Masuk「この魚、私を見てます」 水族館で働く水無月透は、魚の視線が分かる特殊な能力を持っていた。しかし人間とは深く関われず、孤独に生きてきた。ある水曜日、同じ能力を持つ女性・七海と出会う。彼女の左手首には、濡れた包帯。その下に隠されていたのは――青緑色に輝く、魚の鱗だった。 「私、週に一度、魚になるんです」 月曜日ごとに体が変態していく七海。やがて彼女は完全に魚になることを選ぼうとする。言葉では想いを伝えられない透は、不合理な決断をする――「俺も魚になる」と。 境界を生きる者たちの、切なくも温かい恋物語。 「土曜日の魚は恋をしない。でも、水曜日の君となら、永遠に恋ができる」
Lihat lebih banyakそれから三ヶ月が経った。 水族館は、以前にも増して活気づいていた。 美月の存在が話題を呼び、来館者数は倍増した。しかし、それは見世物としてではなく、彼女の言葉に救われる人々が増えたからだった。「自分らしくいていい」 美月のメッセージは、多くの人の心に響いた。 境界にいる者たちも、少しずつ水族館を訪れるようになった。 鳥になりかけていた男性は、今では羽毛を誇りに思えるようになった。 猫の耳が生えた少女は、それを隠さなくなった。 植物化しつつあった老人は、光合成の喜びを語れるようになった。 水族館は、彼らの聖域になった。 そして透と美月は、その守護者として。 ある水曜日の朝、透は美月にプロポーズした。 深海魚エリアの、リュウグウノツカイの水槽の前で。「美月さん」 透は膝をついた。「僕と、結婚してください」 美月は驚いて目を見開いた。「え......」「僕は、あなたを愛してます。人間として、魚として、その境界にいる存在として」 透は指輪を差し出した。 それは普通の指輪ではなかった。透が自分で作った、魚の鱗をモチーフにしたデザイン。「この指輪は、僕らの愛の証です。完璧じゃないけど、唯一無二」 美月の目から、涙が流れた。「......はい」 彼女は微笑んだ。「喜んで」 二人は抱き合った。 リュウグウノツカイが、祝福するかのように、赤い鰭を大きく広げた。 結婚式は、水族館で行われた。 来賓は、職員と、境界にいる者たち。 鳥人の男性、猫耳の少女、植物人の老人。そして、普通の人間たち。 みんなが、二人を祝福した。「誓いますか」 館長の鳴海が、司式を務めた。「病める時も健やかなる時も、人間である時も魚である時も、愛し続けることを」
美月が水族館で働き始めて一週間が経った。 彼女の存在は、水族館に新しい風を運んできた。来館者は、美月の不思議な雰囲気に惹かれた。特に、深海魚エリアでの彼女の解説は評判になった。「この魚は、光の届かない深海で生きています」 美月は、チョウチンアンコウの水槽の前で語る。「暗闇の中で、誰にも見られることなく。でも、孤独ではありません。同じ暗闇を生きる仲間がいるから」 子どもたちが、熱心に聞いている。「皆さんも、時々暗闇を感じることがあるかもしれません。でも、大丈夫。どんな暗闇にも、必ず光を見つけることができます」 美月は自分の腕を見せた。光の角度で浮かび上がる鱗。「私の体にも、暗闇がありました。でも、それは私の一部。恥ずかしいことじゃなくて、私を特別にしてくれるもの」 子どもたちは、美月の鱗に見入っていた。 その様子を見ていた透は、胸が温かくなった。 美月は、自分の在り方を肯定できるようになった。人間と魚の境界にいる自分を、恥じるのではなく、誇りに思えるようになった。 昼休み、透と美月は職員食堂で向かい合っていた。「水無月さん」「はい」「私、幸せです」 美月は微笑んだ。「ここで働けて。水無月さんと一緒にいられて」「僕も」 透も微笑んだ。「でも、一つだけ心配なことがあるんです」「何ですか」「月曜日」 美月は自分の左腕を見た。「あの水槽で安定したけど、月曜日に何が起きるか分からない」「また変態が進行する?」「かもしれない。あるいは、逆に人間に戻るかもしれない」 透は美月の手を取った。「何が起きても、一緒にいます」「ありがとう」 日曜日の夜、透と美月は水族館に残った。 月曜日への変化を、一緒に見守るために。 深海魚エリアの新しい水槽の前で、二人は座っていた。
