LOGIN「俺の教え子の言葉は、そのまま俺の考えでもある」昌成は真顔で口を開いた。「彼女を侮辱するのは、この小林昌成を侮辱するのと同じことだと思っていただきたい」「小林さん、それはさすがに言い過ぎでは……」近くにいた外国人の中年技術者が気まずそうに口を挟むと、周りの連中も気圧されたようにうなずいた。この業界で昌成の名を知らない者はいない。ラボ自体は小規模だが、背後には正体の知れない支援者がついており、この数年は彼らのプロジェクトを何度も救ってきた実績もある。今回のやり取りで自分たちに分がないことは重々承知しているので、内心は釈然としないままだったが、昌成の前ではもう知枝に手を出すような真似はできなかった。こうして場の空気は気まずいまま、話はうやむやに終わった。知枝は昌成を見上げ、「先生、さっきの私は、もう少し言い方を柔らかくした方がよかったでしょうか」と尋ねた。「いや、あれでよかった。よく言ってくれたよ。最初からあいつらがああいう連中だって分かってたら、わざわざ呼び出して紹介なんかしなかったさ」昌成は目を細めて笑い、「マイクたちは、ちょっと成功したくらいで、自分たちがどんなふうにここまで来たかすっかり忘れてる。今のあいつらには、君みたいに肝の据わった若いのから一発かましてもらうくらいがちょうどいいんだ」と言った。「あいつら、昔会った頃は、自分たちが若いときにどれだけ馬鹿にされてきたかって散々こぼしてたくせに――今じゃ、誰よりもふんぞり返ってるんだからな。いいか、俺が後ろにいると思っておけ。何か嫌味を言われても、遠慮する必要はない。言い返していい。後のことは全部、先生が引き受ける」話を聞き終えて、知枝はくすっと笑い、「なんだか私、トラブルばっかり起こす生徒みたいですね」と返した。昌成も笑って、「トラブル上等だろ。怖がって黙ってるほうがよっぽど損だ」と肩をすくめた。「ところで、さっき一人で回ってみてどうだった?何か得るものはあったか」「はい」知枝はうなずき、「ちょうど先生にお礼を言おうと思っていたところなんです。こんな場に連れてきてくださって、本当にありがとうございます」と頭を下げた。「本当ならおじさんに礼を言うところなんだろうけど……いや、離婚した以上、もうおじさんなんて呼ぶ立場じゃないよな」昌成は笑いなが
彼女は子どもの頃からずっと機械の世界に触れてきたが、今ほど心を揺さぶられたことは一度もなかった。本当に、ここまで来た甲斐があったと感じていた。蓮はそれ以上言葉をつがず、憧れと熱で満ちたその瞳にすっかり囚われたように、じっと知枝を見つめていた。少し離れたところで、その様子を雪菜はじっと見つめていた。彼女は眉をひそめ、蓮をねめつけるように見上げる。目の前にいるはずの、大好きな兄――なのに、今の蓮はどこか「知らない人」に見えた。距離があっても、蓮のまとう危うい獲物を狙う者の気配が、ひやりと肌に触れてくるようだった。やがて知枝がスマホに目を落としてから、その場を離れていくのを見て、雪菜は歩き出し、蓮の方へ向かった。隣に並び、兄の視線を追うように人の波の向こうを見やると、昌成のそばへ戻っていく知枝の姿が目に入った。雪菜はあきれたように口を開いた。「お兄ちゃん、そんなに彼女のことが好きなの?」心の中で完璧だと思ってきた兄が、離婚歴のある女なんかを好きになるなんて、雪菜には到底受け入れがたかった。どうしても、その事実だけは飲み込めない。「そうだ」蓮はあっさりとうなずいて認めた。誰の前であろうとそう言う覚悟はあるくせに、いざ知枝を前にすると、途端に臆病になる。まして、知枝の方は明らかに自分を兄として見ていて、今は気持ちを打ち明ける時じゃない。押し寄せる独占欲を必死に押し込め、胸が焼けるような焦りを噛み殺しながら、蓮は無理やり視線をそらした。「余計なことはするなよ」それだけ雪菜に言い残し、蓮は踵を返してトイレへ向かった。今の自分には、冷たい水で顔を洗って、胸のざわつきをどうにか冷まし直す時間が必要だった。一方そのころ、知枝は昌成の紹介で、何人かの海外からの専門家たちと顔を合わせていた。彼らは一人ひとり笑顔を浮かべてはいるものの、その奥にある薄い拒絶感までは隠しきれておらず、ただ昌成の顔を立てて愛想よくしているだけなのだと、知枝には分かった。最初のうちは、彼らもたどたどしい言葉で知枝に挨拶してきた。だが話が進むにつれ、いつの間にか彼女をまるで置き去りにするように、彼ら同士だけで流暢なドイツ語を交わし始めた。彼らは知る由もなかったが、知枝はかつて交換留学でドイツに滞在していたことがあり、完璧とまではい
