Mag-log in知枝は胸の奥がドキリと鳴り、たちまち眠気が吹き飛んだ。彼女は毛布を引き寄せて上体を起こし、ほとんど嫌悪を隠しきれない声で問いただした。「……いつ帰ってきたの?」健司は彼女の声の険しさに気づいたが、寝起きの不機嫌だと勘違いし、特に気に留めなかった。「昨日は残業で遅くなったんだ。お前が気持ちよさそうに寝てたから、起こさないようにしたよ」そう言いながらベッドに近づき、いつもの癖で知枝の乱れた髪を指先で整えようとした。「また髪を乾かさずに寝ただろ?前にも言ったけど、そんなことしてると頭が痛くなるぞ」知枝は眉をひそめ、彼の手を押しのけて、低い声で答えた。「わかってる。次から気をつけるわ」「そういえば、使用人の姿が見えないけど」「半月の休みをあげたの。あなた、最近ほとんど家に帰らないし、あの人たちが何人もいても、私ひとりの世話をするだけでかえって落ち着かないのよ。それに、ファミリークロークのものも多すぎて見飽きたから、この数日で少し処分しようと思ってるの」その言葉は、あらかじめ用意していたセリフだ。知枝はあくまで自然に言い放ち、表情ひとつ乱さなかった。健司は疑わなかった。「そうか。まあ、お前はこの家の奥さまだ。好きにすればいいさ。片づけが終わったら、また新しいものを秘書に送らせよう」「うん」「じゃあ、朝食を作ってくるよ」健司は立ち上がり、優しげに笑った。「久しぶりだな、お前に料理を作るのは」と言い残して部屋を出ていった。ドアが閉まる音を聞きながら、知枝の眉間には深い皺が寄った。その顔に浮かんでいるのは、ただただ耐え難い嫌悪だ。――まるで理想的な夫のようだが、昨日あの車の中で見たあの下劣な姿を、誰が想像できるだろうか。業界の友人たちは皆、口を揃えて言った。「健司は理想的な夫だ。細やかで思いやりがあり、非の打ちどころがない」昔の彼女もそう信じており、幸せだと感じていた。だが今はただ、あの男がアカデミー賞を受賞するほどの名優だと思うだけだ。もし真実を知らなければ、きっと今も騙されたままだっただろう。……三十分後、だらだらと身支度を済ませて階下へ降りると、彼の姿はすでにない。テーブルの上には、サンドイッチとミルクが置かれている。知枝が近づくと、その下に一枚の付箋が貼られていることに気づいた。
そんなの、彼女が認めるはずがない。焦りに駆られた蛍は、健司の存在などすっかり忘れ、カバンをつかむとそのまま外へ飛び出した。スマホを耳に押し当て、秘書の大橋春菜(おおはし はるな)に厳しく指示を飛ばした。「今すぐ出発して。クラブで昭を捕まえるわ。現地で落ち合いましょう!」……レーシングクラブ。昭はソファにだらしなく寝転び、長い脚をぶらぶらと揺らしながら、上機嫌でレースゲームに興じている。一戦が終わると、案の定、二位でゴールした。「チッ、つまんねぇ。毎回お前が一位じゃねぇか。なあ、こっそりチート使ってんだろ?」彼は気持ちが塞ぎ込み、ゲーム内のマイクに向かって不満を漏らした。「あなたに対して、そんなもの使うまでもないわ」ゆったりとした口調で返ってきたのは、知枝の声だ。続けざまに、さらりと尋ねた。「頼んでおいた件、ちゃんと済ませた?」「済ませたさ」昭は急に楽しそうな声を上げた。「なあ、師匠、あの女はお前に何したんだ?彼女って間宮グループの社員だろ?ならお父さんに言ってクビにさせりゃいいじゃん。なんで俺が?」「今のところ、父さんの出番はないわ」知枝は唇を引き結び、小さく吐息を漏らした。――不倫相手を懲らしめる程度で、親まで呼ぶ必要はない。昭は続けた。「俺があのCMを引き受けたのは、お前の顔を立ててのことだぜ。間宮グループの仕事だし、恩を売っときゃ、今後車の改造を頼むときに頭を下げなくて済むと思ってな。でも、今回は師匠の言う通りにして、一肌脱いだんだ。そろそろ俺の車も改造してくれてもいいんじゃね?」結局、話はいつものレースカー改造に戻った。知枝は心底あきれた。――この男の車好きは筋金入りで、まるでレースが生きる理由そのもののようだ。「もう少し忙しいの」「何にそんなに忙しいんだ?」昭が首をかしげた。「最近、何も話してくれねえじゃん。俺のこと、まだ舎弟だと思ってる?」その時、扉がノックされ、小さな巻き毛頭の部下・家田潤(いえだ じゅん)が駆け込んできた。「昭さん、外に女が二人来てる。鳴海電気自動車の人たちだって、昭さんに会いたいって」次の瞬間、潤は昭に思い切り蹴り飛ばされた。「会うかってんだ!二度と来るな!」昭は眉間にしわを寄せ、露骨に嫌そうな表情で言った。「さっきCMキャンセル
