

【まだ諦めないの?健司は、いつだって私を選ぶわ。信じてる?】

――あからさまな挑発だ。必死に優位を確かめようとする、焦りの匂い。

今日会ったときから、知枝はすでに気づいていた。蛍が焦っていること、そして彼女が自分の反応をどうしても気にしていることを。

そして、思い通りに怒りを表現すれば、相手は反応する。

知枝の唇に皮肉な笑みが浮かんだ。

――賭けているのは、私だけじゃない。

別荘に着くと、知枝は真っ先に車を降り、そのまま家の中へ入った。

迎えに出た使用人たちは、口々に羨望のまなざしを向けながら言った。「奥さま、旦那さまって本当に優しいですね!またたくさんお洋服を買ってくださって!」

「もうすぐ夏ですから、奥さまが新しい服をお持ちでないと困るって、すぐに取り寄せたんですよ!」

「……」

知枝は足を止め、リビングのクローゼットに並んだ新品の服に目を向けた。

――以前なら、それは愛情の証だと思わず感じたのだろう。

だが今、真っ先に頭に浮かんだのは、「婚姻中の贈与品は、すべて換金可能である」という現実的なことだ。

「片づけておいて」

そう言いながら、心の中で計算している。

――試着していない新品であれば、ほぼ新品同様で定価で売れる。

背後から健司が入ってきて、その言葉を聞いた瞬間、胸の中の不安がようやく解けた。

――やはり、彼女はいつものように細かいことを気にしない知枝だ。

健司の顔色が少し明るくなり、歩き出そうとしたとき、ポケットの中にスマホが震えた。

彼はほとんど反射的に言った。「知枝、ちょっと用事ができたから、出かけてくる」

知枝が振り返ると、彼はすでに玄関へ向かっている。

しばらくして、再び見知らぬ番号からメッセージが届いた。

【彼、今すぐ私のところに来るって。まだわからないの?彼の中で、私はどれほど大切な存在なのか】

知枝は少し考えた後、返信した。

【会おう】

そして、時刻と場所を送信した。

――主導権は完全に自分の手の中にある。

メッセージを閉じた後、アプリで4月18日までのカウントダウンを設定した。

健司のように、彼女もあの日を心待ちにしている。すべてを焼き尽くすかのような破滅の衝動が、静かに胸の奥で目を覚ました。

風呂を済ませたあと、知枝はファミリークロークで過去5年間に健司から贈られた品々を丁寧に仕分け始めた。売れるものはすべて売るつもりで。

――離婚はするが、お金は手放さない。

私はすでに三十歳を迎えた。もはや何もいらない、ただ愛情だけで生きていける少女ではなくなった。

それに、これはすべて私が得るべきものだ。

並べ終えてみると、確かに健司は私のために金払いが良かった。

毎年欠かさず、高級ブランドのカバンやジュエリーを贈ってくれていた。

知枝がそれらをフリマアプリに出品し終えた頃、時計の針はすでに午前3時を回っている。蛍との約束まで、あと5時間。

知枝は疲れを感じ、深く息を吐いた。

――まさか、不倫女と会うために、早起きしなきゃいけないなんて。もう学生じゃないのに。

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