三日間にわたって開かれる義肢・機械骨格の国際カンファレンスの会場には、世界中の大手テック企業が開発した最新の成果がずらりと並んでいた。会場全体は徹底して近未来的な空気に満ちていて、その中を歩いていると、本当に何十年も先の世界に紛れ込んだような気さえしてくる。知枝は昌成と一緒に会場へ足を踏み入れた瞬間、息をのんで言葉を失い、周囲を見回すことしかできなかった。順路に沿ってブースを回りながら、昌成はそれぞれの機械骨格の特徴と、その企業が得意としている研究分野を丁寧に説明していく。一通り話を聞き終えて、ようやく世界のテクノロジーがどれほどのスピードで進化しているのか、知枝は実感として飲み込めた。とくに自分がこれまでほとんど触れてこなかったスマートマシンの領域には、想像もつかないほどの可能性が広がっている。気がつくと、星が無数に瞬く海の中にひとり放り込まれたようで、その水の中ならいつまでだって自由に泳いでいられるような心地だった。そのきらきらした瞳に終始好奇心の光が宿っているのを見て、昌成は思わず口元を緩めた。ここ数年、昌成は海外で研究プロジェクトに携わってきたおかげで、この場に顔を出しているトップエンジニアの何人もと顔見知りになっている。知枝は、そんな人たちとの挨拶の時間を取らせまいと、「じゃあ私はひとりで見て回ります」と自分から申し出た。昌成がうなずいて許可してくれると、知枝はノートを抱えたまま会場のあちこちを回り、気になったことを書き留めていった。「知枝」蓮の声が不意に耳に飛び込んできて、知枝ははっとして振り向いた。「蓮さん」「義肢とか機械骨格、そんなに興味あるのか?」蓮は、びっしり文字の埋まったノートを見下ろしながら、「小林先生のラボは、ここ数年スマートマシンの分野を掘り下げてて、世界レベルの特許もいくつも持ってるって聞いてる」と言った。「また先生のもとで働けるようになったのは、本当に良かったと思う。俺も嬉しいよ」蓮の視線は、ふとした拍子に知枝の顔へ吸い寄せられ、そのまま離れなくなった。会場の照明はどこか夢のようで、その光に照らされた彼女の表情は、内側から熱を帯びて輝いているように見える。喉がひりつくほど急に乾き、蓮は小さく息をのみ込んだ。一瞬、本気でそのまま抱き寄せたくなる衝動が胸の奥で跳ね
「二人もこの交流会に参加してるのか?」蓮が興味深そうに尋ねた。昌成はうなずき、「ああ、知枝はついこの前、うちのラボと契約したところで、今は俺のプロジェクトに付いてきてもらってる。義肢とか機械骨格に興味があるから、現場を見せておこうと思ってね」と答えた。「知枝、また先生のところで働いてるんですね?」蓮は嬉しそうに目を細め、「それは心強いですね。先生がそばにいてくだされば、きっと知枝はもっと伸びていけます」と言った。「俺なんて道案内みたいなもんだよ。どこまで行けるかは、結局彼女自身の腕次第だ」と昌成は控えめに言う。そのとき、ウェイターが蓮のそばに来て、耳元で何かをささやいた。蓮は思わず眉をひそめ、わずかにうんざりしたように「分かった」と短く返した。ウェイターを下がらせると、蓮は知枝の方を向き、真剣な声で「俺、まだ片づけなきゃいけない用事がある。あとでまた連絡するから、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」と言った。「ありがとうございます、蓮さん」一言礼を述べて蓮の背中が遠ざかるのを見送ると、知枝は振り返って、昌成の探るような視線と目を合わせた。「七瀬社長は、ずいぶん君のことを気にかけてくれてるみたいだな」知枝は眉を曇らせ、「先生も、ネットのあの噂を見てしまったんですか」とぽつりとこぼした。昌成は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。このところの知枝の頑張りはずっとそばで見てきたし、今さら恋愛沙汰に足を取られるような子じゃないと分かっているから、わざわざ蒸し返す話でもないと感じたのだ。……一方そのころ、蓮は父親の席へと戻り、「親父」と声を掛けた。蓮の父親・七瀬源蔵(ななせ げんぞう)はあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らし、「呼びに行かせなきゃ、あの女と飯でも食うつもりだったのか?」と噛みついた。「蓮、お前ここがどういう席か分かってるのか。離婚した女なんかとべったりしてたら、お前の評判に傷がつくだけだぞ!」「離婚してたら、何か問題でも?」蓮の目の色は一気に冷え、「俺が本気で隣に座って一緒に食事したら、それがどうした。ここまで来るのに何を背負ってきたと思ってるんだ、今さら外野の噂が怖いとでも?」と言い返した。「お前ってやつは……!」源蔵は息を詰まらせて目をむき、「何て口の利き方だ。心配