夜は墨のように濃く、静まり返っている。安雄は車椅子に腰かけ、傍らには淡いオレンジ色の明かりを灯すフロアランプが置かれている。膝の上には、読み終えた資料が一冊広げられている。そこに記されているのは、ここ数年の健司に関する詳細な調査報告だ。彼は大きな掃き出し窓の外に広がる夜景を見つめながら、瞳の奥に言い表せないほど深い色を宿している。その眼差しには、まるで他人の悲劇を観賞するかのような、冷ややかな愉悦が潜んでいる。――なるほど。知枝は、すべてを知ってしまったのか。……翌朝。知枝はスマホのカウントダウンアプリの通知音で目を覚ました。4月18日まで――残り12日。昨夜、健司は書斎で眠った。知枝は心の底から、蛍が彼を満足させてくれたことに感謝している。そうでなければ、きっと彼はまた自分の部屋に押しかけてきただろう。しかし、その夜、彼女は一晩中悪夢にうなされた。夢の中で、母の幸子は死に顔のまま目を閉じられず、血の気の引いた手で彼女の手を強く握りしめていた。「知枝……あの人たちを、絶対に許さないで……」幸子の怨嗟に満ちた叫びが、今も耳の奥で響いている。目を覚ますと、枕はすでに涙で濡れている。知枝は重い体を起こし、冷水のシャワーを浴びた。骨の髄まで凍えるほどの冷たさに震えながら、ようやく浴室を出た。裸足の足裏が床に触れるたびに、現実の冷たさが身に染み渡る。使用人たちはすでに休暇に入っており、広い別荘には彼女一人だけだ。午前中いっぱい、知枝はファミリークロークにこもり、売りに出す品々を一つ一つ丁寧に梱包している。そして、昨日健司がつけていた腕時計を見つけた。――残念だ。去年、あれほど心を込めて贈った誕生日プレゼントだったのに。今はもう、汚れてしまった。彼女はそれに触れることすら嫌悪し、すぐに写真を撮ってフリマアプリに出品した。ヴァシュロン・コンスタンタンのオーヴァーシーズシリーズ、金無垢の時計――出品価格はわずか五千円。それは、昨夜の蛍の見せつけに対する知枝からの静かな返礼である。ネットユーザーたちは、まるで顕微鏡で覗くかのような鋭い目を持っている。そう遠くないうちに、この投稿の裏に隠された意味を読み取るだろう。その頃。会議を終えたばかりの健司の表情は、まるで暗雲が立ち込めるかのように険し
健司は知枝を家まで送る道中、眉間に深い陰りを浮かべたままだ。知枝はただ疲れ果てており、彼にかまう気力もない。今の彼女の心は、まるで澄み切った鏡のように、すべてを見透かしている。結婚して五年、彼女は健司の性格をよく理解している。彼は野心家で支配欲が強く、自分の掌の外にある行動を一切許さない男だ。そして、そうした男ほど、危うい境界線を歩く快感に溺れやすい。すべてを把握しているという錯覚と、崩壊寸前の危うさが共存するその刺激に、やみつきになってしまう。今、健司は蛍が自分の限界を試そうとしていることに気づいている。怒りを押し殺し、表情を取り繕う余裕すらない。別荘の門の前に着くと、知枝は車を降りた。「知枝、ちょっと用事がある。夜には戻って、一緒に食事をしよう。ちゃんとお前と過ごすから」そう言い残すと、健司はエンジンをかけて車を走らせた。知枝はその車が道の果てに消えるのを見届けてから、ゆっくりと家の中に入った。ダイニングルームのテーブルには、数本の栄養剤が静かに並べられ、冷めた白湯が一杯置かれている。知枝はその場に立ち尽くし、ぼんやりと辺りを見つめた。脳裏には、これまで何度も見聞きした健司の優しい言葉や仕草が浮かんでいる。だが、その幻が壊れた今となっては、思い出すだけで背筋が凍った。五年間、日々欠かさず毒薬を飲ませ続けた――健司の心は、いかに冷酷であることか。逆に考えれば、蛍をどれほど愛しているか。彼女のために、自分の血統を絶つ覚悟さえしているのだから。知枝は深く息を吸い込み、込み上げる嘲笑を飲み込んだ。スマホを取り出して栄養剤の写真を撮った。そして、専門機関に検査を依頼するため、即日配達便で栄養剤を美南に送るつもりだ。配達員を待つ間、知枝はフリマアプリのメッセージを次々と処理している。やがて配達員が栄養剤を受け取りに来ると、知枝は風呂に入り、全身を洗い流して着替えた。体から健司の残り香をすべて消し去るように。使用人が三度目の声かけで、昼食の時間であると気づいた。ようやく知枝は階下に降り、昼食の席に着いた。だが、数口食べただけで箸を置き、使用人の一人に声をかけた。「明日からみんな休みにして。18日以降にまた連絡するね」「えっ?」使用人は目を丸くした。「奥さま、こんなに長いお休みって、