火曜日の夜、透と美月は地下の「中央室」にいた。 虹色に輝く水。その神秘的な光が、部屋全体を照らしている。 館長の鳴海と美咲が見守る中、透は水着に着替えた。美月はすでに全身が鱗に覆われており、服を着る必要はなかった。「準備はいいか」 鳴海が聞いた。「はい」 透は答えた。「美月さん、行きましょう」 美月は頷いた。もう人間の言葉は話せないが、意思疎通はできた。 二人は水槽に入った。 水は、想像以上に温かかった。そして、不思議な感覚があった。まるで、水ではなく、記憶の中を泳いでいるような。 透は美月の手を取った。鱗の感触が、水中では柔らかく感じられた。 水槽の底に降りると、視界が変わった。 周囲の水が、様々な色に輝き始めた。青、緑、紫、金。色が渦を巻き、二人を包み込む。 そして、透は聞いた。 声――いや、声ではない。思念? それとも記憶? それは、美月の心の声だった。 「私は、どうしたいの?」 美月の問いかけ。それは自分自身への問いでもあった。 「人間でいたい。でも、辛い」 「魚になりたい。でも、失いたくないものがある」 「どうすればいいの?」 透は美月の手を握り締めた。 そして、思った。 「僕が、答えを見つける」 水が、激しく渦巻き始めた。 透の視界が歪み、時間の感覚が失われる。 そして、透は見た。 美月の過去を。 小さな女の子。海辺で遊んでいる。波と戯れ、魚を追いかけ、笑っている。 その子は、幸せそうだった。 しかし、時間が進む。 学校。友達の輪に入れない少女。一人で、海の絵を描いている。「変な子」「暗い子」 周りの声。少女は、自分を閉ざしていく。 さらに時間が進む。 社会人。オフ
透が水族館最寄りの海岸に着いたのは、午後十時を過ぎていた。 防波堤の上を走り、暗い海を見渡す。月が海面を照らし、波が静かに打ち寄せている。「美月さん!」 透は叫んだ。「美月さん! どこですか!」 返事はない。ただ波の音だけが、透の声を飲み込んでいく。 透は防波堤から飛び降り、砂浜を走った。足が砂に取られ、何度も転びそうになる。「美月さん!」 その時、波打ち際に何かが見えた。 人影――いや、人ではない。何か別のもの。 近づくと、それは美月だった。 彼女は波打ち際に座り、波が足を洗うたびに、小さく震えていた。全身を覆っていたコートは脱ぎ捨てられ、鱗に覆われた体が月光を反射して輝いていた。「美月さん」 透は彼女の隣に座った。「水無月さん......」 美月は顔を上げた。その顔は、もはやほとんど人間のものではなかった。鱗が顔全体を覆い、目が大きくなり、口が前に突き出している。 それでも、透には彼女だと分かった。「どうして来たんですか」 美月の声は、もう人間の声帯から発されているとは思えない響きだった。「迎えに来ました」「迎えに......」「水族館に戻りましょう。準備はできています」 美月は首を横に振った。「ダメです。私、決めたんです。自然の海で、魚になるって」「どうして水族館じゃダメなんですか」「水族館は、檻だから」 美月は海を見た。「あそこでは、本当の魚にはなれない。ガラスに囲まれて、人間に見られ続ける。それは、魚の生き方じゃない」「でも......」「ここなら、自由です。広い海で、どこまでも泳げる。誰にも縛られない」 透は美月の肩に手を置こうとして、躊躇した。彼女の体は、もう人間のそれではなかった。「美月さん、本当にそれでいいんですか」「......