健司が帰ったあと、美南はすぐに知枝に電話をかけた。「もうね、健司、本気で頭どうかしてるとしか思えないの!結婚してたときは沢原のことばっかり気にしてたくせに、離婚した途端、今度はあんたにしがみついて離れようとしないなんて、どんな神経してんのよ?」電話に出た途端、美南は堰を切ったようにまくしたてた。知枝は、その勢いの中に紛れた言葉をつなぎ合わせて、健司が自分のところへ押しかけてきたらしいと理解し、その馬鹿馬鹿しさに思わず笑ってしまった。結局これが男という生き物の悪い癖で、手元から離れたものに限って惜しくなるのだろう。「でも安心しなって。私からは何もしゃべってないから」美南はひとつ息を吐き、「とにかく、あなたは海外での出張に集中しなよ。健司は今、保釈中で外出に制限かかってるから、帝都から出ることすらできないの。あなたのところまで行くなんて無理だからさ」と続けた。もともと美南の家に身を寄せたときも、知枝が持って行った荷物はスーツケースひとつきりだった。昨日も引っ越し自体はあっという間で、新しい部屋を整える暇もないまま、知枝は昌成に同行して義肢・機械骨格の国際カンファレンスに参加するため国外へ飛ぶことになった。今、知枝はF国にいて、主催者側が手配したホテルに滞在し、つい先ほど昌成からカンファレンス用の資料を山のように受け取ったところだった。無駄にしている時間なんてない。美南と軽く言葉を交わして電話を切ると、知枝はすぐに資料の束へと意識を戻した。しばらくしてノックの音が響き、そこでようやく顔を上げたときには、首がすっかり固まっていて、知枝は思わず息をのんだ。資料を置き、首を揉みながら立ち上がってドアを開けると、そこには昌成がいた。「先生、何かご用ですか?」と不思議そうに問いかける。「さっきメッセージを送ったのに、返事がなくてね」昌成は首をさする知枝の疲れた顔を見て、資料に没頭して寝食を忘れていたのだろうとすぐに察した。「どんなに頑張りたくても、無理は禁物だぞ。まずはちゃんと休まないと」昌成は柔らかく微笑んで声を掛けた。「さ、ひとまずご飯にしよう。続きは戻ってきてからでいい。時間ならまだあるから」「はい」知枝は上着を取りに部屋へ引き返しながら、「ちょうどよかったです。うまく飲み込めていないところもあるので、食
最初のうちは、どれだけ助けを求めて叫んでも、誰一人現れなかった。水位がみるみる上がっていき、このままここで死ぬんだと本気で覚悟した。その瞬間、いちばん会いたいと願った相手は知枝だった。「知枝は……?」健司は、はっとして典子の方を向き、「母さん、俺が入院したって、知枝に知らせてくれた?」と言った。典子は一瞬きょとんとしてから、「健司、あんたたちはもう何の関係もないのよ。昨夜ね、知枝がネットでもう離婚したってはっきり公表したの。今では世間じゅうが二人の離婚を知ってるわ」と言った。健司は耳を疑い、「どうしてそんなことを……?」とつぶやいた。「本当に、ショックで頭までやられちゃったの?」典子は怒りと心配が入り混じった声で、「昨日あんた、彼女に会いに行ったでしょ? 夜にはもうネットのトレンドに上がってて、 みんながあの子と七瀬蓮がいい仲なんじゃないかって騒いでるのよ」とまくしたてた。「あの子、やっぱりただの大人しい女じゃないわよ。あんたと別れた途端に七瀬蓮に取り入って、きっと前から……」「もうやめろ」健司はそれ以上聞きたくなくて、典子に向かって怒鳴りつけた。蛍は目で合図して、それ以上健司を刺激しないよう典子を制した。そのあと二人は病室を出て行き、健司一人に頭を冷やす時間を残した。典子は知枝の話になると腹の虫がおさまらず、しばらくぶつぶつ文句を言い続けてようやく気が済んだのか、今度は蛍の手を取った。「蛍、やっぱり本当に健司のことを思ってるのはあなただけだって、ようやく分かったわ。健司が知枝にきっぱり見切りをつけたら、私が責任持って二人をくっつけてあげるから」蛍はふっと微笑み、「今はとにかく健司が一日でも早く回復して、黒幕を捕まえることが一番です。それでやっと、みんな安心できますから」と穏やかに答えた。典子は、彼女がわざと縁談の話題を避けたことなど露ほども気づかず、その健気さにますます好感を抱き、「本当に、その通りね!」とうれしそうにうなずいた。蛍は微笑んだまま口をつぐみ、ふと顔を上げて病室の方へ視線を向けた。さきほどの健司の表情の変化は、すべて彼女の目に焼き付いていた。昨夜、健司が泥酔するまで酒をあおったのも、十中八九、知枝のせいだ。死にかけたあとで、真っ先に気に掛けた相手もまた知枝だった。