8時15分、知枝はカフェのドアをくぐった。通勤ラッシュの真っ只中、行き交うサラリーマンたちは慌ただしくコーヒーを買い求め、誰一人として隅のボックス席に座る女性に注意を向ける者はいない。知枝はホットラテを一杯注文し、それを手に蛍のもとへ向かいながら、頭の中で何度もそのラテを相手の頭にぶちまける光景を思い浮かべている。だが、その妄想は、蛍が顔を上げてこちらを見た瞬間に霧散した。その女は、驚くほど美しい。艶やかな紅い唇、輝きを帯びた両目、そして隠しきれない野心と自信が滲み出る表情――全身から攻撃的なほどの華やかさが放たれている。長く名利の世界に身を置いてきたせいか、年下のはずなのにどこか大人びた艶をまとっている。自然と、知枝は親友の美南の言葉を思い出した。「沢原と比べたら、あなたなんて鳥籠の中のカナリア。あの人こそ、空を翔ける鷹よ」確かに、その通りかもしれない。けれど……それがどうしたというのだ?結局のところ、蛍もまた俗世の女である。鷹という名ばかりで、やっていることは不倫女と同じだ。知枝は手の中のホットラテをぎゅっと握りしめた。――やめておこう。この女の顔は、まだ健司を誘惑するために必要だから。蛍は知枝が席に着くのを見届けると、アイスアメリカーノを一口飲み、甘ったるいほどの笑みを浮かべた。「それで、どう話すつもり?もう降参してくれるのかしら?そうそう、昨日の夜ね、健司――あの人はずっと私のそばにいてくれたの」蛍はわざとらしく困った顔を作ったが、口元の笑みはどうしても隠せない。「私の体調をちゃんと覚えててね。『痛い』って言ったらすぐにプレゼントをくれて、しかも自分で蜂蜜水まで作ってくれたの。健司もあなたのことを話してたわよ。『あいつは全然痛がらないから、つい忘れるんだ』って。知枝さん、女はね、強くあるべき時と弱くあるべき時があるの。あなた、そのバランスがまったくわかってないのね?」その言葉に、知枝は冷ややかに蛍のカップへ視線を向けた。――確かに、自分には蛍のような演技力はない。生理不順のときも、自分で病院に通い、苦くてたまらない薬を我慢して飲み続けた。いつか体が整えば、彼との間に子どもを授かれると信じていた。……でも、薬では治せないものもある。恋に夢中になってしまったら、薬では治せない
知枝の動きがわずかに止まり、手にしていたシートベルトを健司が受け取った。「家に帰ったら、お前にサプライズを用意してあるんだ」健司の声には期待と柔らかな笑みが混じっており、知枝の異変にはまったく気づいていない。「沢原さんは待たなくていいの?あなたがわざわざ連れてきたんじゃなかったの?」知枝はふいにそう口にした。少し棘のある、皮肉めいた言い方だ。健司は一瞬きょとんとしたが、思わず答えた。「母さんが運転手を手配するだろう」「そう」知枝は軽く頷き、身をかがめて助手席の隙間に落ちていたリップを拾い上げた。クリスチャン・ルブタンの「クイーンセプター001G」。圧倒的な存在感を放つ正紅色。蛍の、あの八方美人で完璧なキャリアウーマンらしい色合いだ。「これ、彼女の忘れ物でしょ?ちゃんと返してあげてね」そう言った瞬間、知枝は彼の瞳の奥に一瞬だけ走った動揺を見逃さなかった。けれど、健司はすぐに冷静さを取り戻し、軽く笑って自然な仕草でリップを受け取った。「彼女は悪い子じゃないんだけど、ちょっと抜けてるんだ。たぶん、午後に俺の車で化粧直ししてたときに落としたんだろ」そう言いながら、彼はリップを前座席の小物入れに放り込み、軽く言葉を添えた。「今度チャンスがあったときに返しておくよ」「彼女はいつも助手席に座ってるの?」知枝がさらりと尋ねると、健司は根拠のない苛立ちを覚えた。「お前は本当に彼女が気に入らないんだな。俺の助手席に座ることにまで文句を言うのか?うちの会社と彼女の会社は取引関係にある。打ち合わせのために車に乗せるのは当然だろ。後部座席に乗せたら、まるで俺が運転手みたいじゃないか?少しでも職場での経験があれば、そんな些細なことは気にしないはずだ」最後の一言は、まるで「お前はただの専業主婦だ」と叱責しているかのようだ。それに対して、彼の蛍こそが物分かりの良いキャリアウーマンである。彼は忘れている。かつて彼が津雲家の若者たちの中で頭角を現し、社長代理の座に就けたのは、知枝が寝る間も惜しんで、病気になっても休まずに作り上げた機械学習モデルのおかげであるということを。彼女は命を削ってまで彼を支えた。それなのに、今の彼の目には軽蔑と偏見しか映っていない。知枝は、思わず鼻で笑った。「何がおかしい?」と、健司は「







